エドウィン・マルハウス / スティーヴン・ミルハウザー
[副題:あるアメリカ作家の生と死][岸本佐知子 訳] 1972年に出版された処女作。 行き過ぎた理想追求がカタストロフに至るという道筋を描かせたら真似のできない絶佳な眺望を見せてくれるミルハウザーの面目躍如な小説だと思う。 前衛性とエンターテイメント性を兼ね備えた構築力、加えて執拗なまでにフォーカスされた細部、鮮烈な詩趣・・ ミルハウザーを読む愉楽の全てが詰まっていて、創作活力の奔流を感じました。
本書は、11歳でこの世を去ったエドウィン・マルハウスなる天才作家の作品と生涯を、観察者として影のように付き従った同い年の友人ジェフリー・カートライトなる伝記作家が、エドウィンの死の直後に執筆した評伝作品(正確には絶版後に再刊された復刻版)という体裁をとった小説。 作家が子供ならその伝記作家も子供。 設定からしてぶっ飛んでいるのだけど、0歳の初対面時から始まる(およそ人間の手には余るほどの)克明な述懐といい、いかにも伝記作家調のインテリジェンスで流麗な(およそ子供の手には余るほどの)文体といい、その完璧さゆえの露骨な奇っ怪さがなんとも人を喰っているという他ない。 いわゆる伝記のパロディであり、辛辣な模倣であり、批評性を有した一種の風刺文学なのかもしれないし、そう思わせたいという(風刺文学の)パロディなのかもしれない。
常時進行中の説明されない何かで絶えず読者を惑わしながら、虚妄に満ちた端正なテクストに潜む不吉な亀裂を徐々に押し開け、隠された戦慄の鎌首をもたげさせる・・ その手腕が尋常でない。 巻頭のエピグラフ、“ふう! 伝記作家って、悪魔だな。ーーE・M・(談)”のコミカルで悲愴な一文が本小説の全貌を物語っているかのよう。 出口のない熱いランプシェードの中で狂ったように舞い惑う一頭の蛾を恍惚と見つめるジェフリーと、そっと目を逸すエドウィンの像が脳裡に明滅しています・・
創造物と創造者の関係を、作家とその伝記作家の関係に擬えて皮肉り、伝記文学の存在意義に波紋を投げかける・・といったメインストリームがあるにしても、ジェフリーだって後に伝記文学作品を残した一作家としてウォルター・ローガン・ホワイトなる研究者(復刻版の序文を書いている)によって論評される側になるのだし、ジェフリーや復刻版の序文の書き手だってミルハウザーの手の内にあるのだし、そのミルハウザーだって、分析され研究され評伝が書かれるのだよね。 作家と伝記作家による堂々巡りのいたちごっこには、追跡テーマの妙味を感得することもできてしまう。
遊びへの情熱は誰にも負けないひ弱な少年エドウィンが残した長篇小説『まんが』。 アニメ映画の技法を下敷きに独特の視覚と言語感覚を駆使するスタイルで真実をチープさの中に見出そうとした彼の最高傑作はどのようにして生まれたのか。 隠された運命の意図を見つけるべく、ジェフリーの手で天才作家としてのエドウィンの人生が紐解かれ、精神史が形作られていきます。 意味の付着しない音を最上の玩具とした前言語期、一つの言葉を覚える毎に味わった世界創造の喜び、文字の形状や語呂合わせへの愛好、漫画や写真や映写機が彼の文学芸術に与えた暗示・・エトセトラエトセトラ。
真面目なアナウンサーがなんでもない日常の光景を劇的に実況して笑いを誘うテレビ番組を見たことがあるけど、ジェフリーのエドウィン分析にはアレに通ずる可笑しみがひたひたと底流しているものの、感心してしまうのはその鮮やかな説得力。 真に迫った一流の評伝っぷりなのだ。 ミルハウザーは本気で遊んでやがるのです。 ひょっとするとエドウィンのモデルはミルハウザーその人なのかもしれないと不意に思ったり。 だからこんなにまで真実味を帯びてしまうのではないかと。 また、本小説のアレゴリーになっている作中作の『まんが』に対するジェフリーの言及には、ミルハウザーが本小説に対して言及しているのではないかと思えるような叙述トリックめいた言説の揺らぎがあり、エドウィンとジェフリーは次元を隔てたミルハウザーと得体の知れないやり取りをしているみたいなところがあるのです。 二重三重に幻惑する複眼的で重層的な露出が、内と外の裏返りの感覚を誘発し、眩暈を誘うのです。
『まんが』のラスト、あの予知(?)に鳥肌が立ちました。 実は普通の少年なんじゃないかと思えたりもするエドウィンは、やっぱり天才だったのかな? って。 あるいはエドウィン(それに復刻版の序文の書き手)の実在性を疑い、ジェフリーの狂気の淵をどこまでも探りたくなったり。 でもそうなるともはやジェフリーとミルハウザーはイコールで結ばれ、ジェフリーは狂人のふりをした小説家ということになってしまうし・・ あー、もう眩暈が;; 叙情的に読むならば、大人になろうとするエドウィンと、彼を子供の世界に封印しようとするジェフリーの精神が、突破の際で交錯し、結晶化するクライマックスシーンが白眉。
水彩絵の具のスケッチのように瑞々しい叙景として広がるコネチカット州の長閑な田舎町ニューフィールド。 終わりのない狂熱が繰り返される子供の王国で、エドウィンのイマジネーションを左右した(と称する)エピソードの数々が時代の美風とともに香り高く活写されています。 叩きつけ合うような関係の中に繊細な交感があり、傷つく瞬間が手に取るようにわかり、プリミティブな残酷さに締めつけられるような郷愁を掻き立てられる。 子供ならではのイレギュラーな関心ごとや無関心ごと、家庭や学校での教育風景、そこに立ち見て触れて感じた小さな自然や社会、空間の隅々までをも埋め尽くすほどに稠密に過剰に羅列され氾濫するお菓子とそのオマケ、玩具、漫画、絵本、遊び、雑貨、ガラクタ・・ 二十世紀半ば、現代アメリカの青春期をニューイングランド南部に生きた少年のリアルが煌めく粒子のように瞬く玉手箱のような作品。 忘れられない一冊になりました。


エドウィン・マルハウス
 ―あるアメリカ作家の生と死―

スティーヴン ミルハウザー
白水社 2003-08 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★★
