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HHhH / ローラン・ビネ
[副題:プラハ、1942年][高橋啓 訳] 歴史小説やスパイ小説やノンフィクションなど、数ある正攻法の“ナチもの”を読んだ後に開くべき応用編的な作品だったかもしれません。 本書のヒールである“金髪の野獣”の異名を持つハイドリヒをはじめ、ヒムラー、ボルマン、ゲーリング、シュペーア、アイヒマン、ゲッベルズなど、ヒトラーの側近として最低限(たぶん)知ってなきゃいけないような人物にも馴染みがなく、急遽ネットでにわか勉強しながらだんだん慣れていきました。 奇抜なタイトルは“Himmlers Hirn heisst Heydrich”の略で、“ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる”の意。 SS(ナチス親衛隊)の間で揶揄的に囁かれたごくローカルな符丁らしい。
SS長官ヒムラーの右腕だったラインハルト・ハイドリヒは、“ユダヤ人問題の最終解決”の推進者として知られ、“第三帝国でもっとも危険な男”と恐れられた人物。 ナチスの保護領となったボヘミア・モラヴィア地方(現在のチェコ)を総督代理として統治していたハイドリヒの有名な暗殺事件を描く本作。 在英チェコスロヴァキア亡命政府に特命を託され任務を遂行したチェコ人のヤン・クビシュとスロヴァキア人のヨゼフ・ガブチーク、歴史に名を刻んだ二人のレジスタンスの物語です。
注目すべき独創性は、書き手(語り手)の“僕”がパフォーマティブに前景化されていて、“僕”の執筆過程がそのまま作品になってるところに表れています。 “ドキュメンタリーを書く小説”といったらいいのか、“小説を書くドキュメンタリー”といったらいいのか。 ありのままを文学に変換したい・・ 事実に即して書くことを偏執的なまでに己に課した“僕”の、絶えず自問自答を繰り返す思考の運動とその軌跡がつぶさに示され、本篇自体がテキストと格闘する進行形の記録といっていい体裁になっています。
文学的言及や語りの技巧に満ちたポストモダン小説の地平を一周まわって、一見すると奇しくもフローベール以前の小説に回帰しているような輪郭なのだけど、当然そこには捻りがあり、似て非なる挑戦的な思惑が内包されています。 つまり、“虚構”という小説の核に真正面から切り結び、徹底して自覚的に“小説”そのものの存在意義を問いかけるために選び取った手法というわけです。
微細なまでの歴史的考証があり、文学論があり、文学的実験の展開があり、精神活動の旺盛さに圧倒されます。 批評や諧謔のスピリット、そして何より愛! “僕”に作者が重ねられていることは言わずもがなだけど、個人的にはイコールではなく“≒”じゃないかと感じました。 だってこれ、明らかに“小説”なのだもの!
“信用ならない語り手”的な匂いが漂っていたように思えて仕方ない。 自己弁護もできない死者を操り人形のように動かすなんて破廉恥だと豪語したり、会話や内面描写を通して歴史を小説に変換することへの抵抗感を表明したりと、小説の持つ(“僕”曰くの)子供っぽい滑稽な性質についての主張を繰り返し、それでも隙あらば暴れ出す想像力を組み伏せ、“僕は登場人物ではない”と(自分を納得させるように)言い張り、いつどこで果たされたのか何を調べてもわからないレジスタンス二人の出会いの場面を勝手に視覚化すればフィクションなら何をしても構わないことの証しになってしまうと躊躇い、自らを牽制し・・ そんな“僕”が最後に辿り着く境地とは。 一人称で書かれた部分は、多かれ少なかれ一つの主体によって生み出された真理に過ぎないのだから、そもそも基礎部分に矛盾を抱えたことになってしまうのだけど、小説を究極の可能性まで押し進めようとするジレンマは、果たしてどのような帰結を見るのか。
最終章にグッときます。 作品は創り上げていく過程で、時に作者の予想を超えた成長を見せるもの。 結局のところ小説というものの出発点に辿り着くための物語だったんじゃないかなぁ。 素の作者なのかどうかは置くとして、“僕”の青臭く初々しい気負いが作品の駆動力になり、また装置にもなっていたことが読み終えると沁みます。 無闇矢鱈の実験志向、技巧のための技巧なのではなく、“僕”が認めるところの“第二次大戦中もっとも高貴な抵抗運動”を企てた人々と、彼らを助けて(あるいはただの濡れ衣で)粛清された名もない善意の人々へ捧げる敬意と弔意から出発した真摯な模索なのであり、事実をフィクションで冒涜したくない、いい加減な扱いをしたくないからこそ、どうしてもこの形式を取らざるを得なかったという趣きがあり、この方法上の切迫さが物語に命を吹き込んでいるのです。 プラハに魅入られ、プラハに全身全霊込めて恋い焦がれていることを憚らないフランス人の“僕”の、チェコ愛が溢れた熱い作品でした。
ホレショヴィツェ通りでの襲撃場面が忘れられない。 緊迫したシチュエーションなのに格好良くは決まらないのだ。 “誰もが自分のなすべきことを正しくなし遂げていない”の連鎖がシュールでグロテスクで。 後ろめたくもモンティ・パイソン的な笑いを誘うのです。 無粋な真実を押し通そうとしても誰も納得させることができない的な小説の常道を逆手に取ったかのような“現実”は、本当らしく描くことが求められるフィクション世界に対する見事なアンチテーゼになっています。
