憑かれたポットカバー / エドワード・ゴーリー
[副題:クリスマスのための気落ちした気色悪い気晴らし][柴田元幸 訳] ゴーリー版クリスマス・ブック いつもの緻密な線よりやや太め。 背景もスモーキーな色合いで一面塗られているせいか、心なしあったかみを覚えるタッチ。 ゴーリーはゴーリーなのだけど、ちょっと新鮮。
世捨て人のエドマンド・グラヴル氏が、クリスマスイブに一人、お茶の準備をしていると、ポットカバーの下からバアハム・バグと名乗る変な生き物がジャーン!と飛び出してきて、やぶから棒に“教訓主義の効用を広めるべくやって来たのである”とか尊大げなことを言い出します。 すると、次々に、“ありもしなかったクリスマスの亡霊”、“ありもしないクリスマスの亡霊”、“ありもしないであろうクリスマスの亡霊“が現れ、これら亡霊たちに導かれて、グラヴル氏は世の中の情景を目にする冒険に出かけ・・と、徹底してディケンズの「クリスマス・キャロル」を下敷きにしたパロディの作りになってます。 当然ながらゴーリーらしいクレイジーでナンセンスなヴァージョンですが、様々な反復を繰り返し、シンメトリックでリズミカルなストーリーに仕立てられていて楽しかったー♪
すっかり忘れてるんだけど「クリスマス・キャロル」にバアハム・バグ的なキャラっていたっけ? スクルージ老人の相棒だったマーレイ老人の霊に対応しているのかな? だとするとマーレイ老人の霊はクリスマスの幽霊の出現を予言するだけで消えていったけど、バアハム・バグは旅にずっと一緒にくっついてきちゃったパターンかこれ。
亡霊たちは見せたい情景に向かって指をさしてるんだよね?そうだよね? なんかピストル向けてるように見えて仕方ないんだけども^^; 三亡霊たちがそれぞれに見せる五つの情景は、牧師さんが音叉を失くしてたり、何曜日かをめぐって言い争いしてたり、帰らぬフィアンセを思い出してたり、愛犬が剥製になって戻ってきてたり、それなりに残念な情景ではあるのだけど、三回とも最後、バアハム・バグがしゃしゃり出て、もっとも説教される要素のなさげな怪我した人にだけ反応して的外れの居丈高な口たたくというのが毎度のオチになってるっぽいw 三つの旅の中で唯一、中古壁紙盗難事件がリンクしてます。 何気にその発端から解決までの三段階を点景のように埋め込んでる辺り、洒落てますねぇ。
バアハム・バグ(バアハム虫)の原文は“The Bahum Bug”で、柴田さんの解説によると、これは、まだ改心する前のスクルージ老人の口癖、“Bah! Humbug!(ふん、馬鹿馬鹿しい!)”から取られているそうです。 BahとHumをくっつけて、Bugを独立させて虫の名前を作っちゃってるという。 ルイス・キャロル的な言葉遊びの妙ですね^^ もともと“Humbug”には、ペテン、ごまかし、たわ言、ほら吹き等々の意味があることを鑑みても、非常にぴったりのネーミング。
結局、旅を終えたグラヴル氏は、意味不明なまま改心して(それか単なる気まぐれか)、タイプライター・リボンの値上げに不平を垂れる投書の手紙はやめにして、みんなをクリスマスパーティーに招待する手紙を書き始めることに。 うんうん!辛くもディケンズ的! しかしながらそのパーティーたるや・・ ディケンズの敬虔なエンディングとはほど遠し。 ここでもバアハム・バグが率先してノリノリで大活躍してるみたいですよ。 おまえは何者なんだ! ふふ。 グラヴル氏、幸せそうで何よりw


