遠く不思議な夏 / 斉藤洋
[装画:森田みちよ] 上野から普通列車で二時間、そこからバスで一時間くらいの場所にある母の郷里の村で過ごした遠い夏のモノローグ。 昭和30年代頃、幼少年期にあった“わたし”が、一夏一夏の記憶の底から掬い上げる思い出の数々。 意識の鮮明化と引き換えに失ってしまう儚い瞬きのような不思議に満ちた体験が、入学前から5年生までの時間の流れに乗せて連作長篇形式で描かれていきます。
先に「K町の奇妙な大人たち」を読んでるんですが、これは姉妹篇と考えていいのだと思う。 東京の東端、K町での日常を綴った“わたし”ど同一人物の“わたし”が綴る夏休みの田舎ステイ編。
夜になると川で魚釣りをするお地蔵様、増築を重ねて迷路のようになった本家の古い屋敷、彼方と此方の境界人のような“きっつぁん”という不思議な男、松明と提灯に照らされて昔ながらの面と衣裳で踊り狂う夏祭りの“にとこ踊り”、軽んじられていると腹を立てて悪戯をする小さな杜の神様、村道の街灯の下で捕まえるカブトムシ、泥の中からにゅっと顔を出すヌマメ、本当のことと響き合ってしまう祖父の可笑しな作り話、本家から分家に揚々と引っ越す座敷わらし、リヤカーの心地よい振動、水田の中に浮かぶ人魂、神社の木々から溢れ出る蝉の声・・
神秘的な土壌の力が薄れつつあるものの、東京のK町にもその名残りが十分に感じられた時代。 田舎の村では、まだまだ怪異が悠然と日常に溶け込み、物の怪が自然現象と隔たりなく受け容れられていて、更に強い地場の力を感じます。
そこには時間をかけて培われてきた人々の無意識の集合体のような氏神という呪縛があって。 現金やそれに代わる物品の授受が社会生活の重要な基盤になっている狭い共同体での神様とのかかわり方が、評価を持たない子供の透明な目に晒されてもいて、古き佳き郷愁のみを賛美する小綺麗な世界ではないところに読み応えと深い味わいがありました。
大人の顔色を敏感に察知する少年であることに違いはないのだけど、K町での“わたし”よりは大人とのコミュニケーションが保たれている印象があり、大人社会の謎めいた背景事情がK町の時より生々しく透けて見えます。 母親の実家は分家ながら近頃は羽振りが良く、落ち目の本家に代わる地位と名誉を虎視眈々と狙っている様子。 そこにはどうやら“わたし”の父からの援助があるらしい。 “わたし”には家庭教師をつけられている異母兄たちがいるらしいことも判明。 案の定、“わたし”の家庭環境はナゾに満ちています^^;
かぞえ年で十二歳に達し少年期を終えた5年生の夏。 最終話はきもだめし大会での武勇伝で締めくくられますが、その楽しさの裏で、怪異が何も起こらなかったことに一抹の寂しさが広がります。
わたしはポケットから木のイヌを出して、そっときっつぁんにかえした。
だからこそ・・ その前年の最後の思い出の眩しさが、縁側で交わし合った他愛ないやりとりが、氷ったスイカの味が、胸に応えて泣きそうになる。


遠く不思議な夏
斉藤 洋
偕成社 2011-07 (単行本)
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★★

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水晶萬年筆 / 吉田篤弘
2005年に刊行された「十字路のあるところ」に加筆修正を施して文庫化した短篇集。 ページを開けば魂ごとここから連れ去ってくれる感応作用を持ちながら、ページを閉じた後の記憶や感情を束縛しない、そういうタイプの本だなぁーと感じました。 あっという間に忘れてしまいそうなのだけど、忘れた頃にまた読み返したい、掌中の珠のように大事にしたい、そんな気持ちにさせられる本でもありました。