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サム・ホーソーンの事件簿6 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] シリーズ最終巻。 これで全72篇、読み尽くしてしまいました。 どんな風に幕引きをするつもりだったのか、そんな予定があったのかなかったのかもわかりませんが、大外枠としては、“過ぎし日のミステリ黄金期を懐かしむ”という居ずまいが感じられるシリーズでもあったので、このフィニッシュは巧まずして鮮やかと言えるかもしれない。 ホックはまだ書く気でいたのに・・と思うと寂しいのは大大大前提なんですけどね。
1941年春から1944年秋まで。 最後の12篇には第二次大戦直前から末期までの、ほぼ戦時下の背景が織り込まれた格好です。 銃後活動としての戦争債権募集イベントや屑鉄回収運動、若者たちの徴兵などが、実際、ストーリーと絡めて描かれていたりもします。 特に初期は先の見えない重苦しさが暗い影を落としていますが、戦況が好転していくに連れて、徐々に黒雲が晴れるように明るい空気が勝っていく様子など、ニューイングランドの小さな町に暮らす庶民の心境が、それとなくしみじみと伝わってきます。
人口が増え、機械の普及が生活や仕事の様式を劇的に変え、医学や犯罪捜査が進歩し、一巻目、サム先生が赴任したばかりの1920年代前半とは大きく様変わりしたノースモント。 高級なステーキハウスや宝石店もできました。 サム先生史的には、隣町シン・コーナーズとの町境に動物病院を開業した女性獣医アナベルとの結婚、娘サマンサの誕生という大イベントが用意されています。 レンズ保安官は7期目にして最後の保安官選挙に出馬しますが、対立候補の選挙参謀が殺害され、容疑をかけられることになり、これがなかなかの窮地。 サム先生が鹿撃ち帽にインバネスケープ、パイプに虫眼鏡のホームズ・コスチュームを披露するシーンも一興。 そういえばサム先生、前巻でひょんな成り行きから仔猫のワトスンを飼うことにならなかったっけか? あれれ?まぁいいや。
全盛期に比べるとトリック自体のレベルダウンは否めないのですが、味つけの仕方で充分に読ませる作品が多いですね。 「黒修道院の謎」は摘発できない犯罪もので、心理的アプローチが見事でした。 「巨大ノスリの謎」はメインの事件よりもなぜ棺の中身が違ったのかの真相に惹かれました。 サマンサ誕生回の「自殺者が好む別荘の謎」は、サスペンスタッチな展開とラストのコメディ&ハートフル感が特別な一篇。 最終篇の「秘密の患者の謎」は、とある実在人物の歴史秘話ものとしてキラリと光る作品です。 「羊飼いの指輪の謎」がトリックのクオリティも含め、一番の仕上がりだったように思いました。
それにしても、ノースモントの町は最後まで驚異の不可能犯罪発生率を維持し続けてくれましたね^^ 呑んべえの法螺吹き爺さんに聞き手は一杯食わされてるんじゃないのか疑惑も同時に薄っすらと醸し出されている辺りが、また楽しかったんだよね。 若き日の武勇伝(?)を披露するサム老人は、寂しいやもめ暮らしなんじゃないかと半ば勘ぐってたのですが、そうじゃなかったー!っていうトリビアが挿入されててなによりホッとしたっ♪


サム・ホーソーンの事件簿6
エドワード D ホック
東京創元社 2009-11 (文庫)
関連作品いろいろ

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ペナンブラ氏の24時間書店 / ロビン・スローン
[島村浩子 訳] デビュー作となった本書で2013年度アレックス賞を受賞した著者は、情報社会の未来を予想したFlashムービー「EPIC 2014」を、2004年に共同制作して話題を呼んだ人物なのだそう。 サイバーパンクと冒険ファンタジーと暗号解読ミステリを組み合わせたジャンル混成型の作品で、ギミックがてんこ盛り。 デジタルとアナログがせめぎ合い、溶け合い、化学反応を起こす、そんな時代ならではの雑駁な躍動感のようなもの、未来はわからないけれど、まだ決してコンピュータが万能とは言えない“今”の混沌を映し出すライブ感が秀逸だ。 ちょっとくたびれたし、想像してた内容と思い切りかけ離れてたけど、極上のエンターテイメントを楽しみました。
ITイノベーションの聖地、サンフランシスコが舞台。 シリコンバレー界隈で生きる上昇志向の若者たちが日常の中で繰り広げるリアルRPGゲームのような世界といったらいいか。 まるで、ファンタジーを描くのに特殊な舞台なんかいらないぜ!とばかり。 “ぼく”ことクレイ・ジャノンのフレンドリーでご機嫌な語りに乗って軽快に進行し、どうやらティーンズ向けの作品だったりもするようなのだけど、ソフトにしろハードにしろ最先端知識の不足が甚だしいゆえ虚実の皮膜に安心して遊べない。 ところがそんなフリーダム感がいつの間にか存分な魅力に思えてきてしまう。
主人公の青年クレイは不況の煽りを受け失業中の元デザイナー。 ある日、目に止めた求人ビラに釣られ、ふらっと入った風変わりな24時間営業の古書店で、夜間店員として働き始めることになる。
くらくらするほど天井が高く、ありえないほど細長い店舗の手前半分のエリアはいかにも普通の古書店なのだが、貸本屋システムが適応されているらしい奥半分のエリアは鬱蒼とした森のように暗く、見果てぬ上方まで伸びる梯子の架かった書棚には、Googleの知る限り存在しない美装丁本がぎっしりと並んでいる。 そして、浮世離れした奇妙な学者風の老人会員たちがぽつんぽつんと訪れ、携えた一冊の蔵書を返却してはまた新たな一冊を借りていく。
店主を務める青い目の老人ペナンブラ氏には、“奥の書棚の本を決して開いてはいけない”と念を押されていたものの、好奇心に抗えずページを開いたクレイが目にしたのは、びっしりと埋め尽くされた無秩序な文字の羅列。 いったいこの暗号で書かれた本は何を意味しているのか? 店主のペナンブラ氏は何者なのか? 顧客の老人たちは? この書店とはいったい・・??