憑かれたポットカバー
−クリスマスのための気落ちした気色悪い気晴らし−

エドワード ゴーリー
河出書房新社 2015-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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という、はなし / 吉田篤弘
[フジモトマサル 絵] “読書の情景”というテーマで、先にフジモトさんが絵を描き、そこへ吉田さんが後からショート・ストーリーを添えるという、“挿文”方式のリレーで生まれた絵物語集。 24枚24篇の“読書の情景”が収められています。 コラボ感がいいんだよなぁ。 実にいい。
夜行列車に揺られ、縁側に座り、入院中のベッドで、木蔭に寝そべり、散らかった部屋で、釣り糸を垂れながら、喫茶店の窓辺で、独房で、屋根に上がって、キッチンで、古本屋の書架の前に佇んで、プラットホームのベンチに座り、灯台のふもとで・・ ストーリーを見事に想起させるシチュエーションで、それぞれに本を手にする24種24匹の動物たちの絵が可愛くて。 煩雑さや時間に追われながら世知辛い現代社会に生きる人間の、ふっと開いた心の空隙を埋めてくれるようなお話に、擬人化された動物の絵を当てるなんて、キュンとさせてくれるなぁ〜、優しい哀愁がたまらんなぁ〜と、そう思って読んでいました。
まさか順番が逆だったとは。 あとがきで知って驚いてしまった。 もう一度絵を見返して、ストーリーを頭に呼び戻し、そう来るのかと。 吉田さんのインスピレーションの息吹きを追体験させてもらうオマケのひと時までも、この本の愉しみのなかに含まれていたみたい。
忘れられた、取り残された、裏側の、自由な、孤独な・・ あくせくした日々のなかで、なかなか共存できないもう一人の分身のような自分への労わりが、ほっこりとした浮遊感に包まれ揺蕩っていて、これは心をほぐしてくれるお薬本だと思いました。
どのお話も気が利いていてウイットがあって、“他愛ないのに味わい深い”というセンスを体現しているかのよう。 ちょっとした認識の異化作用がポイントなんでしょうね。 物理法則をさらりと無化してしまうような思いがけない視点から光を当て、ありきたりの基準のなかでは埋没してしまう大事な感覚を掬い取って喚起してくれるというか。 ってな理屈こねこねも不要なんです。 ただもう心地よく癒されるのが一番・・そう思わせてくれる軽妙さが稀有。
読者(特に本好きさん)が自己投影できるあるある要素が散りばめられているのだけど、真っ先にこれわたし!ってなったのが「眠くない」のキツネさん。 お月さま目線を思わせる絵もよくて、ふとアンデルセンの「絵のない絵本」を思い出してしまった。 「稀有な才能」のイタチさんの姿が自分とシンクロして見えて、無性に胸が締めつけられたり。 「日曜日の終わりに」のリスさんも沁みるなぁ。
「とにかく」のペンギンさんの絵はストーリーを読む前と読んだ後で印象が全く変わります。 ニンマリした口元がなかなか元に戻りません。 「寝静まったあとに」の絵と文も親和力が極上美味ですなぁ。
若い頃、(時には誤読のまま)感情移入しまくって、我を忘れるくらいのめり込んだ読書は楽しかったなぁーと「背中合わせ」を読みながら懐かしい気持ちがせり上がってきたり、「影の休日」はとびきり素敵なお話から再度パワーが注がれた、“人影”じゃないでしょw の絵が愛おしくて切なくて悶えそうでした。
「ひとり」は、ちょっとした叙述トリック系のオチ話になっていてふふっとなるんだけど、「夜行列車にて」はまた違って、お話の中でいつの間にか視点、立場が入れ替わってるっぽい感じがシュールで好きなのだ。
お二人のあとがきが載ってるんですが、メイン・ポジションを譲り合うどうぞどうぞ的な(?)あとがきタイトルのコラボまでなごなご笑かしてくれます。


という、はなし
吉田 篤弘
筑摩書房 2006-03 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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HHhH / ローラン・ビネ
[副題:プラハ、1942年][高橋啓 訳] 歴史小説やスパイ小説やノンフィクションなど、数ある正攻法の“ナチもの”を読んだ後に開くべき応用編的な作品だったかもしれません。 本書のヒールである“金髪の野獣”の異名を持つハイドリヒをはじめ、ヒムラー、ボルマン、ゲーリング、シュペーア、アイヒマン、ゲッベルズなど、ヒトラーの側近として最低限(たぶん)知ってなきゃいけないような人物にも馴染みがなく、急遽ネットでにわか勉強しながらだんだん慣れていきました。 奇抜なタイトルは“Himmlers Hirn heisst Heydrich”の略で、“ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる”の意。 SS(ナチス親衛隊)の間で揶揄的に囁かれたごくローカルな符丁らしい。
SS長官ヒムラーの右腕だったラインハルト・ハイドリヒは、“ユダヤ人問題の最終解決”の推進者として知られ、“第三帝国でもっとも危険な男”と恐れられた人物。 ナチスの保護領となったボヘミア・モラヴィア地方(現在のチェコ)を総督代理として統治していたハイドリヒの有名な暗殺事件を描く本作。 在英チェコスロヴァキア亡命政府に特命を託され任務を遂行したチェコ人のヤン・クビシュとスロヴァキア人のヨゼフ・ガブチーク、歴史に名を刻んだ二人のレジスタンスの物語です。
注目すべき独創性は、書き手(語り手)の“僕”がパフォーマティブに前景化されていて、“僕”の執筆過程がそのまま作品になってるところに表れています。 “ドキュメンタリーを書く小説”といったらいいのか、“小説を書くドキュメンタリー”といったらいいのか。 ありのままを文学に変換したい・・ 事実に即して書くことを偏執的なまでに己に課した“僕”の、絶えず自問自答を繰り返す思考の運動とその奇跡がつぶさに示され、本篇自体がテキストと格闘する進行形の記録といっていい体裁になっています。
文学的言及や語りの技巧に満ちたポストモダン小説の地平を一周まわって、一見すると奇しくもフローベール以前の小説に回帰しているような輪郭なのだけど、当然そこには捻りがあり、似て非なる挑戦的な思惑が内包されています。 つまり、“虚構”という小説の核に真正面から切り結び、徹底して自覚的に“小説”そのものの存在意義を問いかけるために選び取った手法というわけです。
微細なまでの歴史的考証があり、文学論があり、文学的実験の展開があり、精神活動の旺盛さに圧倒されます。 批評や諧謔のスピリット、そして何より愛! “僕”に作者が重ねられていることは言わずもがなだけど、個人的にはイコールではなく“≒”じゃないかと感じました。 だってこれ、明らかに“小説”なのだもの!
“信用ならない語り手”的な匂いが漂っていたように思えて仕方ない。 自己弁護もできない死者を操り人形のように動かすなんて破廉恥だと豪語したり、会話や内面描写を通して歴史を小説に変換することへの抵抗感を表明したりと、小説の持つ(“僕”曰くの)子供っぽい滑稽な性質についての主張を繰り返し、それでも隙あらば暴れ出す想像力を組み伏せ、“僕は登場人物ではない”と(自分を納得させるように)言い張り、いつどこで果たされたのか何を調べてもわからないレジスタンス二人の出会いの場面を勝手に視覚化すればフィクションなら何をしても構わないことの証しになってしまうと躊躇い、自らを牽制し・・ そんな“僕”が最後に辿り着く境地とは。 一人称で書かれた部分は、多かれ少なかれ一つの主体によって生み出された真理に過ぎないのだから、そもそも基礎部分に矛盾を抱えたことになってしまうのだけど、小説を究極の可能性まで押し進めようとするジレンマは、果たしてどのような帰結を見るのか。
最終章にグッときます。 作品は創り上げていく過程で、時に作者の予想を超えた成長を見せるもの。 結局のところ小説というものの出発点に辿り着くための物語だったんじゃないかなぁ。 素の作者なのかどうかは置くとして、“僕”の青臭く初々しい気負いが作品の駆動力になり、また装置にもなっていたことが読み終えると沁みます。 無闇矢鱈の実験志向、技巧のための技巧なのではなく、“僕”が認めるところの“第二次大戦中もっとも高貴な抵抗運動”を企てた人々と、彼らを助けて(あるいはただの濡れ衣で)粛清された名もない善意の人々へ捧げる敬意と弔意から出発した真摯な模索なのであり、事実をフィクションで冒涜したくない、いい加減な扱いをしたくないからこそ、どうしてもこの形式を取らざるを得なかったという趣きがあり、この方法上の切迫さが物語に命を吹き込んでいるのです。 プラハに魅入られ、プラハに全身全霊込めて恋い焦がれていることを憚らないフランス人の“僕”の、チェコ愛が溢れた熱い作品でした。
ホレショヴィツェ通りでの襲撃場面が忘れられない。 緊迫したシチュエーションなのに格好良くは決まらないのだ。 “誰もが自分のなすべきことを正しくなし遂げていない”の連鎖がシュールでグロテスクで。 後ろめたくもモンティ・パイソン的な笑いを誘うのです。 無粋な真実を押し通そうとしても誰も納得させることができない的な小説の常道を逆手に取ったかのような“現実”は、本当らしく描くことが求められるフィクション世界に対する見事なアンチテーゼになっています。
最終局面の悲劇のクライマックスは、一気呵成の迫力を湛え、ただただ苦しいのだけれど、痛みを伴って書いている“僕”は、精一杯の温もりで寄り添い、苦しみもろともチェコの人々の魂を抱きしめています。 あ、今思った、“小説”を書くためにこの経験(この作品)が必要だったんだ・・っていう小説なんだ、きっと。 フランス人の“僕”がプラハを描いたら、浮いたような不自然さが生じてしまうのではないかと、途中、“僕”は気に病んだりもするのだけど、他国の人々に向けられた想いだからこそ素敵に感じたのだろうな


