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懐かしいラヴ・ストーリーズ / アンソロジー
懐かしいラヴ・ストーリーズ
アンソロジー
平凡社 2006-12
(単行本)


[中村妙子 編訳] イギリス(とアイルランド)の女性作家7人による“愛の物語”の競演。 原作の初出が二十世紀半ばから80年代頃とおぼしき短篇群で、小説の舞台も概ね同年代。 “ちょっと古めかしく、どことなく昔懐かしい感じ”のセレクションです。 そして都会もの、カントリーもの、どちらの作品からも由緒正しさや上品さが豊かに香っています。
中村妙子さんというと、わたしとしては児童文学とクリスティーのイメージなのだけど、本アンソロジーにも採られているロザムンド・ピルチャーやミス・リードといった作家さんの翻訳にも心血を注いでいらっしゃったんですね。 特にこのお二人の「ララ」と「ドクター・ベイリーの最後の戦い」は、善性への信頼が厚く底流していて、やさぐれた心に沁みて沁みて。
“田園作家”と称されるリード。 本編収録の「ドクター・ベイリーの最後の戦い」は、コーンウォールに実在する村をモデルにしたスラッシュグリーン村に暮らす住人たちの日常を描いたシリーズの中の一篇らしい。 あとからあとからじわじわと涙が滲んでしまうデトックスな佳品。 ただ今回は抄訳だったのだよね。 完訳版、それに種々他篇も収められた連作短篇集「スラッシュグリーンのたたかい」をぜひ読んでみたい。 「ララ」の清く正しく美しいベタさも大事。 ララの内面描写がないことがこの小説を輝かせていたのだろうなぁ。 そろそろぼちぼち一周回って正しい本に心洗われたいお年頃なのかもです。
しかし、まだまだやはり「雪あらし」もよかった! ハッピーエンドに限りない疑問符が打たれているかのような心理小説っぽさ、夢オチの最後を描かなかったみたいなこの感覚・・堪らないです。 セアラは一体どこから泡沫の夢の世界に滑り込んだんだろうと考えると、二人で暮らした部屋のドアを開けた時? その下宿の玄関ドアを開けた時? 昔馴染みの道に入った時? と遡って、やっぱり自分が“スノーボールの中にいる女の子”だと感じた刹那に行き着く気がしてならないのだ。
「マウント荘の不審な出来事」は、ヴィクトリア朝風のご婦人を若干おちょくり気味に、でも基本は温かい眼差しで描いていて、ユーモアのセンスが絶妙。 戦争の傷跡が重たく垂れ込めた時代の昏い熱気が遣る瀬なく漂う「もう一度、キスをして」は、もう・・タイトルが切なすぎる。 このワンフレーズのチョイスに痺れてしまう。 セッティングは古風なんだけどテーマがどこか現代的で、唯一ラヴ・ストーリーという括りでは捉えきれないものを感じたのが「砂の城」。 子供が大人になるための日々の経験値のなんでもないような(けれど確かな)断片、その一瞬をさっと捉えて逃すことなく描破する感性が凄まじくて、苦しいほどのノスタルジーに締めつけられました。

収録作品
雪あらし / ジーン・スタッブズ
マウント荘の不審な出来事 / ジュディー・ガーディナー
愛だけでは… / ステラ・ホワイトロー
ララ / ロザムンド・ピルチャー
もう一度、キスをして / ダフネ・デュ・モーリア
ドクター・ベイリーの最後の戦い(抄訳) / ミス・リード
砂の城 / メアリ・ラヴィン
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10の奇妙な話 / ミック・ジャクソン
10の奇妙な話
ミック ジャクソン
東京創元社 2016-02
(単行本)
★★