真相究明に向けてのアクションがスタートし、長い時間をかけてひっそりと受け継がれてきた禁断の謎の中へと足を踏み入れていくクレイ。 彼自身には突出した才能があるわけでなく、読者が感情移入し易い普通人的に造形されたキャラなのだけど、ある種、ネットワーク作りに才能があるというか、クレイ自身が“リソースフル”な存在というか。 “生気のきらめき”を友達作りのフィルターにしている彼の周りに集うのは、奇人と天才のあわいを縫うような逸材たち。 『ドラゴンソング年代記』の愛読者だったことから絆を深めた幼馴染みの親友ニールは、ソフトウェア会社の青年CEOを務めるベンチャー起業家、人間の脳の潜在能力を強く信じているクレバーなガールフレンドのキャット(真賀田四季と同じ思想を持った子だ)はGoogle本社の社員、ルームメイトのマットは特殊効果アーティスト、ペナンブラ書店の午後の部勤務のオリヴァーは考古学マニア、時にハッカーヒーローも味方につけ、難題をクリアし、目的を達成するための特殊作戦部隊たるパーティがあたかも編成されるような格好で、仲間たちの友情とそのコネクションがスケールメリットへと繋がっていくシュミレーションモデルさながらの展開をみせてくれます。
クレイが突き止めた愛書家カルト集団による秘密結社のような協会の、その教義の中心にあるのは、あらゆる人生の秘密が記されている(と信仰されている)一冊の古い暗号本。 彼らは中世から伝わるこの秘本の解読に五百年取り組み続けているらしい。 暗号本を遺したとされる人物はアルドゥス・マヌティウス。 商業印刷の父と言われるルネサンス期ヴェネツィアに実在した出版人なのですね。 マヌティウスは史上初の古典集を作ったことで知られていますが、その際、古典作家の研究を通じて人生の秘密を発見したのだと協会は信じている、という体裁。
キリストと第一の使徒ペテロと最期の審判を彷彿させる伝説がアレンジされ、協会の教義として設えられているのですが、マヌティウスたるキリストから“鍵”を託されるペテロに当たるのが著者が創造した架空の人物、グリフォ・ゲリッツズーン。 マヌティウスの親友にしてパートナーであり、デザイナーだった彼が作成し、今なお広く普及し続ける典雅にして優美な活字書体、ゲリッツズーン体(モデルはローマン体でしょうか?)が、大きな存在感を持って物語世界に潜んでいます。 デジタル化の盲点がトリックとして活かされる大詰めのミステリ部分に上手く絡んでいくんだよね。 クラーク・モファットという架空の作家が遺した『ドラゴンソング年代記』なるファンタジー叙事詩も謎解きの大事な要素として作中に組み込まれています。
ペナンブラ氏には何より仲間が必要だった・・ 煎じ詰めると分派によるクーデターと言えるストーリーだったんじゃないでしょうか。 一生かかってもやり遂げられなかった成果が、コンピュータの力を借りて一瞬で得られるようになった時代の変化に対応することを拒み、チョークと石板、インクと紙による研究に執着することがマヌティウスへの敬意と言えるのか? それは起業家だったマヌティウスの精神に返って忠実でなくなってはいないか・・?