HHhH −プラハ、1942年−
ローラン ビネ
東京創元社 2013-06 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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一人称小説とは何か / 廣野由美子
[副題:異界の「私」の物語] 著者の文学論評に嵌りつつある今日この頃です。 一人称小説というと、物語レベルを離れてついディスコース分析的な方向へ興味が走りがちで、タイトルから真っ先に連想したのも“語り手の信頼度”についての問題でした。 しかし、もっと土台に立ち返ってアプローチがなされていたというべきでしょうか。 語り手の制限された認識のみを通して伝えられる情報の特殊性というのは、それはその通りなのだけど、語り手を信頼できるかできないか以前に、そもそも読者ではない“他者”の主観によって築かれた物語なのであり、多かれ少なかれ例外なく読者の経験では得られないものの見方を開示しているという事実。 思えば当たり前のことを忘れかけていた気がします。
“他人を生きる”という機能を備えた一人称形式において、“異化作用”が際立った特色を発揮し得ることへの着目と関心が本書の構想の出発点となったようです。 “異化”とは、普段見慣れたものを“見慣れないもの”として表現することによって認識に揺さぶりをかけ、ものの本質に触れさせようとする芸術の技法のこと。 “異化作用”がどのように人間の実相を露わにし、鈍磨した生の感覚を回復させるか、あるいは小説の可能性をいかに押し拡げるか、主として十八から十九世紀イギリスの一人称小説を題材に検証が試みられています。
まず第一章で、機能や構造の観点から生成期の代表的な一人称小説を見渡しつつその特性を確認し、第二章から第六章で、語り手の設定方法(“私”の属性)の意匠によって鮮やかな異化作用が生じている注目すべき作品を例に、その効果を各々詳細に分析していくというスタイル。
第一章で扱われているのは、回想形式の「ロビンソン・クルーソー」(1719)→書簡体・日記体形式の「パミラ」(1740)→脱線に次ぐ脱線の「トリストラム・シャンディ」(1760-1767)→重層形式の「嵐が丘」(1847)→リレー形式の「月長石」(1868)で、それら機能や構造を念頭に置きつつ、第二章から第六章では、具体的に優れた異化作用を具えた作品を、やはり年代順に「ガリヴァー旅行記」(1726)→「この世からあの世への旅」(1743)→「フランケンシュタイン」(1818)→「引き上げられたヴェール」(1859)→「ブラック・ビューティ」(1877)と、作品同士の影響なども考慮に入れながら俎上に載せています。
他者の極端な視点を共有することで得られる新奇なる疑似体験の物語の数々。 不思議の国の旅人、死者、怪物、超能力者、動物・・ 彼ら“異界の語り手たち”は、極端に人間社会から疎外された、あるいは自らの変容の結果、社会から逸脱した者たちであり、どんなに荒唐無稽に思えても常に現実認識と結びついていて、なにかしら社会やそこに生きる人間の鏡なのだということがつくづくと感じられる。 一望すると(広義の)SFの系譜っぽいイメージが湧いてくるのだよね。 “認識を異化する文学”のフロントランナーであるSFが、諷刺や警告と親和性の高い所以に納得がいき、ストンと腑に落ちた心地。
その他、時代や地域を越えた種々関連作品のコラムが章ごとに挟まれ、なんとまぁ密度の濃かったことか。 特に第二章から第六章のメインの五篇については、読了したんじゃないかくらいの充実気分を味わっちゃってるんだけど・・いかんいかん
フィールディングに興味津々です 二世紀のギリシアの諷刺作家ルキアノスを愛し、その著作に影響を受けて書いたといわれる喜劇精神に富んだ怪作「この世からあの世への旅」も読んでみたいし、サミュエル・リチャードソンの「パミラ」を当てこすって書いたというパロディ作「シャミラ」と「ジョウゼフ・アンドルーズ」も気になります。
「フランケンシュタイン」に込められた、ルソーの教育論への賛意と異議を探る読み方が興味深かったのと、ジョージ・エリオットの異色短篇「引き上げられたヴェール」の、暗い文学性の深みに沈んでもみたい。 それとやはり、スウィフトが心に刺さりました。 あなたの苛烈なまでの人間嫌いにとことん付き合ってみたいわたしがいます。 「ロビンソン・クルーソー」のパロディだったらしい「ガリヴァー旅行記」ですが、人格破綻のプロセスが描かれていたなんて。 衝撃的すぎて震えた。 お恥ずかしながら小人の国の冒険譚(ハッピーエンドの童話)しか知らなかったです...


