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一人称小説とは何か / 廣野由美子
[副題:異界の「私」の物語] 著者の文学論評に嵌りつつある今日この頃です。 一人称小説というと、物語レベルを離れてついディスコース分析的な方向へ興味が走りがちで、タイトルから真っ先に連想したのも“語り手の信頼度”についての問題でした。 しかし、もっと土台に立ち返ってアプローチがなされていたというべきでしょうか。 語り手の制限された認識のみを通して伝えられる情報の特殊性というのは、それはその通りなのだけど、語り手を信頼できるかできないか以前に、そもそも読者ではない“他者”の主観によって築かれた物語なのであり、多かれ少なかれ例外なく読者の経験では得られないものの見方を開示しているという事実。 思えば当たり前のことを忘れかけていた気がします。
“他人を生きる”という機能を備えた一人称形式において、“異化作用”が際立った特色を発揮し得ることへの着目と関心が本書の構想の出発点となったようです。 “異化”とは、普段見慣れたものを“見慣れないもの”として表現することによって認識に揺さぶりをかけ、ものの本質に触れさせようとする芸術の技法のこと。 “異化作用”がどのように人間の実相を露わにし、鈍磨した生の感覚を回復させるか、あるいは小説の可能性をいかに押し拡げるか、主として十八から十九世紀イギリスの一人称小説を題材に検証が試みられています。
まず第一章で、機能や構造の観点から生成期の代表的な一人称小説を見渡しつつその特性を確認し、第二章から第六章で、語り手の設定方法(“私”の属性)の意匠によって鮮やかな異化作用が生じている注目すべき作品を例に、その効果を各々詳細に分析していくというスタイル。
第一章で扱われているのは、回想形式の「ロビンソン・クルーソー」(1719)→書簡体・日記体形式の「パミラ」(1740)→脱線に次ぐ脱線の「トリストラム・シャンディ」(1760-1767)→重層形式の「嵐が丘」(1847)→リレー形式の「月長石」(1868)で、それら機能や構造を念頭に置きつつ、第二章から第六章では、具体的に優れた異化作用を具えた作品を、やはり年代順に「ガリヴァー旅行記」(1726)→「この世からあの世への旅」(1743)→「フランケンシュタイン」(1818)→「引き上げられたヴェール」(1859)→「ブラック・ビューティ」(1877)と、作品同士の影響なども考慮に入れながら俎上に載せています。
他者の極端な視点を共有することで得られる新奇なる疑似体験の物語の数々。 不思議の国の旅人、死者、怪物、超能力者、動物・・ 彼ら“異界の語り手たち”は、極端に人間社会から疎外された、あるいは自らの変容の結果、社会から逸脱した者たちであり、どんなに荒唐無稽に思えても常に現実認識と結びついていて、なにかしら社会やそこに生きる人間の鏡なのだということがつくづくと感じられる。 一望すると(広義の)SFの系譜っぽいイメージが湧いてくるのだよね。 “認識を異化する文学”のフロントランナーであるSFが、諷刺や警告と親和性の高い所以に納得がいき、ストンと腑に落ちた心地。
その他、時代や地域を越えた種々関連作品のコラムが章ごとに挟まれ、なんとまぁ密度の濃かったことか。 特に第二章から第六章のメインの五篇については、読了したんじゃないかくらいの充実気分を味わっちゃってるんだけど・・いかんいかん
フィールディングに興味津々です 二世紀のギリシアの諷刺作家ルキアノスを愛し、その著作に影響を受けて書いたといわれる喜劇精神に富んだ怪作「この世からあの世への旅」も読んでみたいし、サミュエル・リチャードソンの「パミラ」を当てこすって書いたというパロディ作「シャミラ」と「ジョウゼフ・アンドルーズ」も気になります。
「フランケンシュタイン」に込められた、ルソーの教育論への賛意と異議を探る読み方が興味深かったのと、ジョージ・エリオットの異色短篇「引き上げられたヴェール」の、暗い文学性の深みに沈んでもみたい。 それとやはり、スウィフトが心に刺さりました。 あなたの苛烈なまでの人間嫌いにとことん付き合ってみたいわたしがいます。 「ロビンソン・クルーソー」のパロディだったらしい「ガリヴァー旅行記」ですが、人格破綻のプロセスが描かれていたなんて。 衝撃的すぎて震えた。 お恥ずかしながら小人の国の冒険譚(ハッピーエンドの童話)しか知らなかったです...


