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巨匠とマルガリータ / ミハイル・A・ブルガーコフ
巨匠とマルガリータ
ミハイル A ブルガーコフ
河出書房新社 2008-04
(単行本)
★★★

[水野忠夫 訳][池澤夏樹=個人編集] 旧ソ連公認の文学史から一度は抹殺されてしまうも、スターリン死後の“雪解け”の時代に再評価の一歩が始まり、徐々にその機運が高まって、特にペレストロイカ時代以降の歴史の見直しの過程で研究が進み、今や完全復活を果たした作家ブルガーコフの代表作。 しかし名誉回復を知らないまま、本人は1940年に四十八歳で亡くなっています。 特に晩年は不遇をかこち、そんな中で活字になる当てもなく本作は書き続けられたという。
熱い春の日の夕暮れどき、悪魔一味がモスクワに降臨し、大パニックを引き起こします。 文学雑誌の編集長との神の有無をめぐる議論に始まり、アパートの一室を乗っ取って住み着いては満月の悪魔集会を開いたり、黒魔術の見世物興行で舞台に出演しては劇場中にルーブル札の雨を降らせたり・・ それはもうエスカレートするわするわ^^; さながらドタバタ狂詩曲の様相とでも申しましょうか。 SFとメルヘンとロマネスクが渾然一体となったような映像喚起力のあるスペクタクルな幻想性と、端役の隅々に至るまで(むしろ端役なればこそ?)のキャラクターの生きのよさが絶品。
粛清の吹き荒れた恐怖の時代のモスクワが悪魔によってコケ威され、翻弄され、嘲笑される小気味良さには、ある種痛快なものがあり、同時代に生きながらのこの発想の放胆さ、不敵さに拍手喝采を送りたくなります。
モスクワの住宅問題、外貨隠匿行為やその発覚への強迫観念、不適切分子の精神病棟送りなど、1930年代の冬の時代真っ只中のモスクワの社会状況のあれこれが、辛辣な皮肉とユーモアでグロテスクなまでに活写されているのですが、主題となっているのは共産主義の根本に関わる無神論の問題だったでしょう。
無神論が共産主義社会の機能不全を引き起こしている大きな要因であると著者は告発しています。 人間は人間の理性を過信してはいけないのだと。 無神論を敵に回しては人知を超えた存在同士、神と悪魔は一蓮托生というか、高次元で止揚されてしまうのだよね。 そんな顛末が新鮮で面白かったのだけど、月報で池澤夏樹さんが、ブルガーコフは人間の善性を信じて失敗進行中の共産主義を目の当たりにしている今更、神に頼るわけにもいかないから悪魔に頼ったのだと分析されていて、これは至言!とちょっと笑ってしまった。
本作品のもう一つの軸を成すのが、当局サイドに阻まれて“傑作”の発表が叶わない作家の“巨匠”と、彼を支える愛人のマルガリータ。 ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスを主人公に据えて執筆した、二千年前のエルサレムにおけるナザレの人ヨシュアの磔刑にまつわる物語がキリスト賛美とみなされ、“巨匠”は編集者や批評家の執拗な攻撃を受け、精神を病み、自らの小説を火に焚べて燃やしてしまいます。 マルガリータの無心の愛が(悪魔に届き)“巨匠”とその作品を救ったように、きっとブルガーコフの晩年は妻エレーナの支えがあればこそだったのだろうな。 ブルガーコフ自身と妻エレーナが“巨匠”と“マルガリータ”に投影されていたことが察せられます。 しかもタイトルから想像するに、本作は二人の愛の結晶と言っても言い過ぎじゃない気さえしてきます。 ブルガーコフとその作品の復権の陰にはエレーナの奮闘があったという。 本作はまさに愛の力によって忘却の灰の中からよみがえったのであり、作中の悪魔の名セリフ“原稿は燃えない”を自ら証明してしまうとはなんとも魔術的で伝説的ではないか。
臆病であることの罪深さを神にも悪魔にも繰り返し説かせながらも、反体制の烙印を押されることに怯え、声を上げたくても上げられない人たちの真摯な心の葛藤に対しては同情的であり、二千年間さまよった煉獄からのポンティウス・ピラトゥスの救済というかたちでその意思が表明されていたと思います。
それでも、現実世界はにべもなく眼前に横たわり。 ソヴィエト時代の権力機構の中で生きていかざるを得ない人々の逞しさと哀愁が滲むエピローグ。 ポンティウス・ピラトゥスの苦悩は時代を超えてイワンに引き継がれた感があるのですが、イワンには同時に“巨匠”の最期を見届けた弟子としてのマタイ像がおぼろげながら重ねられているようにも思え、迎合するくらいなら詩人であることを辞める道を選択したイワンへの眼差しは決して冷たくないし、献身的な妻の存在は、もしかしたらたった一人の読者を得る日がいつか来るかもしれない可能性を否定するものではなかったんじゃないかと思えたりもして。 未来へ託されたささやかな福音の感触をいつまでも反芻したくなる余韻深い読後感なのです。