一人称小説とは何か
 −異界の「私」の物語−

廣野 由美子
ミネルヴァ書房 2011-08 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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笑ってばかりで、ゴメンナサイ!! / アンソロジー
ティーンズ向け叢書、“読書がたのしくなる世界の文学”シリーズの一冊。 十八世紀から二十世紀初頭にかけての海外文学の短篇作品が、“笑い”をテーマに選りすぐられています。 古き良き訳で味わうというのがコンセプトになっているようで、作者もさることながら訳者が錚々たる面々。
なにぶんオーソドックスな、けれどそれだけ物語の力強さがストレートに伝わってくる作品ばかり。 語りの随所にユーモアを噛ませるというよりか、オチのウィットや一筋縄ではいかない余韻を愉しむといった、ストーリーそのものの反映として生まれてくる“笑い”には、様々な余地が付随し、馥郁とした奥深さがありました。 諧謔精神という気概の鉱脈に触れさせてもらった気分
対象の名前を知れば相手を支配出来るという概念が込められた、いわゆる“名前の神秘性”をテーマとしていることで知られる「ルンペルシュチルツヒェン」は、道徳的な教訓が見当たらないグリムの一作として、妙に存在感があって記憶に残っています。 チャーミングで不敵でシュールで、確かにどこかコミカルなものが潜んでるんですよね。
「葬儀屋」は、怪奇幻想風味のドタバタ喜劇譚。 主人の強欲さと後ろめたさが風韻を漂わせています。
“枠物語”の「飛行鞄」は、どこか「千一夜物語」を想わせるものがあるんですが、調べてみたら、その「千一夜物語」の影響を受けたとおぼしきフランスの東洋学者フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ作の「千一日物語」の中の「マレクとシリン王女の物語」を下敷きとしているらしい。 人を喰ったようなラストに味があります。
「糸くず」は、それこそまさに“たった一本の糸くず”で破滅に至る男の悲哀と滑稽さをアイロニカルに描き、同時に“嘲笑”というものの怖さをシニカルに描いていると言える最も苦みの強い一篇でした。
互いの思い違いを叙述トリック風にさばいた「老僕の心配」は、巧い!の一言。 唯一(?)ハッピーエンドと言える一篇で、心温かくクスクスっとさせてもらいました。
「幸福な家庭」は、『幸福な家庭』というタイトルの小説を書き始めた小説家の思惟の流れをたどるエスプリの効いたメタ風味な作品で、小説家の世知辛い実生活と、描こうとしている小洒落た理想世界とのギャップが切ないのだ。 読みながら常に笑いが伴う点で非常に楽しかった一篇。
掉尾を飾る「破落戸の昇天」は、正確にはモルナール・フェレンツの戯曲「リリオム」を森鴎外が翻案した作品だそうです。 原作を知らないので、異同がどれほどのものかはわかりませんが、一握の抒情に胸がいっぱいになります。 偏見かもしれないけど、この機微は日本人に馴染み深いんじゃないかなぁ。 主人公のツァウォツキーには、どことなくダメダメな江戸っ子のメンタルを想わせるものがあって^^;

収録作品
ルンペルシュチルツヒェン / グリム兄弟(楠山正雄 訳)
葬儀屋 / アレクサンドル・プーシキン(神西清 訳)
飛行鞄 / ハンス・クリスチャン・アンデルセン(菊池寛 訳)
糸くず / ギ・ド・モーパッサン(国木田独歩 訳)
老僕の心配 / オー・ヘンリー(吉田甲子太郎 訳)
幸福な家庭 / 魯迅(井上紅梅 訳)
破落戸の昇天 / モルナール・フェレンツ(森鴎外 訳)


