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憑かれたポットカバー / エドワード・ゴーリー
[副題:クリスマスのための気落ちした気色悪い気晴らし][柴田元幸 訳] ゴーリー版クリスマス・ブック いつもの緻密な線よりやや太め。 背景もスモーキーな色合いで一面塗られているせいか、心なしあったかみを覚えるタッチ。 ゴーリーはゴーリーなのだけど、ちょっと新鮮。
世捨て人のエドマンド・グラヴル氏が、クリスマスイブに一人、お茶の準備をしていると、ポットカバーの下からバアハム・バグと名乗る変な生き物がジャーン!と飛び出してきて、やぶから棒に“教訓主義の効用を広めるべくやって来たのである”とか尊大げなことを言い出します。 すると、次々に、“ありもしなかったクリスマスの亡霊”、“ありもしないクリスマスの亡霊”、“ありもしないであろうクリスマスの亡霊“が現れ、これら亡霊たちに導かれて、グラヴル氏は世の中の情景を目にする冒険に出かけ・・と、徹底してディケンズの「クリスマス・キャロル」を下敷きにしたパロディの作りになってます。 当然ながらゴーリーらしいクレイジーでナンセンスなヴァージョンですが、様々な反復を繰り返し、シンメトリックでリズミカルなストーリーに仕立てられていて楽しかったー♪
すっかり忘れてるんだけど「クリスマス・キャロル」にバアハム・バグ的なキャラっていたっけ? スクルージ老人の相棒だったマーレイ老人の霊に対応しているのかな? だとするとマーレイ老人の霊はクリスマスの幽霊の出現を予言するだけで消えていったけど、バアハム・バグは旅にずっと一緒にくっついてきちゃったパターンかこれ。
亡霊たちは見せたい情景に向かって指をさしてるんだよね?そうだよね? なんかピストル向けてるように見えて仕方ないんだけども^^; 三亡霊たちがそれぞれに見せる五つの情景は、牧師さんが音叉を失くしてたり、何曜日かをめぐって言い争いしてたり、帰らぬフィアンセを思い出してたり、愛犬が剥製になって戻ってきてたり、それなりに残念な情景ではあるのだけど、三回とも最後、バアハム・バグがしゃしゃり出て、もっとも説教される要素のなさげな怪我した人にだけ反応して的外れの居丈高な口たたくというのが毎度のオチになってるっぽいw 三つの旅の中で唯一、中古壁紙盗難事件がリンクしてます。 何気にその発端から解決までの三段階を点景のように埋め込んでる辺り、洒落てますねぇ。
バアハム・バグ(バアハム虫)の原文は“The Bahum Bug”で、柴田さんの解説によると、これは、まだ改心する前のスクルージ老人の口癖、“Bah! Humbug!(ふん、馬鹿馬鹿しい!)”から取られているそうです。 BahとHumをくっつけて、Bugを独立させて虫の名前を作っちゃってるという。 ルイス・キャロル的な言葉遊びの妙ですね^^ もともと“Humbug”には、ペテン、ごまかし、たわ言、ほら吹き等々の意味があることを鑑みても、非常にぴったりのネーミング。
結局、旅を終えたグラヴル氏は、意味不明なまま改心して(それか単なる気まぐれか)、タイプライター・リボンの値上げに不平を垂れる投書の手紙はやめにして、みんなをクリスマスパーティーに招待する手紙を書き始めることに。 うんうん!辛くもディケンズ的! しかしながらそのパーティーたるや・・ ディケンズの敬虔なエンディングとはほど遠し。 ここでもバアハム・バグが率先してノリノリで大活躍してるみたいですよ。 おまえは何者なんだ! ふふ。 グラヴル氏、幸せそうで何よりw


憑かれたポットカバー
−クリスマスのための気落ちした気色悪い気晴らし−

エドワード ゴーリー
河出書房新社 2015-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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ルチアさん / 高楼方子
ルチアさん
高楼 方子