そして今、時流に乗り成功体験を積んでいく若者たちだってめぐりめぐって歳をとり、アイデンティティを揺るがすような新時代のモデルに直面しなくてはならなくなる日が来るかもしれない。 その時どんな行動が取れるだろうか? 安直な若者賛歌ではない問いが投げかけられています。
ピカピカでツルツルな電子書籍と埃臭いアンティークな古書という、言わば真反対のモチーフがぶつかり合うかのようなストーリーなのだけれど、むしろ、現代のITテクノロジーと中世の活版印刷が五百年の時を越えて親和する感覚にワクワクしました。 “技術革命”と“情報革命”の最中の息吹き、まだ使い慣れていない新しい可能性を手に入れた昂揚感と戸惑いが発するその酷似性に。


ペナンブラ氏の24時間書店
ロビン スローン
東京創元社 2014-04 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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角の生えた男 / ジェイムズ・ラスダン
[谷みな子 訳] 7年前イギリスからアメリカに渡り、現在は、家を出た妻への未練を引きずりながら、ニューヨーク郊外の大学でジェンダー論を教えているローレンス・ミラーによって綴られた一人称の手記。 自身が携わる学問の理念を実現するのが職業上の責務と心得て、セクシャル・ハラスメント委員会のメンバーを務めている“私”ことミラーは、学生に対して秘めた衝動を仄めかすような醜態を見せないよう細心の注意を払って対応していると自負しています。
ある日、自分の研究室の書棚から一冊の本を取り出して、栞の挿んであったページを読もうとした“私”は、来客に中断され、栞をそのままに本を書棚に戻すのですが、翌日、再び開いてみると栞の位置が変わっていることに気づくのでした。 その日、診察室で“私”はセラピストに尋ねます。 ひょっとして“錯誤行為”の一例だろうかと。 この冒頭シーンで交わされる会話は、“私”による予防線であると同時に作者による布石であり、結末と綺麗に照応しています。
この栞の移動現象をきっかけに、“私”の周囲で次々と起こり始める不可解な出来事。 身に覚えのない通話記録、書いてもいない手紙の存在、隠れるように置かれていた金属棒、嫌がらせの贈り物、匿名のメモ、パソコンに残された文書ファイル・・ なんの変哲もない日常が、何かを隠蔽している不気味な気配を帯び始め、じわじわとその濃さを増幅させていくのは何故なのか? 陰謀者による手の込んだ仕打ちなのか? 事もあろうに“私”の人生を脅かす目的は? 現実なのか妄執なのか、異様に亢進した意識が錯綜する悪夢の迷路を彷徨いながら煩悶すればするほど、精神の深い裂け目に搦め取られ、抗えない破滅へと堕ちていく“私”。
ささやかな合図を送ってくるディテールによって、“私”を俯瞰している読者は気づくことになるのですが、陰謀者とは“私”の影、つまり、意識下の自分自身に他なりません。 抑圧した自我に復讐される自家撞着的ストーリーを、信用ならざる語り手小説の定法を踏まえて描いた玄妙なるサイコスリラー。 伏線や暗示を絶え間ない刺激として散りばめた設計図のように緻密な構築力。 非常に陰影に富んだ物語ですが、決して闇雲に弛緩することがありません。
セクハラとDVという大きな人倫の問題が表裏のように綾を成し、アメリカ社会のポリティカル・コレクトネスから感得した不安要因を極端に寓意化して体現した作品と言えるのかも。 また、アメリカのイギリス人というトランスアトランティックな主題も深く刻印されています。 因みに作者のラスダン自身もイギリス出身のアメリカ人なのだそうです。 本篇は2002年発表の初長篇。
特筆すべきは、様々な文学作品の水脈が注がれていて、ストーリーと意味ありげに共鳴反響している点。 カフカの「中年のひとり者ブルームウェルト」、シェイクスピアの「尺には尺を」、聖書正典から除外されたグノーシス派の福音書、そしてなによりエウリピデス作のギリシャ悲劇「バッコスの信女」は、本篇の通奏低音になっているようです。 解説で教えられなければ知る由もなかったのですが、この「バッコスの信女」を示唆する巧みな仕掛けが随所に施されており、テクストの彼方此方で符合を探す愉しみがあるのだとか。 原典を知らないのがつくづく残念です。 “私”がたどる自己崩壊の過程はペンテウスのそれをなぞっており、モチーフだけではなく、その中核に神話を抱え込んだ物語としての強靭さが感じられもします。
中世に流布した一角獣捕獲の神話を織ったクロイスターズ美術館の“一角獣のタペストリー”も、世界観の確立に欠かせない大きなウエイトを占めています。 角のエキスが持つ薬効作用のうちの同毒療法説に依るところの攻撃的で孤独な怪物としての一角獣像が“私”へと投影されてゆき、純化された毒素による自家中毒の痛みに襲われる末路まで制御が行き届き、呼び交わし合う詩と理知が、絶望の複雑な光沢を見事に現出させています。


角の生えた男
ジェイムズ ラスダン
DHC 2003-11 (単行本)
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★★
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スペシャリストの帽子 / ケリー・リンク
[金子ゆき子・佐田千織 訳] 2001年に刊行された第一短篇集。 やっぱり良いな。 リンクほんと好き。 文学が窮屈だと言わんばかりのはみ出しっぷり。 理由も背景も与えられないまま脈絡もなく唐突に現れ転がるような物語にもかかわらず、変幻自在に筆を操り、感性と妄想力の炸裂する世界へすんなり引き込んでくれる。 慣れ親しんだ愛着深い匂い、ポップでビビッドな色彩、キュンとなるような可笑しみ、リズミカルで瑞々しい言語感覚・・ どこか人懐っこく憎めない肌合いを基調としていて難解な顔はしていないのだ。