笑ってばかりで、ゴメンナサイ!!
アンソロジー
くもん出版 2014-12 (単行本)
関連作品いろいろ

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モダンガールのスヽメ / 浅井カヨ
モダンガールの時代である大正末期から昭和初期の風俗文化に憧れ、その情報収集と発信をライフワークにしておられる著者は、現存している実物や資料を紐解き、当時を徹底的に追体験する暮らしを実践していることで、とりわけマニアの間で知られた御仁のようです 今は廃れて顧みられなくなった未知の道具や品々、装い、習慣などに直に触れることで得られる新鮮な体験を喜びとしていることが伝わってきて、その時代に生まれたかった、或いは戻りたいのではなく、ずっと追い求め続けていたいというアクティブなスタンスが印象に残りました。
同好の初心者への実践ノウハウを交えながら、モダンガールの生態を中心に、大正末期から昭和初期という時代のライフスタイルを紹介していく本書。 知識だけでは感得できない実践者ならではのきめ細かな目線は著者の強みと言えますし、なんかインディーズ感があって良かったな 旧字体とレトロなフォントの使用や、それこそ当時の女性たちを啓蒙するために書かれたような指南風(?)の上品な文章とか、この本そのものが時代感覚を意識している作りになっているっぽいのが面白い。
婦人雑誌に掲載された写真やイラスト、雑誌付録の美容やファッションや作法を特集したハウツー冊子の記事、レコード会社月報の表紙、映画ポスターなどなど、当時を知る貴重な図版資料が豊富に収められている点は特筆に値します。 しかも非常に細かい字でありながら全て潰れてないのが嬉しい
“モダンガール”という言葉の名付け親は文筆家の北澤秀一氏。 大正十二年の新聞コラム『帯英雑記』の中に初めて登場するとされています。 ただし都会で急増する新種の若い日本人女性像を指す言葉として定着し、流行語になるのは関東大震災後・・という話は「モダンガール大図鑑」で読んだかな? 微かに記憶にあるのだけれど、昭和六〜十年頃の出版物には“すでに古い(流行の最先端ではない)”とか、“モダンの先はシーク(シック)だ”なんていう記述が見受けられることなど紹介されていて、へぇーと思った。 華美や享楽や退廃を嫌う軍国主義の台頭と無縁でないのは当然としても、モダンは行き過ぎていて品位を傷つけるから戒めようとする根強い風潮があって、常に流行の裏側に張り付いていたその勢力が誘導的に仕掛けてるのかと勘ぐってしまったり。 或いは、西欧風のお洒落が当たり前になってきて、突飛な物珍しさを表す旗印のような特別な言葉が必要なくなっていったのか・・どうなんだろう。
ちなみに著者は昭和十年代を“モダンガール以後”と捉えていて、そしてこの昭和十年前後の装いを洗練のピークと見ておられます。 モダンガールに言及している批評記事をはじめ、流行語辞典や家庭百科事典の抜粋などから垣間見える活気が新鮮でした。 流行り言葉の“もちゼロ”は“勿論ダメ”の意。 モダン・マダムは“モマ”とか、モダンを動詞化した“モダる”とか、強欲な男性を“ぜにとるマン”(ジェントルマンのもじり)と揶揄ったり、モダンガールを“もう旦那がアール”なんて無理くり揶揄ったり^^; 「モダンガール大図鑑」に出てきた“ステッキ・ガール”(スガ)も『モダン百科事典』に載っている言葉なのだね。 当時の国語辞典にモダンガールは、“現代風の軽佻・浮薄な女子”と載っているらしい。
断髪といえばボブ、必須アイテムのクローシュの帽子、ヘリオトロープの香水、金具に練り香水を含ませた“香り絵日傘”、ヘアケアの必需品“大島椿”、髪にウェーブをつくる“モダンウエーブ器”、“キルク”を燃やして作る眉墨、モダンガールたちが聴いたであろうバートン・クレーンや藤原義江や“東京行進曲”、アイスクリーム製造器“ボントン”・・ そして、モダンガールが使ったかどうかは定かでないけれど、今はもう見かけることがない珍道具やそのパッケージや広告のあれこれが醸し出す気配、クラフト・エヴィング商會さんに熱い視線を注がれそうな(笑)それら図版の佇まいに心を攫われてしまいました。
昭和初期に建造されたアパートに住み、装いから暮らしまでモダンガールの時代に限りなく寄り添う生活を送っている著者は、その道の伴侶たる運命のモボさんと出会い、結婚が決まり、現在、昭和初期風の和洋折衷住宅を建てる計画を前進させているそうです。 お幸せに