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厳重に監視された列車 / ボフミル・フラバル
厳重に監視された列車
ボフミル フラバル
松籟社 2012-09
(単行本)
★★★

[飯島周 訳] フラバルは20世紀後半のチェコ文学を代表する、いわゆる“亡命文学”の担い手(西側諸国で出版されたという意味で)の一人なのだが、さまざまな悩みや葛藤を抱えながら国内に留まって創作を続けた作家だそうだ。
ナチスドイツの保護領だったチェコ。 主人公のミロシュ青年が見習い操車員として勤務する国営鉄道の小さな駅が舞台である。
最優先の厳戒兵員輸送列車を始め、行き交うのは家畜を乗せた貨物列車や、物資や郵便を前線に届ける急行郵便車や、傷病兵を運ぶ病院列車・・ 軍事における重要なインフラであったろう鉄路の光景が活写されている。
ミロシュ青年の語りなのか、そこから広がる何かなのか、のたくた長いセンテンスは文法を超えて折重なるように蠕動し、イメージのピントを撹乱する。 原文の感触は一体どんな風なのだろう。 わたしなんかが一度読んだくらいで何かを語れるような小説ではなかったものの、理解というかたちに回収できない悩ましさが読後ずうーっと胸に居座ってしまった。
1945年2月。 戦争も末期で敵も味方も疲弊し、殺伐と、そして何処となく遣る瀬無い気配が揺曳している。 燻る誇りや憤りを微妙に拗らせた抑圧下にあるライフスタイルの精神性が戯画の中に鮮烈に息衝いているのを感じる。 民話のようなエピソードが断片的に煌めく大らかで猥雑な風土と、感受性の強いミロシュ青年の痛々しくも凡々たる性の悩みの滑稽さに、極限状態での感覚の麻痺や認知の歪みが縒り合わされて、落ち着きの悪い何とも特異な悲喜劇的世界を出現させている。
乾いた死や不条理が充満し、静かな狂気をどうしようもなく孕んでいるかのような映像美に対し、卑小なウィットとして描かれるエロスは紛れもない“生”の象徴だ。 ミロシュ青年に託されたモチーフはいじましい生への希求であったろうに、彼がせっかく手にした生のエネルギーが、こうも容易く無造作に死のそれへとスライドしてしまうとは。
戦時下で“男になる”とはこういうことなのかと、シリアスなラストにも一抹のアイロニーが漂うかのようで、気持ちの行き場をどうにもロストしてしまう。 若さという未熟と非日常化した日常がチグハグに凸凹に絡み合っている可笑しくて哀しいキメラのような物語であった。
メランコリックな装いなのに一皮剥けば恐ろしいほど冷めた突き放しがある。 戦時を生で体験した者でなくては絶対に描き得ない境地なのではなかろうか。
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女が嘘をつくとき / リュドミラ・ウリツカヤ
女が嘘をつくとき
リュドミラ ウリツカヤ
新潮社 2012-05
(単行本)
★★

[沼野恭子 訳] 人気と実力を兼ね備えたロシアの現代作家、ウリツカヤの連作短篇集。 素朴でありながらウィットがあり、辛辣で温かく、真面目に受け取ればいいのか笑えばいいのか、独特の語り口から生まれる文章の呼吸が好もしく、すっかりファンになってしまいました。
必要に迫られ、状況を見極めてつく謀めいた建設的かつ実利的な嘘が男の嘘であるならば、女の嘘とは、“ひょいと、心ならずも、なにげなく、熱烈に、不意に、少しずつ、脈絡もなく、むやみに、まったくわけもなく”つかれるものであるとウリツカヤは指摘します。
天賦の才を持った女が奏でる嘘の、歌のような、おとぎ話のような、その厚かましくも無邪気な創造性に霊感を刺激された作家が、この問題を扱ったささやかな文学研究と称し、心に開いた空隙を埋める危うくも魅惑を秘めた女の嘘をテーマにした6つの短篇を編みました。
南ロシア地方の保養所で、モスクワのアパートで、チューリッヒのキャバレーで・・ その時々に出くわす嘘つき女たちの打ち明け話の聞き手となるのはジェーニャ。 第一話から最終話まで約20年の時間が経過し、ジェーニャ自身については、一度目、二度目の夫との間に一人ずつ息子を設け、破綻しかけるも二度目の結婚生活をなんとか立て直し、二人の息子と夫とモスクワで暮らしながら、研究職からテレビ、出版の仕事へとパワフルに転身を重ねていく・・といった大筋の歳月を遠景で捉えています。