東京の路地を起点とした物語は、いずれも築地、白山、根津、千住・・など、実在の町から拾い集めた風景がイマジネーションの源泉になっているらしい。 親本のタイトル通り、どの短篇にも印象的なシチュエーションで十字路が登場し、各物語を緩やかに同調させるトポスの役割を果たしています。 様々な不条理と脅威に満ち、様々な魅惑の扉を隠し持つ町や街を幻像的に揺らめかせ、自在の境地に遊んでいるかのよう。
乗りすてられた自転車、紫陽花に隠れた真鍮の蛇口、色褪せた味自慢の暖簾、燻んだカフェー、銭湯、古アパート・・ 迷路にも似た陽の当たらぬ細い路地に踏み入ると、そこには昭和の残響が聞き取れる世にも不思議な空間が開けます。 ちょっとした思考から奇妙に発展した、日常という座標系の外にある秘密の巣穴のような場所に誘われていく感じがいたしました。
甘い水の町に物語を探しに来た物書き、西陽が描く壁画の町で影を持て余す絵描き、繁茂する道草に迷い込んで坂の上の洋食堂に辿り着けない新語研究家・・ 積極的な生の営みが停滞した緩衝地帯に小さな契機をもたらすのが十字路。 逡巡をまとった主人公たちの微かな鼓動が、物憂い静けさに浸った町々の中に溶けて、意識や匂いや色や音が照応し合う共感覚的アトモスフィアを濃厚に漂わせています。
言葉の増殖に絡め取られる「ティファニーまで」や、世界が言葉に支配され変貌する「アシャとピストル」からは、言葉という概念に向けられた関心の強さが読み取れるし、街の裏側に息づく森へファンファーレを奏でる「黒砂糖」や、飽和し倦んだ街のメランコリーが揺蕩う「ルパンの片眼鏡」では、街や都市そのものに対する感慨が浮き彫りにされています。 適度なユーモアを持って語られつつも、何かこう、非常にコンセプチュアルな印象を刻むんですよね。 洒脱なのです。
一番のお気に入りは「黒砂糖」。 伊吹先生のシルエットが宮沢賢治と重なって独自の妄想を進化させてしまいました。 住宅街の片隅に人知れず萌す植物を見つけたら、ははん、彼奴らの仕業だなと。 そしてアスファルトの下の森のことを思い出すのだろうな。
親本には、舞台となった場所を辿るモノクロ写真が添付されていると知って、衝動を抑えられず、図書館で急きょ借りて参りました。 親本には、物語から醒めて、ふと夢の跡に落とすため息のような観想の場が各短篇の最後に設けられていて、歳月の中に微睡むような都市の片隅のモノクロ写真が、そこに一緒に配置されているのでした。 おぼろな記憶の輪郭が溶けて流れ、写真はいつしか物語の魔法の中に永遠に閉じ込められてしまったみたいに、しんと佇んでいました。


水晶萬年筆
吉田 篤弘
中央公論新社 2010-07 (文庫)
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★★★
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怪奇小説という題名の怪奇小説 / 都筑道夫
長篇怪奇小説の執筆を依頼され、引き受けたものの、まったく筆が進まない作家の“私”。 幼少時の記憶の中に定着した怪しい情景、盗作の材料にしようと再読している古い洋書、その原文を江戸時代の日本に移し替えた執筆中の原稿、それら要素が渾然と絡まって“私”の現実を侵食し始める。
街へ出た“私”が、三十年前に死んだはずの従姉そっくりの女に遭遇するところから物語は動き出し、戦前の怪奇小説や欧米のスリラー、伝奇風冒険小説、B級クリーチャーなどのエッセンスを盛り込みながら、謎を回収するジャンル小説的ストーリーとして展開していくものの、もやもやと煙に巻かれたようで、ちっともスッキリしないところが素晴らしい。
平たく言うと、怪奇小説を書いている“私”を主人公にした怪奇小説。 作中作がこの小説そのものであるかのような超自然的な印象を孕んだメタ小説なのですが、最初、“私”が作品の外に出てきて都筑さんを滅する趣向なのかと思ったら、ちょっと違う。 あくまで創造者としての主体は都筑さん側にあり、空間を支配するのは全能の作者なのだということを、読了時には明確に意識させられている感じ。