一人称小説とは何か
 −異界の「私」の物語−

廣野 由美子
ミネルヴァ書房 2011-08 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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モダンガールのスヽメ / 浅井カヨ
モダンガールの時代である大正末期から昭和初期の風俗文化に憧れ、その情報収集と発信をライフワークにしておられる著者は、現存している実物や資料を紐解き、当時を徹底的に追体験する暮らしを実践していることで、とりわけマニアの間で知られた御仁のようです 今は廃れて顧みられなくなった未知の道具や品々、装い、習慣などに直に触れることで得られる新鮮な体験を喜びとしていることが伝わってきて、その時代に生まれたかった、或いは戻りたいのではなく、ずっと追い求め続けていたいというアクティブなスタンスが印象に残りました。
同好の初心者への実践ノウハウを交えながら、モダンガールの生態を中心に、大正末期から昭和初期という時代のライフスタイルを紹介していく本書。 知識だけでは感得できない実践者ならではのきめ細かな目線は著者の強みと言えますし、なんかインディーズ感があって良かったな 旧字体とレトロなフォントの使用や、それこそ当時の女性たちを啓蒙するために書かれたような指南風(?)の上品な文章とか、この本そのものが時代感覚を意識している作りになっているっぽいのが面白い。
婦人雑誌に掲載された写真やイラスト、雑誌付録の美容やファッションや作法を特集したハウツー冊子の記事、レコード会社月報の表紙、映画ポスターなどなど、当時を知る貴重な図版資料が豊富に収められている点は特筆に値します。 しかも非常に細かい字でありながら全て潰れてないのが嬉しい
“モダンガール”という言葉の名付け親は文筆家の北澤秀一氏。 大正十二年の新聞コラム『帯英雑記』の中に初めて登場するとされています。 ただし都会で急増する新種の若い日本人女性像を指す言葉として定着し、流行語になるのは関東大震災後・・という話は「モダンガール大図鑑」で読んだかな? 微かに記憶にあるのだけれど、昭和六〜十年頃の出版物には“すでに古い(流行の最先端ではない)”とか、“モダンの先はシーク(シック)だ”なんていう記述が見受けられることなど紹介されていて、へぇーと思った。 華美や享楽や退廃を嫌う軍国主義の台頭と無縁でないのは当然としても、モダンは行き過ぎていて品位を傷つけるから戒めようとする根強い風潮があって、常に流行の裏側に張り付いていたその勢力が誘導的に仕掛けてるのかと勘ぐってしまったり。 或いは、西欧風のお洒落が当たり前になってきて、突飛な物珍しさを表す旗印のような特別な言葉が必要なくなっていったのか・・どうなんだろう。
ちなみに著者は昭和十年代を“モダンガール以後”と捉えていて、そしてこの昭和十年前後の装いを洗練のピークと見ておられます。 モダンガールに言及している批評記事をはじめ、流行語辞典や家庭百科事典の抜粋などから垣間見える活気が新鮮でした。 流行り言葉の“もちゼロ”は“勿論ダメ”の意。 モダン・マダムは“モマ”とか、モダンを動詞化した“モダる”とか、強欲な男性を“ぜにとるマン”(ジェントルマンのもじり)と揶揄ったり、モダンガールを“もう旦那がアール”なんて無理くり揶揄ったり^^; 「モダンガール大図鑑」に出てきた“ステッキ・ガール”(スガ)も『モダン百科事典』に載っている言葉なのだね。 当時の国語辞典にモダンガールは、“現代風の軽佻・浮薄な女子”と載っているらしい。
断髪といえばボブ、必須アイテムのクローシュの帽子、ヘリオトロープの香水、金具に練り香水を含ませた“香り絵日傘”、ヘアケアの必需品“大島椿”、髪にウェーブをつくる“モダンウエーブ器”、“キルク”を燃やして作る眉墨、モダンガールたちが聴いたであろうバートン・クレーンや藤原義江や“東京行進曲”、アイスクリーム製造器“ボントン”・・ そして、モダンガールが使ったかどうかは定かでないけれど、今はもう見かけることがない珍道具やそのパッケージや広告のあれこれが醸し出す気配、クラフト・エヴィング商會さんに熱い視線を注がれそうな(笑)それら図版の佇まいに心を攫われてしまいました。
昭和初期に建造されたアパートに住み、装いから暮らしまでモダンガールの時代に限りなく寄り添う生活を送っている著者は、その道の伴侶たる運命のモボさんと出会い、結婚が決まり、現在、昭和初期風の和洋折衷住宅を建てる計画を前進させているそうです。 お幸せに


モダンガールのスヽメ
浅井 カヨ
原書房 2016-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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少女たちの19世紀 / 脇明子
[副題:人魚姫からアリスまで] 19世紀児童文学の愉しみを伝える読書案内と文学史概説を兼ねたような趣向のエッセイなのですが、ヨーロッパが大きく変わり始めた時代に登場した新しい少女たちの群像に光を当て、“少女の文化史”という観点で検証を試みているのが特徴的。
具体的には、第一章でアンデルセンの「人魚姫」の主人公とゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」に登場するミニヨンとの類似性について考察がなされ、第二章で「人魚姫」から遡った水の精の伝承と、フーケ、ホフマン、グリムなどドイツ・ロマン派の足跡が辿られ、第三章でドイツ・ロマン派エッセンスに伝統的民話モチーフを融合させた作風でイギリスの妖精物語ブームを牽引し、のちのC・S・ルイスやトールキンに大きな遺産を残したジョージ・マクドナルドが紹介され、第四章でマクドナルドと親交のあったルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」誕生の経緯が紐解かれ・・といった感じです。
寄り道や補足を兼ねた連関的な話材も合間合間に挟まれ適宜カバーされているので、児童文学が確立された19世紀周辺の背景をいろいろ窺い知ることができましたが、大筋の流れはアンデルセンがゲーテやドイツ・ロマン派から影響を受け、ドイツ・ロマン派とアンデルセンからマクドナルドが影響を受け、そのマクドナルドとキャロルが影響を与え合い・・的なイメージかな。
“王子は恋の対象であると同時に成りたい自分の理想像だった”とする「人魚姫」の解釈がなによりエキサイティングだったなぁ。 人間(=man=男性)の数には入っていない女性はどうしたら人間になれるのか、自分の魂が求めて止まないものを本当に手に入れるにはどうすればいいのか・・ 海の中から地上への憧れを募らせる人魚姫の姿には、女性世界の単調で窮屈な暮らしに安住できず、男性だけに許されていた行動と精神の自由を求めあぐむ新時代の少女の心理が重ね合わされいるという指摘。 “人間になりたい”や“魂を得たい”はそういうことか!と目からウロコが落ちました。 でもそれって裏を返せば、苦しみを抱えた寡黙な少女が、感受性の強い男性作家の新しいアニマ像となって生まれてきたことの証左なのだと。 思わず唸ってしまった。 旧来の価値観におさまる古典的な女性の姿が男性にとって魅力的には思えなくなり始めたとも言えるわけなのだよね。 フェミニズムの出発点の一端が奈辺にあるか考えさせられるものがありました。 既存の価値観では立ち行かなくなった時代、手つかずだった女性や子どものポテンシャルに新しい可能性を探り始めた男性たちがいて、彼らが児童文学の開花に果たした役割の大きさが総論として示唆されています。
「オデュッセイア」のセイレーンやハイネの詩のローレライのような男性を惑わし命を奪う魔物型と、その伝統的モチーフをことごとく裏返して描いてみせたアンデルセンの「人魚姫」とのあいだに位置付けられるのがフーケの「水妖記(ウンディーネ)」で、三者の比較が興味深かったのと、手書き本「アリスの地下の冒険」に添えたキャロル直筆の挿絵のアリスが、アリス・リデルではなくマクドナルドの娘アイリーンをモデルに描かれていたあたりの事情など、特にそそられました。
そして著者イチオシ(?)のジョージ・マクドナルド。 綺羅星のような作家たちに賞賛されながら、一般の認知度は低めという玄人好みな作家さんっぽいのです。 何を隠そう「リリス」が積読本棚に眠っているので起こさなければ!