“うまくいかない私生活”の悩み事を抱えている局面で、決まっていつも法螺話を聞かされるというシチュエーションなのですが、嘘だと知って大変なショックを受けるウブな20代から、30代、40代と歳を重ねるうちに、部分的にしろ嘘を見分けたり、騙されたことを笑い飛ばせたり、騙された者の慰め役になったり、観察者の目線を持ったり、人間的成熟に伴う反応の変化が見て取れます。
トータルでジェーニャの人生を見据えた一つのストーリーが淡く紡がれていると言ってもいいのですが、何かしら警句を得ようと法螺話がジェーニャに与えた影響などを短略的に推し量ろうとすることに意味がありそうな感じはしなかったです。 ジェーニャ自身が主役となって前面に押し出され、一気に単調なパターンが破られ奥行きが広がる最終話の位置付けが、まだ自分の中で定まっておらず、作品の全体像がぼやけているからかもしれないのだけれど。
リーリャの夢の話を聞いたジェーニャが、一種のカタルシスを得て生きる気力を取り戻したとするのは、どうもあまりしっくりこなくて。 嘘(虚構)の力を肯定するためのこじつけ的解釈程度にしか思えないというか。 それよりも、リーリャやハーヴァが封印してきた嫉妬心を吐露し、ジェーニャに対して本心で向き合ったことが、また彼女の心をも解放へと導いたのではないかと、シンプルにそう思ってしまった。 最後の一篇だけは、嘘から反転する合わせ鏡のような“本心”の物語だった気がしたのだよなぁ。
しかしながら。 この、乾いた心に染み込む慈雨のような物語こそが、ウリツカヤの拵えた嘘(虚構)に他ならない事実。 小説家の紡ぐ素敵な嘘を、読み手をチャームするスペシャルに真っ赤な物語を、自分はやはりどうしようもなく欲しているのだとしみじみ思ったり。
停滞の70年代からペレストロイカを経て、ソ連崩壊後の新生ロシアまで、約20年の輪郭が時代背景として溶かし込まれています。 社会情勢、経済、宗教、ロシア文学、伝統、気風、生活スタイル・・ 日常の光景の中に簡素でありながら力強く民族的な鼓動が脈打っていて、“風俗作家”という形容がとても似つかわしいものに感じられました。
偽善なんていう概念の生っちょろさが尻尾を巻いて逃げ出しそうな。 西洋の古風な小説にしばしば登場する意固地なまでのハイパーお人好し婦人の衣鉢を継いでそうなジェーニャの人間味が好き。
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カールシュタイン城夜話 / フランティシェク・クプカ
カールシュタイン城夜話
フランティシェク クプカ
風濤社 2013-02
(単行本)
★★

[山口巖 訳] “チェコでもっとも才能ある語り手の一人”と言われる著者が、第二次大戦中に書いた“歴史的雰囲気の三部作”の第三巻に当たる作品。 時は14世紀。 チェコの王統プシェミスル家の血を引く神聖ローマ帝国皇帝カレル四世が、帝都をプラハに定めて都市開発を進めたことから、美しく洗練された都へと大きな発展を遂げた黄金期のプラハ。
宮廷で何者かに毒を盛られ、一命は取り止めたものの、聖霊降臨祭までの一週間を、プラハ郊外の丘に建つ、森と葡萄畑に挟まれたカールシュタイン城で療養することになったカレル四世。 無聊を慰めるのは、ともに鬢の白くなった三人の心許せる側近たち。 愛情と気遣いに満ちた隠れ家での束の間の遁世は、衰弱した皇帝の心身を癒し、英気を蘇らせるひと時に。
集いの側近とカレル四世が代わる代わるに語り手をつとめ、一夜に三話ずつ物語を披露し合うという趣向で編まれていく二十一篇の枠物語。 「千一夜物語」或いは「デカメロン」のチェコ版と形容するに相応しい魅惑の香りが封じ込められています。 男たちの夜語りとなれば話題の中心はやはり女性。 遍く愛をめぐるモチーフの瞬きに、緊張し、身震いし、微笑み、安らぎ、時に敬虔な沈黙に身を浸し、満足のため息とともに夜会の帳は降りてゆく・・
美しい王女や不実な夫人や奔放な町娘、聖人、英雄、騎士、悪魔、天使、亡霊など、御伽噺の儀式的エッセンスと、アビニョン捕囚や黒死病や百年戦争、イタリア諸都市におけるギベリン党とゲルフ党の対立抗争など、歴史を踏まえた精緻な背景が共鳴し、クロスオーバーしています。
地上で人から聖人に変わったヴァーツラフ聖公の(存在したかもしれない)無名の妃の話、フィレンツェの魔術師を侮った若者がプラハの宮廷から幻の王国に飛ばされる話、外国からカレル大学にやってきた学生が酒場の踊り子に暗い情熱を捧げる話、フランチェスコ・ペトラルカがプラハ滞在中に経験した(かもしれない)詩人らしい愛の話、カールシュタイン城の教会の壁画を描いたデドジフの弟子が、その旺盛な食欲によって引き起こす笑い話など。