「The Purple Stranger」という本は実在するのか、それとも都筑さんの頭の中に存在するのかがいつまでも気になっていて、それが何にも勝る読後感でした。 作中、“私”の手によるスタインベックの短篇の邦訳を挿入し、「The Purple Stranger」と並列化することで、何か作為的に“本物”らしく演出している気もしたり、読者のそんな想像をも見越してニヤリとほくそ笑んでおられる気もしたり・・ 何故こんなに気になるのかというと、あらかじめ頭の中で練り上げた構想に甘んじる創作姿勢のことを皮肉的に象徴したのが、ここでいう“出来合いのストーリーの盗作”だったのではないかと感じたから、だと思う。 そして本篇がまさに、その、“盗作”の筋書きを逸脱していく物語だったから。 でも、“創作とは構想を超えることである”という矜持が込められ作品だったと素直に捉えていいものかどうか。 逸脱さえも構想の内側だったとしたら・・ ここで、道尾秀介さんの、“どのようなプロセスでこの奇書を完成させたのだろう(解説より)”という言葉が響いてきます。 作品は構想を超えられるのか・・ このエンドレス迷宮に放り投げられたような心地こそ、本篇の最大の魅力だったのではないかな。 初版は1975年。 漠としたストーリーの円環構造によって、より悩ましい迷宮感を醸成させるテクニックも冴えていて、実験的ポストモダンの佳品であり、小説を論じた小説と理解しました。


怪奇小説という題名の怪奇小説
都筑 道夫
集英社 2011-01 (文庫)
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虚無への供物 / 中井英夫
1954年9月、千五百人余りの死者、行方不明者を出した洞爺丸転覆事故に始まる“氷沼家の崩壊”の物語。
最初と最後のカーテン開閉のシンメトリーが舞台美術として最大の効果を上げています。 地上の現実を裏返しにして、非現実の眼鏡をかけて透かし見た探偵小説世界という名の禁断の反世界が見事に封じ込められているのです。 そこは、終戦の十年後という時代風俗と、ロマネスクやゴシックの意匠が香る、夢とも幻視ともつかない熱病的な雰囲気に包まれた眩惑のワンダーランド。
“本格推理小説に刻まれた最後の墓碑銘”という賛辞に相応しい、“アンチ・ミステリの金字塔”を打ち建てた名作。 アンチはアンチでも、今日日のおちょくるような愛あるアンチではなくてシリアスアンチでした。
そんじょそこいらにないくらい、どっぷりと探偵小説のセオリーをやり尽くして突き放すという;; 正論で来られたら太刀打ちできません。 本格好きのヤワな心はシュンと傷つき、ごもっともと萎れるしかないのですが、冒頭のヴァレリイの詩が言い得た通り、えも言われぬ哀惜の美酒がこの反世界に手向けられていて、これが“虚無への供物”というタイトルに託された一つの隠喩でもあったでしょう。
でも、どうだろうか。 確かに、人間を実験材料さながら悪戯に弄ぶ無責任な遊民としての探偵役(「延いては読者」)を断罪している一方、リアル世界の不合理に対する一抹の浄化ツールとして、犯人役を労っていたような節もあって。 そこに探偵小説の不滅性が示唆されてもいた? そう読み取ってはいけませんか? 願望も込めて。
奇書というよりは正統派の印象だったなぁ。 実存の文学を書くための手の込んだ手法としての探偵小説様式だったのかも・・とさえ思った。
そのほかにもこの年が特に意味深いのは、たとえば新年早々に二重橋圧死事件、春には第五福竜丸の死の灰、夏は黄変米、秋は台風十五号のさなかを出航した洞爺丸の顛覆といった具合に、新形式の殺人が次から次と案出された年だからでもある。
これ、伏線というか、この小説の中の重要な文章です。