[田内志文 訳][デイヴィッド・ロバーツ 挿絵] 現代イギリス人作家による2005年刊行の短篇集。 原題は「Ten Sorry Tales」だそうで、まさに“奇妙”と“sorry”が表裏を成すが如き小品が並んでいます。
舞台となっているのはロンドンだったりウェールズだったり、間違いなくイギリスのどこかであり、おそらくは現代(少なくとも戦後)なはずなのに、なんともヴィクトリア朝風の古色をまとっていて、御伽噺と類縁関係の強い慣れ親しんだ素朴さを際立たせているのが特徴的。 イギリスの伝統風土に身を置くような、旧世界の残像を感じさせるアナクロニックな雰囲気が好きです。
悪人ではないのだけど共感力がない人たちの犇めく“世界”から孤立してしまう主人公たち。 往々にして因果が作用しているため不条理な印象は薄く、ロマン掻き鳴らす荒唐無稽でファンタスティックな展開の、その内部に反響し木霊する悲哀や痛みに寄り添える余地があります。 意識下に抑え込んでいた渦まく感情が閾値を超えた刹那、ある“境界”に立たされている主人公たちの心の在りようが描かれており、作品の核にヒューマニストとしての視点があるのは確かなのだけど、洒脱さで覆い尽くし、屋台骨をおいそれとは露呈させません。 優れた悲劇はその喜劇性に支えられているという一つの真実を、こよなく理解している作家だと思います。
道徳律の枠内を逸脱するもの、しないもの、魔法的事象が出来するもの、しないもの、こちら側の秩序へ回帰するもの、しないもの・・ コンセプト志向の作品集ですが、ヴァリエーション豊かでそれぞれに温度差があって飽きが来ません。 もっと読んでいたかったなぁ。
「ピアース姉妹」がマイベスト。 山姥ならぬ海姥伝説、あるいは青ひげ伝説風モチーフを継承したシンプルな筋書きなのだけど、平凡な日常を狂気へと反転させてしまう“境界”が最も鮮烈で。 この「ピアース姉妹(The Pearce Sisters)」は、アニメーションでの映像化作品をネットで観ることができたのですが、そちらも素晴らしい。 大絶賛したい。 原作の上質さを損なわないまま、視覚効果によって本来の笑いと悲しみがよりシャープに表現されています。 なんだか原作の意図を再確認させてもらえた気がします。
ランタンを下げたボートが点々と音もなく漂う地下湖の映像美が、半永久的に忘れられそうにない「地下をゆく舟」と、悪趣味ギリギリのイギリス的ユーモアにとどまらず、落語張りの落とし話になっていてテンション跳ね上がってしまった「川を渡る」もお気に入り。 憎々しくてふてぶてしい老馬とのマジ勝負(笑)な物語「ボタン泥棒」もチャーミングで好きでした。
ちなみに、古物店や博物館や秘薬秘法モチーフが魅惑的な「蝶の修理屋(The Lepidoctor)」も映像化されているのですが、こちらは実写版。 幾分か脚色されてて、めっちゃいい話になってた。 これはこれで全然悪くない。 「もはや跡形もなく」は西洋の民話世界における“森”の寓意を見事に体現していたと思いました。 「眠れる少年」も非常に寓意的。 自分の人生の漠とした心許なさと共鳴してしまう作品。 この両者が醸し出す“大人になる”と“大人になれない”の暗示的コントラストが印象深いです。
モンタギューおじさんの怖い話」と同じデイヴィッド・ロバーツが挿絵を描いてます。 ティーンズから大人まで楽しめる系でゾゾっと怖くてクラシカルな雰囲気で・・的な持ち味の小説と相性いい絵だよねぇ。 ティム・バートンぽくてゴーリーぽくて大好きなのだ。 表紙では各短篇の主人公たちがお揃いで記念撮影しちゃってます^^ セピアトーンがまた素敵。 裏表紙はジャック坊やかな・・?