少女たちの19世紀
 −人魚姫からアリスまで−

脇 明子
岩波書店 2013-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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アール・デコの挿絵本 / 鹿島茂
アール・デコの挿絵本
− ブックデザインの誕生 −

鹿島 茂
東京美術 2015-05
(単行本)


1920年代前後に登場したアール・デコの豪華挿絵本は、モード・ジャーナリスム隆盛を背景に、優れたイラストレーターや版画職人、裕福な購買層に支えられ、手間暇かけて少部数出版されたため、今日では稀覯本としてコレクター垂涎の的となっている。
本書は、イラスト、活字組版、複製技術、アート・ディレクションが一体となって生まれる総合芸術の魅力を、さながら実際にページを繰るがごとく、表紙から奥付まで、造本上の部位毎に項目をたて、役割や特色を、名作から厳選した実例を添えて解説。また、バルビエ、マルティ、マルタン、ルパップの挿絵本の中から、その世界観をじっくり味わえる傑作をテーマ別に多数紹介。
[副題:ブックデザインの誕生] “鹿島茂コレクション展”で展覧会という方法では紹介し切れなかった、こと“挿絵本”にスポットを当て、あたかもアール・デコの挿絵本を手にする感覚を楽しめるよう構成するというコンセプトのもと、至極丁寧に吟味され、つくり込まれた本です。 すべて鹿島さん所蔵の品々みたいです。 凄い。
以前、小村雪岱の装幀本に魅了されましたが(そういえばあちらも“ToBi selection”でした)、同じ時代の空気を感じます。 そしてパリの美風を。 存在価値がまるで電子書籍の対極にあるみたい。
パリ高級社交界の貴婦人たちのエレガンス、美を直撃するエロティシズム、バレエの演目から触発されたオリエンタリズム・・ さまざまなテーマ別のオール・テクスト(文字を含まない1ページ大の挿絵)と、ヴィニェット・イン・テクストの妙技を紹介するセクションがそれぞれに充実していて圧巻。 本書の華でした。
表紙は意外にも地味なものが多いというのが印象的。 なぜかというと当時はまだ、購入者が独自に装丁を施す“仮綴本”の文化が続いていて、本格装丁時に仮の表紙を外してしまうことがほとんどだったかららしい。
逆に本格装丁で絶対に取り外せない扉(タイトルページ)は、文字情報と組み合わせた凝ったつくりになっていて、デザイナーが情熱を傾ける部位だったそうです。
ちなみに表紙カバーは、ジョルジュ・バルビエ「ギルランド・デ・モワ(月々の花飾り)」第5年(1921)年 より。

以下、備忘録です
【フロンティスビス】
扉と差し向かいのページに描かれたフルサイズの口絵で、物語全体を要約する象徴的なイラストが配される。
このページをしっかり眺めるだけで物語の内容がわかるのがベストとされる伝統的な技法。
【ヴィニェット】
狭義では、写本や古い活字本のブドウ蔓総称文様のこと。
広義では、活字に組み込んだすべてのイラスト。
【ヴィニェット・イン・テクスト】
ヴィニェットの中で、特にテクスト部分と組み合わせるイラスト。
活字時代には、このレイアウトに大変な手間を要し、挿絵本の極致はこの技術にあると言っていい。
【カルトゥーシュ】
印刷においては、本来タイトル回りを飾る囲み枠を指す。 アール・デコの挿絵本では、このモチーフが巧みに用いられた。
【ポショワール】
板目木版とともにアール・デコの挿絵本を支えた伝説の製版技法。 古くから主に壁紙に用いられてきたが、壁紙職人だったジャン・ソデによって現代的な複製技法に転換され、複雑で微妙な色彩の再現に成功。 魔術的技法といわれた。 今日なお、秘法が解明されていない。
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『罪と罰』を読まない / 岸本佐知子×三浦しをん×吉田篤弘×吉田浩美
『罪と罰』を読まない
岸本 佐知子×三浦 しをん×吉田 篤弘×吉田 浩美
文藝春秋 2015-12
(単行本)


