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パウリーナの思い出に / アドルフォ・ビオイ=カサーレス
パウリーナの思い出に
アドルフォ ビオイ=カサーレス
国書刊行会 2013-05
(単行本)
★★★

[高岡麻衣・野村竜仁 訳] アルゼンチン幻想文学を代表する作家の一人、ビオイ=カサーレスの日本独自編纂となる短篇作品集。 長篇「モレルの発明」で名高いけど、短篇の名手としても知られる作家で、本編は(最初期を除く)初期から中期にかけてのベスト・セレクション。 意外にも本邦初の短篇集なんですね。
無限的で夢幻的。物や場に宿る精神性、自己同一性を脅かす幻影、写像、転生、予示、顕現、運命の輪、永劫回帰・・ ボルヘスが装置としての幾何学的、形而上学的な幻想性そのものを極限まで洗練させようとするのに対して、ビオイ=カサーレスは装置を媒介に人間の内面を探究することに軸足を置いていると解説されていた通り、精緻でエレガントでひんやりとした雰囲気の中にも、抑制された抒情が満遍なく漂っている感じ。
意識の根底を揺さぶるような観念世界に有無を言わさず読者を叩き込むというタイプではなく、慣れ親しんた既成の秩序の失調に伴う人々の情感の揺らぎを読者が共有できるといった印象が際立ち、同一情景が孕む多面性も含めて、それはどこか多様な広がりを見せる混沌とした現実世界に生きることの逡巡を捉えた反射光のようでもあり、そこはかとない哀愁やロマンを掻き立てます。 “理屈”が排除されていないので難解さは影を潜め、ジャンル小説のように取っつき易いのも特徴的かも。
既読の「パウリーナの思い出に」は、やはり良いなぁ。 実体と影をめぐる物語ですがラストの捻りが白眉。 何度読んでも衝撃的でゾクッとする。 コスミックな世界観を攪拌してくれる「大空の陰謀」は、多重世界を扱うSF風の作品ですが、めくるめく風雅な味付けが実に好みだし、信用ならざる語り手調の「雪の偽証」は、「眠りの森の美女」の逆バージョンみたいな御伽話的素地が良いんだよねぇ。 どちらにも計算され構築された“真相解明”や“反転”の面白さがあって、「パウリーナの思い出に」を彷彿させる推理小説的な展開力を堪能しました。
極限の地で繰り広げられる世界の終末を描いた「大熾天使」のシュールな滑稽劇的一面や、ジャングルに囲まれた巨大な貧民街での蜃気楼のような邂逅を描いた「影の下」の魔所的異国情緒も良かった。どちらも時空の超越感がとびきりロマンチックで、一二を争うセンチメンタリズムを湛えた作品だったと思う。 バッカス神を祀った祭壇のあるホテルでのとある一日を描いた「愛のからくり」における日常からの劇的な逸脱と回帰、古詩に歌われた迷信が時代を超え引き継がれる「偶像」の破滅性も美味。
あらためて思い返せば、ブルターニュ、カルタゴ、古代ギリシャ、アフリカといった禍福に彩られたグラマラスな文化的パワースポットの磁力が、行動の秘かな動機を司る運命の象徴として作用したり、“異なる時空が繋がる、別の時空を見る”といった事象に関与したり・・ そんなメインモチーフの馥郁たる匂いを存分に嗅いだ心地。
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ペドロ・パラモ / フアン・ルルフォ
ペドロ・パラモ
フアン ルルフォ
岩波書店 1992-10
(文庫)
★★★★