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ゴースト・ハント / H・R・ウェイクフィールド
ゴースト・ハント
H R ウェイクフィールド
東京創元社 2012-06
(文庫)
★★★

[鈴木克昌 他訳] 1996年に国書刊行会から刊行された短篇集「赤い館」の増補版で、十八篇を集成した決定版というべき傑作選集。
M・R・ジェイムズ流のゴースト・ストーリー作法を受け継ぎ、その小説形態を現代的な一つの完成の域に高めた“最後の正統派英国怪奇作家”と位置づけられるウェイクフィールドですが、二十世紀半ばから後半には長らく“忘れられた作家”状態にあったといいます。 そのころから平井呈一氏は、“恐怖・怪奇の孤塁を敢然と守り続けている現代作家”と、高く評価し、繰り返し言及していたらしい。 まさに目利きの面目躍如ですね。
今なお玄人ファンやマニアに根強く愛されるのも宜なるかなと頷けてしまう神秘霊妙なる佳篇が揃っています。 名手が極めたシックでモダンな様式美の、咽せるような芳香とシルキーな肌触り。 視野の縁の暗い影が隠微に蠢くような・・ 薄霧のまといつく嫋嫋たるゴシック調の怪異と狂気のアトモスフィアを味わい尽くせたと思います。
関わり合いにならない以外に決して避けられない災厄、得体の知れない“何か”に対する本能的な畏れ、魅入られずにはいられない魔性、汎神主義的概念、連綿と引き継がれた名づけ難い恐怖の感覚・・ そんなエッセンスが濃縮されています。
人を不安に陥れる過去からの反響音を発し、余所者を疎外する不吉で謎めいた建物、山、谷、庭、湖、畑など、忌避される場としての“魔所”、特にチューダー朝様式やエリザベス朝様式、アン王女時代風やジョージ王朝風といった古い瀟洒な館に塗り込められ、秘められた暗澹たる邪悪な記憶を扱う幽霊屋敷ものが多数。
概ね発行年代順に並べられているとのこと。 ウェイクフィールドが実際に訪れたことがあるという邸で自らが遭遇した幽霊体験をもとに書き上げたという最初の小説「赤い館」が筆頭に配置されており、これが凄く好きでした。 反復し輻輳するイメージのコラージュ、その幻視的ヴィジョンの錯綜感には“本物”の怖さがあり、複眼的で分裂的で。 恐怖も然ることながら極上の幻想小説といった香しさがひとしお。
「目隠し遊び」や「ゴースト・ハント」のエレガントな軽妙さは言うに及ばす、個人的にはチェスをモチーフにした「ポーナル教授の見損じ」や、演劇をモチーフにした「中心人物」の(やや毛色の違う?)ディープな熱病感も美味でした。 「“彼の者現れて後去るべし”」や「暗黒の場所」は、悪霊退治的で日本風には陰陽師ストーリーを連想させるものがあるのですが、“鬼も人、人も鬼”的な概念は介在せず、破壊的な力をふるう幽霊(天国に行けずに彷徨う死者)は完膚なきまでに暗黒面に堕ちた悪魔であり、正邪の曖昧さがないのが古式ゆかしい西洋の幽霊観だなぁと、そんなことを思わされたり。 実体のない脅威なるものと生者との間に因果や抒情の余地がない(もしくは希薄)なのも日本の怪談と比較できる点です。
ウェイクフィールドは最後まで幽霊の存在を信じる者の立場から執筆を続け、“科学がゴースト・ストーリーの機能を奪い、陳腐なものにしてしまった”という決別の辞を残して筆を折ったといいます。 生前最後の短篇集からピックアップされている終盤の四、五篇は格別なものがありました。 鈴木克昌さんがあとがきで“ゴースト・ストーリーにかける老作家の情念の残り火のよう”と形容しておられる通り、科学の徒への昏い挑発を孕むような・・ 何かもう、万感の風情が漲り、密度の濃い読み応えでした。
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グルブ消息不明 / エドゥアルド・メンドサ
グルブ消息不明
−はじめて出逢う世界のおはなし スペイン編−

エドゥアルド メンドサ
東宣出版 2015-07
(単行本)