ドストエフスキーの名作「罪と罰」を読まずに語り倒してしまおうという、大胆不敵とも云うべき読書会への誘い。 とある宴席の片隅で膝を突き合わせ、嬉々として語らう四人が目に浮かぶようでニマニマしてしまいます。 まぁしかし時間の無駄、ナンセンス、役に立たないという贅沢さを究めた知的遊戯であると同時に、読んだだけで満足し、良しとするようなある種の権威主義に一石を投じる、なかなかにパンチの効いた企画とも捉えることができそう。
名作ゆえに“読んだことはないけれどなんとなく知ってる”各々の情報を寄せ集めて、そこから話の筋や作者の意図や登場人物の思いを探り当て、「罪と罰」がどんな物語なのか推理していくというのが基本スタイル。 “読んだことはあるけれどよく覚えていない”側の自分にも充分に参戦の余地があることを恥じ入ればいいのか喜べばいいのか;;
岸本佐知子さんと吉田浩美さんのフライング情報や、既読編集者の立会人干渉があるので、実はそこそこナビゲートされちゃってるし、自由奔放というほどではない・・というかそれは流石に憚られるのか。 でもやり過ぎたらやり過ぎたで逆に白々しくなってしまっていたかもしれないし難しいところだなぁ。 ひょっとすると企画そのものが創作なのか? と捻くれた小説読みの性でついつい勘繰ってしまう部分もクラフト・エヴィング絡みなだけに(笑)なきにしもあらずだったものの、ぐいぐい牽引する三浦さんの妄想力の逞しさ、岸本さんの茶々入れ、浩美さんの軌道修正、篤弘さんの気づきを促す示唆など、それとなく絶妙にチームワークが発揮されていて、本気の遊び心が実に生き生きと伝わってきました。
終章はちゃんと答え合わせというか、締め括りの読後座談会が設けられています。 投げ技のかけ逃げではありませんのでご安心を。 斬新かつマニアックな切り口で「罪と罰」を紐解くこの辺りの見事なお手並みも、しかしセンスある書評と言ってしまえばそれまでなのですが、ここまで熱烈に引き込まれるのは未読座談会が利いているからに他ならないのです。
捨てキャラについて延々と論じていたことが発覚したり、想像の遥か上をいくキャラのぶっ飛びぶりに大興奮したり。 個人的にツボだったのはSMとの親和性の指摘。 「バーデンバーデンの夏」を読んだばかりの身としては、その鋭さにハッとさせられるものがありました。 また、みなさんが異口同音スヴィドリガイロフで盛り上がってるというのに、スヴィドリガイロフの存在なんか記憶すらない自分の残念さに身悶えしたり。 ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフが表裏を成すように暗示されているのが「罪と罰」の醍醐味らしいではないですか(泣)
お世辞ではなく本心から読み返したくてムズムズとワクワクの高揚感が止まりません。 読んだら終わりというわけではないのと同じように、読まないうちから始まっている・・ そんな読書の在り方、小説との付き合い方の提言に、なにかこの上なくシンパシーを感じてしまいました。 本書の試みが、物語に触れることの根源的な喜びを意識する契機になってくれたことに間違いはありません。
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翻訳できない世界のことば / エラ・フランシス・サンダース 文/絵
翻訳できない世界のことば
エラ フランシス サンダース
創元社 2016-04
(単行本)


[前田まゆみ 訳] 世界の様々な言語から、英語に直訳することのできない単語(名詞、動詞、形容詞)が集められている。 こんな本、初めて。 世界中の誰もがきっと共有できる感動なのに、まだあまり光を当てられていなかった素材ではなかろうか?
メジャーな言語から、絶滅の危機にある言語まで、感情や行為や状況や程度などを表す固有の単語が52種チョイスされていて、それぞれの言語圏(国や民族)ならではの単語が生まれたバックボーンを垣間見ることができるし、その微妙なニュアンスには奥行きと広がりがあり、どことなく、とっても詩的な趣きがある。
あるあるだなぁと思ったのがハワイ語の“AKIHI”という名詞。 “だれかに道を教えてもらい、歩き始めたとたん、教わったばかりの方向を忘れてしまうこと”なんだって。 広い解釈で使われてそうだけど、そんな様子を言い表すワードが存在してるなんて、おおらかな人々なのかなぁ。
あと同じく、めっちゃ身につまされると思ったのがイディッシュ語の“TREPVERTER”という名詞。 “あとになって思いうかんだ当意即妙な言葉の返し方”なのだとか。 わたしのために日本語も作って欲しい・・
逆に不思議な気持ちを抱いたのが、ワギマン語の“MURR-MA”という動詞。 “足だけを使って水の中で何かを探す”の意だそうで、触れられる探し物だけではなく触れられない観念的な探し物にも使えるみたいなので、比喩的な表現なのだろうけど、どんな文化や生活スタイルを培ってきたんだろう・・と、遠い国の人々(オーストラリア先住民)の暮らしに想いを馳せたくなった。
あと、ある単位を表すその土地独自の言い回しも興味深くて、例えばフィンランド語の“PORONKUSEMA”という名詞は、“休憩なしで疲れず移動できる距離”を表し、実際には約7.5kmほどの意味合いで使われているのだけど、これはトナカイ基準で生まれた言葉らしい。
あまり喋りすぎても興醒めなのでこれくらいにしようと思うけどもう一つだけ。 日本語から四語もピックアップしてくれてて、ちょっと嬉しくなった。 その中の一語はなんと“積ん読”。 となると、他の国の単語にも“積ん読”風の造語が混ざってるのかもね。 流石に言葉遊びまでは伝わらないだろうけど、言い得て妙感はきっと異国の人々に共有してもらえるはず(笑)
たとえ一対一で直訳でき得る単語でさえも、付随する意味のズレが双方の単語の狭間で細波のように揺らめいているもの。 言葉の境界を越えるという行為は、実はなんてエキセントリックで繊細な体験なんだろうと改めて思う。
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グリム童話より怖い マザーグースって残酷 / 藤野紀男
グリム童話より怖い マザーグースって残酷
藤野 紀男
二見書房 1999-05
(文庫)