フレーベル館 2003-05
(単行本)


[出久根育 装画] 鬱蒼とした庭にゆらゆらとすみれ色の空気が立ち込める“たそがれ屋敷”。 ずいぶん昔のこと、そこに美しく儚げな奥様と、ふたりの娘スゥとルゥルゥと、ふたりのお手伝いさんが暮らしていました。 ある日、新しいお手伝いのルチアさんがやってきます。 丸いからだを弾ませ、ハミングしているようにフンフン鼻息を立てながら元気いっぱいに働くルチアさん。 “気の毒”なルチアさんは、なぜか気の毒から一番遠いところにいるように見えます。 不平や愚痴や噂話や執着と無縁であると同時に、特別に何かを愛するということもないルチアさんの前では、誰もが心にしまった輝くような思いを表に出してみたくなるのです。
外国航路の船に乗るお父様がお土産に持って帰った異国の光る水色の玉。 そのスゥとルゥルゥの宝物にルチアさんはそっくりです。 姉妹にだけは彼女が水色に光って見えるのでした。
“どこか”のために“ここ”を忘れるか、“ここ”のために“どこか”を忘れるか、“ここ”か“どこか”の何かが満ち足りないか・・ そんな状態が世の常、人の常、生きることの定めみたいなものかもしれない。 “ここ”と“どこか”がひとつになり得て自足しているルチアさんは、なんとも不思議で稀有な存在に思えます。 おいそれと人が辿り着けないような手の届かない境地。 それこそ水色の光る実でも食べない限り。
ルチアさんの生き方を感じ、考えるボビーの明哲さや、それによって自己を再発見するスゥの柔軟さに、やはり現実としては最も近くありたいと願う読者は多いのではなかろうか。 肯定的に“ここ”に居ながら憧れの“どこか”を静かに思う・・ それが小市民な自分にとっての理想の限界かなぁって。 ちょっと諦観気味の大人の心をも切なく揺さぶる効用があるのですが、子どもの頃に読んでいたらどんな受けとめ方をしたのだろうかと、その想像が上手くできなくて。 自分がルチアさんのきらきらに気づけないタイプの子どもだったからかもしれないのだけどね。 ちょっと、一抹の寂しさを味わったりもして。
生き方の物語なのだけど、生き方をどう感じどう考えるか(ルチアさんを触媒に)促される物語でした。 そしてその感じ方や考え方もまた一つの生き方なのだと。
光る水色の玉と実は、“どこか遠くのきらきらしたところ”の象徴として物語に鮮やかなイメージを吹き込みます。 ターコイズやアマゾナイトを連想したくなるのと、出久根育さんの仄かに装飾性を意識した絵のせいか、エキゾチックで神秘的な香りがひとしおなのです。 調べてみたら水色の石って色々あるんですね。 パライバトルマリン、ステラエスペランサ、ヘミモルファイト、ラリマー・・ みんなキレイ! 水色の実って全然思い浮かばなかったんだけど、ノブドウや、熟し途中の青葛、クサギの実あたりがそれっぽいかも♪
光る水色の実のシロップ漬けを広口瓶からひとつ取り出して水の入ったガラスのコップにぽとんと落とし、くるくるかき混ぜて出来上がる透きとおった輝く水色の液体。 魔女? 聖女? 真夜中の台所で水色の実の光るジュースをこしらえるルチアさんと、その様子を窓の外の暗闇から慄きと憧れの瞳で息を呑んで見つめる子どもたちの光景がえもいわれません。
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エウラリア 鏡の迷宮 / パオラ・カプリオーロ
エウラリア 鏡の迷宮
パオラ カプリオーロ
白水社 1993-06
(単行本)


[村松真理子 訳] 日本では(現時点で)この一冊しか紹介されていないイタリア人女性作家の短篇集。 1988年に発表された作者26歳の処女作品集で、四つの短篇が収められている。
“幻や想像の世界に現実以上のものを見てしまった人間の悲劇がダマスク織りのように紡ぎ出される”との紹介文があって、この“ダマスク織り”ってワードチョイスがなんともしっくり嵌る。 典麗で繊細優美でシルキーで・・っていうのもあるんだけど、パターン化された模様がひと連なりに織り出されていく感じなんか特に。 四篇は同工異曲というべき相似形を成して響き合っているのだ。