[柳原孝敦 訳] 2015年にフランツ・カフカ賞を受賞した著者は、ラテン文学ブームの後継者というべきポストブーム世代を代表するスペイン人作家だそうです。 本篇は1990年8月に新聞連載された小説。 メンドサ自身は、掲載されるごとに読み捨てられるのが当然という認識で書いていて、本にしようという気なぞさらさらなかったらしいのだけど、結果的に彼の著作の中でもっとも読まれ愛されている作品になっているというのだから面白い。
“ある特定の地方で、特殊で二度と繰り返されることはないし、他の場所に移して考えることもできないような時期に起こった突飛な出来事”を描いているから・・というのが、読み継がれるには不向きと思った一因らしいのだけど、むしろ他でもないその特異性が、何か途轍もなく輝いてる感じ。 それに、単行本化の際に提案された大幅な加筆修正を承諾しなかったからこそ、この即興文学(?)とでも言いたくなるような稀有な奔放さが生き残ったんだなぁーという感慨が湧いてならない。
地球滞在の任務を遂行するため、バルセロナにやってきた肉体を持たない純粋知性の宇宙人2人組。 部下のグルブがマルタ・サンチェス(当時のスペインポップス界を代表する歌手だそうで、お色気のシンボルのような女性っぽい)の姿を借りたまま着陸早々行方不明になってしまい(そりゃ人生楽しかろうて・・)、捜索に乗り出したボスの“私”が綴る日誌のような体裁のバルセロナ滞在記というか漫遊記というか。
オリンピックを2年後に控え、都市整備による目まぐるしい変化の只中にあった活気や混沌が、よそ者たる宇宙人の客観的視線で巧みに捉えられていて、ウィットや皮肉やユーモアや風刺が利きに利きまくった遊び心旺盛な筆致。 でありながら、なぜか自然に醸されてしまう寄る辺なき抒情が沁みたりもして・・
日々、グルブを捜しに街区をうろつく“私”が、その時々の状況判断や気分に応じて外観を取っ替え引っ替えしながら目立たないよう(言わせてもらえば悪目立ちw)立ち回ろうとするも、たまさか繰り広げてしまう地元民たちとのチグハグな交わりには、微異次元的ナンセンスと目から鱗の誇張法とのリミックス作用のごとき“当たり前”を揺るがす擽りが一杯。
しかしまぁ、モル・デ・ラ・フスタの屋台で一暴れして警察に連行されてしまったり、オスピタレットの流行りのバルで飲んではしゃいでつまみ出されてしまったり、なかなかにラテン系入ってる宇宙人なのだw 大好物はチュロスだし。ふふ。 夜はパジャマに着替え、歯磨き、読書タイム、お祈りが日課。 時々胃薬。 馴染めてるのか馴染めてないのか・・ 狙い澄まして誤手を打ってる訳じゃない真剣切実な迷走スパイラルは一つの芸の域に達しているかのよう。
バルセロナの社会風土を描くためにSFのガジェットを借用している点で、ジャンル小説としてのSFとは一味も二味も違います。 そもそも、ここまで大胆不敵なブレブレ設定をものともせずに突き進むSFなんてありません^^; 細かいことは気にせずに読み進もうの精神で、アクロバットな叙述をええぃままよ!とばかりにぐいっと呑み干すのが美味しい味わい方だろうと思います。
ここぞという状況で多用される、畳み掛けるような繰り返しのリズムが特徴的で、何より本作のチャームポイントであり、ツボりどころでもあるのだけど、これ、当時使い始めたワープロの文字複製機能に触発された試みだったんだって。 詩と文明の粋なコラボだなぁ。
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死の扉 / レオ・ブルース
死の扉
レオ ブルース
東京創元社 2012-01
(文庫)
★★

[小林晋 訳] 長らく絶版状態にあった知る人ぞ知る(?)プレミアムな古典ミステリが新訳で復刊! なのだそうですね。 何も知らずに生きておりました。
そもそも、レオ・ブルースの作品というのは、アメリカ版が刊行されることが少なかったようで、本篇も例外ではなく本国イギリスのみの刊行だったせいもあり、原書はちょいとお目にかかれないほどの稀覯本になっているとか。
パブリック・スクールの上級歴史教師、キャロラス・ディーンが素人探偵として活躍するシリーズの一作目。 本シリーズは23作の長篇を擁するそうですが、今のところ邦訳は数篇のみという寂しさで、しかも版元がバラバラなんですね。 わたしはウェルカムだなぁ。 この作風。