[杉山晃・増田義郎 訳] 死んだ母親との約束を守り、顔も知らない父親ペドロ・パラモに会うためコマラの町にやってきたフアン・プレシアド。 かつての繁栄は見る影もなく、荒れ果て、寂れた町は、死者たちの“ささめき”に包まれていた。 瑞々しい詩情と、怜悧な技巧と、乾いた認識と、熱い血潮が玲瓏と響き合う名品。 素晴らしかったです。
現在と過去が円環の中に閉じ込められて永劫ループするかのような、未来へ繋がる何ものも持たず、未来から断絶して完結している物語が宿す冒涜的なまでの虚無と不毛、その研ぎ澄まされように悪魔がかった狂気の域を感じ、この戦慄を創造した著者に気圧される。 のみならず、無残なまでにアクチュアルな光芒を放っていて、その深淵が更に恐ろしい。
メキシコ革命の混乱が続く暴力と破壊と搾取と狂熱の時代に幼年期を過ごしたルルフォの精神風土が小説世界の地盤になっていることは、疑いようがないのだと思われます。
貧困、迷妄、腐敗、俗欲・・ そんな“罪深い”肉体の憐れな残骸でしかない魂は、無慈悲な神に見放され、安らかな眠りも辿り着ける場所もなく。 現世という煉獄を幽霊となってさまよいながら、果てしのない執着の中に吹き溜まり、救いと許しを求め、起伏のない単調さで繰り言めいた想念をざわつかせている。 同時に、死者の追憶は陽炎のような物語を紡ぎ、獰猛なまでに生々しい灼けるような肉体の、終わりのない夢を反復する・・
メキシコの作家ルルフォは、20世紀中葉に遺した二冊の薄い本によって20世紀最高のスペイン語圏作家に数えられています。 とりわけ1955年に発表された本長篇は、ラテンアメリカ文学ブームの草分けとして極めて重要な作品と目されており、マルケスやバルガス・リョサへの多大な影響をうかがわせます。
視点や人称、時間軸を自在に操り、過剰に切り分けた幾つもの断章を絡ませ、連動させながら、些かの弛緩も冗長も許さない緊密さで織り上げていく、その斬新な構成法を絶え間ない刺激として用いることで、200ページ余りの分量の中に、叙事詩さながらのダイナミズムとスケールを圧縮してみせる。
曖昧な生と死、土着的な呪縛、澎湃たる大地の鼓動・・ 汲めども尽きぬ神話的地下水脈の轟音を感じずにはいられない文学空間に呑まれていました。
小説技法や表現の可能性に対して極めて意識的で、文字テクストであるという側面を小説の大きな魅力として位置付けようとする姿勢が好きです。 無論好みが分かれると思いますが。 何かを思い出すための手ががりであるかのように、ささやかな合図を送ってくる固有名詞など、ナボコフを思わせる巧緻が潜んでいて、作者と読者の間で交わされるテキスト遊戯が読解の醍醐味にもなっています。
渾然としているようでいて、死者と生者を繋ぐ境界人はプレシアドだけだったことに気づき、それが単に物語の進行上の措置なのか、それ以上の何かを暗示するのか、無性に気になるのだけどわからなかった。
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精霊たちの家 / イサベル・アジェンデ
[木村榮一 訳][池澤夏樹=個人編集] 議会主導政治の二十世紀初頭から、共産主義の台頭、やがて軍政下の恐怖政治に突入した70年代頃まででしょうか。 百年・・には少し足りないけれど、チリの二十世紀史を駆け抜ける縦軸に、政治や思想や恋愛や・・ 折々の時代の狭間で、世相を映しつつ繰り広げられる家族の愛憎劇という横軸を絡ませて描いた、あるブルジョア一族の物語。
感傷的になることを拒むようなサバサバと張りのある文章から鮮烈に浮かび上がる女性たち三世代の来歴。 そして彼女らの夫であり、父であり、祖父であり、憎まれ、愛された一家の主である一人の男性像を、まるで皺の一本一本まで克明に彫琢していくかのような筆力・・圧巻です。
波間に漂う舟の如く時代のうねりに浮沈しながら、脈々と続く苦痛と血と愛の果てしなさを象徴するかのように、一家の暮らす“家”こそが舞台となっているのですが、むしろ俗に言う家族的な物語を作者は描きません。 夫と妻、父と娘、母と娘、祖父と孫、祖母と孫、叔父と姪、乳母と養い子、義姉と嫁、嫡出子と庶子・・と、視点はいつもパーツに注がれているようなイメージ。 家系を構成する個々人の交叉によって綾なされる糸が、繊細かつエネルギッシュに紡がれて、網の目も見えないほど縦横無尽に物語空間を埋め尽くし、常に人と人の個性がぶつかり合い局所局所でスパークしている感覚というか・・
それが不思議と読み終える頃には、“家系”という侵すことのできない摂理、 人間の営みの原点の、そのどっしりとした揺るぎのなさに打ちのめされて胸がいっぱいになっている。 人は運命を引き受ける大地のような強さを得て、はじめてその呪縛から解放されるんだろう。 物語ることはその掛け替えのない原動力なんだね・・きっと。
心底良かれと思っていることが決定的に違うのだから、思想の対立というのはとても根深い。 でも逆に“心底良かれと思っている”ところに救いがあり、その本気さや切実さ、偽りのなさこそが、対話や共感への第一歩に成り得るのだと信じてはいけないだろうか。 この物語の対立と和解の中に沢山の勇気をもらった気がしたのです。
生活の中に神秘が混沌と根ざした“魔術的”なるマジックリアリズムの世界観には、あまり触れる機会が持てずにいて、そのせいでますます気後れしていたものですが、天性の物語作家といわれるアジェンデの名品を手に取れて、本当によかった。
家の其処彼処に息衝き、存在を決して主張しない密やかな精霊たちは、どこか・・家の守り神のような印象を残しました。 ラテン・アメリカの人たちの熱い血潮や苛酷な現実を吸収するクッションのような役目をずっと果たしてきたのかな・・なんて、ふと思い巡らせたり。 彼らに幻想という言葉を与えたらこの世界を侮辱してしまうような気さえするのです。


精霊たちの家
イサベル アジェンデ
河出書房新社 2009-03 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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