正直、犯人の動機が単なる転嫁行動のようにしか思えず、しかも一見許された印象も残り「叔父殺し」の整合性が咀嚼できなかったんだけど、そもそもこの物語が古典悲劇の様式を踏襲しているようにも思われ、次元の違うところで何か自分には読み解けない啓示が込められていたのかなと無理やり呑み下した感がありました・・最初。
でも時間が経ってきたら、犯人が許されていないことに重きが置かれているんだと感じるようになった。 誰かを犯人にしなければやり切れないほどの現実に蹂躙され、この世の“不条理という虚無”の犠牲となって理由なきまま命を落としていく人々の、御霊供養のための人柱として“理由”を引き受け、茫々たる永劫の時をさすらう巡礼者の役割を贖罪として授けられた犯人(役)もまた、今度は逆に反世界から現実世界へ差し伸べられた“虚無(不条理)への供物”に他ならなず、いや、これこそが最も核心をなす隠喩として書きたかったんじゃないかと・・ そう自分なりに納得しています。
ポーの「赤き死の仮面」や「大鴉」、キャロルの「不思議の国のアリス」、ルルーの「黄色い部屋の謎」、シェイクスピアの「ハムレット」などなど、様々な古典のエッセンスが綺羅星の如くストーリーに浸潤していて、ピンボイントの引用や比喩まで数え上げたら切りがないペダンティズム。 薔薇の色のお告げ、五色不動尊、アイヌの蛇神伝説、古き良きシャンソンの名曲・・ 暗号という暗号がこれでもかと組み込まれた四つの密室殺人の輪舞。 乱歩の「続幻影城」を手引きに、“ノックスの十戒”に則って繰り広げられる推理合戦の楽しさ・・ あぁ、ごめんなさい。 やっぱり・・ 乙女座のM87星雲に旅立ち、無意味な時間の中に自足するひと時の快楽を享受したいわ。 イケナイ読者がやめられそうもありません><。


虚無への供物 上
中井 英夫
講談社 2004-04 (文庫)
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★★
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K町の奇妙なおとなたち / 斉藤洋
昭和30年代、東京のはずれのK町に暮らす少年の目線で辿る日常風景。 身の回りの“奇妙な”大人たちとのエピソードが綴られています。 プロローグとエピローグの追憶に挟まれた本編は、大人になった“わたし”を語り手としながらも、そこに大人的見地を極力介在させないという、不思議なテイストの連作集でした。
学校に上がる前から4年生頃までの時間が流れています。 思春期以前の幼少年期を瑞々しい感性で捉えた児童書・・ですが、大人向け児童書系? そんなカテゴリがあれば、一番しっくりくる気がします。
道路の片側だけの小さな商店街、路地の先の長屋、国鉄の駅を“しょうせん”と呼ぶ名残り、プロパンガスを売る“炭屋”、裸電球の街灯、神社の境内にやってくる“カタ”、戦争の傷痕、その遣る瀬無さ・・ 小さな町の中で、人々が密接な関わり方をしている昔の風情に抱かれて、子供の眼に映る大人の奇妙さ(不文律のようなもの)が、子供の内面で薄ら寒い不気味さと親和する気配を淡々と描く筆力が際立っています。
明らかに(大人の眼から見れば)説明できない怪異と、奇妙だけど(大人の眼から見れば)裏がありそうなことが分け隔てなく渾然一体となって眼前に置かれている・・ そんな子供独特の感受性が自分にもあったのかなぁ。 今となっては、辻褄の合わない出来事を覚えていなかったり、ぼんやりとした像しか結ばなかったりするのは、大人になる過程で知らず知らず改竄し、排除してきたからなのかなぁ。 などとやや詠嘆的に想いめぐらせてしまいました。
ゆっくりと流れていた子供の時間の中では、見えないはずのものさえ、悠然と見えていたのかも・・ 時間が加速するに連れて振り落してしまった隙間の記憶を手探りするようにページを繰らずにはいられない・・ そんな感覚を楽しみました。