残酷童話ブームの継承本で、マザーグースの特色としてしばしば言及される“残酷さ”にスポットを当て、その一面的な闇の世界を案内する知的エッセイ。 興味を持てる刺激的なところをさらっと掬った入門編という趣き。 自分はビギナーなので得るものが多かったですが、もっと幅広く収められていたり、もっと奥深く考察されている本への、更なるステップアップのための足掛かりに適してるかなと思います。 マザーグース関連の原書から味のあるイラストが数多く採られているのが嬉しい。
聖書、シェークスピアと並んで引用の宝庫といわれるマザーグース。 “唄”は生きた伝達手段であり、その担い手の主体が子供であったため、体裁よく整えようとする大人の手を免れ、童話以上に豊かな残酷性や支離滅裂さを残したまま伝承されたという経緯があったようです。
民俗的な風土を培う伝説や史実の水脈が、他愛なげな唄の底に静かに流れ、人の本性や社会の実相を痛切に射抜いていたりするからドキッとします。 詩独特の短いセンテンスが持つストレートな力強さや単純さ、意味を超越しどこまでもナンセンスにシュールに謎めく抽象性は、改めて接してみてやはり魅惑的でした。
何度も壊れ何度も架け替えられた歴史の裏に密かに囁かれてきた人柱伝説が「ロンドン橋落ちた」には暗示的に唄い込まれているとする解釈(これは割と有名?)や、「リング・リング・ローゼィーズ」にはペストの惨状が織り込まれているとする根強い風説や・・ いかようにも人の心を捉えてしまう稀有なイメージの源泉でもあるのだよねぇ。
可愛らしさから一転するラストの唐突さにゾワッとさせられる「オレンジとレモン」はお気に入りなのだけど、見せ物として公開されていた斬首刑の、その執行の合図が鐘の音であり、借金を返せないほどの罪で死刑にされかねなかった時代の不条理感が滲んでいるのかもしれないと、想像を掻き立てられてしまいます。
そうは言っても、中には忘れ去りたいに違いない奇習、蛮習の類いをあっけらかんと披露しちゃってる唄なんかもあるわけで、後々になって大人が意図的に詩句を変えようとしたであろうヴァージョンが混在してるのも宜なるかな。
二十世紀初めごろまで黙認するかたちで継続されていたという“妻売り”に言及する唄の詩句が、“妻を買いに”から“妻を貰いに”にトーンダウンしてたり、犬の動物裁判に言及する唄の詩句が、“絞首刑”から“鞭打ち刑”に減刑されてたり^^
“私”目線が不気味で印象深い「おかあさんが私を殺した」は、グリムの「ねずの木の話」をはじめ、イギリスの民話にも類型的モチーフ(私を母親が殺し、父親が食べ、兄弟姉妹が骨を拾ったり埋めたりする話型)が散見されるらしく、似た詩句が徐々にまとまって独立し、マザーグースに加えられたと考えられているそうです。 「フェヒ ホ フン」も「ジャックと豆の木」や「巨人退治のジャック」に出てくる類型フレーズを抽出したイギリス民話出身の食人モチーフの唄。
曜日唄の「イズリントンのトムさん」は、妻を亡くして悲しむバージョンと、妻を亡くして喜ぶバージョンと、妻を殺して喜ぶバージョンと、いろんなバリエーションがあって面白いのだけど、最後には絞首刑にされてしまう続編(後日談?)のような更なる曜日唄があるのも面白い。
宴席での余興(切ったパイの中から小鳥が飛び出すというパフォーマンス)のために、その昔、生きた小鳥を封じ込めたパイが作られていたらしきことが想像される「六ペンスの唄」は、パイが出てくる唄の中でもっとも親しまれているという。 実在するレシピとか眉唾なんだけど本当なのかなぁ? 得てして焼き上げてからこっそり入れてたとみたよ 笑;; ちがう?
スコットランド民話の「小鳥の話」には、母親が小さな娘を殺し、パイの中に入れて焼き、父親に食べさせる場面があるらしく、スウィーニー・トッド伝説にも連なるパイの中に焼き込む系の話型の一種であると同時に「おかあさんが私を殺した」型のヴァリエーションっぽくもあるね。
天上の清らかさではなくて地上の穢れをサバサバと唄っている凄みがあって、その明け透けな無邪気さが怖い「骨と皮ばかりの女がいた」や、自分の死体の整理整頓もできないのかとバラバラ死体にダメ出ししてる扱いぶりが妙に笑ってしまう「だらしない男がいた」や、実際の事件との絡みではリジー・ボーデンやガイ・フォークス・デーの唄などもざっくばらんに紐解かれています。
人気ベストテンの常連らしい「ジャックとジル」は、石切り場の丘で逢い引きしていた若い恋人たちを見舞った十五世紀の悲劇伝説を下敷きにしているという言い伝えがあるそうです。
ミステリーやサスペンスやホラー作品との相性の良さがクローズアップされており、マザーグースを用いた様々な作品が紹介されている中に、P・L・ハートリーの「遠い国からの訪問者」(私が読んだのは「豪州からの客」)を見つけて小躍り。 「木の実拾い」の遊戯唄(日本の“花いちもんめ”に近い遊び唄)が、異様な恐怖を喚起する佳篇で大好きな作品なのだけど、仕組まれたマザーグース効果の全てを味わい尽くせてなかった気がしてきて、今、再読したくて堪りません。
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謎解き「嵐が丘」 / 廣野由美子
謎解き「嵐が丘」
廣野 由美子
松籟社 2015-12
(単行本)
★★★★