瑞々しく美しい綺想に彩られた愛と孤独の物語。 どの短篇の背景もヨーロッパのどこか・・という以外に時間も場所もつかみ難いのだけど、今よりもっと古くもっと緑の濃い旧世界の記憶がこもる空間イメージ。 眼裏に残る映像の強さも特徴的で、古譚や伝説風のロマン派チックなモチーフに既視感があり、またその寓意性にも馴染みがある。
神の遊戯のごとき運命に殉じていくようでありながら、主人公たちの行動の秘かな動機には、自己同一性の揺らぎ、確固とした拠りどころの不在に倦む現代的な病理がかかわっていて、リアリティとメルヘンが内側と外側から照らし合うような趣きをそなえている。
豪華な馬車の内部で空間を無限に広げている鏡の部屋、死者のために何世紀にも渡って造られてきた地底の荘厳な彫刻庭園、巨大な影法師の囚人がヴァイオリンを奏でる閉ざされた監獄など、生の無常を体現する地上世界から隔てられ、切り離されて完結し自足している夢幻境のような反世界が物語の対位旋律となって死や不変を象徴している。
実体と影、静と動、聖と俗、刹那と永遠・・ 両者の呼び交わしはその間に横たわる目に見えない淵の深さを裏書きするばかり。 未だ見ぬ魂の故郷のような、かつて一体だったかもしれない失ってしまった自己との安定的合一を願う衝動のような恋慕の情が悩ましく充満している。 そして、その虜となった人たちの渦巻く想念を燃え立たせている。
テーマは変奏しながら反復するのだが、表題作の「エウラリア 鏡の迷宮」は虚実の錯綜から浮かび上がる真実性への問いを、「石の女」は、死から逆照射される生の意味を、表裏を成す「巨人」と「ルイーザへの手紙」は自我の分裂の問題に関わる分身小説的な側面をより強く感じたような。
どこにも属せない疎外感や途方もない遮断はひとえに不毛で、なんら救いを提示することのない虚しさが茫漠と漂うオープンエンド。 ややメランコリーにもたれかかり過ぎかなという節はあるのだけど、そのため殺伐感はなく、非情さと無垢が綾を成し、襞を成して揺れ動く織物のような世界がどこまでも甘美なのだ。
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失踪者たちの画家 / ポール・ラファージ
失踪者たちの画家
ポール ラファージ
中央公論新社 2013-07
(単行本)
★★

[柴田元幸 訳] 何が本当で、何はただの物語なのか・・? もんやりとした空虚、淡い喪失と孤独が揺曳する都市奇譚です。 さざ波のように拡張し収縮し、解き明かしようのない何かが潜む、目の前にあって、かつ恐ろしく遠い“都市”は、生者と死者と失踪者と人形とが質量を変えることなく流動し循環し続けるエーテル的世界みたいなイメージ。
田舎育ちの青年フランクは“都市”へ出てきて死者の写真家プルーデンスに恋をする。 或る日そのプルーデンスが失踪する。 失踪者の画家となってプルーデンスの行方を捜し続けるフランクは何故か警察に目をつけられ投獄される。 投獄中に革命が起きて体制が変わる。 解放されて新しい人生が始まる。 新しい恋人もでき将来の見通しも立ち始めるがプルーデンスを忘れらない・・ 超約するとこんな感じになってしまい、決して複雑な筋立てではないし、一貫して連続する時空間に支えられているにはいるのです。 が、しかし。
神話のような、おとぎ話のような、夢物語のような・・ 様々な語り手が紡ぐ綺想に彩られた“物語”が点綴するように挿入され、コラージュを成してメインストーリーを幾重にも覆っていき、交換可能な等価性や異化作用を呼び覚ましながら現実と虚構を撹乱します。 物語の小さな水滴に映し出される“都市”の豊穣さは無限の多様性をはらみ、単線的なプロットに読者を縛りつけてはおかないのです。
プルーデンスはどうも恐怖政治に加担するような仕事をしていて、フランクと出会ってからはそんな自分を恥じていたのかなと思える節もあり、当局に抹殺されたか隔離された(或いは亡命した?)かなんかして生死があやふやになった者らが“失踪者”の正体ととれなくもなく。 “人形”というモチーフも意味深で。 過去を捨て、与えられた役割を生きる仮面をかぶった別人となってプルーデンスは戻ってきたってことなのか・・