最終局面の悲劇のクライマックスは、一気呵成の迫力を湛え、ただただ苦しいのだけれど、痛みを伴って書いている“僕”は、精一杯の温もりで寄り添い、苦しみもろともチェコの人々の魂を抱きしめています。 あ、今思った、“小説”を書くためにこの経験(この作品)が必要だったんだ・・っていう小説なんだ、きっと。 フランス人の“僕”がプラハを描いたら、浮いたような不自然さが生じてしまうのではないかと、途中、“僕”は気に病んだりもするのだけど、他国の人々に向けられた想いだからこそ素敵に感じたのだろうな


HHhH −プラハ、1942年−
ローラン ビネ
東京創元社 2013-06 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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バーデンバーデンの夏 / レオニード・ツィプキン
バーデン・バーデンの夏
レオニード ツィプキン
新潮社 2008-05
(単行本)
★★★

[沼野恭子 訳] レオニード・ツィプキンはソ連時代を生きたユダヤ系ロシア人作家。 と言っても本業は病理学者だそうで、地下出版の非公式文学とは距離を置いていたため、発表するあてもないまま、ただ純粋に文学を愛する気持ちで詩や小説を書いていたという。 民族迫害や恐怖政治に蹂躙された過去、そして現在が、悪夢のように重ね重ねのし掛かってくる生涯に、駆け足のプロフィール紹介を読んだだけで胸がざわついてしまった。 皮膚の下に隠し持つ悲しみと痛みは、作品に取り払えない影をひっそりと落としている。
70年代後半に執筆された本作品は、海外出版の可能性を託されたジャーナリストの友人とともに海を渡ることになった。 1982年、ニューヨークのロシア語週刊誌で雑誌連載が開始されたとの朗報に接することはできたのだが、ツィプキンが56歳の生涯を閉じたのはその矢先のことだった。 連載後、英訳版が出版されるに至るも、当時は注目されず埋もれてしまった本作を、ロンドンの神保町と言われるチャリング・クロス街の書店で古本の山の中から“発掘”したのがかのスーザン・ソンタグ。 本書には「バーデンバーデンの夏」本篇に加え、2001年の再販本にソンタグが寄せたエッセイ「ドストエフスキーを愛するということ」が付載されている。 揺蕩うような流離うような心の旅の物語。 熱く静かな耀きを秘めた“意識の流れ文学”の佳品だ。
冬のある日、モスクワ発レニングラード行きの列車に乗った“私”は、横揺れの激しい車内で頼りなく明滅するランプの下、一冊の古い本を開き、読み始める。 それは、ドストエフスキーの二度目の妻アンナの日記だった。 ツィプキン自身の限りない投影である語り手“私”が綴る自伝と、文豪ドストエフスキーの評伝が縒り合わさり、徐々に溶け合うような構成がベースとなっている。
時折ふと我に返り、雪に覆われた車窓やその白い覆いを透かして滲む停車駅の様子などに目を留めつつ、またいつの間にか“私”の心は本の中へ、およそ百年前の世界へと沈潜していく。 新婚のドストエフスキー夫妻がペテルブルグをたち、ドレスデンやバーデンバーデンやバーゼルで過ごした一夏へと。
ドストエフスキー夫妻の物語は “私”の想念として鮮やかに写実される。 史料に忠実でありながら、その空白部分を“私”のイマジネーションで補強した思索世界だ。 現在の冬と過去の夏、ソビエト体制下とロシア革命以前を行きつ戻りつ列車に揺られる“私”はやがて、暗い記憶が吹き溜まる凍てつく冬のレニングラードへ到着する。 同時にそこはかつてドストエフスキーが暮らし、彼の小説の登場人物たちが闊歩したペテルブルグでもある。
衝動に突き動かされるように大通りや路地に点在するゆかりの場所を巡り歩く“私”の、さながら聖地巡礼の旅の終着点は、ドストエフスキーが最晩年に移り住んだクズネーチヌィ横町の角のアパート、現在のドストエフスキー博物館であった。 頭上の壁にラファエロの「サン・シストの聖母」の複製画が飾られた書斎の端の革張りのソファーで息を引き取った文豪の、その臨終の数刻へと思いを馳せるのである。 アンナを媒介者に、彼女の眼を通して。
小説の趣向は、ヨーロッパ滞在経験を綴ったドストエフスキーの著書「冬に記す夏の印象」へのさり気ない目配せのようであるし、ドイツの保養地バーデンバーデン滞在中のセクションは、その直前作「賭博者」のもう一つの物語であるかのようにも感じられるし、バーゼル美術館での一幕には次回作「白痴」への大いなる予祝が込められてもいるのだ。
ドストエフスキー夫妻の物語は、“私”の思索世界で繰り広げられており、目線は常にアンナを介した“私”であるため、小説内の現実と連続的で共時的な関係を保ち、小説全体が現在と過去という単純な二元構造では表現できない朦朧とした流動性をそなえている。 また、直線的な物語とは違い、ドストエフスキーの作品論をはじめ、ツルゲーネフやプーシキンとの関係性や、現代ロシアの文学動向への言及などを射程に入れているため、時制や場や語られる対象が目まぐるしく移り変わる。 しかしそれらは評論のための評論ではなく、ドストエフスキーを見つめる姿勢の中から自然に生まれた情熱の露として作中に溶け出しているように思えた。