モダンガールのスヽメ
浅井 カヨ
原書房 2016-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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少女たちの19世紀 / 脇明子
[副題:人魚姫からアリスまで] 19世紀児童文学の愉しみを伝える読書案内と文学史概説を兼ねたような趣向のエッセイなのですが、ヨーロッパが大きく変わり始めた時代に登場した新しい少女たちの群像に光を当て、“少女の文化史”という観点で検証を試みているのが特徴的。
具体的には、第一章でアンデルセンの「人魚姫」の主人公とゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」に登場するミニヨンとの類似性について考察がなされ、第二章で「人魚姫」から遡った水の精の伝承と、フーケ、ホフマン、グリムなどドイツ・ロマン派の足跡が辿られ、第三章でドイツ・ロマン派エッセンスに伝統的民話モチーフを融合させた作風でイギリスの妖精物語ブームを牽引し、のちのC・S・ルイスやトールキンに大きな遺産を残したジョージ・マクドナルドが紹介され、第四章でマクドナルドと親交のあったルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」誕生の経緯が紐解かれ・・といった感じです。
寄り道や補足を兼ねた連関的な話材も合間合間に挟まれ適宜カバーされているので、児童文学が確立された19世紀周辺の背景をいろいろ窺い知ることができましたが、大筋の流れはアンデルセンがゲーテやドイツ・ロマン派から影響を受け、ドイツ・ロマン派とアンデルセンからマクドナルドが影響を受け、そのマクドナルドとキャロルが影響を与え合い・・的なイメージかな。
“王子は恋の対象であると同時に成りたい自分の理想像だった”とする「人魚姫」の解釈がなによりエキサイティングだったなぁ。 人間(=man=男性)の数には入っていない女性はどうしたら人間になれるのか、自分の魂が求めて止まないものを本当に手に入れるにはどうすればいいのか・・ 海の中から地上への憧れを募らせる人魚姫の姿には、女性世界の単調で窮屈な暮らしに安住できず、男性だけに許されていた行動と精神の自由を求めあぐむ新時代の少女の心理が重ね合わされいるという指摘。 “人間になりたい”や“魂を得たい”はそういうことか!と目からウロコが落ちました。 でもそれって裏を返せば、寡黙な苦しみを抱えたそんな少女が、感受性の強い男性作家の新しいアニマ像となって生まれてきたことの証左なのだと。 思わず唸ってしまった。 旧来の価値観におさまる古典的な女性の姿が男性にとって魅力的には思えなくなり始めたとも言えるわけなのだよね。 フェミニズムの出発点の一端が奈辺にあるか考えさせられるものがありました。 既存の価値観では立ち行かなくなった時代、手つかずだった女性や子どものポテンシャルに新しい可能性を探り始めた男性たちがいて、彼らが児童文学の開花に果たした役割の大きさが総論として示唆されています。
「オデュッセイア」のセイレーンやハイネの詩のローレライのような男性を惑わし命を奪う魔物型と、その伝統的モチーフをことごとく裏返して描いてみせたアンデルセンの「人魚姫」とのあいだに位置付けられるのがフーケの「水妖記(ウンディーネ)」で、三者の比較が興味深かったのと、手書き本「アリスの地下の冒険」に添えたキャロル直筆の挿絵のアリスが、アリス・リデルではなくマクドナルドの娘アイリーンをモデルに描かれていたあたりの事情など、特にそそられました。
そして著者イチオシ(?)のジョージ・マクドナルド。 綺羅星のような作家たちに賞賛されながら、一般の認知度は低めという玄人好みな作家さんっぽいのです。 何を隠そう「リリス」が積読本棚に眠っているので起こさなければ!


少女たちの19世紀
 −人魚姫からアリスまで−

脇 明子
岩波書店 2013-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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ユーゴ修道士と本を愛しすぎたクマ / ケイティ・ビービ
[S・D・シンドラー 絵][千葉茂樹 訳] 四旬節の初めの日、ユーゴ修道士は、修道院の図書館に聖アウグスティヌスの本を返すことができませんでした。 なぜなら、おことばのあまい香りを嗅ぎつけたクマに本を食べられてしまったから。 修道院長はユーゴ修道士に申しつけます。 グランド・シャルトルーズ修道院へ行って同じ本を貸してもらい、すべて書き写し、わが修道院の図書館におさめ直すようにと。 かくして四旬節のあいだ中、ユーゴ修道士は写本室に閉じこもり、同僚たちの助けを借りて写本作りに励むことになったのでした。
骨身を削る作業を無事に成し遂げ、最後は借りた本をグランド・シャルトルーズ修道院へ返しに行くのですが・・ふふふ。 めでたしめでたしなのかと思いきや、なにこのすっとぼけた終わり方w ちょっと童謡の“やぎさんゆうびん”を思い出してしまった。 クマに食べられて写本を作りっこしちゃうエンドレスパターンじゃないのかこれ? お話は単純なのだけどウィットがあっていい味出てます。 食べませんけどね^^;
写本の作業工程を伝えることがメインテーマとなっている絵本。 当時の修道院を中心とした写本文化がどういうものだったのか垣間見させてもらいました。 印刷技術が発明される以前、すべて手作業で一冊の本を作り上げていた中世の頃のお話ですが、元ネタがあるなんてびっくりです! 巻末の“歴史的背景”によると、12世紀、現在のフランスにあたる地域に学問と本で有名な二つの修道院があったそうで、どちらにも大きな図書館があり、手紙のやり取りで議論をしたり、本の貸し借りをしたりしながら交流していたという。 本作品で描かれているのがその二つの修道院、ペトルス・ヴェネラビリス率いるクリュニー修道院と、グイゴ率いるグランド・シャルトルーズ修道院なのです。
しかも、クリュニー修道院の聖アウグスティヌスの書簡集がクマにかじられ消失してしまったことも史実で、ペトルス修道院長がグランド・シャルトルーズ修道院に宛てて貸し出しの依頼を綴っている手紙が残ってるんだって。 そっかぁ、そこから生まれたんだね。 この可愛い本は。 現実的に言うと羊皮紙とインクの素材の匂いがクマ好みなのかな? お話の中では“ハチミツより甘い”尊いみことばが書かれている中身の芳しさという含みがもたせてあってファンタスティックなのだ。
木枠に張って滑らかに伸ばして作る羊皮紙、“虫こぶ”を砕いて雨水に浸し、そこへゴムの木の樹液と緑礬を混ぜて作るインク、鵞鳥の羽根ペン、飾り文字・・神の知恵を次の世代に受け渡すために作られ、神聖なことばのありがたみを最大限に表すため、美しく豪華に仕上げられた写本。 文字は一語一句間違えないよう写すことが求められたでしょうが、物語を彩るために埋め尽くされる飾り絵は、写本作者の裁量に委ねられる部分が大きかったんでしょうねぇ。 オックスフォードのボドリアン図書館に収蔵されている写本の中に、作り手の修道士が自画像を描いて“絵描きのユーゴ”と署名を残している写本があるそうで、著者は主人公のユーゴ修道士をその実在した一人のお茶目な写本作者へ捧げているようです。
クリュニー修道院はフランス革命の時に破壊されてしまったそうですが、グランド・シャルトルーズ修道院は現存しているんですね。 ロマンだなぁ。 カリグラフィーや額絵や蔓の意匠など写本を意識したイラストも素敵。 修道士さんたち、やっぱりみんな髪型がザビエルなんだ