また、舞台はプラハを離れ、ピサ、ルッカ、ブルゴーニュ、アビニョン、フランドル、ナヴァラ、アンダルシアといったヨーロッパ各地の異国情緒を奏でる愛と冒険風の様相を呈したり、カレル四世が語り手となって史実を包み込むように恋人や亡き王妃たちの思い出を振り返る自叙伝風の味わいを醸し出すなど、縦横に織り上げられた雄渾な物語世界は、“人の魂をめぐって争う天国と地獄”といった中世的テーマ性を色濃く反映しています。
見事に完成された美しい説話である放浪の修道女ベアータの話は(全く同じ話を)なぜか知っていて、どこで触れたんだろう・・と訝りながら読んでいたのだけど、章の末尾に語り手たちのこんな会話が挟まれています。
だがヴィーテク卿は笑って言った。
「誓って言うが、私はこの事件のことをボローニャで聞きました。そしてその修道尼もやはりベアータという名でした」
イェシェク師は言った。「卿よ、私もどこかで聞きました。悪魔も護れなかった夫人の話や、全ての女の愛から逃げだした若者の話を。ところで卿よ、あなたの話に戻れば、それはどうでもよいことです。ベアータはいたし、今もいるのです! たとえプラハかボローニャにいなくても、ノリンベルグかパリにいるのです」
「私はあなたの物語をけなそうとして言ったわけではありませんぞ。あなたが言われたように、それが私たちの町プラハで起こったことが嬉しいのです」
著者あとがきを読んでわかったのですが、この「ベアータ」を含む五篇は、中世から流布する古譚をチェコ風に再話した物語だったのです。
創作による残り十六篇も(著者の色を消し去って)古譚の趣きを見事に踏襲しているのですが、その中に、何度も語り直され語り継がれてきた“本物”の伝承的息吹きを注ぎ込むことで、作品全体に強靭な生命力を宿らせ得たかのよう。 語りの真偽は詮索しないという暗黙の了解のもとでの余興、その、歴史のささやかな秘話的な曖昧感も含めて、この一冊がそのままチェコの伝説の一ページに加えられても不思議じゃないくらいに思え、あぁ、これが語りの魔術というものの正体なのじゃないかと感じ入りました。
疲弊した戦争の時代にあって、心の奥深くにある誇りを静かに確認するような・・ 祖国への愛に貫かれていながら、圧迫感を伴うような偏狭さや気負いが全くないのです。 ドイツの強制収容所に送られたチェコ人の間で密かに回し読みされ、愛されたという妙なる遍歴を持つ作品なのですが、素朴で平明な逞しさに加え、長篇としての(外枠の)ラストで示された真の孤独を知る者だけが勝ち得る優しさと強さ、そこに宿る品位と崇高こそが尊ばれた証しなのではなかったかと思えてくるのでした。
余談ですが、トリックアートっぽいシュールでおぞましやかな表紙カバーが素敵。 作田富幸さんとおっしゃる銅版画家の作品らしい。 ふと、ルドルフ二世の肖像画で有名なアルチンボルドが(プラハ繋がりで)思い浮かんだり。 でも本物のカールシュタイン城って異様感全然なくて、むしろブロックで拵えたみたいに可愛らしく見えてしまった。 あくまで画像検索の話です。 直に触れたことのない愚を承知の暴言なので悪しからず。
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誰がドルンチナを連れ戻したか / イスマイル・カダレ
[平岡敦 訳] 現代アルバニアを代表する作家によって1980年に発表された小説。 本書は亡命後のフランスで1993年に出版された全集版に収められている(大幅な)改訂版を底本としているとのこと。
アルバニアに伝わる実際の民間伝承によって輪郭を与えられている作品で、伝説が生まれた原風景を紡ぎ出すと同時に、その背後に横たわる混迷に光を当て、真実の核を抽出する趣向。 舞台は中世なのですが、時代背景の作り込みは薄く、何がしか寓意に満ちたお伽話の国に迷い込んだ風合いと、ミステリ空間の霧めく肌触りが一体となった緊密さに魅了されました。
一人娘のドルンチナを遥か遠国に嫁がせて間もなく、九人の息子を戦争で失う悲劇に見舞われたアルバニア諸公国随一の名家、ヴラナイ家。 残された老母が一人暮らす、死の影と荒廃に満ちた屋敷に、ある日突然、ドルンチナが現れ、戦死した兄の一人、コンスタンチンによって連れ戻されたのだと告げる。 治安責任者のストレス地方警備隊長が、ドルンチナ帰還の不可解な謎を追う・・というスタイルは推理小説を踏襲していて親しみやすく、その機知に富んだエッセンスを遺憾なく落とし込んでいます。