ドストエフスキーはなぜ反ユダヤ主義者だったのか? それはツィプキンの遣る瀬無い、狂おしい問いである。 この煩悶が、憂いが、心の傷が作品を生み出す母胎になっていたのは間違いないのだろう。 小説の中ではあれほど他人の苦しみに敏感で、辱められ傷つけられた人たちを熱烈に擁護しながら、偏見に凝り固まってユダヤ人を罵倒する、その自己矛盾に気づかないドストエフスキーに代わって、自身はユダヤ人でありながら、ユダヤ人を嫌うドストエフスキーに惹かれてやまない“私”の自己矛盾を曝け出し、精神の呼応を乞い願い、対話を呼びかけている。 その想いは躊躇いがちに満ち引きを繰り返し、やがて自己の片割れを渇仰するアンドロギュノス的な恋情さえ想起させるほどに昂まっていく。 憎しみを愛で浄化しようとするかのような激情が苦悩と陶酔を同時にもたらし、キリキリと切ない。
夫婦の性愛に仮託される他者との共鳴を“海を泳ぐ”、自身の深部への探求を“山を登る”と表現し、横と縦の二つの意識を対象化させている点が興味深く、究極的には、ツィプキン自身とドストエフスキーとの“魂の交感”の可能性と、“魂の深淵”を突き抜ける死の瞬間への関心、この二つが大きなテーマを成していたのではないかと感じた。 しかしながら答えは夢想に委ねるほかにすべはなく、辿り着ける場所もない。 可能性を可能性のまま永久に持ち続けるのが人間の真実であるのだと、開かないドアの存在を一番よくわかっているのは“私”なのだと・・ そんな物憂い吐息が聞こえてくる。 雪煙の中に濃密な気配となってこもる熾火のような命の芯の、その火照りが、とても美しく思えた。
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贖罪 / イアン・マキューアン
贖罪 上
贖罪 下
イアン マキューアン
新潮社 2008-02
(文庫)
★★★★

[小山太一 訳] 1935年夏。 ブルジョア邸宅の広大な庭の美しいバロックの噴水の前で、シノワズリーの壺を奪い合う若い男女。 姉セシーリアと使用人の息子ロビーの“無言劇”を窓辺から見つめているのはセシーリアの妹ブライオニー。 物書きを志す多感な13歳の少女だった。
眩しい陽光のもとで繰り広げられた光景を、一人前の作家になるための運命的な“啓示”として受け取った少女は、子供部屋の外で演じられる人生劇の舞台へ上がるための格好の物語をこしらえる衝動に駆り立てられていく。
一日の夜に訪れる破滅の予兆を微かに孕む緊張感の中で、秩序と調和に覆われた危うく濃密な時間が、絹のような滑らかさで流れていきます。
それは、子供らしい無邪気で残酷な破壊願望だったろうか、潔癖な正義感の中の自己陶酔だったろうか、大人たちに称賛されたいと欲する功名心だったろうか、抑圧した恋心の裏返しだったろうか、言葉を操り場を支配する恍惚だったろうか・・
想像が想像を呼び、邪推の色に染め上げられたストーリー。 ひとたび起動したプロセスは、少女の手の及ばない速さで不可逆的に動き出し、現実を乗っ取り、歪め、踏みにじり、恋人たちを無残に引き裂いたのです。
第二次大戦下、1940年のフランス、イギリスへと時代を移す下巻では、異様な高揚感と狂熱の去った後、砂を噛むような現実と向き合わざるを得ない、暗澹たる途方もない喪失の様が、戦争がもたらす破壊的な負のエネルギーと呼応するかのように描かれていきます。
これぞ小説のなせる技とばかりの凄絶なコントラストで、“あの日”とその後の戦時下の日々を対比して見せる筆致に心を鷲掴みにされました。 素晴らしかったです。
ここまで読み、読者には小説の構造に関わるある仕掛け(薄々感づいていたかもしれない)が明かされることに。 が、しかし、小説の本領は実はここから。
短い最終章、作家になる夢を実現させ、77歳となった晩年のブライオニーの手記として、あたかも補足のような体裁で描かれる1999年。 ここに最大の仕掛けが用意されているのですが・・
主題はメタフィクションに隠されていますが、ジャンルオーバーなところが魅力な作品です。 特にミステリ要素が強めで、真犯人は誰なのか? 或いは、どこまでが現実でどこまでが物語なのか? マキューアンは多視点構造を突く繊細な描写で、ミステリ作家のようにテクスト上に手掛かりを残していきます。 終盤あたりを読んでいて、そこはかとなくナボコフの「ロリータ」を想起させられました。 おぼろげながら意識の端に違和感が引っかかるように読者は誘導され、謎と秘密が主旋律で扱われ、極上のエンタメ小説を読む喜びもありました。 ただ、その謎と秘密の読み解きは一般のミステリよりずっと厄介です。
様々な作家や小説が俎上に乗せられているのも特徴的で、なかでもエリザベス・ボウエンは(間接的ではあるにせよ)カメオ出演まで果たしているのが心憎いです。
が、しかしなのです。 何度も言いますがこの小説はこんなもんではなくて。 愛と忘却の主題とは、それは一周回ってとりもなおさず、慣れ親しんだ“死と結婚の物語”への回帰なのかもしれないと、あわや和みかけてしまいそうな終幕の場の空気を演出させながら、語り手ブライオニーは恐ろしい毒を隠し持っているのではないのか?
