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円朝の女 / 松井今朝子
江戸と明治を丁度半分ずつ生きたという三遊亭円朝。 幕末から明治にかけての時代の転換期にあって、後の世までも語り継がれることとなる斯界の大名人を愛した五人の女性たちの姿を、傍で円朝を見続けてきた元弟子の昔語り調で描いていく小粋な作品。
若き日の生硬な想いの先にあった女性、江戸吉原の掉尾を飾った花魁、不肖の倅といわれた朝太郎の産みの親となる女性、柳橋の名妓であった正妻、晩年の円朝の支えとなった女性・・ 虚実の皮膜で軽快に踊りつつも、世相を掬い取る筆の確かさと共に、運命に翻弄されながらも動乱の文明開化を生き抜き、奇しくも円朝と人生を重ね合わせた女性たちの悲哀や矜持を、胸中深くまでしっぽりと届けてくれる今朝子さんらしい燻し銀のようなエンターテナーぶり。
また、女性たちとの所縁に絡めながら、円朝の横顔や、噺家として歩んだ半生の来歴を傍景として緩やかに辿ることで、命の端がチリチリと焦げるような得も言われぬ情趣が、いっそ滲み出してくるようでした。
余談なんですが、少年時代に国芳門下に修行に出されたことがあるとか、正妻のお幸は澤村田之助の元女房であるとか・・これ史実なんですよねぇ。 人物やエピソードが交差して、読んだ本と本とが繋がり始めるのが、書物を開く無上の愉しみの一つでもあります。
“可哀想”という気持ちを馬鹿にしてはいけないと、諭してくれた旧師のことを何故か思い出していました。 その深い意味に、やっと目が向き始めた頃合いかも。 有害な感情を一切含まない、さもしい柵を逸脱した無為の言葉としての“可哀想”の持つ美しさが、この物語には詰まっていたように感じられてならなかったです。


円朝の女
松井 今朝子
文藝春秋 2009-11 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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黙阿弥オペラ / 井上ひさし
黙阿弥オペラ
井上 ひさし
新潮社 1998-04
(文庫)
★★★

井上ひさしさんは、たくさんの評伝的戯曲をお書きになられているようで、本篇もその路線かと思う。 歌舞伎史に燦然と名を残すと同時に、江戸歌舞伎最後の狂言作者といわれる河竹黙阿弥の生きた明治初期を中心に、世の中の移り変わりに翻弄される人々を滑稽に描く。 コミカルなヴェールを被っているけれど、実は結構シリアスで、メッセージ性の強い作品という印象。
新富座でオペラ狂言を上演するしない、黙阿弥にオペラ狂言を書かせる書かせないというゴタゴタは、井上さんの創作なのだと思うけど、当時の新政府や守田勘弥あたりなら目論みかねないように思えてきて怖い。 それこそ猿回し狂言の権化のようで、ぞっとしない(というかぞっとする)のだけれど、庶民を置き去りにして、外国への体面のためにのみ企画されたオペラ狂言に象徴されるような、日本の(薄っぺらい)西洋化が闇雲に押し進められる中で、根付いていないものや拠り所のないものを入れ物だけ、うわべだけ真似して体裁を保とうとする新政府のやり方と現代日本社会とが、いつの間にかシンクロして見えてくるような仕掛け。 踊らされて、痛い目に遭ってしまう庶民の滑稽、悲哀、それでもへこたれない心意気や逞しさ、本当の西洋文化を学ぼうとする志しの萌芽も気持ちよい。
上流階級や海外の御歴々の鑑賞に堪え得る品格のある芝居だけを書けという、新政府の意向に逆らって、明治十四年に黙阿弥が「河内山と直侍」という、まさに庶民のための狂言を書き、大喝采で迎え入れられたことは、歴史背景に照らし合わせても、とても意義深いことなのだと思った。 日本人の魂に染み入るものを書き続けようとした黙阿弥の想いが胸を熱くする。
戯曲はちょっと読みにくそうで、今まで敬遠していたんだけど、意外にもテンポ良く読めたかも。江戸(東京)庶民の会話が生き生きと楽しかったせいかもしれない。ちょっと戯曲に踏み込む勇気が湧いてきたりして。特に文語調が厳しくてタジタジの泉鏡花は、戯曲から入ってみるのも手かもしれない?
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悪への招待状 / 小林恭二
悪への招待状
−幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ−