今更ですが「嵐が丘」ってこういう話だったんだ・・と^^; どこに焦点を当てたらいいのか、漠とした魅力にどう向き合っていいのかわからず、なんと薄っぺらな読みしかしていなかったことか。 「嵐が丘」が秘める謎の数々に様々な角度から光を当て、本質に迫る謎解きが試みられています。 先行文献を紐解きつつ、オリジナルな切り口から新しい読みの可能性を提示した学術研究の書。 はじめに批評史の概略が紹介されているのですが、その夥さと統一性のなさこそが「嵐が丘」の本質をなにより物語っているのだということが読み終えてみて納得できました。
伏線、省略、隠喩、暗示・・ 不可解な描写にも手掛かり(らしきもの)が無数にあり、また、第一世代と第二世代の物語は人物とその関係性、時間、プロセス、状況、出来事、性質に至るまで、あらゆる面でとことんコントラストとシンメトリーを追求して構成されており、その緻密さに度肝を抜かれます。 テクストを検証していく丹念な作業へと読者を駆り立てて止まない、こんなにまでの誘引力を内在させた物語だったのかと。 その認識にすら辿り着けていなかったです。 未解決のまま収束していないキャサリン一世とヒースクリフの第一世代物語が、キャサリン二世とヘアトンの第二世代物語の最中もその奥でずっと静かに継続していたんですね。 第二世代物語をヒースクリフが演出した第一世代の歪な再現劇であると位置づけた解釈には目からウロコが。 弱さの報いとしての罰、そこからの解放と再生を、道徳や聖書の範疇では捉えられない、むしろ裏返しの禁断の思想で描いた作品として心に焼きつきました。
ヒースクリフはキャサリン一世のドッペルゲンガーであるとするテーマを神学的な解釈と重ね合わせてみると非常に興味深くて。 神学的には“一人の人間(ヒースクリフ)の絶対者(神)になろうとした許されざる者(キャサリン一世)の物語”という神への冒涜、つまり楽園からの追放というミルトン的テーマの系譜と読み解けるのだけど、そう考えると、この由緒正しいキリスト教観を踏襲し是認せず、反転させてしまうことになるのだよね。 ドッペルゲンガーにおける“主体”を“絶対者=神”に見立てようとすると、俗世という悪魔の誘惑に負け、ヒースクリフの絶対者となる(影を主体の中へ完全に取り込む)ことに背を向けた結果としての主体と影の分離(絶対者とは言えない状態)によって“怪物ヒースクリフが創造された”という真逆の解釈ができてしまい、そうなるとエミリーはキャサリン一世がヒースクリフの神になることを“許されざる罪”として描いていないことになってしまうという。
現世で迷妄する期間(エドガーとの婚約以降)と、死霊となってヒースクリフ(の迷妄からの覚醒)を待ちながら一人荒野を流離う期間は、まるで“荒野放浪”の聖書的モチーフなのだけど、神の御座します天国から離脱したキャサリン一世にとっての祝福の地は他ならぬ荒野なのであって、試練の末にヒースクリフとの“永遠の魂の合一”を果たした後も荒野(大自然)と一体化しそこに留ることこそが彼女の信仰だったわけで。 キリスト教的天国の存在を抜きにして完結する死生観を肯定的に描いているといっても過言ではないのだけれど、このアミニズム的な死生観はまさしくキリスト教と分かちがたく共存してきたケルトのそれ。 ケルトにおける荒野が霊魂不滅の場であり、転生へと通じる場であることを考えると、タナトス的に映るキャサリン一世とヒースクリフのゴールは荒野ではなく、もしかするとその先の復活を見据えたものであったのかもしれない。 復活の先の夢物語を第二世代に託したのかなぁ。 キャサリン二世とヘアトンがキリスト教的安寧を象徴するスラッシュクロス屋敷へ移り住み、キャサリン一世とヒースクリフの幽霊がプリミティブな土俗的エネルギーを象徴する嵐が丘屋敷に棲みつくことを暗示させるラスト。 コントラストとシンメトリーが見事な着地を見せて幕を閉じていたんですねぇ。
肉体の牢獄から解放されなければ到達できない魂の自由への希求を第一世代物語で描きながら、大人へと健やかに成長していく生者の幸せの形を第二世代物語で示し、逆のベクトルをも全く否定していません。 でもエミリーの心は第一世代の二人に寄り添っていたのだろうな・・と、現世で実らなかった自らの恋の物語だったかもしれないことを知ってからは、一層その思いを強くしました。 エミリーこそがキャサリン一世であり、ヒースクリフであったのかもしれないと。
作家のペルソナを反映しない語り手構造(しかも二重という念の入れよう)も然ることながら、背徳的なゴシック小説風、あるいは穏健な少女小説風といった雰囲気を意図して作り出し、そこに独自の思想性を擬態のように紛れ込ませカモフラージュしている節が見受けられ、底深さの底が見えない混沌とした魔力を感じさせる小説だという確かな手応えを得て、ますます好きになった。
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心中への招待状 / 小林恭二
心中への招待状
−華麗なる恋愛死の世界−