小説を利用して現実世界に仕掛けようとしているある企みは、まるでデジャヴを見るかのよう。 確証のない思い込みのスパイラルではないか。 矛先をすり替えたに過ぎず、性懲りもなく同じ過ちを繰り返そうとしているではないか・・と。
疑い始めると、読者に打ち明けた虚構もあれば、打ち明けていない虚構もあるであろうテクストそのものの信憑性が大きく揺らぎ、違和感として微かに引っかかっていた事柄のあれこれが頭をもたげてくる。
そもそも小説として扱う以上、自分も含め実在の人物を“作中人物”として好きなように操ることのできる不遜さを出発点としているのだから、現実には贖罪も何もあったもんじゃない。 自己満足の権化でしょ?
ブライオニーの手記も、作家という生き物の性を担保とした開き直りとも取れる帰結を用意しているのだが、ことさらラストで述懐するまでもなく、当然ブライオニーは承知だったはず・・
ではなぜ、贖罪の物語を書こうとするのか? 罪滅ぼしをしたい思いがエスカレートしてしまったのか? 善人のふりして成し遂げたい意地悪のためなのか? そして自分の気持ちにどこまで自覚的なのか? 少なくともブライオニーの手記まで含めたマキューアンの「贖罪」というタイトルには何かもっと辛辣な響きがありそうなのだ。
一つ思ったのは、神たる視点を持つ作中作家の外側には、作中作家を操るマキューアンがいて、その外側に読者がいるということ。 読者だけが作家の絶対性を揺るがすことができる存在なのではないのか。 その読者に向けて、マキューアンから何かしらのメッセージか投げかけられているのは確かであり、一度や二度の読書で看破できるはずもないのだけれど、それでも無性に惹きつけられずにはいられない魅惑に満ちた作品でした。

<追記>
ロリータ」を想起させられたのは、実は謎解き趣味ばかりではなく、おそらく小説の狙いそのものがとても似ていたからなのだと気づきました。 早くも忘れかけていたのだけど「ロリータ、ロリータ、ロリータ」の感想を読み返して眼から鱗が。 まるで「ロリータ」へのオマージュのよう!
・・と見せかけて〜 かもしれない。 いやいやいやいや、わかった気になるのは危険;;
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プリンセス・ブライド / ウィリアム・ゴールドマン
プリンセス・ブライド
ウィリアム ゴールドマン
早川書房 1986-05
(文庫)
★★★

[佐藤高子 訳] 1973年の作品。 ファンタジーの傑作であり、ヒロイック・ファンタジーのパロディの傑作であり、メタフィクションの傑作であり、父と息子の甘苦い物語の傑作だ。 絶版が惜しまれるなぁ。
わたしの全人生は、十歳の時に父が一冊の本を読んでくれたことから真のスタートを切った・・と著者のゴールドマンに言わしめ、世界一のお気に入り本だと豪語させる『プリンセス・ブライド』とは、ヨーロッパのどこぞにかつて実在したフローリン国出身のS・モーゲンスターンなる作家が、第一次大戦直後に発表した小説だ。 現在フローリンは他国の一地域になっているらしく、ゴールドマンの父はかの地からアメリカに渡った移民だっだという。 今や自身が父親になったゴールドマンは、希少本となって久しい『プリンセス・ブライド』を探しあて、十歳になる我が息子へプレゼントするのだが反応が悪い。 その時初めて気づくのだった。 父親は、子供だった自分が喜びそうな箇所だけを繋ぎ合わせて読んでくれていたのだと。
扉には、“真実の恋と手に汗握る冒険物語の名作”という副題が意気揚々躍っているのだが、実際のところモーゲンスターンは子供向けの小説ではなく、一種諷刺的な自国の歴史とともに西洋文明における王政の衰退を書き綴っていたのだと知ったゴールドマンが、オリジナル・テキストから大時代的小説の“退屈さ”を抜き取り、まさに扉の惹句そのままの娯楽抜粋版を自ら編集し世に問うべく出版した、それが本書(という体裁)。 そしておそらくは息子を楽しませたい、夢中になる顔が見たいと願う心情がモチベーションになってるんだろうな、と思わせる陰翳が素敵なのだ。
この辺の経緯は、前書きのようなセクションを設けて編集ノート的に記されているのだけど、著者が自身を虚構世界の登場人物の一人にしてしまっているのであって、編集ノート自体がそもそも肉声ではない。 娯楽抜粋版『プリンセス・ブライド』を読むにあたり、読者は著者のゴールドマンとともに読解対象の“外部”に立つことができるが、本書「プリンセス・ブライド」を読むとき、ゴールドマンを読解対象の“内部”に置き去りにして、読者は一人で“外部”に立つことになるという二重性の面白さ、著者の実像、虚像が織り成す想念世界の揺らぎが何より魅力的だ。