キワキワの現実サイドで逞しめの妄想を膨らませることもできるのですが、その“現実”にしたところで極めて寓意的で、修辞や比喩表現なのか本当の出来事なのかさえ曖昧模糊としたまま展開していくありさま。
拠りどころのなさが見せる幻影なのか、フランクの視点で捉えられているのは物理的現実を自由に出入りする相当な超感覚的現実なのだけど、フランクと読者の間に思考や感情のズレがさほどないためか意外にも読みやすく、興趣が最後まで全く途切れませんでした。
どこでもなくて、どこでもありそうな。 大聖堂広場があって、港があって、市場があって、工場があって、美術館があって、様々な居住地区があって・・ 歴史の蓄積だけが醸し出せる文化風土の香気をまとった西洋の古都を想わせる“都市”。 その全容は、何というか、読者が作中の現実やら物語やらを組み合わせながら肉づけしていくカスタマイズ性があるというと変なんだけど、イメージの蔓が交錯し繁茂する混沌とした“都市”は、画一化された視点で捉えることはできず、“都市”を語る者の数だけ“都市”は存在するし、真実とは誰かにとっての真実でしかないのだと思わせられる。 それと同時に、昔話が人々の心の象徴であるように、連綿とした命の営みの欠片を写しとった語りはそれ自体、不思議な普遍性を有してもいるのです。
月との親密性や煌めく詩情は「絵のない絵本」を、荒唐無稽でとんちんかんな理不尽さは「不思議の国のアリス」を、何となくなのだけど想起させられたり。
新体制になっても依然、透明な壁は存在し。 ラストはそこはかとなく厭世的な雰囲気を帯びて、 酩酊した男の束の間の現実逃避に付き合っていただけなのか? いやいや物語の結果が酩酊なわけだから・・と、何とも悩ましい円環にはまり込み、いなされてしまうのです。
都市の中にフランクがいるのか、フランクの中に都市があるのか・・ 幻惑の渦に身を委ね、朧々たるメランコリックな想念とともに漂泊する・・ そんな遣る瀬ない余韻が美味。
文学作品の装画を手掛けるというスティーヴン・アルコーンによる影絵のような切り絵のような版画は、嬉しいことにアメリカ版原本がそのまま使われてるようです。
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蟲の神 / エドワード・ゴーリー
蟲の神
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2014-06
(単行本)
★★★

[柴田元幸 訳] 本書は『ビネガー作品集 −教訓本三作−』(なんだそれw)と題して、「ギャシュリークラムのちびっ子たち」と「ウエスト・ウイング」と合わせた三冊セットで出版されたうちの一冊だそうです。 惨たらしくもシュールなこの感じは安定の黒ゴーリー・ワンダーランド。
悪い子が魔物に攫われて食べられてしまう子供向け教訓物語の不条理ヴァージョンと言いましょうか。 幼い少女ミリセント・フラストリィは悪い子じゃない(いい子かどうかも定かじゃない)けど、唐突に攫われて“蟲の神”の生贄に捧げられてしまいます。
いざ捧げられるところで終わりますが、まぁアレだよね、食べられちゃったよね。 裏表紙のお腹の膨らみからすると・・丸呑み;; 満腹(?)の蟲を見ていると、後ろめたくも場違いにクスッとなってしまいます。 「まったき動物園」にいそう^^; もう虫じゃないでしょ!その姿はw と突っ込みたくなります。
どっからどう見ても悪魔(死神?)の化身さながらの蟲一味。 よからぬオーラ全開の、その禍々しいことと言ったら! なにか邪悪で面妖な秘密結社を連想させるものがあり、およそ世紀末ヴィクトリア朝ロンドンの暗黒面を感じさせるミステリアス・ムードもりもりの作品です。
やっぱり、禍々しいことやってますよっていう、素ではなくてネタなんだよなぁ。 そんなところがゴーリーの中毒性だと思う。