なんだろう、おとぎ話を分解して再構築した万華鏡的オプジェのような奇天烈な有機体・・ いや、おとぎ話の諸断片を作者の坩堝に投入して溶融し再生させた現代の寓話とでも言うべきか。 不条理な夢を見続けているようなシチュエーションの面白さ、言葉を超えて飛翔する比喩性や登場人物と読者のあいだの感覚のズレがもたらす揺らぎ、身の回りの普通をグロテスクに異化してしまう誇張法の冴えがそれは見事で、解読困難な迷宮さながらの現実社会を、また別の遠近法で映し出しているかのよう。
自己と他者、生と死、あるいは幸福と不幸の間の幽暗な境界や、名前が含意するものとは何なのか、その辺りの謎めきが特に霊感を刺激していそう。 異様な観念に取り憑かれたり苛まれたりする人々の意識下で、不明瞭な数多の感情が擦れて立てる音、それは紛れなく聞こえてくる。 皮膚の下に隠し持つ孤独、孤独への不安、無力感、壊れやすさ、愛の欠乏感、寄る辺のなさ・・は、希薄な現実を支えなくてはならない不透明な時代を生きる魂の受難に他ならないのかもしれず。 登場人物から距離を置く観察者の立場を保ちながらも、決して断じたり突き放したりする目線ではなく、微かに滲む共感の成分が客観描写に微妙なニュアンスを綾なしているのを感じる。
豊かな文芸性に裏打ちされながらも、ファンタジーの煌めきをぎゅっと詰め込んだ作品ばかりで全てがお気に入りなんだけど、やはり「スペシャリストの帽子」は振るってた。 古いお屋敷の不気味な伝承をモチーフにしたオールド・ファッション全開のビターな童話めいた幽霊譚。 いったい・・ 双子はベビーシッターに連れ去られようとしているのか、救われようとしているのか、父親に脅かされようとしているのか、守られようとしているのか。 最愛の母を亡くし、死を夢想して遊ぶ子供の途方もない虚無が行き着くラストの、あの空気感は他にちょっとない。
「ルイーズのゴースト」も大好き。 当然、感じ方はいろいろあると思うのだけど。 分身が幽霊に悩まされるという冗談のような話・・と読んだ。 しかもそのコーストのゴーストが! これはコルタサル的円環・・なのか? タイトルの二重性はもとより、エクリチュール効果を細かく計算し尽くした機知にやられた。 とぼけた筆致で一個の精神が崩壊する過程を余すところなく描き出しているかのようにも読める。 剥奪された悲劇性は一層の哀切を帯びて胸に迫る。
生から死へ向かうモラトリアム領域を幻視した「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」は、過剰な感傷と自己愛の権化のような物語なのに、抒情詩のような美しい響きと疼くような甘い痛みの奔流に抗えず身を沈めてしまった。 暗示どころか“自慰小説”であることが堂々と明示されてるんだよね^^; 作者はわかってやってるんだなとクスってなる。
「靴と結婚」の、“幸せに関しては得意”な占い師の言葉。
あなたたちは一緒に年を重ねますよ。仲良くやっていけるわ。私が約束する。信じてちょうだい。未来のあなたたちが見えるの。庭に座っているあなたたち二人の姿が。爪に泥が入っちゃってるわね。レモネードを飲んでるわ。それがお手製のものかどうかはわからないけど、とにかく絶品ね。甘すぎない。私がこう話したことをあなたたちは覚えているでしょう。私が話したことを覚えおいてちょうだい。あなたたちはほんとに幸運よ、互いに見つけられて! 古い一足の靴みたいに、あなたたちは仲良くやっていくわ。
幸福の見つけ方の一つの深い示唆だと思った。 あんまり素敵だから何度も読んでしまった。


スペシャリストの帽子
ケリー リンク
早川書房 2004-02 (文庫)
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★★★★
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二流小説家 / デイヴィッド・ゴードン
[青木千鶴 訳] ジャンル小説の読者から煙たがられそうな短篇を2篇ばかりアンソロジーで先に読んでいたので、もっとわけのわからんやつを書く作家さんかと思ってたら、いけてないヒーロー系ハードボイルド路線に連なる、律儀なまでにちゃんとした、超ド級の通俗小説、という印象でびっくりだった。 定型的4人のマドンナに囲まれたハーレム状態の主人公とか・・もうね^^; でもこれ、ネタ的に通俗仕様でカリカチャライズしてる節もあるんだろうね。 素なのかパロディなのか悩ましい辺りの曖昧さも魂胆の内っぽい。 ジャンルに対して極めて意識的という意味で、通俗小説(ジャンル小説)に捧げたオマージュ小説のような香りもします。 散りばめられる作中作の紙吹雪を浴びながらケレンたっぷりに演じられる地のストーリー・・ 全篇を貫くイミテーション感が半端ない。
ハリー・ブロックはコアなB級ノヴェル愛好家ご用達のしがない小説家。 本名や経歴を偽った様々な変名や変装を駆使してSF、ヴァンパイア小説、都会小説を書き分けて生計を立てています。 かつてポルノ雑誌の変態ライター“アバズレ調教師”として腕を磨いた経験を活かし、どのジャンルもSM倒錯愛風の濡れ場でちょいちょい彩色するのが持ち味の模様。 最近は高校生の家庭教師・・とは名ばかりの、その実、期末レポートを代作するアルバイトにまで手を出して食い繋ぐありさま。
そんなハリーのもとに、獄中の連続殺人鬼から告白本の執筆を依頼する手紙が舞い込みます。 果たしてメジャー作家にのし上がるためのチャンス到来となるのか・・ ハリー自身が綴る手記としてその顛末が物語られていきますが、手記の体裁をとった起死回生の小説かもしれないという含みも醸し出されていて、実話なのか創作なのか幻惑的なところに面白みがあります。 どちらにしてもハリーが初めて本名で執筆するテキストには違いな・・いのかどうかも疑問の余白を残します。 そしてヴェールの奥の奥では本書をデビュー作とする著者デイヴィッド・ゴードンの影(亡霊)が踊り、初々しい矜持を見え隠れさせている・・