小林 恭二
文藝春秋 2005-12
(新書)
★★★

[副題:華麗なる恋愛死の世界] 河竹黙阿弥の「三人吉三」を題材に江戸末期の世相風俗を紐解いた「悪への招待状」の姉妹エッセイ。 こちらは元禄大坂版で、テキストとなるのは近松門左衛門の「曽根崎心中」です。 古典を読むとき、自分自身不慣れなものだから、現代人の感覚で推し量って頓珍漢に賞賛したり批判したりしがちだし、まぁ、そういう勝手な読みも一つの咀嚼法ではあるのかもしれないけど、当時の人が吸っていた空気、時代背景や精神風土を理解した上でなければ味わえない醍醐味が間違いなくあるんですよね。
世話浄瑠璃の嚆矢にして心中物の元祖と言われる「曽根崎心中」に内在するカリスマ性を探り、独特な悲劇の型として日本文化に定着することとなった“心中”の本質に迫る本書は、現代人が心中物、延べては浄瑠璃、歌舞伎、古典文芸を賞玩するための助けになってくれる一冊。
ビギナーとしてはまず、死生観の違いを念頭に叩き込んでおかなければ始まりません。 死に対する恐怖感や絶望感や嫌悪感が今とは明らかに異なり、死が終わりではなく別の新たな始まりに近い時代だっだということを。 未曾有の商業的発展を遂げた元禄時代の大坂のルネサンス的気運の中で、恋人たちの人間性発露の手段として生まれ、喝采をもって受け入れられた心中は、“負け”の意識ではなく、むしろ“勝ち取る”意識だったと、小林恭二さんは繰り返し指摘しています。 人間讃歌的なイメージに近かったのかなぁ。 しかし時代が下り、徐々に元禄大坂的な心中の本質が見失われ、追い詰められた果ての哀れな窮死へとすり替わっていくことになるのだけど、その元凶を近松が(鈍感な観客のために?)創造した九平次というキャラクターに探るあたり、とても興味深かったです。
もう一つ。 “心中立”という行為がエスカレートした終着点が心中であり、正真正銘“恋する二人の究極の約束”だったことは語源を辿ってもわかるのですが、近松が心中物の最期の局面で必ず描いた修羅場には、まさにこの“高揚した恋の絶頂感”が仮託されていて、それは同時に新しい世界への通過儀礼でもあったはずなのに、後世その悉くがカットされ、心中が孕む荒々しいまでの能動性は失せ、打ちひしがれた者の末路としての悲哀が見せ場になっていく、という指摘もなされています。 死や自死に対する意識の変化を考えればやむを得ないのかなぁ。
心中における“遊女と町人”という一つのパターンについても、双方のバックグラウンドを検証することで、女性側のシビアな現実認識と男性側の未成熟なロマンチシズムの合致が、いかに心中と好相性であったかが浮き彫りにされています。
最終章では「心中大鑑」の事実関係に沿って、一大センセーションを巻き起こした現実の事件としての曽根崎心中のあらましが紹介され、これに著者の心理的脚色(情理分析)がピタリとはまり、それまでの論旨が手堅く補強され、すっかり説得されてしまいました。 巧者ですねぇ。
近松の原作でしか味わえなくなっているという冒頭のお初の“観音廻り”が、いかに重要なシーンであるか、十重二十重にめぐらされた隠喩の解説も堪能しました。 この時のお初がどんな外観だったか、近松の文脈や当時の風俗から考察されていたりもします。
幾つかのセンテンスが引用されているにすぎませんが、近松の詞章は漠然としていて意味がよくわからないのにうっとりしてしまうのです。 耳に心地よくて何度も何度も音読したくなる気持ちを止められない。 特に好きなのが、徳兵衛の男ぶりを描写した一節。
平野屋に春を重ねし雛男、一ッ成口桃の酒、柳の髪も徳々と、呼ばれて粋の名取川、今は手代と埋れ木の、生醤油の袖したたるき、恋の奴に荷はせて
うっかりしがちだけど、散文ではなく、あくまで“浄瑠璃の歌詞”なんですよね。 七五調の詩歌の世界。 当然ながら逐一解説してもらわなければ理解できないのですが、解説してもらってまたびっくり。 なんという掛詞や縁語の嵐! なんという自由度! 文法を超えて広がる詩情! プレモダンがハイパーモダンに見えてしまう感覚に近い興奮が。 読んでみたいなぁ、近松・・
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残酷な王と悲しみの王妃 / 中野京子
残酷な王と悲しみの王妃
中野 京子
集英社 2013-10
(文庫)
★★