会うと必ず十円をくれるまれやまさんのおばちゃんや、副業で祓い屋をしている八百八のおじさんや、全身に刺青のある親戚のこうきちおじさんや、“わたし”の父を“兄貴”と呼ぶサブロウさんや、その父は町の人から“先生”と呼ばれていて・・ 奇妙といえば、少年はいったいどんな家の子なんだ? というのがまさに奇妙の根源^^ 大人的な説明を加えてもらえれば、なんだそういうことかと味気ないほど簡単に納得もするんだろうけど、子供の目線というのは不思議なものだなぁーとしみじみ。
ある章がある章の布石になっていたり、後半になるほど各章が密に絡み合い、やがて解けていく不思議もある。 そんな構成が、少しずつ大人に近づくことを体現していたようにも思えるのでした。


K町の奇妙なおとなたち
斉藤 洋
偕成社 2012-09 (単行本)
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キリオン・スレイの生活と推理 / 都筑道夫
昭和47年刊行の連作短篇ミステリ。 シリーズ三部作の一作目です。 雑誌編集者、翻訳家、評論家と、多彩な功績を残され、推理作家としても数々の名シリーズを世に送り出された都筑さんですが、このシリーズは案外マイナーなのかなー?
東京にやってきて、友人の青山富雄(トニイ)の家に居そうろうを決め込んでいる、ヒッピー風の鬚づらのアメリカ人青年・・ 自称、前衛詩人のキリオン・スレイの怠惰な生活と粘り強い推理。
殆ど何もしないで遊んでるけど、好奇心だけは旺盛で、およそ芸術家らしからぬ論理癖を発揮して、遭遇する事件に首を突っ込みたがっては、置そうろうのトニイを通訳要員で引っ張り回します。 もう一人の常連、四谷署の天野部長刑事からは徐々に一目置かれる存在になり、遂には、“アングラ版シャーロック・ホームズ”との呼び声も?!
いやー地味ですなぁ。 終始“驚き”ではなく“説得”だから。 トリックよりもロジック重視を提唱する著者の面目躍如とも言えるんだろうけども。
「なぜ自殺に見せかけられる犯罪を他殺にしたのか」とか、「なぜ完璧なアリバイを容疑者は否定したのか」とか、 章タイトルが全て設問式になっていて、探偵キリオン・スレイが、各篇毎に論理的解明を与えていくスタイルからは、不可思議な状況の“何故?”に拘り抜いた丹念な姿勢が伝わってくるようです。
半熟日本語がもたらす“外国人であることの面白さ”は時々顔を覗かせてくれるんですが、“詩人であることの面白さ”が残念なことに不足しておりました。 せっかく前衛詩人(笑)なのだし、そこをもっと欲張ってもいいのに・・とか思っちゃうのは、昨今のキャラ重視路線に自分がすっかり毒されてるからかしら;;
冒頭で、手擦れてくたくたになった女子大生のバッグを“リズムが脱皮したコンガの抜けがら”なんて評してたのが振っていて、作中の彼女もわたしもクラッときたんだけど、それっきり鳴かず飛ばず^^;
サイケデリックで淫猥でアンニュイで・・それでいてインテリジェンスな70年代頃の空気が芳しかった一篇目と、百物語趣向のラストのオチが気が利いていた最終篇あたり、印象に残ってます。


キリオン・スレイの生活と推理
都筑 道夫
角川書店 1996-10 (文庫)
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居酒屋ゆうれい / 山本昌代
横浜下町のうらぶれた界隈。 寸止まりの路地の奥で、ひっそりと商売をしている居酒屋が舞台です。 昼間も薄暗い二階の座敷で病に臥せりながら、自分亡き後、亭主が後添えをもらうのではないかと気を揉む妻に、再婚なんてするものかと安請け合いをしてしまう亭主。 ならばならば約束を反故にしたらば化けて出ようぞと、今際の際に言い残す妻。
まるでこれって古典落語の「三年目」に擬えたかのような導入部。 円生が好んで高座にかけたという元ネタの筋立てには、なんとも女心の色香を感じさせる下げが用意されているのですが、さて、こちらはというと・・