ユーゴ修道士と本を愛しすぎたクマ
ケイティ ビービ
光村教育図書 2015-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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わが愛しのローラ / ジーン・スタッブス
[青木久恵 訳] 「懐かしいラヴ・ストーリーズ」からの芋づる本第一弾。 「雪あらし」がよかったのでジーン・スタッブスを調べてみたら、ミステリもお書きになってたことが判明。 ポケミスから邦訳が二作ほど出てました。 本篇はその一冊。 1974年のエドガー賞候補作、ということで古いです。 なおかつ忘れられた作品に近いんじゃないかと思うんですが、“ヴィクトリアン・ミステリ”と銘打たれているのは伊達じゃなかった! ちょっとした掘り出し物に出会えた気分♪
ロンドンの南西部、ウィンブルドンの瀟洒な邸で、三人の愛らしい子どもたちに恵まれ、成功した実業家の夫セオドア・クロージャーとともに誰もが羨むような贅沢な暮らしを送る見目麗しい貞淑な夫人ローラ。 社交界での評判も良く、不幸の匂いを嗅ぎつけることなどできそうにない立派なクロージャー家の実態は、しかし存外に冷え切ったものだった。
そんな或る日、クロージャー氏が急死する。 かかりつけの医師は病死と診断するのだが、のちにその医師のもとへセオドアの弟タイタスとローラの道ならぬ関係を誹謗中傷し、セオドアに対する二人の殺意をほのめかす匿名の手紙が舞い込む。 墓が暴かれ、死体解剖がなされてみると、死因は多量のモルヒネ摂取と判明するのだった。 事故か自殺か他殺か・・スコットランド・ヤードのリントット警部による捜査が開始され、謎が解き明かされていく・・のか?
最後の?マークはちょっとしたヒントになってしまうんですが、神の視点を与えられている読者だけがすべてを知り得る幕引きは、裏と表、内と外を分かつ深い溝を孕んだ時代性をいろんな意味で体現しているようななんとも言えない読み心地。 体裁は一応ミステリなんですけど、若干フェアじゃないというか、叙述トリック崩れみたいな未熟な印象は拭えません。 でもサスペンスあるいはノワールとして読むと光るものがあります。 その方が断然にお得。
“ロシア風邪”の名で呼ばれたインフルエンザがヨーロッパで猛威を振るった1889年から1890年にかけて、クロージャー家の人々の関係を映し出すような、霜と霧に閉ざされたひと冬を背景に、ヴィクトリア朝後期ロンドンの光と影が緻密な時代考証のもと、濃厚に描かれていきます。 一見、ゴシックかなって雰囲気もあるんですが、いっそ社会劇に近いかもしれない。 “人形の家”というワードが繰り返し埋め込まれていることからもわかるようにイプセンの「人形の家」への目配せが感じられます。 フェミニズム志向が強いといえる作品ですが、むしろ「人形の家」のシニカル・ヴァージョン的イメージかな。 ヴィクトリア朝の封建社会における断固とした男性至上主義や硬直的な道徳観念の柵を徹底的に柵として描き、あくまでその抑圧の内側で自立できない(“家を出る”という選択肢を持たない)女性が如何にサバイバルしていくか・・というスタンスなので。
女は知恵を持つべきではなく、代わりに庇護されるべき存在であり、美しく、か弱く、愛らしく、愚かであることが魅力的とされた時代。 従順さと引き換えに、妻を自分の所有物として大事にし、見栄えよく着飾らせるための出費は惜しまない厳格な夫セオドアと、父親に溺愛され、ゴージャスな暮らしの中でしか生きられないものの、義務と体裁ばかりで愛のない結婚生活に失望する妻ローラ。 そこへ一枚加わるのがセオドアの弟で、一分の隙もないマナーと巧みな言葉を振りまいて、なんでも自分の思い通りにしてしまう快楽的な自由人タイタス。 この三角関係を三者三様に善悪の二元論で描いてないところが人間ドラマとしてワンランク上のクオリティを感じさせます。
更に使用人たちの様々な心象が浮き彫りにされたりして。 邸の表方と裏方が重層的に描かれている辺りは、ちょっと「ダウントン・アビー」チックです。 使用人の種類や階層の違いで主人に対して抱きがちな感情の類型が掴めた気になりました。 また、貧困、悲惨、欲望、退廃の渦巻くロンドンの闇世界もストーリーに有機的に関わってきます。 途中、リントット警部がいかがわしい界隈を歩きながら、悪所のあらん限りを回想するシーンがあるのですが、ここはフラグの役目も果たしています。
婉曲表現をちりばめた会話、ならではの不文律、調度品、服飾、生活様式、クリスマスの風習・・ 時代の空気感の構築に心血が注がれていて非常に満ち足りました。 タイムズに載ったブラウニングの死亡記事を朝食のテープルで家長のセオドアが声を響かせ家族に読み聞かせるシーンなんかがあったりして、史実とも要所できちんと整合させています。 各章の冒頭には章内容とリンクしたエピグラフを掲げていて、キャロル、ディケンズ、ワイルド、スティブンソンなど時代を彩る文人や知識人の銘句を引用しているが一興。 以下はその一例。
“家庭は娘には牢獄であり、女にとっては救貧院である”
by ジョージ・バーナード・ショウ 「人間と超人間」より