小林 恭二
集英社 1999-11
(新書)
★★★

[副題:幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ] 現代の若者男女を幕末歌舞伎ツアーへご招待。 ちょっとお手軽なタイムスリップSF趣向で始まるが舐めてはいけない。 連れて行ってもらえた2人が羨ましくて指をくわえることになる。
小林恭二さんは幕末の江戸庶民を“日本の歴史上類を見ないほど性悪で頽廃した庶民たち”だと(愛を持って)語る。 混沌とした政情、疫病や天災に見舞われ続けるなど未曾有の世相不安の中で、先の分からない恐怖と快感に身をやつしていた庶民たち。 アナーキーな空気が時代を覆う中で倫理のたがが緩んだ人々は徒花的な狂乱に酔いしれていたという。
こんな時代の市村座の舞台、河竹黙阿弥作の「三人吉三廓初買」の観劇がこのツアーの目玉となっている。 三人の悪党たちが因果応報もつれにもつれ合いながら破滅の幕引きへと雪崩れ込む。 背徳的な美しさ。 諦念に縛られながら真剣に生きてるみたいな倒錯した香りが堪らなかった。
観たことがないので今の歌舞伎がどうなのかは知らないのだけれど、少なくとも江戸歌舞伎に関しては、随所に細かい暗号が散りばめられていて、演じている役者の背景とか他の演目とか知っていればいるほどに無限に奥深くなるのだということがわかった。 観れば観るほど抜けられなくなる世界のようだ。
観劇の合間には、丹念な時代考証あり、またファッション、美食、遊興など庶民の風俗や役者たちの人物像などが痒いところに手の届く親切さで解説されるという余興付き。 通も初心者もそれぞれに歌舞伎や江戸文化を心いっぱい堪能できる一冊なのではないか。
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東京新大橋雨中図 / 杉本章子
東京新大橋雨中図
杉本 章子
文藝春秋 1991-11
(文庫)
★★

木版画に文明開化をもたらしたといわれる独特の画法、光線画で人気を博し“最後の浮世絵師”といわれた小林清親の物語。
幕臣であった清親が、明治という新しい時代へのわだかまりを胸の内に仄かに燻らせながらも、生きるために時代を受け入れつつ、やがて絵師として身を立て、成功をおさめるまでの半生。
松井今朝子さんの「銀座開化事件帖」にも登場する十字屋の原胤昭がいたり、皆川博子さんの「花闇」に登場した無残絵の月岡芳年もいる。 わたしにとっての新顔は絵師の河鍋暁斎や版元の大黒屋平吉、主人公の清親も初めまして。
清親は杉本さんの筆によると、これでミズモノの世界を渡り歩いていけるのかと心配になってしまうほど、謙虚でお人よしで普通ぅ〜にいい人なのだ。 でも木版画に未来はないと悟るやいなや、自身で築き上げた光線画をパロディにしてしまう潔さ。 絵を“描き捨てる”恰好よさっていうか・・自分を買い被らない格好よさっていうか・・凄いと思った。 杉本さんはこの辺りをさらりと描いているんだけれど、実際はどんな心境だったんだろうってチビっちぇ〜人間は思っちゃう。
なんていうか・・プライド高く妥協を許さない芸術家志向の“画家”ではなくて、版元に首根っこを掴まれながら、職業として絵を描いて庶民の心を潤し続けた“絵師”の悲哀や可笑しみや柔らかさや強さが清親の中に詰まってるような感じがして、やっぱりそれって、どこか江戸の絵師たちの心意気を思い起こさせるものがあって、でも同時に、激動の時代を生き抜く渡世術として実は素晴らしい資質だったりしたのかも・・などとぐるぐる考えてしまった。
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花闇 / 皆川博子
花闇
皆川 博子
集英社 2002-12
(文庫)
★★★

幕末の世相を反映し、その芸において爛熟の極みに昇りつめた歌舞伎役者、三世澤村田之助の物語。 美貌と才能と人気を欲しいままに、江戸歌舞伎最後の花と謳われた女形役者。 その花の真っ盛りに脱疽を発症し、次々と四肢を切断。 それでも舞台に立ち続けるという凄絶な生き様を晒した人物。 けれど、芸に対する絶対的な自信、強烈な自惚れが魂に宿っているかのようで、“苦悩”とか“悲壮感”とは何か違うような。 そしてどこかマゾ的というか・・四肢を失った己に酔っているんじゃないかとすら思えるほどの役者魂なのです。 だからこその危険なまでの美しさ、だからこその最期という気がしてしまう。 傍らからの哀れみだとか敬意だとか、ヒューマニズム的感慨は一切放棄したくなります。
対照的に退廃の乱舞に閉塞感、危機感を抱き、やがては文明開化の流れを受けて歌舞伎の地位と権威を高めることに貢献した人物として、九世団十郎が描かれている。 歌舞伎役者の地位や自分への評価に対して屈辱的な思いに苛まれ続けた団十郎の胸の内は、これもまた、決して田之助には理解できないことなのかもしれません。 団十郎によって、田之助を輝かせた江戸歌舞伎の仰々しさや血生臭さや淫猥さは排除されていく。
ただただ滅びゆく美しさを高い純度でもって見せつけてくれた作品。 田之助と江戸歌舞伎の心中物語でもあるかのようでした。
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