明確な記述はないんだけど、そこはかとなく昭和を感じさせる背景が美味。 40年代頃かなぁ。 蒸し暑い空気を無駄に掻き回すくたびれた扇風機とか、カチっと灯りを切って真っ暗になった座敷に響く柱時計の音とか、縄のれんを頭で分けて顔をつき出す常連客とか・・ 侘しい遣る瀬無さが確実に底を流れているんだけど、カラッと淡泊な(どこか痛々しいくらいの)陽気さに貫かれた物語なんです。
で、案の定、亭主はちゃっかり新しい女房をもらい、新婚夫婦そろって幽霊騒ぎに見舞われることに^^; 最初はアワアワ仰天するものの、幽霊が全身から普通感(?)を漂わせているので、間もなく“怖い”が抜け落ちてしまい、水入らずを邪魔されて憤懣やる方ないという方向へ夫婦の感情は流れていくのですが、その感情さえも、突っかかってはいなされながら、徐々に振り幅はゆらゆらと頼りなくなっていく・・
この前妻の幽霊、亭主への未練とは名ばかりで、実は情や念の欠片も持ち合わせないまま、ただ何となく、ふらっと居座っている感じなんです。 よくよく考えるといっそ不気味なのであるが。 (新妻なんか早々に懐いちゃうし;;)
この顛末が飄々としっぽりと、とぼけた可笑しみを醸し出しながら描かれていてめっぽう楽しい。 喧嘩腰にぽんぽんと文句を並べ合ううちに話の焦点が微妙にズレていくという、江戸っ子の直系みたいな夫婦の掛け合いや、釈然としないまま蚊帳の外にされていく亭主が、名誉(?)奪還のために画策する浅知恵の空回りっぷりや・・ 噺家さんに朗読してもらいたいっ!
でもね。やっぱりこれはトワイライトゾーンものとして読みたい。わたしは。 笑いに取り紛れて見過ごすうちに、少しずつ流れ流され、とろんと虚ろになっていく感じ。 心の敏捷な反応が蝕まれていくような怖さが物語の裏側に貼りついている。 静かな狂気の白眉だと思いました。 山本昌代さん、恐るべし。


居酒屋ゆうれい
山本 昌代
河出書房新社 1994-10 (文庫)
山本昌代さんの作品いろいろ
★★★★
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黒と白の猫 / 小沼丹
昭和39年から昭和56年まで17年にわたって、小沼丹がライフワークのように書き残した“大寺さんもの”と呼ばれる短篇群があります。 小沼文学の至宝とも白眉とも謳われながら、収録媒体がバラバラであった全12作を連作短篇集として一冊に集成したのが本書。
時を往還しながら身辺雑記風に点描されていく大寺さんの半生。 束の間人生を交差させたり、共に歳を重ねた人々や動植物への静かな追懐。 主人公に自己を投影させた半自伝的な位置づけにある物語のようですが、大寺さんと著者の間に全くべとついたものが介在することなく、淡々と悠然と訥々と綴られていく言葉には、だからこその深い陰影と、透徹した観察眼を経た極上のユーモアが漂います。
昔の漢が空気のように身に纏っていた風格と愛嬌を無造作に放出させているかのような大寺さん。 そのエモーショナルなリアクションに擽られまくりでした。わたし。
川は日夜流れるが如く、移ろいやすい人の世への慈愛に満ちた思索風景を追体験するうちに、読む者の心は潤い、弱った魂が一篇ずつ安らぎと精気を取り戻すような・・ そんな感慨に包まれます。 読み終えてしまうことが寂しくて堪らなかった。


黒と白の猫
小沼 丹
未知谷 2005-09 (単行本)
小沼丹さんの作品いろいろ
★★★
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箱男 / 安部公房
むずかしい・・ 理屈で読み進めることは到底出来ず、かといって、感覚で捉えようにも、わたしのキャパを遥かに超えてます。それなのに、転がるようなストーリーの尻尾を追って、ミステリアスな罠の中へ落ちていく快感。 ちょっと外国のスリップストリーム小説っぽい。ダンディで洒落てる。写真に添えられた言葉などは、詩のように美しい。 海のある地方都市。彩度の低い風景の静かで硬い呼吸音。