腹黒い王子や公爵、美しい姫、恐怖の海賊、殺し屋、姫の誘拐、決闘、黒装束の男、六本指の剣士、狂気の断崖、火の沼、死の動物園、奇跡師・・ あたかも無時間の中に漂っているようなアナクロニックな時代設定。 そこで繰り広げられる中世のおとぎ話、騎士物語、ヒストリカル・ロマンスをフュージョンさせたかのような、愛あり冒険あり策略ありの娯楽抜粋版『プリンセス・ブライド』自体、滅法楽しいのだが、そこへ度々ゴールドマンが顔を出し、あーだこーだと突っ込みを入れる。 自分ででっち上げた架空作家による架空小説を肴にテキスト分析やら史実考証やら学術研究の成果やらオリジナル論考やら、あれやこれや突っつき回すという壮大な洒落、これはもう悪ノリとしか言いようがない楽しさ。
ヒロイック・ファンタジーの強固な定式性を踏まえながらも、そのパロディである本書は、“人生とは不公平だ”という苦い認識に立って展開され、理不尽さという不気味な恐怖を排除していない。 愛と正義の法則の遵守という暗黙の読書契約に違反しているんじゃないかという読者側の不服感も織り込み済みなのだが、そこに描かれているのは黒い哄笑を込めた冷淡さではない。 至高への夢想と挫折という若者の通過儀礼を寓意化しているような側面も感じられ、労りがあり共感があり、それでも人生は捨てたもんじゃないと思えるカタルシスへの導きがある。 そして何より、ワクワクする冒険を語り、ハッピーエンドを語り、子供を懸命に勇気づけ、幸せを願い、狼から守ろうとする親心の尊さが底流していたからこそ、愛おしい物語だと感じたんじゃなかったろうか。
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コンプリケーション / アイザック・アダムスン
コンプリケーション
アイザック アダムスン
早川書房 2014-03
(新書)


[清水由貴子 訳] 急死した父親の遺品の中に、プラハの見知らぬ女性から父宛に届いた一通の手紙を見つけたリー・ホロウェイ。 5年前の2002年に起こったヴルタヴァ川の大洪水に巻き込まれたとされている弟ポールの死には裏があるとほのめかすその手紙の差出人に会うため、シカゴからプラハへ向かったリーを複雑怪奇な出来事に彩られた悪夢のような時間の流れが待ち受けていて・・
ぶっちゃけるとアメリカ人作家が書いたチェコ趣味モノなのですが、もう半端ないプラハ尽くし♪ おかげでプラハ不足が一気に解消されました。 サイコサスペンスと神秘思想が綾なす混沌感が、プラハの魔都性と響き合うことで醸し出される眩惑的迷宮ミステリ。 プラハの地理、歴史、文化伝承コードを駆使した芳醇な時空間が縦横に広がり、幾層にも積み重なって充ち満ちています。
根幹を成すのは中世イギリス由来のエノク魔術なのですが、ジョン・ディー博士の右腕だった錬金術師で降霊術師で名うてのペテン師のエドワード・ケリーがボヘミアに滞在し、ルドルフ二世に重用され、後に投獄され、祖国イギリスに帰国することなく獄死した実話周辺から想像の翼がはためいており、ルドルフ二世のためにエドワード・ケリーが設計し、秘術を施したとされる時計、“ルドルフ・コンプリケーション”なる神聖ローマ帝国時代の謎の美術品をめぐって起こる殺人事件に絡んで物語が展開します。
旧市街広場、聖ヤコブ教会、ヴァーツラフ広場、チェルトフカ運河、ファウストの家、ストロモフカ公園・・ 弟ボールの情報を求め、2007年のプラハの街を彷徨い、理不尽な歯車に呑まれていくリーの足取りを軸に、1984年の共産党時代にペトシーンの丘の鏡の迷路で起こった殺人事件の容疑者とされる女性に対してチェコ秘密警察が行った尋問の記録、かつてはゲットーだった“ヨゼフォフ”のユダヤ人骨董屋店主がナチスの進軍迫る第二次大戦前夜に亡き妻宛てに綴った手紙形式の独白、そして、ルドルフ二世の秘宝の飾り棚を離れ、世の中に解き放たれた“ルドルフ・コンプリケーション”が、真の魔力を得て時を刻み始めるに至る16世紀末ボヘミアの原風景・・ これら挿話が縺れ合い、いにしえの影に包まれた古都の記憶を乱反射させます。
酒場“ブラック・ラビット”、赤い服の歯のない少女、足をひきずる男・・など、捉えようのない事件を追求していくための誘導灯となって点滅しているこれら暗示的モチーフの、時代を越えた目に見えない連鎖によって、“ルドルフ・コンプリケーション”の機構的概念さながらに、物語自体が時の双方向性を示唆する装置として機能していたように感じます。 のみならず、人間にも順行と同時に逆行する思考があるのだという複眼的ヴィジョンが隠し符になってもいるのですから、それとない徹底ぶりが凄い。