無遠慮な流言は群衆によって引き回され、その流言によって翻弄される群衆と、異端思想を封じ込め、事件を葬り去りたい為政者側の思惑が錯綜し、その狭間で煩悶するストレス隊長・・という構図なのですが、オカルト的風説でも社会的解決でもない、起こったことの公正な分析が、ストレス隊長の理念の反映とイコールで結ばれるラスト。 現実と形而上学を併せ持つ世界の混淆が高遠な余韻を響かせます。 的確な表象はその奥に広がるヴィジョンを鮮明に映し出し、饒舌と寡黙の緩急の洗練が美しい。
“死者のメッセージ”というテーマは、カダレ作品の特徴の一つなのだそうですが、本篇もまさしくその地平にある作品でした。 聖書における“キリストの復活”という象徴性が、物語の成立に大きくかかわっていたように感じられます。 “死の定めをも動かすことのできる、真に崇高な力とは何か?”の問い直しであり、聖典の啓示に新たな息を吹き込む覚悟で、己を律する“誓い”の必要性を説いたと言っても言い過ぎとは思わないくらいラディカルな思想性を感じました。
変転する価値観に押し流されるのではなく、個々人の内側から発する規律に立ち返るべきであり、それは、世界から逃げ、閉じこもるためではなく、世界へ開き、結びつくために必要なのだと説く声音には、深刻な社会情勢の只中を、大洋の波に揺れ漂う祖国への憂いが刻印されていて、その共有できない想いの強さにハッとさせられ、自分の生きる足元を見つめてしまう・・


誰がドルンチナを連れ戻したか
イスマイル カダレ
白水社 1994-01 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語 / ゾラン・ジフコヴィッチ
[山田順子 訳] ジフコヴィッチは東欧(旧ユーゴスラビア)の現代作家で超ジャンル的な幻想小説の書き手。 70年代に、先鋭的なSF研究(いわゆる“スペキュラティヴ・フィクション”化していくSFへの関心)を出発点として文学活動に入ったという経歴が、なるほど(そう言われてみると)作品から匂い立ち、鼻腔を擽る感じがしてきます。 截然たる別世界というよりは、なんとなく内的思考の飛翔に由来するマインドスペース的な幻想である辺りが・・
本書は三つの短篇を収めた小セレクト集で、どちらかというと、日本の読者にジフコヴィッチを紹介するパイロット編?といった趣きなんですが、わたし、波長が合いました。 とても好きです。 更なる邦訳を心待ちにしたいです。 代表作といわれる「The Library」を是非とも。どうか。
常識や保守という自制の中で堅実に生きているけれど、そこからはみ出した世界への感受性を無意識下に温めているような主人公たちが遭遇する不思議の追体験なので、日常という地表の確かさを意識しながら読むことができ、決して難渋な印象ではないと思うのです。 プロットにもはっきりとした輪郭があり、どこか原初的な作話本能を感じさせる物語の愉しさに夢中になることができました。
その背後に、人間がまだ解き明かせない摂理の秘密が物思わしげに横たわっているような・・ 普遍なるものの本質を探る手触りが霊妙な奥行きを醸し出し、漠とした実存の不安にグラッとくる感覚もあり、怖いのかたわやかなのかわからないような不思議な静けさに包まれている。
一話目は寓話チックで、二話目はホラーチックで、三話目はちょっとミステリ。 一話目の「ティーショップ」が、今年のマイベスト短篇ってくらい好き。 語り終えたところから語り継ぎ、どこまで転調していくの?って思ったら、内宇宙と外宇宙を繋ぐニュアンスが有るか無きかといった円環構造で閉じられてるという・・だけではなかった。 最後の最後で鳩が飛び出すような展開になるのが素敵すぎて、極上のマジック・ショーに一観客として拍手喝采を贈りたくなります。 語る、聞く、伝える・・ 物語を物語たらしめるすべてが詰まった粋な作品でした。
非業の焼失を遂げた古代叡智のシンボル、アレキサンドリア図書館の御霊を、あの世の淵から呼び起こしてしまった恐怖と陶酔が、昏く激しい火焔の中で遠い遺恨と縺れ合う「火事」も、必然と偶然、運命と意志の神秘的概念を流麗かつアイロニカルに織り上げた「換気口」も、三篇それぞれにこよなく美味。


ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語
ゾラン ジフコヴィッチ