イギリスの小さな町ニューミンスターのマーケット・ストリート地区にある一軒の小間物屋の一室で、強欲な老婦人店主と巡回中の警官が時を前後して殴殺される二重殺人事件が発生。 キャロラスは教え子の悪童たち、とりわけルーパート・プリグリーに焚きつけられ、独力で事件の実地捜査に乗り出すことに。 この気障で小生意気な16歳の青二才、プリグリー少年が助手役を務めます。 でもわたしのお気に入りはおバカなテディボーイ♪
因みに舞台背景は1954年。 キャロラスは40歳。 結婚して間もなくのロンドン大空襲で若妻を亡くして以来の男やもめ。 父の莫大な遺産を相続し、高級車のベントレーを乗り回す衣裳持ちでもあり、伝統を重んじる保守的な教育の現場では、規格に合わないやや特異な存在でもあります。 現代の捜査法の光に照らし、歴史上の華々しい犯罪の真相を探ろうとする(歴史ミステリ的な?)ベストセラー本を執筆した過去があり、地元ではちょっとした有名人。
新聞の見出しを賑わす浅ましく恐ろしい暴力事件など警察に任せておいて、埃臭くも心踊るロンドン塔界隈の優雅な思索に耽っていた方が良かったのではないかと、時に自問自答しながらも、犯罪研究の実践応用を試みるという刺激的情熱に駆られ、探偵活動が止められないキャロラスなのです。
被害者の因業婆は、彼女を知っている者全員に動機があるというほどの嫌われ者。 容疑者(候補)から、なかなか誰も除外できないし、確たる容疑者へ昇格させられるほどの不利な証拠も見つからないまま捜査は難航を極めます。
直観の光明が差すまでコツコツと地道な聞き取り調査の行程が続くのですが、皮肉な人物描写や会話のウィットが読むものを飽きさせず、軽妙洒脱なコージーミステリの趣きがあり上品で愉快。
多数の印象と、告白の集積と、証拠の断片・・ 手にした情報の山のどこかに、ただ一人の人物を指し示す事実がある。 読者への挑戦状こそ挿入されてはいないけれど、フェアプレイ性の高い、かなりシンプルな謎解きもの。 自分は早い段階でわかっちゃったんですけど、構図をそのままに同じ材料から全く色を変えた裏表の絵を描き上げるという発想の転換的な趣向において、お手本のように端正な作品であり、また、いかに説得力に富む“仮説”を提示できるかという、物的証拠に頼らない、あくまで辻褄合わせの出来栄えを愛でるタイプに近いような。 そして、たとえ勘づいてしまっても推理披露の段でのがっかり感は全然なく、トータル的に言って相当に楽しかったというのが偽らざる気持ち。
レオ・ブルースにはもう一つ、ビーフ巡査部長を探偵役とするシリーズがあり、一作目の「三人の名探偵のための事件」だけ既読なんですが、非常に奇を衒った作風で、本作の小味な雰囲気とは随分と異なる印象を持つものの、あちらでは存分に発揮されていた伝統的な探偵小説のお約束を茶化すようなセルフコンシャスな要素が、こちらでも微かに効いていて、マニア心を擽る作家だなぁとの思いを深くしました。
邦訳が進んでくれたらいいなぁ。 小さな町とキャラクター、英国調の物腰が魅力的で愛着が湧きそうなシリーズだもの。
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葬儀を終えて / アガサ・クリスティー
葬儀を終えて
アガサ クリスティー
早川書房 2003-11
(文庫)
★★

[加島祥造 訳] イングランド北部に大豪邸を構えるアバネシー家の当主リチャードが傷心の中、急死する。 葬儀を終えて親族一同が久方ぶりに集まった遺言公開の席上、“リチャードは殺されたんじゃなかったの?”と唐突に言い放った末の妹コーラ。 彼女は翌日何者かに惨殺されてしまう。 コーラの一言は波紋を広げ、親族は疑心暗鬼に。 顧問弁護士から依頼を受け、ポアロが捜査に乗り出します。
冒頭にたいそうな家系図があってギョッとなったのですが、老執事のモノローグから始まる本文をめくっていくと、いつものことですが、あっという間に作品世界に引き込まれてしまいました。 老執事がひと通り登場人物を印象づけてくれて、また、心配するほどその数も多くはありません。
遺産相続問題で、いわくありげな親族一同が右往左往し・・からの、土台からひっくり返されるがごとき真相のパノラマは目から鱗で、本当に鮮やかな作品。 ミスリードの賜物なんですが、読み返すと伏線も見事。