主人公の“ぼく”ことリーの語りが絶対的でないことには、割と序盤で勘づくのだけど、だからといって興が削がれることは全くなく、読み終わっても、どこまでが誰にとっての現実なのか悩ましく思いめぐらすひと時の至福が格別です。
リーの眼を借りたアウトサイダー的視線によって“観光地プラハ”を見渡す描写は実に勘どころが押さえられており、観光レポートな側面としても秀逸。 旧市庁舎の天文時計を製作した名匠ハヌシュの逸話を披露する各国ガイドとそれに聞き入る観光客集団の反応やら言語入り乱れたどこか滑稽な様子やら、旧市街の石畳の小道を行き交う観光客目当てのショーウインドウの、カフカ、カフカ、またカフカ、さらにカフカみたいな商売っ気やら。 クスッとしたりニヤッとしたり。
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火曜日の手紙 / エレーヌ・グレミヨン
[池畑奈央子 訳] 第二次世界大戦下のフランスに生きた男女4人の静かで濃密で残酷な愛憎心理劇。 フランス人若手女流作家のデビュー作というから恐れ入ってしまう。 作者は“戦争という特殊な状況でのラブストーリーを書いてみたかった”という。 ミステリとサスペンスの趣向を凝らした愛と秘密の物語。
母を亡くしたばかりのカミーユのもとに舞い込んだ一通の長い手紙。 初恋の少女アニーと過ごした幼い日の思い出に始まる手紙は、ルイという見知らぬ男性の独白調で綴られており、それから毎週一通ずつ火曜日になると届くのだった。 まるで連載長編ででもあるかのように。
手紙で語られる過去と、パリのアパルトマンに暮らす主人公カミーユの1975年現在とが並走し、やがて一つの物語に収斂する構成。 さらに作中作となる手紙は、ルイを含めた3人の人物による語りで構成されており、それぞれの思いによって歪みを抱えた3視点が、補完し合うことで次第に立ち現れる真相は、そこはかとない“揺らぎ”を秘めている。
唐突な場面転換に戸惑ったりすることもあったけど、その唐突なリズムがむしろ魅力になっていたと思う。 書く人によってはベタベタやギドギドに流れ、やり過ぎかねない素材を、絹のヴェールをさらっと纏ったような“お洒落な大人の小説”の雰囲気に仕上げている。
開戦直後の“奇妙な戦争”時代、ドイツの進軍を控えての“大脱出”、そしてナチス占領下へと続くパリの世相がストーリーと溶け合い、時代のコードを巧みに捉えながら進行していくのだが、その根底には、世俗的な体裁のためにどうしても子供が欲しいと願う、願わざるを得ないところまで追い詰められていく既婚女性の苦悩があり、そこを出発点とした悲劇と言っていい。 女性作家ならではの生々しく鮮烈なにおいを放つ作品でもあるので、万人受けするわけではないかもしれないけど、心の読み違いや誤解や思い込みを重ね、ボタンをかけ違えるように狂い始めてしまう人生の哀切さを見事に描き切ったと思う。 作中作の手紙の中でも、読まれてしまった手紙、読まれることのなかった手紙が、運命の分岐点となる重要なアイテムとして機能していたりする。
受け取った思いをカミーユが切なる願いを込めた夢想で補い、完結させたかたちを取るラスト。 静かな贖いの時を経た罪の物語は、救済の色調を帯びて、皆に愛されたカミーユだけが包むことのできる優しさの中に昇華される。 悲しくも澄んだ余韻を響かせて。 次作が翻訳されたら絶対読みたい。



火曜日の手紙
エレーヌ グレミヨン
早川書房 2014-06
(単行本)
★★
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密室蒐集家 / 大山誠一郎
密室難事件が起こると、どこからともなくやってきて快刀乱麻の推理を披露すると、どこへともなく去っていく謎の人物、“密室蒐集家”。
戦前から現代まで、異なる時代の五つの短篇に変わらぬ容姿(30歳前後のスマートな紳士)で登場する神出鬼没の時間旅行者は、特に警察関係者の間では都市伝説のように半信半疑に囁かれ続けている異形の名探偵。 まるでミステリ国の民話みたいな一掬の風味も感じられるのですが、“密室蒐集家”とは、いや、まさに密室の精霊なのですね。
密室パズラー集ってことで、流石にマニアック過ぎて食傷するかなーと心配したがそんなことはなかった。 実は、ケレンたっぷりなド派手なのを想像してたんだけど、何この健全な空気・・全然違かった^^; 衒学や美文や猟奇など雰囲気づくり的な舞台美術一切なしの、清々しいまでにプレーンな推理志向と、日常という揺るぎのない地面への密着度。 そこへ一点、“密室蒐集家”というレジェンドが華を添え、推理ロマンを掻き立てる・・ 得難い美風薫る連作ミステリです。