Kurodahan Press 2010-10 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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もうひとつの街 / ミハル・アイヴァス
[阿部賢一 訳] 未知の文字で書かれた一冊の古本を手にした語り手の眼前に、この世界と紙一重の裏側で蠢く奇妙な平行世界への扉が開かれます。 越境への誘惑に駆られ境界線上を放浪する語り手・・ その足取りを追うという粗筋だけを眺めれば非常にシンプルですが、シンプルほど厄介なものはないの好例のような作品です。
虚数の世界、反物質的世界を想起させられるんですが、それらは遠い原初への郷愁を呼び覚ます装置として具現化されています。 人の意識の古層に疼く、対を成すもうひとつの世界の断片的な記憶や、おぼろな共感を頼りに、かつて一つだった遠い昔の肥沃な暗い輝きを思い出そうとするテキストは、ボルヘスやカルヴィーノの地平を切り開く作家(と紹介されていました)に相応しい魔術的な色彩を迸らせて飽くことがありません。 覚悟してはいたものの、いやはや、探究的で、宇宙観的で・・ 虚を突かれる形而上学的刺激に満ちた物語でした。
でも、うっとりするほどシュールでファンタジックな細部のモチーフの連なりによって、寓話のようなムードが全編を押し包んでいるし、境界に亀裂が生じた場所に引き寄せられて、向こう側を物欲しげに眺めていた語り手が、じわじわ浸蝕し合いながら、謎めく異郷の怪しい異邦人との接触面を広げていく展開はアドベンチャラスでスリリングでさえあって、難解さを相殺するコスチュームを纏った演出、趣向がいわゆるスプロール・フィクション風な印象も刻んでいます。
そして、舞台となる街、雪の降り積もった凍てつく夜のプラハ。 茫洋と美しく錯綜するミスティなプラハに魅了されずにいられない。 旧市街広場、ペトシーンの丘、カルロヴァ通り、カレル橋・・ ローカルなスポットや街路の隅々まで、雪片と見惑う幻想のベールにすっぽりと覆われて、鈍く淡く混淆しながら闇と光がせめぎ合っています。 ペルッツのプラハと響き合って、もうね、聖地巡礼したくなるほどの魔都レベル。
“重要な伝達を唯一もたらすのは喧騒やざわめきであり、言葉は喧騒やざわめきに意味もなく付随するものにすぎない”とは、まるで、言葉で表現できないものを切り捨て、見失うことで発達してきた言葉の拭い難い一面を嘲笑うかのよう。 そんな境界の向こうの言葉の概念を言語化しようというパラドックスへの果敢な試みは、秩序を根こそぎひっくり返したような悪夢的な文脈が全く頭に浸透せず、大変な消耗を余儀なくされたわたしをもって、その成功の証しと頷いてはいけなかろうか。
“あの世界はこの世界が空っぽとみなす場所にあり、あの世界の空っぽなところはこの世界で満ち足りている”のだとしたら、そもそも捉えられないものを描写しようというのが無理な話なんだが、意味がないという意味、言葉にできないという言葉のジレンマに切り込んで、それを見事に格納してしまった物語だなぁと思うのです。
知覚してよいはずのものだけを知覚するために、自ら無意識に感覚を限定し、制御することや、そもそも知覚に依存し、その世界を万能だと思い込むことが人のリミットになるのだと警鐘を鳴らす一方で、“現実”という認識の不確かさが秘めた可能性に言葉の未来を模索しようとする息吹・・ このテキストに、そんな意味合いを求めようとする硬直さそのものを澄ましてからかってるみたいな一歩先ゆく感。
夜のプラハを彷徨する語り手の蠱惑的な不思議体験は、閉塞感を打開しようと迷走する(恐らくは作家の)思索の旅路そのものなのではなかったでしょうか。 連鎖しながら進むダンジョンは、その一つ一つに何か啓示的でないという啓示が満ちているようで、でもそれは思考した途端に壊れてしまう・・ 認識できるすべてを駆使して行われた認識への反抗小説と言っても過言でないかもしれない。
ただもう、ヴィジョンを創造する幻視力に酔いしれ、堪能するばかりで本望だったよね!って最後には開き直ってしまいたくなりました。 読み終えてみると、まるでメビウスの輪のような、クラインの壺のような・・ 未知とは、捨て置かれ、忘れられた内部に他ならないのだと。 そんな想いがぼつんと残りました。


もうひとつの街
ミハル アイヴァス
河出書房新社 2013-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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夜毎に石の橋の下で / レオ・ペルッツ