本筋であるミステリのパートはなんとも普通・・というほか形容しようがないのだけど、小説家の目線で現実(もちろん小説の中での“現実”という意味です)を観察しているようなメタ感覚の導入や、“二流作家”たるハリーの持論として乱発される自虐ユーモアのきいた文学論(そんな深いもんじゃないし、とっ散らかり気味ではある)の数々、背景として描かれる現代ニューヨークの素顔など、複合的に読みどころモリモリな娯楽性を保持しています。 抑制が効かず、饒舌に任せて作家としての若さを濫りに放出している感は拭えないんだけど、今後いくらでも腕をあげていくことでしょう。
余談ですが、日本でもロマンス小説のパラノーマル部門がヴァンパイア色に染まってるっぽいイメージはあるのだけど、アレ系ってみんな翻訳モノなのだよね。 ましてや“アーバン・パラノーマル”なるジャンル(ホラーとロマンス小説の中間くらい?)自体、聞いたことない。 B級小説界におけるヴァンパイア信奉って、聖地(?)のアメリカ(2009年)では、“バーンズ・アンド・ノーブルの何ヤードにもおよぶ棚を埋めつくす勢力”らしい・・ へぇ。
あらゆる雑誌の例に漏れず、インターネットが《ラウンチー》誌を廃刊へ追いやった。かつて、テレビや映画が書物を絶滅へ追いやったのとまったく同じように。さらに時代を溯って、ぼくの思い出せないなんらかのものが詩を絶滅へ追いやったように。いや、詩の場合にかぎっては、みずから命を絶ったと言うべきなのかもしれない。
こういう笑いのセンス好きw 表紙カバー袖には著者(ハリーじゃありません)の近影が。ふふ。 狙ってるのかそうじゃないのか、この辺の企みも憎いもんです。


二流小説家
デイヴィッド ゴードン
早川書房 2013-01 (文庫)
関連作品いろいろ

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サム・ホーソーンの事件簿5 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] ニューイングランド地方の小さな町ノースモントで起こる不可能犯罪を地元の医師サム・ホーソーンが解き明かす連作シリーズの5巻目。 深夜に現れては消える幻のロードハウス、郵便受けから忽然と消える本、水を毒入りワインに変える水瓶、広場に展示された案山子の中や地面の奥の古い柩から発見される他殺体、ハーマン・メルヴィルの幽霊が出るテラスや修道院の“知られざる扉”から消える人間・・などなど。 密室状況あるいは衆人環視のもとでの殺人や消失といった不可能趣味満載で楽しい楽しい。 初期に比べるとトリックそのものの息切れ感は否めないのですが、相変わらず手品の仕掛け・・というよりフーディーニ張りのイリュージョンを見破れるか的な好奇心を擽る煌びやかな謎が目白押しです。
サム先生はというと40台前半で、そろそろ町の名士的なポジションが板についてきましたが、周囲からはいよいよ独身主義者とみなされるようになりつつあるこの頃。 レンズ保安官は万年減量中の模様^^
今回背景となっているのは、ヨーロッパで戦争が始まり、アメリカの参戦も間近に迫る1938年から1940年、暗雲が段々と濃くなっていく時代です。 日々の暮らしが脅かされるわけではないノースモントでも、親独派の怪しい動きに人々が眉をひそめたり、戦争の話題がギクシャクした論争を伴ったりと、戦火の影がちらちらと揺れています。 そして遂に最終話ではメリー・ベストが従軍看護婦として海軍に入隊する意志を固めるに至ります。 診療所を退職したメリーの代わりを務めることになるのは、なんとエイプリル。 夫が戦地勤務に召集され、小さな息子と二人でノースモントに戻ってきました。 これもまた戦争の余波。 遠景のストーリーはごくごく淡白なのですが、友情以上恋愛未満のままどこにも辿り着けなくなって、始まらずに終わってしまったサム先生とメリーの関係の、ビターな痛みの上澄みだけを掬い取る、その素知らぬタッチがいいんだなー。 エイプリルの時も思ったけどサム先生ってやっぱり・・罪作りかも。
本巻は、何気に作家や本への言及が多かったのと、犯人特定への一段階凝った手順が印象的。 一番のインパクトは「田舎道に立つ郵便受けの謎」だったけど、密室状況での猫の絞殺事件を扱った「動物病院の謎」が好き。 伏線と構成力に唸ったし、ポーへの目配せが洒落てるし(いっそ猫は黒猫にしたらよかったのに!)、女性獣医アナベルとの運命の出会い作品でもありました。 ボーナス・トラックは2巻目に続きレオポルド警部ものから「レオポルド警部の密室」。 表紙はジョッシュ書店のカウンターにて。


サム・ホーソーンの事件簿5
エドワード D ホック
東京創元社 2007-06 (文庫)
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こうしてお前は彼女にフラれる / ジュノ・ディアス
[都甲幸治・久保尚美 訳] 前作「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」でオスカーのルームメイトだったモテ男ユニオールが本作の主人公、と知っていれば前作から読んだのに;; まぁ、続篇ではなく姉妹篇のようなので、支障はないのかもしれないけども。
ドミニカ生まれのユニオールは、幼い頃、父の出稼ぎ先のアメリカへ母と兄とともに移り住みますが、父の失踪、兄の病死など、過酷な家庭環境のもとで成長します。 本作は、そんな我らがドミニカ男ユニオールの、半ばユーモラスな、半ば悲愴な、恋の災難を綴るカタログとでもいうべき悩める愛の遍歴の物語。