素人でも尻尾を捕まえられそうな気にさせてくれる参加型チックな誘いかけが巧いと思う。 平明な文章も貢献してるでしょうか。 釣られて柄にもなく謎解きにのめり込んでしまいました。 普段は完全な傍観者なのに。 発想も、それを活かした一捻りあるプロットも一級品ですが、論理の美しさを尊重し細かいことは突っ込まない・・みたいな暗黙裡のお約束の上に成り立つワンダーランドなので、そんな肩の凝るようなタイプではないように思うんだよなー。 だって自分がこんなに楽しめるんだから。 あくまで華麗なる推理譚の不可侵性を愛でるという意味で、醍醐味を感得できる作品ではないだろうか。
特に、密室を作らなければならなかった理由に唸った「理由ありの密室」が好き。 あと「少年と少女の密室」は、1953年という背景と共鳴するのか堪らん叙情があったなぁ。


密室蒐集家
大山 誠一郎
原書房 2012-10 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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世界の果ての庭 / 西崎憲
[副題:ショート・ストーリーズ] 長らく文庫化される気配もなかったのに。 最近、小さなSFムーブメント来てます? 気のせい? ともかくも、本書に光が当てられたのは喜ばしい。 埋れるのは惜しいもの。 余人に代え難い魅力のある作品です。 これ、影のタイトルは“日本の小説”ですかね^^
シシングハースト・カースル・ガーデンのことは何も知らなかったんで、名前が出てきた時点で調べてみて正解でした。 この庭を小説化しちゃったのかもってくらいシンパサイズされてると思います。
庭の講釈をしながら文学について語っている不思議。 比喩や隠喩として変換され、記号化される言葉の魔術めいた作用のせいか、全体にメタフォリカルな雰囲気が漂っていて陰影深い作品です。 なんて書くと晦渋なんじゃ・・と思われそうだけど、物語に推進力があって、ページを繰る手が止まりませんでした。
作家の“わたし”ことリコの独白と、リコが書いている「寒い夏」という奇想小説と、スマイス(リコと知り合うアメリカ人の学者)の大伯父と親交があった明治時代の作家が書いた「人斬り」という読物と、終戦後にビルマの収容所を脱走したリコの祖父の独白。 この、4つのメインストーリーに、大学院時代のリコが研究テーマとしていた英国庭園についての論考と、スマイスが研究している日本の近世思想の論考を加えて6つのコンテンツが同時進行し、何かに向かって動いている・・そんな感触。
副題に“ショート・ストーリーズ”とあるように、基本は、変則的な短篇作品集として味わっていいのかもしれません。 でも、それだけでは言い尽くせない熱量が秘められているのは確かで、現在進行形のガール・ミーツ・ボーイの物語が核にあり、地下水脈で繋がっている他の物語によって補強され、応援されているというのがわたしの印象なんですが、読む人によってまた、全然違う光景が広がるのかもしれません。
意識のバックグラウンドで行われている見えない計算がもたらす恩寵なのか、一塊の短篇群が重層的な和音を奏で、それはあたかも、風合いの異なる幾つもの小さな庭がドアで繋がり合い、互いが互いの影となり、光となり、玲瓏と響き合って、壮大な苑池を形成するかのよう・・
やはり白眉は、スマイスの大伯父が遺した暗号の解読だったと思います。 ときめきが溢れて感無量でした。 素敵過ぎる・・ 文学者、翻訳家たる西崎さんの面目躍如でしょう。 海を越えて交わし合った言葉の戯れ、その小さなかけがえのなさが胸を打つのでしょうか。
一番引き込まれたのは、巨大な駅(煉獄?生死の境?)を彷徨する祖父の話なんですが、こんなことを考え、こんな小説を書き、こんな人と出逢っている孫が、あなたにはいるのですよ・・と、そんな気持ちになるのです。 ラストは、祖母との遠い先の再会を暗示してたらいいなぁ。 列車が天国行きなのか、現世行きなのか、今もまだ悩んでるんだけど。
人と人の繋がり、日本風に“縁”と言い換えられるものの深遠さを湛えた美風に、さっと心を撫でられた感覚が忘れられない名品です。


世界の果ての庭
西崎 憲
東京創元社 2013-04 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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最終目的地 / ピーター・キャメロン
[岩本正恵 訳] 2002年に刊行され、映画化もされた、アメリカ人現代作家の第4長篇。 映画は未見ながらキャストを知っちゃってました。 惜むらくは登場人物があの人やあの人に脳内変換される前に読みたかったかな・・仕方ないけど。