[垂野創一郎 訳] 16世紀後半から17世紀前半、ヨーロッパの中心都市として繁栄を極めたプラハの一時代が、物語を司る神たる作者の秘法で、幻想歴史絵巻として召喚された・・そんな形容をしたくなる魔都的ロマンに満ちた傑作。
19世紀から20世紀への変わり目(オーストリア・ハンガリー二重帝国時代)に、当時まだ少年だった“わたし”に医学生の家庭教師が語ってくれた“ギムナジウムでは教わらない”遠い古のプラハの街の千夜一夜物語。
先生の下宿するユダヤ人街に通った日々を半世紀後(第二次大戦後ということでしょう)に追想する大外枠を配置した二重のノスタルジーを演出する三重構造の枠物語の体裁(「半七捕物帳」みたい!)になっています。 と同時に、中世を舞台にした個々の作中短篇は、時空を往還しつつ、互いに補完し合いながら、徐々に目に見えない摂理の作用を浮かび上がらせ、長篇を炙り出していくという趣向。 必然と偶然と、それらを超越した魔術が渾然一体となって織り上げていくタペストリーのような世界観と、この重層的な仕掛けとの相性が抜群でした。
芸術を愛好し、オカルティズムに傾倒する数奇者にして政治的には至って無力だった神聖ローマ帝国皇帝でありボヘミア国王のルドルフ二世が統治するプラハ。 汚職、腐敗、富と貧困、罪と徳・・に彩られたヴルタヴァ河周辺のユダヤ人街や旧市街や宮廷・・ 人種や地位を越えて右岸と左岸を繋ぐ石の橋を象徴的に冠したタイトルに魅入られずにいられない。
倦んだ街の濃厚な気配が夜気に溶け込んで、仄白い月明かりに照らされているような・・密やかな遣る瀬無さ。 そんなプラハの街とそこに暮らす人々への愛惜にも似たウィットと諧謔が一篇毎に灌ぎ込まれていて、単純に短篇として読むだけで満足度が半端なかったです。
実在の人物であるルドルフ二世と、ユダヤ人の豪商モルデカイ・マイスル、高徳のラビ・レーウの三人が、作者の創造した“麗しのエステル”を巡り、伏流する因果律に導かれ光と影のように綾を成していきます。 人の背負うもの、孤独や寂寥が愛を呼び寄せ、その愛ゆえに苦しむのがまた人なのである・・
侍従や宮廷道化師、錬金術師、ボヘミア青年貴族、ユダヤの婚礼楽師や芸人、無名の絵描き、田舎者男爵、尨犬らに加え、宮廷天文官を務めるケプラーや、若き日のヴァレンシュタインが、一本の糸として物語を支え、要所要所の歴史や伝説を縁取っていきます。
神聖ローマ帝国とボヘミアとユダヤ教徒・・ 緊張を孕んだ中世プラハの三者の共存は、形を変えて近代のエピローグに投影されています。 歴史は繰り返すというけれど、人の世の普遍や無窮の時を感じさせられ、それでいながら、古きものが消滅していく無常観と郷愁に包まれてもいるという・・ 万物照応の魔術に嵌りつつ、悩ましくも満たされた吐息と共に本を閉じました。


夜毎に石の橋の下で
レオ ペルッツ
国書刊行会 2012-07 (単行本)
著者の作品いろいろ
★★★★★
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園芸家12カ月 / カレル・チャペック
[小松太郎 訳] 1918年から1938年の20年間は、チェコ文学の最も華やかな時代だったそうです。 当時を代表する文化の第一人者であった著者の珠玉作。
ページを閉じてしまいたくなくて・・ いつまでもいつまでも慈しんでいたいような・・ なんかもう、宝物の一冊。
園芸マニアの貪欲で懲りない(しかし愛すべき)生態を諧謔たっぷりに描いた歳時記。 植え付け、植え替え、剪定、苗選び、暑さ寒さや雨風や日射し対策、病気予防や虫退治、土壌の改良・・と、全く気を抜く暇のない一年なのです。
四季は廻り、命は循環し、ゴールというものがありませんが、報われないことだらけでもなんのその。 土いじりへの飽くなき情熱に身を捧げてしまう哀しき性分よ。
花を愛でたり、果実を収穫することが目的というより、そこに至るための苦心惨憺、一喜一憂のプロセスが楽しくて仕方ないみたい。 とっても幸せそうなんですもん^^
もし園芸家がエデンの園にいたら、知恵の木の果実を食べることも忘れ、神様の目を盗んで地面の素晴らしい堆肥をちょろまかせないものかと考えるんです! もし園芸家が自然淘汰で進化していたとしたら、背中を曲げるのは難儀なので無脊椎動物になっていたに違いないし、置き場がなくて足が邪魔にならないように翅が生えていたに違いないのです! もし園芸家が次の世に生まれ変わったら、花の香に酔う蝶ではなくて、大地の珍味を求めて土の中を這いまわるミミズになります!