行方不明になったミリセントを心配するフラストリィの一家は、往年の裕福な良家といった体の粛々として沈鬱なゴーリー印満点の佇まいなのだけど、赤ちゃん(ミリセントの妹か弟)がなんか怖い・・扱われようが犬みたいで。 一番そこに薄ら寒さを感じてしまったのは何故だろう。
見返し遊び紙の隅のカットに見覚えが! パン屑じゃなくてドクロを撒きながら歩いてるヘンゼル風のとぼけた可愛い坊やは「ウエスト・ウイング」でも見かけた子。
本来あるべき童話や絵本が示すポジの世界と対を為す唯一無二なるネガの世界・・ この坊やの絵にはゴーリー作品のなんたるかをふと直観させるものが宿ってるような。 もしかして三冊セット本のシンボルマークだったのかな?と思ったけど「ギャシュリークラムのちびっ子たち」には(少なくとも翻訳版には)いませんでいた。
ABAB形で脚韻を踏んだ四行連句の原文は、今回は七五調の訳に生まれ変わっています。 古風な語りものめいた味わいが不気味さを引き立てていてぴったり。
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むしのほん / エドワード・ゴーリー
むしのほん
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2014-12
(単行本)
★★★

[柴田元幸 訳] クリスマスのギフト用の限定本として作られ、翌年、一般のハードカバー本として刊行されたごく初期の作品らしい。 モノトーンの緻密な線描ではなく、カラフルでポップな絵柄は“可愛らしい”と評するのがぴったり。
青、赤、黄色。 いとこ同士でご近所住まいの色違いの小さな虫たちが仲睦まじく七匹で暮らしているところに、ある日突然、黒い大きな虫がやってきて彼らの楽しい日常を破壊してしまいます。 色違いの虫たちは相談し合い、力を合わせて悪さばかりする乱暴な黒い虫をやっつけ、共同体の平和を取り戻すのでした・・めでたしめでたし。 という超オーソドックスな勧善懲悪のお話。
いつもながらストーリーは単純明快で、言うなれば、古典的な児童書、素朴な昔話のテイスティング。 なんだろう、ちょっと「敬虔な幼な子」を思わせる作風。 表面上、なんらパロディに改変して描いているわけでなく、昔話の定型をそのまま踏襲している感じに過ぎないのに、ゴーリーの手にかかるとどうてこうも薄ら寒くなってしまうのか。
昔話なら許されるはずの残酷さを素直に味わえないというか、昔話を昔話としてもはや読むわけにはいかない現代人の感覚を揺さぶり起こされるというか・・
姿形や性質や生まれの違う異分子を排除しようとする気味の悪さ、不穏な怖さは、ゴーリーがあからさまに描いていないからこそ、いや、それ以上にサイレントメッセージを忍ばせている素振りさえ露ほども示さないからこそ、否応なく炙り出されてくるとしか言いようがない。 センシティブでタブーなところを素知らぬ顔してほのぼのと淡々とえぐる辺り、非常にゴーリーらしい絵本だと思う。
本国では刊行当時、一部で黒人差別と取られ批判されたそうだが、むしろ一段次元の外側から人種(だけではない)差別のあらましを風刺しているように思う。 両者は真反対の読解ということになってしまう。 むろん、全ては読者に委ねられているのだが。 一見なごなごとっつき易いだけにかえってゴーリー上級者向けかなぁ。
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探偵術マニュアル / ジェデダイア・ベリー
探偵術マニュアル
ジェデダイア ベリー
東京創元社 2011-08
(文庫)
★★

[黒原敏行 訳] アメリカの新進作家による2009年発表のデビュー長篇。 うっすらSF風味の幻想探偵譚。 アメリカで認知されているらしい都会小説(B級ハードボイルド的な?)を踏まえての変奏ヴァージョン風なのかなぁーと想像しながら読みました。