舞台は南米ウルグアイの辺境の地、オチョス・リオス。 カンザス大学の大学院で文学者を目指す青年、オマー・ラザギが、伝記執筆の公認を得るため、遺言執行者である作家の遺族たちが暮らす、この、“あらゆるものから遠く隔たった”土地を訪れるところから物語が転がり始めます。
ヨーロッパ調の蒼古とした屋敷では作家の妻と作家の愛人(とその娘)が、石造りの製粉所を改築した住居では作家の兄と若い同性の恋人が、奇妙な均衡を保ちながら暮らしています。 しんと張り詰めた湖面に小石を投げ込まれたような波紋の広がりがオマーというアウトサイダーによってもたらされ、自らを囲った檻の中で静かに倦んでいる人々の安らぎと嫌悪、充足と苛立ちが、ゆらゆらと水際立って揺れ動き始め・・
登場人物の構成が実にコンパクトであり、彼ら彼女らが、閉ざされ停滞した空間で、冗多なところのない緊密な会話劇を織り成していく内面ドラマ的な上品さが魅力です。 陰翳を深め、機微を掬い取るエスプリとユーモアのセンスが堂に入っており、個人的には特に兄のアダムの造形が魅力的に感じられ、彼の、皮肉の底に漂うペーソスにしんみり。
登場人物の誰もが、故郷を離れ、転々と移り住んだ過去を持つことが興味深く、ひと時、“最終目的地”と思い定めたオチョス・リオスがそうでなかったように、実は人生の“最終目的地”など幻想に過ぎないのではないかという想いが湧いてきます。
(意地悪なことを言うと)扉を開いて踏み立った新たな場所もまた、最終目的地ではなく、きっとその先には不確定な道の続きがあるのでしょう。 それでも、登場人物たちがそれぞれの結ぼれを断ち切り、止まっていたゴンドラを漕ぎ始めた今、ここにある幸福感を祝福してあげたいと思わされるラストです。
偶然と必然、能動と受動が錯綜しながら切り開かれて行く人生行路の御し難さを思えば、どこか場当たり的だったり、突飛だったりで釈然としない成り行きにも、大らかな肯定の気持ちを揺り起こされるのでした。


最終目的地
ピーター キャメロン
新潮社 2009-04 (単行本)
関連作品いろいろ

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雪の練習生 / 多和田葉子
パラダイム、イデオロギー、プロパガンダ、ヒューマニズム・・その他もろもろ時代ごとにあられもなく変転する政治や社会制度、権利や義務に巻き込まれ、翻弄されながら、ソ連から東ドイツ、そして統一ドイツへと生を繋ぎ、サーカスや動物園を通して人間と関わり合ってきた異邦人・・ 北極を知らないホッキョクグマたち三代の物語。 ベルリン動物園のアイドルだったクヌートと、その母、祖母の遍歴が虚実を綾なして綴られていきます。
抗いようのない脅威としての人間も、きっと動物にとっては自然の中の一部なんだろうな。 変化する環境をそういうものとして受け取り、少しでも適応(進化)しようと模索している練習生の姿です。
記憶の地層に歴史となって折り重なった想念が、個体を超越し、種の内側に小宇宙を形成して響き合う・・ 未だ見ぬ北極を血の中に感じてしまうシロクマたちの打ち震るえるイノセント。 乾いた真っ暗な瞳の奥底で涙の雫が蕾のまま凍りついているような感覚に胸が締め付けられて苦しくなってしまうのだけど、疼くような痛みには切々とした抒情があって、感傷を排除しない物語としての瑞々しさがとても美しいのです。 それに細目描写の端々にユーモアが愛くるしい顔を覗かせるから、人懐っこくて優しい肌触り。
三代のシロクマたちは三つの章に割り当てられ、時間を下って描かれますが、それぞれの章の語り手にはちょっとした叙述的技法のトリックが仕掛けられていて、これが物語世界と読者との間に薄い被膜の作用をもたらし、適度な距離感を演出していたようにも思えました。
自分という檻から離れ、世界を眺める視点を提供されながら、現実というのは分解寸前の結晶のように不確定なものでしかないのでは? そんな問いかけで揺さぶりをかけられる感じ・・ どこか、カフカ的な実存の不安のようなものが水面下を貫流していたような気がして。
人間社会の有り様に対するクリティカルな問題意識を散りばめつつ、読者の心を物語の深部で捉え、自らその奥行きを穿っていくような作品で、いつの間にか内省の機会を与えられ、促されていく上質なファンタジーです。
クヌートが死んでしまう直前と言っていい時期に刊行されたことが奇跡のよう。 結びの文章の神々しさ・・


雪の練習生
多和田 葉子
新潮社 2013-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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