読み終えてみると、表と裏が地続きに繋がっていた気がしました。メビウスの輪の中に迷い込んでしまっていたんだな・・って、わたしなりの着地点。“外の世界を覗いている本物の箱男”の手記で始ったはずなのに、どんな立ち位置の、誰が、何処に向かって記している物語なのか、目まぐるしく混乱を来たしてゆきます。 する行為とされる行為、本物と贋物、外の世界と内の世界・・ 視点の違いでいとも容易く反転する不確かさ。 錯綜が錯綜を呼び、能動と受動、絶対と相対、主観と客観の狭間のトワイライトゾーンを彷徨う放浪者であり続けるばかりのわたし。
真実は無数に存在し、人は意識的、無意識的に、感じたいもの、信じたいものだけを取捨選択して生きているに過ぎなくて・・ 困ったことに、味わったばかりの眩暈や不如意を求めて、またおずおずと手を伸ばしたくなってくるのです。

<付記>
某コミュニティのコメントを拝見していて、自分のもやもやの正体を的確に言い表してくださっている方がおられました。どうして気づけないんだろう・・;; 的外れな感想を丸ごと削除したくなったけど、戒めとして敢えてこのままで。


箱男
安部 公房
新潮社 1982-10 (文庫)
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★★
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せどり男爵数奇譚 / 梶山季之
せどりの名人であることから“せどり男爵”の異名を持つ初老の紳士が、古書業界という魔境を華麗に泳ぎ回りながら遭遇してきた古書にまつわる数々の奇譚や秘話が集められています。せどり男爵が、とある文士に語って聞かせるという体裁で綴られていく連作短篇集。 生き馬の目を抜く海千山千の業界に巣食う魔に憑かれた人々の狂気と紙一重の情熱が蠢いていて、そこにはふと哀愁が見え隠れし・・ 異境を満喫して参りました〜。
“せどり”というのは、ある店で安く買った古本を別の店で高く売って利ざやを稼ぐことを生業とした人種を差す古本業界の用語・・というのは何となく知っていましたが、お金儲けと、掘り出し物を見つける醍醐味との相乗効果から、一度ハマったら抜けられない、ロマンを掻き立てられずにはいられない稼業なのだろうなぁ〜というのが、読んでいてジンジン伝わってきます。
金の卵となる端本をクズ屋の立場で発掘した時の快感や、竈の焚きつけや便所の目張りにされている光悦本を痛恨の想いで眺めたり、蔵書票に託された謎解き、シェークスピアの初版本をめぐってユダヤの豪商と渡り合ったり、本に対する偏執的な愛着を持ったビブリオクレプトマニアによる書物破壊や書盗に絡んだ事件、圧巻は装丁の虜となった男の妄執・・ せどり男爵の武勇伝のような調子で始ったのが、段々と常軌を逸した愛書家、蒐集狂たちの奏でる狂想曲さながら、ホラー色を強めていく展開にも惹き込まれ、ゾクゾクさせられます。
1970年代の作品なのですね。勿論、古書を取り巻く現状は、当時から鑑みて大きく変化しているんだと思うんですけど、本好きにとっては、本書こそまさに、古くなってなお価値を増していくお宝本かもしれません。 梶山さんは社会派のルポなどもお書きになっていた方らしいのですが(無知;;)、世の中を見据えようとする冴えてクールな眼差しというか、ジャーナリスト的感性が作品の中にも顕れているような印象です。そしてそれは、決して古さを感じさせません。


せどり男爵数奇譚
梶山 季之
筑摩書房 2000-06 (文庫)
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★★★
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