もっともこちらはソフトボイルド。 ファンシーでメタフォリカルで、主流文学に通じる個性もほのかに感じさせてくれる似非B級な作品でしょうかね。 事件捜査的な真理探求のプロセスから逸脱することはなく、この世界のルールに則して謎は解かれます。 浄化作用のあるラストも程よい娯楽性を保ちつつ、何かとてもシンボリックで素敵だった。 久しぶりに上々吉のエンタメに出逢えた気分
雨の降り続くとある都市(まち)が舞台。 とにかく、オリジナルにデザインされた風物や風俗成分を遺憾なく注入した都市のジオラマが、読みながら頭の中に広がり、定着していく時の世界酔い的体験というのは、ハイ・ファンタジーを読む醍醐味なのだと存分に思い知るくらい堪能させてもらいました。
北には碁盤目状の新市街地を、南には旧市街が入り組む港町を配し、その境目に見張り台のように聳えるのは〈探偵社〉。 複雑に組織化され、社員にすら全貌が公開されていない巨大な〈探偵社〉に勤務するアンウィンは、都市随一の名探偵シヴァートの専属記録員として長年報告書を整理し、脈絡をつけ、正確無比な記録に仕上げてきたと自負している。
そんな事務方気質のアンウィンは、ある日、唐突に探偵への昇格を言い渡され、かつての人生から追い立てられるように、都市で発生している不可解な進行形の混乱に放り込まれてしまう。
行方不明の探偵シヴァートを捜し、〈カリガリサーカス〉の千と一の声を持つ魔術師ホフマンの企みを追い、敵か味方か“一枚噛んで”いそうな謎めく女性たちに翻弄されながら、シヴァートを指揮していた監視員レイネック殺害の謎に迫ります。
“探偵術マニュアル”を携え、醒めきらない夢の都市を駆け抜ける探偵(になりたくない)アンウィン。 見えない暴力の支配下で腐敗し、荒廃しかけた都市を救うことができるのか・・?
〈探偵社〉は秩序を、〈カリガリサーカス〉は無秩序を体現していますが、同時に、知と未知、可視と不可視、昼と夜、現実と夢、覚醒と眠り、構築と破壊、記憶と忘却、保守と冒険、内と外など、いくつもの概念が重なり合って対照されています。
ただ、ここに優劣や善悪は含まれません。 むしろ、そう思われがちなイメージを払拭すべく、互いが互いの抑止力となって自律的に機能し合えることの意義や、そのための複眼的認識力の大切さ、全てを一義的な意味の場に回収することの危うさが物語られています。 内部へ沈降し、外部へ踏み出す作業を通して、偏った暗黙の物差しを盲信して真の問題を見過ごしてはいないか自己検証を促します。
筆記用具がタイプライターだったり、帽子の着用がステータスだったり、切符にパンチを入れる車掌や、レバーを動かしてエレベーターを操作する係員や・・ ちょっとレトロな空気が良いんです。 捨てられた産業廃棄物が放置され、石畳に赤錆の筋をつける路地、朽ちた廃駅のホームに滑り込む探偵専用の地下鉄、旧市街の暗い片隅の酒場”四十回のウィンク”、うら寂しいサーカスの廃墟、双子の番人が乗る赤い蒸気トラック、時計を持った夢遊病者が集う丘の上の屋敷“猫と酒”、細い路地が入り組み何層にも重なった夢の中の煉瓦道・・

<備忘メモ>
なお、“われわれは眠らない”をスローガンに掲げ、目の図柄をトレードマークにした〈探偵社〉のモデルはピンカートン探偵社、〈カリガリサーカス〉の元ネタはドイツ表現主義映画の古典的名作「カリガリ博士」、巨大な半円筒形の屋根と、中央ホールに四面の時計をとりつけた案内所がある〈セントラル駅〉のモデルはニューヨークのグランド・セントラル駅、また、著者が最も影響を受けた作家と語るカルヴィーノの幻想小説「見えない都市」の中の「精緻な都市 4」に描かれる都の話は、本作の世界観の発想源になっているかもしれず、ボルヘスとの親近性においては、特に「伝記集」収録の「円環の廃墟」、「エル・アレフ」収録の「アベンハカン・エル・ボハリー、自らの迷宮に死す」からのインスピレーションが感じられるとのこと。 訳者解説より。
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料理人 / ハリー・クレッシング