十六世紀前半から十八世紀前半ごろまでのヨーロッパ各国の王族をめぐる“怖い世界史”といった趣きのエッセイで、メアリー・スチュアート、マルガリータ・テレサ、イワン雷帝とその七人の妃、ゾフィア・ドロテア、ヘンリー八世とアン・ブーリンなど、辿った人生や運命の分岐点を軸に五つのエピソードが紐解かれています。
幽閉され、首を刎ねられ、毒を盛られ、嬲られ、相次ぐ出産で非業の死を遂げる王妃たちと、非情な、獰猛な、無能な王たち・・ 読む前から想像される残酷さや容赦のなさが生々しく描かれていましたし、関連絵画(特に多くの肖像画)や家系図が掲載されているのでイメージが湧きやすく、ドラマチックだけど分析的な中野京子テイストの安定感を堪能しました。
大雑把に言ってヘンリー八世とカール五世とフランソワ一世が同時代な感じなのだね。 アン・ブーリンはここ。 で、一世代下って、エリザベス一世とフェリペ二世とカトリーヌ・ド・メディシスとイワン雷帝(織田信長も)がだいたい一緒。 メアリー・スチュアートと雷帝の妃たちはここ。
で、更に3〜4世代下ってレオポルト一世とルイ十四世が同時代。 ちょい後でジョージ一世もまぁ同時代。 マルガリータ・テレサとゾフィア・ドロテアはこの辺り。
蜘蛛の巣のように張り巡らされたヨーロッパ王室の婚姻線には今更ながら眩暈を覚えます。 メアリー・スチュアートの父の従姉妹がエリザベス一世、そのエリザベス一世の両親がヘンリー八世とアン・ブーリン。 メアリー・スチュアートの息子ジェームズ一世の孫がハノーヴァー選帝侯に嫁いだゾフィで、その息子ジョージ一世の妃がゾフィア・ドロテア(この二人の孫がフリードリヒ大王だったりする)。
ちなみにマルガリータ・テレサが嫁いだ神聖ローマ皇帝レオポルト一世が3度目の結婚で得た息子カール六世はマリア・テレジアの父(マリー・アントワネットの祖父)、マルガリータ・テレサの異母姉がルイ十四世妃のマリー・テレーズ・・と、登場人物たちは各章をまたいで網の目の一端を否応なくチラつかせています。
メアリー・スチュアートとアン・ブーリンのエピソードは幾分既知だったというのもあって、一番印象に残ったのはマルガリータ・テレサでした。 「ラス・メニーナス」への思い入れが強いせいもあるかも。 ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、ルーヴル美術館のマルガリータ・テレサ像にインスパイアされて生まれた作品だったんですね。
王族の結婚は外交上の重要な切り札であり、格の問題、宗派の問題・・と、婚姻関係を結べる相手が極めて限られていたため、ヨーロッパの王族全般に血族結婚が蔓延していたようなのだけど、その影響が最も顕著だったのがスペイン・ハプスブルク家・・であることは、以前中野京子さんに教えていただいたのだ。
ベラスケスの「ラス・メニーナス」を眺めていると、王朝の暗い予兆、昔日の栄華が幼少期のマルガリータ・テレサの愛くるしい顔に刻印されているような気持ちが湧いてきて、ざわざわとした感情が胸に迫るようになってしまった。
伯父と姪の結婚で生まれ、自身も叔父に嫁ぎ、血を濃縮させる連鎖に余儀なく組み込まれ、二十一歳で4度身ごもり一女を残すも、王子を産んで王朝を繋ぐ王妃の使命を果たせず力尽き、4度目のお産で命を落とした儚いマルガリータ・テレサ。 それでも当たりくじといっていいレオポルト一世との結婚生活は決して不幸なものではなかったのではないかと想像されもする。 彼女の心の声は何も残っていないのに、史料が明かす無機的な味気なさの奥に眠るとてつもない感触を一気に引き寄せてしまう絵の力を思わずにいられない。 バッカス的饗宴が繰り広げられたという結婚披露宴で、芝居の衣装を身に纏って微笑むマルガリータ・テレサとレオポルト一世を描いたヤン・トーマスの夢のように煙る絵が胸に残った。
ルネサンスも宗教改革も直接には影響しなかった“非ヨーロッパ的田舎国”だったというイワン雷帝時代のロシアは、五つの章の中で唯一孤立している感があります。 おかげでヨーロッパ的な血族結婚の闇は免れているのだけれど、廷臣の娘を娶るという手段を取るしかなかったため、王妃の座をめぐって貴族間の熾烈な争いが起こり、宮廷の其処此処で奸計がめぐらされ、王は次々に妃を失い、自らの命をも絶えず内側から脅かされる緊張状態に身を晒していたという。 神経のどこかを麻痺させなければ生きていけなかった背景が生んだ怪物であるかのような原初的な絶対君主の姿は、身の毛もよだつと同時に哀れを誘うものがありました。
イワン雷帝はエリベス一世に良さげな嫁いたらくれませんか的な手紙を送りつけて盛んにアピってたみたいなのだけど、いいようにあしらわれっぱなしだったらしいw そんなイングランドもヨーロッパの中では辺境の後進国で、フランスの洗練された宮廷文化には憧れと嫉妬の相半ばする根強いコンプレックスを抱いていたのだから複雑だ。
短い間ではあったけどフランス王妃だったことのあるメアリー・スチュアートの華麗で優雅な身のこなしにエリザベス一世が燃やした対抗心や、フランスの宮廷に仕えたアン・ブーリンのエスプリに富んだ社交遊戯の手練手管に夢中になったヘンリー八世には共通項が見出せそうです。
妃のゾフィア・ドロテアを北ドイツの古城に通算三十二年間幽閉したジョージ一世は、実にイングランド歴代国王の中でダントツの嫌われ者らしい。 ヘンリー八世やイワン雷帝のような過渡期、黎明期の暴君的荒々しさではなく、地味〜にクズっぷりが最強なのだ。 面白いのはこの時期、優秀な首相ウォルポールがやる気のない王に代わって国を統治し、“ウォルポールの平和”と讃えられた長期安定政権を実現させていること。 皮肉にもイングランドの立憲君主制が確固たるものとなった時代なのだから歴史って面白い。
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