類型的人物造形が相変わらず達人の域。 ティモシーのムカつくことと言ったら! ムカつきながらも描き方があまりに皮肉的なのでニヤニヤしてしまうという。 こういう人物に出会うのがクリスティーを読む密かな愉しみだったりします。
大きなお屋敷は売りに出しても買い手がなかなかつかない状況、天然記念物になりつつある忠義の執事、召使いから家政婦へ、商売人と結婚することを厭わない良家の娘など、透かし見える背景に1950年代の世相、現代に近づきつつある時代の変化も感じ取れます。
ポアロは今回、正体がバレるまで、よりカタコトの外国人“ムッシュー・ポンタリエ”の偽名で登場しています。 名前w イギリス人にとってこの名前の響きがどんな感じなのか実際わからないけど、絶対おちょくってるでしょコレ 笑
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水蜘蛛 / マルセル・ベアリュ
水蜘蛛
マルセル ベアリュ
白水社 1989-10
(新書)
★★

[田中義廣 訳] 秘密の現実を冒険した20世紀フランスの幻想作家であり、詩人でもあったベアリュが、1940年代から1960年代にかけて発表した十二篇の掌・短篇を収めた作品集。
序文の筆をとったマンディアルグが、初期の自身とベアリュを回想して“不吉な照明に照らされた時代に遅れて(もしくはあまりに早く)やってきたロマン主義者のよう”だったと述べている通り、何かこう、ロマン主義や象徴主義の継承者を想わせるような神秘との精妙なる交歓の、その陶酔と苦悶が迸っていました。
死と引き換えに手に入れる伝達不可能な秘密への関心は、それ自体、自らの生きる場所を再認識するためのエネルギーのようにも感じられます。 死を見据えることで、生物的生命力を裏側から照射し、この世の憂いを超克する契機を探し当てようとする衝動のようにも映るのです。
植物の根のように大地と繋がり連綿と繰り返される生の営みから切り離されているのではなく、死とはむしろその禁断の内部なのではないか・・ 神話的水脈によって潤されたおとぎ話の世界のような一種独特のコスモロジーが全篇を覆っていて、詩的、直観的精神の粋が閉じ込められていました。
「水蜘蛛」は、魂の中で絶え間なく続けられる日常と狂気、生と死の熾烈な相剋、そのトワイライト領域を彷徨する男の物語なのですが、破滅へと堕ちていく・・というより昇りつめていくと喩えるのが相応しかろうなぁ。 “異”と接する時の穢れや畏怖感覚を生理的、官能的に描破した絹織りのように優美にして妖艶な作品。
「百合の血」にも「水蜘蛛」の主題が色濃く感じられます。 狂信者特有の崇高な理念を抱きながら自らの極点へと邁進していく男の物語であり、純粋性の中に輝く妖しさの芳香が噎せるほど濃厚です。 こちらでは、不滅あるいは永遠と有性生殖が体現する無常との表裏性にまで踏み込んだ思索がなされ、生命へのリスペクトが手に取れるかたちで感じられさえするのです。 人類の遠い記憶に触れる「諸世紀の伝説」も同種の匂いを漂わせていて、遠く埋もれた内在への回帰願望と生と死が親和性を持って語られます。
短篇同士互いに観念的連関を示し、共鳴反響し合うような趣きがありますが、ちょっと毛色の違う不条理ナンセンスな二篇が、実は気に入ってたりします。 うち一篇は「球と教授たち」で、理解を超えたものを受け入れんがために採択したインテリたちの行動がコントのオチみたいに描かれていて、これがエスプリ資質を皮肉ったようなエスプリになってるんですよね。 もう一篇、寓意的直喩を甚だ奇妙なオブジェとして現出させた視覚的カリカチュアが冴える「読書熱」は、シュルレアリスム絵画を彷彿させる逸品なのです。
ベアリュの古本店“ル・ポン・トラベルセ”の思い出など、1979年の出会いから十年に渡る訳者ご自身とベアリュ夫妻との交流を振り返りつつ、ベアリュの人生と作品を紹介する訳者解説も価値あり。
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むずかしい愛 / イタロ・カルヴィーノ
むずかしい愛
イタロ カルヴィーノ
岩波書店 1995-04
(文庫)
★★★