[一ノ瀬直二 訳] 1965年にアメリカの出版社より刊行された、著者の経歴が伏せられた長篇小説。 著名な作家の変名なのは確からしいのだけど、正体は今もって明かされていないみたい。 さぞやいろいろと取り沙汰されたことでしょう。
一時代の一潮流を担った奇妙な味系の名作です。 しかも、このジャンルには珍しい長篇であり、ノワール、諷刺、ミステリ、ホラー、ファンタジー・・と、どれをも包含し、どれでも割り切れない趣きは、まさしく王道な印象。
長身痩躯で黒ずくめの男、悪魔の申し子の如きコンラッドは、どこからともなく田舎町コブにやってきて、人智を超えた絶品料理とカリスマ的心理操作の錬金術で地元の名家、ヒル家の住人を懐柔していきます。 その不遜な思惑を、じわじわと刻々と際立たせていく「主従逆転」の顛末。 ストーリーはシンプルそのもので、長篇なのにどことなく不条理で滑稽なショートショートの味わいさえ漂わせ、均整と統一を備えた無駄のない造形美は、短篇を彷彿とさせるものがあるような。 言葉の一つ一つまで読者の反応を考えて選ばれている緊密で的確な描写と、言葉に解釈をねじ込まず、読者自身の想像力を掻き立たせる語りの企み深さにセンスを感じます。 わかりやす過ぎるようでもあるのと同時に、何かしら腑に落ちない薄っすらとした靄のような煙幕が張りめぐらされてもいる物語。
作者のみならず、作品の舞台となる時代や場所も曖昧です。 近代英国っぽい風俗の中で、現代の観点から社会や人間の病理を見つめているような奇妙なアナクロニズムが揺曳する架空世界は、愚かさと欲の果てしなさを戯画的に転倒させたグロテスクなパロディとしての主題と見事な調和をみせています。
サディスティックで冷たい頭脳の傑物、コンラッドが支配者へと変容していく手際には、ある種ダークヒーロー的な華麗さがあるんだけど、終盤、自らの極点に達した後は破滅を予兆させる堕落と頽廃の相貌を見せ始めるのが意表と言えば意表で、その暗転のアイロニーにやけに惹き込まれた。 歴史を紐解くまでもなく、世界中の君主と言わず国家と言わず、繰り返されてきた永遠不滅の事例であり、更には人類の進化のプロセスということにもなりはしないだろうか。 恍惚的な麻痺によってもたれ合い、地球上のリソースを消費し尽くすまで続く仄暗い幸福感・・ と、そこまで思考が暴走して、そこはかとなく怖くなった。 こんな想像をも許容してしまう辺りが名作の所以なのだろうな。


料理人
ハリー クレッシング
早川書房 1972-02 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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泡をたたき割る人魚は / 片瀬チヲル
これが新時代の人魚姫伝説なのでしょうね。 現代版人魚姫の日常であり、神話です。 ストーリーも元来の「人魚姫」を擬えていて、その違いに自然と目が奪われる仕掛けになっているところが巧いなぁと思う。 若い作家さんらしい鋭敏な感性に支えられた瑞々しい文章の煌めきに惹き込まれました。 月や星座、虫や草花、貝殻や魚、絵の具の色彩が、空の青と水の青のグラデーションに包まれ、滲み、瞬いている空間は、どこか無機的で、希薄で、静謐で、レプリカのようで、とても綺麗。 皮膚と鱗の境界や、人それぞれが所有する“泉”の肌触りなど、観念的なモチーフが寓話の中で生き生きと開花しています。 一番圧倒されたのが人魚に変身する刹那の描写。 キリキリと胸が痛むようで、体の芯がぞわりと痺れるようで・・鳥肌が立ちました。 ちょっとベルニーニのダフネを思い浮かべてしまった。
恋がしたくて人間になりたかった古の人魚姫。 恋をしたくないから魚になりたい今人魚姫。 草食系ならぬ魚系ですからねぇ。 いわんや肉食系をや。 というか、誘惑と拒絶を併せ持つ“人魚”という具象がとてもしっくりくる恋愛観。 人と魚のいいとこ取りなのか、それともその真逆なのか・・