浮気男ユニオールのアイロニカルな泣き笑いベースで型破りに描かれてはいますが、愛に臆病で、愛から逃げながら、誰よりも愛を渇望している・・ 身に覚えのありそうな身近な心が扱われていて、生身の登場人物と遭遇する感覚がしっかりとありました。
前作では“ドミニカ共和国の独裁制の呪い”が扱われ、本作では“一族を不幸に突き落とす浮気男の呪い”が扱われていると、これは訳者による解説。 社会の諸相を取り入れるのに長けた著者の筆は、物語に貧困の影を染みのように点々と落とし、アメリカ東部に生活するヒスパニック系(主にカリブ系)移民の声を掬い取ります。 貧困との因果が決定的であろう家族の崩壊は、親密さに対する根源的な恐れを子供の心に植えつけて、それはまた、次の世代の家族に伝播していく・・ 時間の堆積、意識の連鎖が充満した深刻な負のスパイラルの問題に主眼が置かれているのは確かなんだけど、重苦しさで威圧するのではなく、ユニオールのチャラチャラした表層的な感情の裂け目からのぞく“真実”に心をそっと添わせるような作品なのです。
反復するエピソードの集積の形を取ると同時に、縦の時間軸を巧みに織り込んで重層的に主題の深化を図りながら一つのストーリーを浮き上がらせる仕掛けが鮮やか。 物語の命題を遂行し完成させるための細心の目配りがなされていたのを感じます。 飾り気もなく剥き出しなほど直截的な、弛緩も冗長もない文体には、自在な境地に到達したかのようなドライブ感あります。
作者には、本書も含めた既刊の短篇を組み直して(おそらく新たな短篇も組み入れて)ユニオールの人生を描いた壮大な小説を作る構想があるらしいのです。 ユニオールはきっと作者にとって特別な存在なんだろうなぁ。 唯一、女性が語り手をつとめ、ユニオールが登場しない一篇「もう一つの人生を、もう一度」の毛色の違いは何なんだろう? と思ったのですが、実は裏設定があって、ラファやユニオールが生まれる前の父親の話に繋がっていたらしい。 高次の構想への補助線がここにも引かれていたんでしょうか。 でもそうすると誰が父親なんだろう。 ラモンは暗示的人物だろうけど本人なはずはないし(それにしても意味深なタイトルだ)、アナ・イリスの息子の一人なのかな?
作品と作者の同一視は慎重に避けなければいけないけれど、著者略歴に目を通す限り、この作品が作者自身の体験の陰画であろうと想像することは、あながち間違いでないように感じます。 「浮気者のための恋愛入門」を書こうとし、書くことに希望を、恩寵を見出だそうとするユニオールの結末は、だから決して暗いものではないと思えるのです。 突き放した自己観察の場を得ることで、深い病根が自ずから精神史として高まる可能性の、その萌芽の兆しを凍土の下に感じることができるのではないかという気がして。


こうしてお前は彼女にフラれる
ジュノ ディアス
新潮社 2013-08 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
[若島正 訳] ものすごい密度。 心地よい疲労感。 充実の注釈は、“初読ではなく必ず再読のときにお読みいただきたい”って訳者さんのご助言ですが、無理っす・・誘惑に勝てませんでした。 可愛くて野蛮でお馬鹿さんな小悪魔、そんな元祖ロリータ像は(自分の中では)どんぴしゃりな感じでした。(逆に今、“ロリータ”という言葉がどんな一般的イメージを付与されてるのか聞かれてもよくわからなかったりする;;) ただもう、ここまで高尚な芸術性を備えた作品だったんだなぁって。 ポルノグラフィックな小説と誤解している人もいないだろうけども。 一回読んだくらいで感想晒すの腰が引けます。 ネットの海にゴミ捨てるようで申し訳ない・・と、思いつつ。
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。 我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。 舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
繊細で、傲慢で、哀れな男のグロテスクなメルヘンを抽出するユーモアのセンスにノックアウトされた冒頭の一瞬で、ナボコフの言葉の世界の虜になってしまった。
文学的言及、語りの技巧、絢爛たる言語遊戯・・ 精緻な迷彩が施された多面体のような小説。 少女性愛者のハンバート・ハンバートが獄中で綴った回想記(告白録)の体裁で、一筋縄ではいかないハイブローな文章が織られていきます(正確にはハンバートの原稿をジョン・レイ・ジュニア博士が検閲したテクスト)。 ハンバートの詩情と自嘲と諧謔と妄想と慟哭のハーモニー。 流れる旋律の味わいに読めば読むほど惑溺してしまうのでした。 ちょっと余談だけど、“陰翳と暗闇のハンバーランド”、“タクソヴィチ氏”、“愛人探偵トラップ”、“前ドロリアン紀”あたり、愛して止みません。 ナボコフにおちょくられてこんな言葉まで作らされちゃってるハンバートに同情。 20世紀中葉という時代のアメリカ社会の風俗、その物質的緻密さを活写するロードノヴェル的側面も有し、しかも既読ミステリを思い浮かべてみると、トリック的に「『アリスミラー城』殺人事件」が近いと思ったw でも注釈なかったらポカーンだった・・たぶん^^;
多種多彩な読みを可能にする「ロリータ」。 振り返ってみると、自分はもっぱらロマンチック要素重視で読んでいたことに気づきました。 これカミングアウトしてもいいんだなって、大江健三郎さんの解説に勇気をもらった。
「ロリータ」における作者の意図は何か? という問いに対して、“インスピレーションとコンビネーションの相互作用と答えるほかない”と、“教訓を一切引きずっていない”と、ナボコフはあとがきで牽制してるんだけど、こうも書いています。