[和田忠彦 訳] 1958年発表の作品集「短篇集」の第三部「むずかしい愛」所収の九篇に三篇加えて再編した本邦オリジナル版。 というよりも1970年に本国で刊行された同タイトルの再編版から一篇だけ差し替えたという体裁なのかな? だとしたら何故に? 不自然な気がしてそれはそれで気になるんだけど・・
リアリズムの語り口による同時代を舞台にした“愛”をめぐるオムニバス。 主人公は会社員、写真家、近視男、海水浴客、読者、詩人、スキーヤー・・など、一様に壮齢の男女であり、つましい庶民なのですが、過剰な意味に憑かれ、いったい何と闘っているのかと問いたくなるような彼ら彼女らの悩めるぎこちなさを(リアリティが蒸発しかねない)アレゴリカルな領域まで推し進めて描くことで、真の人間性をあやまたず捉えようとする姿勢が感じられ、どの短篇からも色褪せない輝きが放たれていて、それぞれに磨きあげられた珠玉の味わいがありました。
でも、一篇一篇は“愛のむずかしさ”という核心を共有している断片であり、それら断片が積み重なることで浮き彫りになる同時代人の精神を象徴する地図としての総括的空間(の提示)にこそ、作家の本意が込められていたのではなかったかと思います。
本人にしか理解し得ない観念に衝き動かされた精神修養の場ででもあるかのような状況に置かれた主人公たちの内奥に訪れる突発的な啓示を、当人たちの微視的な思考を追って描いていくのですが、様々なかたちで愛(の不在)に切り込んではイメージ化し、見えざる主柱として組み込みながら、 一義的な正解を定めず、網の目状に陳列していく手法によって、不可知な他人とのすれ違いが生み出す孤独がどうしようもなく曝け出てくる感じ。 どの短篇にも対象の異性は登場するのですが、並大抵のピントとは違い、言ってみれば、自己と世界の関係における“世界”の役割りが投影されていたように思えるのです。
“太陽の中心のようなもの、そこにはなにものにも翻訳できない沈黙があるばかりだが、それ以外の場所は真っ黒に埋まってしまうほどの言葉で溢れている”とは、作中の詩人の内観であり、“人生という無形の混乱のなかに隠された調和こそが奇蹟なのだ”とは、作中のスキーヤーの内観です。 カルヴィーノの描きたい愛とはそういうものなのだろうなぁ。
パラドックスに満ちたサインはマイナスのエネルギーだけを発散してはおらず、しなやかな弾力を有しています。 人と人を隔てるものは同時に人と人を繋ぎもし、問題は同時に解決の糸口にもなり得ることを諦めていないから、カルヴィーノは書き続けたんじゃないかと・・ 決して難解ではなく、しみじみとした感慨に浸れる洒脱でビターな親しさがあり、物語を読む愉しみがあります。 そこに惚れてしまった作品集でした。
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水時計 / ジム・ケリー
水時計
ジム ケリー
東京創元社 2009-09
(文庫)


[玉木亨 訳] 敏腕記者フィリップ・ドライデンを主役に据えたシリーズ一作目に当たる著者のデビュー長篇。 イングランド東部の広大な沼沢地帯(フェンズ)に実在するイーリーという小都市を舞台にした荘重なミステリです。 ドロシー・L・セイヤーズの「ナイン・テイラーズ」からインスビレーションを得ているらしい。
川面が凍りはじめる十一月。 物騒な事件とは縁遠そうな田舎町で、氷結した川の底から車のトランクに押し込まれた惨殺死体が、その翌日には町のシンボルである大聖堂の屋根の死角から白骨死体が相次いで発見される。 地元週刊新聞“クロウ”の上級記者ドライデンは、二つの事件に無視できない繋がりを感じ、真相を探り始めるのですが・・
町の佇まいと、ドライデンをはじめとする登場人物の心象とがシンクロしているようで、荒涼としてしんと侘しく、鬱々と澱んだ雰囲気が格別です。 鉛色に覆う雲と重たげに這い出す薄霧の狭間にさまざまな影を潜ませた冬のフェンズの、その地貌が主役といっても過言ではないくらいの端整でモダンな風趣。
ミステリとしては意外性志向の全くない堅実なフーダニットもので、こういうタイプ、結構好き。 洪水に呑まれて行方不明になったきりの父親、川の薄氷を踏み割って溺れかけた子供時代の記憶、排水路に転落する交通事故の後遺症で今なお昏睡状態から目覚めない“閉じ込め症候群”に陥っている妻のローラ・・と、ドライデンの半生はほとほと水の因果に絡め取られているのですが、それらのエピソードががっつりメイン事件にかかわってくるというようなドラマチックな作り込みはなく、ケレン味を徹底して抑制している感じ。