楽じゃ物足りないし、大事じゃ重すぎる。 責任の伴わない永久的愛情を求めても無理ってものなのだけれど。 人の心は変容する。 その最たるものが恋だから、恋が怖い。 というのは、もう若者じゃないけどわかる感情です。 鬱陶しい情緒に煩わされたくないという気持ちを拗らせて、逆にひどく不自由で面倒くさく生きてるみたいに見える。 恋という縛りを逃れようとしていたら、恋という縛りから逃れたいという状態に縛られてしまってるみたいな。
古の人魚姫は恋破れて泡になったけれど、恋が始まりさえしない今人魚姫は、泡となることもなく、無精卵を産んで自分で食べてしまう水槽の中のグッピーみたいに、溜息の泡を尾ヒレで無為にたたき割っている・・ 今王子が結婚相手に人魚を求めるというのも、何かとても諷刺的。
干渉し合わないという居心地の良さは、一見、スマートなようでありながら、自分のしてあげたいこと、してほしいこと、それだけの関係でしか他人と繋がろうとしない閉鎖的なエゴにもなり得るだろうし、いかにも現代チックな病理を突き付けられている心地がして・・ そんな遣る瀬無さが、お伽話のように美しく汚れのない舞台の中に腐敗するように溶け込んでいて、ふわふわしているのに鋭利で・・ 非常に世界観豊かな作品だと感じました。


泡をたたき割る人魚は
片瀬 チヲル
講談社 2012-07 (単行本)
関連作品いろいろ

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綺羅星波止場 / 長野まゆみ
夜のお話が多いせいか、全体的に青(碧)のイメージが広がります。 そこに明滅するアーク燈、珠を繋ぐ水銀燈、玻璃製の卵、ラヂオの雑音のような微かな雨音、銀紙にくるんだ薄荷糖、凍りついた金魚、緋褪色の古書、紅玉色の柘榴の実・・
それはそれはノスタルジックで透明感のある掌編集。 月、星、埠頭、鉱石、植物、猫、路面電車、少年・・ 賢治と足穂のエッセンスに、細やかな意匠を散りばめた紗をあしらってラッピングしたような。
ヤバイくらいの居心地のよさです。 好きすぎて蕩けてしまいそう。 空間演出にとことん拘る分、そこに配置される人物は何処か希薄で、情理に淡い(淡すぎる)余白がある。 このバランスが長野さんなんだよなぁ。
他愛のない中に、少年×少年の不可侵性が際立っていた「綺羅星波止場」と「雨の午后三時」では、灯影と垂氷が誘われる束の間の不思議体験が描かれています。 異空とのあえかな交響がキラリと眩しい。
本作品集の中では最も長い「銀色と黒蜜糖」は、長野さん曰く、“例によって「野ばら」ができあがるまでの過程で生まれてしまった、亜流のようなもの”なのだとか。 未読なので全く把握できていないんですが、ちょっと調べてみた限りでは、「夏至祭」もそのお仲間のようですね。 賢治が「グスコーブドリの伝記」に至る亜流を沢山書き残していたことと、なんとなく重ね合わせてしまったりして。
「耳猫風信社」の灰色猫や、「黄金の釦」の銀灰猫の、底意のない取り澄ましっぷりが可愛くて可愛くて・・ふふ。 こういう一揺れの波動しか残さない、埋もれてしまいそうな掌編が無性に愛おしくなることがある。
洞窟の中で、水滴の刻む音が絶対的な時間を掌握するように、暗幕に閉ざされた舞台という小宇宙では、綺羅星の如きイミテーションの耀きが、儚くも鮮明な唯一無二の実になる。 そんな魔法をかけられる。
お気に入りの止まり木的小品に寄り添って小閑を得ることの幸せといったら。 帰る場所はここっ♪ とか勝手に思い定めたいくらい、憩いをもらえるわたしの理想郷。
でも、長野作品(特に初期)は中毒性が強いので、時々しか読んじゃだめよと自分を戒めたくもなる。 健康にいい気はあんまりしないんだよね。 波長が合いすぎて魂を抜かれそうで^^;


綺羅星波止場
長野 まゆみ
河出書房新社 1995-08 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★
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