“もしあなたのためにすべてを捨てたなら、あなたは私のすべてとなって下さいますか”
by ブラウニング夫人 「ポルトガル語ソネット集」より

“売春は貞節を守る最も効果的な方法である。売春なくしては無数の清らかにして幸福な家庭が汚されるであろう”
by W・E・H・レッキー 「ヨーロッパ道徳史」より

“女は、男によって文明化される最後のものだと思う”
by ジョージ・メレディス 「リチャード・フェヴェレルの試練」より

“イギリスの良家のあの狭量で、締めつけるような専制的なところ――あんなものは他に例がありません・・・。
by フロレンス・ナイチンゲール


わが愛しのローラ
ジーン スタッブス
早川書房 1977-01 (新書)
関連作品いろいろ
★★
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巨匠とマルガリータ / ミハイル・A・ブルガーコフ
[水野忠夫 訳][池澤夏樹=個人編集] 旧ソ連公認の文学史から一度は抹殺されてしまうも、スターリン死後の“雪解け”の時代に再評価の一歩が始まり、徐々にその機運が高まって、特にペレストロイカ時代以降の歴史の見直しの過程で研究が進み、今や完全復活を果たした作家ブルガーコフの代表作。 しかし名誉回復を知らないまま、本人は1940年に四十八歳で亡くなっています。 特に晩年は不遇をかこち、そんな中で活字になる当てもなく本作は書き続けられたという。
熱い春の日の夕暮れどき、悪魔一味がモスクワに降臨し、大パニックを引き起こします。 文学雑誌の編集長との神の有無をめぐる議論に始まり、アパートの一室を乗っ取って住み着いては満月の悪魔集会を開いたり、黒魔術の見世物興行で舞台に出演しては劇場中にルーブル札の雨を降らせたり・・ それはもうエスカレートするわするわ^^; さながらドタバタ狂詩曲の様相とでも申しましょうか。 SFとメルヘンとロマネスクが渾然一体となったような映像喚起力のあるスペクタクルな幻想性と、端役の隅々に至るまで(むしろ端役なればこそ?)のキャラクターの生きのよさが絶品。
粛清の吹き荒れた恐怖の時代のモスクワが悪魔によって虚仮威され、翻弄され、嘲笑される小気味良さには、ある種痛快なものがあり、同時代に生きながらのこの発想の放胆さ、不敵さに拍手喝采を送りたくなります。 モスクワの住宅問題、外貨隠匿行為やその発覚への強迫観念、不適切分子の精神病棟送りなど、1930年代の冬の時代真っ只中のモスクワの社会状況のあれこれが、辛辣な皮肉とユーモアでグロテスクなまでに活写されているのですが、主題となっているのは共産主義の根本に関わる無神論の問題だったでしょう。 無神論が共産主義社会の機能不全を引き起こしている大きな要因であると著者は告発しています。 人間は人間の理性を過信してはいけないのだと。 無神論を敵に回しては人知を超えた存在同士、神と悪魔は一蓮托生というか、高次元で止揚されてしまうのだよね。 そんな顛末が新鮮で面白かったのだけど、月報で池澤夏樹さんが、ブルガーコフは人間の善性を信じて失敗進行中の共産主義を目の当たりにしている今更、神に頼るわけにもいかないから悪魔に頼ったのだと分析されていて、これは至言!とちょっと笑ってしまった。
本作品のもう一つの軸を成すのが、当局サイドに阻まれて“傑作”の発表が叶わない作家の“巨匠”と、彼を支える愛人のマルガリータ。 ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスを主人公に据えて執筆した、二千年前のエルサレムにおけるナザレの人ヨシュアの磔刑にまつわる物語がキリスト賛美とみなされ、“巨匠”は編集者や批評家の執拗な攻撃を受け、精神を病み、自らの小説を火に焚べて燃やしてしまいます。 マルガリータの無心の愛が(悪魔に届き)“巨匠”とその作品を救ったように、きっとブルガーコフの晩年は妻エレーナの支えがあればこそだったのだろうな。 ブルガーコフ自身と妻エレーナが“巨匠”とマルガリータに投影されていたことに疑いはなかろうと察せられます。 しかもタイトルから想像するに、本作は二人の愛の結晶と言っても言い過ぎじゃない気さえしてきます。 ブルガーコフとその作品の復権の陰にはエレーナの奮闘があったという。 本作はまさに愛の力によって忘却の灰の中からよみがえったのであり、作中の悪魔の名セリフ“原稿は燃えない”を自ら証明してしまうとはなんとも魔術的で伝説的ではないか。
臆病であることの罪深さを神にも悪魔にも繰り返し説かせながらも、反体制の烙印を押されることに怯え、声を上げたくても上げられない人たちの真摯な心の葛藤に対しては同情的であり、二千年間さまよった煉獄からのポンティウス・ピラトゥスの救済というかたちでその意思が表明されていたと思います。
それでも、現実世界はにべもなく眼前に横たわり。 ソヴィエト時代の権力機構の中で生きていかざるを得ない人々の逞しさと哀愁が滲むエピローグ。 ポンティウス・ピラトゥスの苦悩は時代を超えてイワンに引き継がれた感があるのですが、イワンには同時に“巨匠”の最期を見届けた弟子としてのマタイ像がおぼろげながら重ねられているようにも思え、迎合するくらいなら詩人であることを辞める道を選択したイワンへの眼差しは決して冷たくないし、献身的な妻の存在は、もしかしたらたった一人の読者を得る日がいつか来るかもしれない可能性を否定するものではなかったんじゃないかと思えたりもして。 未来へ託されたささやかな福音の感触をいつまでも反芻したくなる余韻深い読後感なのです。


巨匠とマルガリータ
ミハイル A ブルガーコフ
河出書房新社 2008-04 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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