変化と活気のある創造的な計画でいっぱいの12カ月は、詩情溢れる世界と地続きになっていて、春のオーケストラは芽の行進曲を奏で、雨は銀の鈴を鳴らし、散り残った一葉は戦地に翻る歴戦の旗となって風にふるえ、ダリアの聖人は聖人伝の中で輝いている・・ さざめく自然は空想の翼に乗って軽やかに舞い、小さな庭は瞬く間に魔法の花園へ・・
押しつけがましさのないポジティブ・シンキングが読んでいて心地よいです。 一見、休息や後退のようであっても、それはもっと大きな前進の中に組み込まれた大事な役割の一部であるのだと。 求め続けていられることが命の美しさなのだと・・ 園芸家を通して人生の素晴らしさや、根源的な労働のよろこびを、まるで鼻歌のように謳ってくれているようで・・
生涯の協力者であったというヨゼフお兄さんの挿画と息がぴったり! 更にいえば訳者の小松太郎さんも含めて、なんなんでしょう。 この一体感は!


園芸家12カ月
カレル チャペック
中央公論社 1996-03 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★
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バーバ・ヤガー / アーネスト・スモール
[ブレア・レント 絵][小玉知子 訳] 森谷明子さんの「深山に棲む声」を読んでバーバ・ヤガーにもっと触れてみたくなり、探していたところ、この絵本にたどり着きました。 少しかすれたような黒い線と面が基調にあって、全体も抑えた色彩、版画のように素朴な雰囲気と緊密な装飾性が美しい絵。 アメリカ人のブレア・レントは、子どもの本のイラストレーターなのですが、アーネスト・スモール名義で絵本作家としても活動していたそうです。
バーバ・ヤガーはロシア民話に登場する森の魔女。 ビジュアル的に独特なセンスがあり、一度知ったら忘れられなくなるような精彩を放つ魔女なのです。 現代作家のイマジネーションを刺激するのが頷けます。 元は民話なので、おそらくあらすじには様々なバリエーションが存在すると思われるのだけど、この絵本が民話の再話に近いのか、オリジナリティを持たせたリメイク童話に近いのか、その辺は定かではありません。
少女が森でバーバ・ヤガーに捕まってから無事に家に帰るまでのお話です。 冒険譚や変身譚モチーフが機能する快活なストーリー。 バーバ・ヤガーはおマヌケさんですし、お約束通り“機転”によって命拾いをする少女も、こすっからく立ち回るという感じではなくて、全体にとってもチャーミングな空気感。 そしてやはり、ビジュアルなのだよなぁ。 絵は大好きで素晴らしかったのですが、たとえ絵がなくても魅惑の映像世界が頭に広がりそう。 ペーチカ(暖炉)やサモワール(湯沸かし)や、聖ワシリイ大聖堂にそっくりなお城が登場したり、ところどころにロシア風味も覗かせています。
アーネスト・スモール版のバーバ・ヤガー属性はだいたい次の通り。 棲み家は森の一番奥。 ニワトリの足が生えている小屋で、痩せた黒猫とひっそり暮らしている。 小屋はドクロと骨で作った垣根に囲まれている。 癇癪を起こすと家ごと森中を走り回る。 ハゲタカの羽根のような黒いマントを着て、髪の毛は伸びほうだい、指は長く骨張り、鉄の歯をガチガチさせている。 臼に乗り、杵で舵取りして、帚で渦巻く黒雲をはらいながら空を飛ぶことができる。 臼に乗って森を飛び回り、葉っぱや花や根っこや種や草の実を集めては、袋いっぱい詰めてきて色んな魔法の薬を作っている。 ガラス瓶に入れた魔法の薬は鍵のかかった戸棚に並べられ、宝物のように仕舞われていて百種類くらいある。 夜の騎士に扮した“月のない夜”と白の騎士に扮した“はれた日”は彼女の忠実な召使い。 悪い子を見つけてとびきり美味しいシチューを作って食べたがっている。
・・といった感じ。 あと、彼女は老化とそれに伴う魔法の衰えを気にしています。 小瓶のコレクションであと一つどうしても長寿の妙薬だけが足りないのです・・
聞かれたことに答える度に一つ年をとっちゃうのに、ついつい答えちゃったり、渋々答えてあげたり、バーバ・ヤガーが憎めないキャラなのよね。 自己申告を信じてあげちゃうし、すぐ説得されちゃうしね。 あ、でも、約束したら律儀に守ったり、発せられた言葉を重んじるのは本来の魔女(や悪魔)の性質と言えるかも。 “少女はなぜ家に帰ることができたか?”が、個人的には最大のツボでした。 ウィットがあってほんと可愛い話だったなぁ。 読んでよかった♪



バーバ・ヤガー
アーネスト・スモール
童話館出版 1998-01
(大型本)
★★★
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