私にとって、虚構作品の存在意義とは、私が直截的に美的至福と呼ぶものを与えてくれるかどうかであり、それはどういうわけか、どこかで、芸術(好奇心、情愛、思いやり、恍惚感)が規範となるような別の存在状態と結びついているという意識なのである。
たぶん、罪悪感を棄てた美意識というものは、ナボコフに美的至福をもたらさないんだろう。 この感覚が作品の中枢神経だった気さえして。 個人的嗜好だと言い張っても、読む者の意識無意識に何かしら喚起の種火を残してしまうのが名作の名作たる証し。
同じ性的倒錯者でありながら、ハンバートとクィルティは対照的であり、表裏の関係性が投影されていたのは確か。 分身(あるいは影)と捉えることが可能ならば、ハンバートが本当に殺したかったのは“自分の中の罪悪感と道徳観の欠如”だったと読むこともできるのではないか。 特に、けだものギアが入ってバッドトリップ領域に突っ込んでいった二度目の逃避行の時でさえ、追いかけてきた(と妄想した)トラップは、置き去りにした良心の権化に他ならなかったし、ハンバートは常に“純粋な嗜好性の追求”と“呵責や道徳的な自制”の狭間にあった人であり、クィルティはその葛藤を持たなかった人なのだと思う。 ロリータがクィルティを愛した(愛さざるを得なかった)悲しいほどの荒廃が、この小説の残酷な本質を突いている気がします。
また、愛するロリータが“ニンフェット”ではなくなる時を迎えることへの怖れや焦燥、そこにハンバートのもう一つの自己撞着を読み取ることができるかもしれない。 ニンフェット愛とロリータ愛はハンバートの中でイコールではなかった事が判明する終盤の、救われないことで救われたような救われない痛み・・ つかまえどころのないまま、さざ波のように揺れるだけの微かな感傷が、わたしの胸を焦がしました。 あの再会の場面、薄っすらロリータとシャーロットが重なるんだよなぁ。
注釈によると、ナボコフ研究者の間では、ロリータの手紙が届いてからの出来事は現実に起こったものではなく、ハンバートの作った虚構だという読み方があるそうです。 最初、ピンとこなかったんだけど、慧眼なんじゃないかと、実は今、じわじわ来てます。 クィルティ殺しの場面は、“奪われた贖いを取り戻す”儀式として無意識のうちに寓意的に読んでいたんですが、あの、グロテスクな喜劇舞台と化した一場の、現実感覚の超越具合いが俄然、説得力を増す気がするし、それに、この説を採ると、ジョン・レイ・ジュニア博士が書いた序文もハンバートが構築した虚構の一部になるんですよね。 “道徳意識とは美意識に対して払わなければならない税金である”との訓戒に辿り着いた自身の体験を芸術作品に昇華することに贖いを見出そうと思い定めたハンバート像が、更には、ハンバートにこの贖いを課した、永遠の命たる芸術の力を信じるナボコフ像が、この説を採ることでより際立って見えてきて、作品の主題がピタッと嵌る気がするんだけどなぁ。 ロリータが生きてるうちに手記を発表して彼女に迷惑をかけることはハンバートの本意ではないから、ロリータが死んでしまったのは本当なのだと思う。 むしろ手記を書かせた強い動機がそこに生まれたのかも・・なんて。 あー、眠れなくなりそう^^;

<後日付記>
ハンバートに、いや、ナボコフに騙された・・orz 甘いなぁ・・わたし。 彼(ら)をもっともっと疑ってしかるべきだったと「ロリータ、ロリータ、ロリータ」を読んで気づかせてもらいました。 そして、「ロリータ」がますます好きになり、ますます“本物の文学”だと思い、ますますわからなくなってしまった。 ハンバートの信用ならざる心から生まれた正真正銘の芸術。 この齟齬をどう読めばいいのか・・受け止めきれない。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社 2006-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★★
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アリアドネの糸 / キャロル・クレモー
[山本やよい 訳] イースト・コーストの都会型総合大学で古典学を教える準教授のアントニア・ニールセンが、大学博物館で開催される“エーゲ文明黄金展”の準備期間中に起こった展示品の盗難事件と、研究熱心な古典学科の学生アリアドネ・パパス失踪事件の謎を追うキャンパス・ミステリ。
ギリシャ神話はもとより、 “エウリピデスの戯曲の失われた断片”という古典文学的モチーフを絡めつつ、古代の遺物という考古学的エッセンスをあしらいながら展開していく眩いばかりのギリシャ・エーゲ色が魅力な作品でした。
犯人当ての鍵となるのはダイイング・メッセージ。 古典文学の大学教授たる作者クレモーの面目躍如な仕掛けと言えそうです。 言語へのこだわりが随所に織り込まれている気配はあるものの(訳者さんはご苦労くださっているのですが)いかんせん素養がないもので、その辺のニヤリポイントを悉く逃してる自信があります。
でも何よりの読みどころは、言うなれば神話を現代バージョンで書き換えた今アリアドネの物語であったということ。 古代のアリアドネと二十世紀のアリアドネが、自分の夢を叶えるための糸をどのように手繰ろうとしたか、その行動比較がテーマといっても差し支えないんじゃないかな。 女性作家が描くフェミ系なヒロイン像が印象的でもありました。
80年代前半頃のコンテンポラリーな作品なので、微妙な古さがなんとも^^; ジョーク交じりのスカした会話が日本語に変換されると浮いてしまうのは、お国柄以上に時代性というのもあるのかどうか・・ でも、この(ほとんど様式美と化した)ムズムズ感が案外と楽しめたりもしたのだった。


アリアドネの糸
キャロル クレモー
早川書房 1984-09 (新書)
山本やよいさんの訳本いろいろ

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