むしろその辺の事情は、罪と罰からの解放というもう一つの軸を成し、主人公の心理をベースとした背景の物語に織り込まれます。 事件への干渉とその解決は、ドライデンがトラウマの中へ沈降し、再び浮かび上がってくるための儀式に他ならなかったのでしょう。 でも殊更コテコテとは描かないのが達者なんだよなぁ。
著者は記者として豊富なキャリアを持つそうで、社会や人間に対する皮肉でシビア(ほとんど冷笑的)な観察眼が地の文を支えています。 それは記者時代に培った感覚の賜物なんだろうと思いました。
ビリっと締まって痛いほど凍てつく空気の中に、伏線にしてもユーモアにしても感動にしても、さっと心を掠めるほどに素っ気なく埋まっている。 見逃してくれても構いませんよ、とでも言わんばかりに。 そんな憎らしいほどの地味さに洗練を感じます。
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永遠の一日 / リチャード・ビアード
[青木悦子 訳] 現代英国人作家による1998年発表の第二長篇。 著者は邦訳刊行の2004年当時、東京大学で教鞭を執っておられたらしい。
“違う時間軸の中で、繰り返し巡り会う恋人たち”という内容紹介から勝手に思い浮かべていた多次元的SFロマンスとは若干ニュアンスが違いました。 それよりは一つの時間軸を蛇腹のように折りたたみ、現在時制の中に圧縮させているイメージ。
1993年11月1日、二十四歳のヘイゼル・バーンとスペンサー・ケリーが共に過ごす時間刻みのロンドンの一日をメインパートとし、その合間に、誕生から子供時代、思春期、成人期と、イギリス内を転々と引っ越しながら育ち、時に重なり合う二人の運命的な来し方を断章形式で挿入していくという、一見よくある構成なのですが、どの断章も“過去”ではなく“今”、つまり、1993年11月1日の出来事として描かれているために、なんとも摩訶不思議な感覚を抱かせる物語でした。
1993年11月1日は、折しもEU発足の日。 変化と無変化が同居する“今”に読者を接近させる契機として、この象徴的な日が選ばれたのかなと感じます。 1993年11月1日のタイムズ紙ロンドン版に掲載されている名詞を作中に散りばめたとは新聞大国の作家らしい。 もしかしてこれがやりたかったのかな^^; なるほど確かに、時事、世相、生活様式、トレンドが其処此処の刹那に詰め込まれ、店、映画、テレビ番組、著名人、車、食料品など、膨大な量の固有名がひしめき合い、何もかもを1993年11月1日に集中させ“今”の稠密さを描出することで、人生のすべての瞬間が“今”であり、“今”にしかリアルはないのだということを際立たせる意図が感じられた気がします。
新聞に材を得ているだけあって、熟年離婚や若年僧の犯罪や神経衰弱など、社会の諸問題が色濃く投影されているのですが、日本の1993年といえばバブルは弾けたとはいえ、未だ余韻をいくらか引きずってる時期でもあり、タイムズ紙にも金満国へ辛辣な皮肉を浴びせる記事が載ったりしてたんですかねぇ。 ミツイ親子のキャラが強烈にネガな日本人像なので淡い屈辱感w それと混同するつもりはないのですが、どうも・・アレンジ版赤い糸系ラブ・ストーリー以上に響くものはかったなぁ。 技巧を弄した読み物としての面白みは理解できるんだけど。
縋り、逃避し、逆らい、求め、折り合い、待ち、信じ、諦め、夢を見、疑い、気づき、躊躇い、踏み出し・・ 分岐点でもあり結節点でもあり通過点でもある“今”をもがく群像ものといった感じだったろうか。 強いて言うなら。 意味に憑かれることからも、無意味に慄くことからも距離を置き、どちらにも振り切れないことが、生きていく分別というものなのだと、結局、そんなあたりが着地点だったような・・


永遠の一日
リチャード ビアード
東京創元社 2004-10 (単行本)
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