甘い蜜の部屋 / 森茉莉
浅嘉町の洋風建ての邸に暮らす裕福な実業家の牟礼林作とその娘の藻羅(モイラ)。 舐めても舐めても無くなることのない林作の愛情の蜜の壺に浸って生きるモイラは、そのぼんやりとした無意識の媚態であるところの気怠げな無関心、くねくねとした緩慢な動作、鈍く不透明な感情、ムウディイ(不機嫌)な情緒、貪婪を潜めた重い瞳、吸いつくような皮膚と燻り出る百合の香気で男たちを搦めとり、その肉体を灼き、精神を鈍らせる魔物だ。
鼻につくくらいの西欧(かぶれ)的な舞台美術に、折々古風な和が折衷されていて、近代日本のモダニズムを色濃く映しつつ、登場人物たちが気脈を通じ感応し合いながら内的波動だけで物語を満たしていく超俗性と、果実の汁や花の蜜を滴らせた艶美な幻想性が渦巻く芳醇な大正ロマネスクの世界。 無垢と残酷に彩られた物語性などは、ある種ガーリッシュ的な匂いを放っていて、少女小説の系譜と捉えてもあながち間違いではないのかも。
ウェストミンスタアの煙と薫香に包まれた、父と娘二人だけの緊密で純粋な閉じた世界、昏い“魔”を宿らせる“甘い蜜の部屋”の不可侵性は絶対的です。 でもそこに共依存的な破滅性はなく、もっと何か冷めた手触りなのです。 遊戯のような・・
森茉莉さん、アンソロジーで読んだ短篇エッセイ以外では初体験なのですが、赴くままに書き殴ったような洗練を全く感じさせない文章にたまげました。 有無を言わさず魅せてくる怒涛の粗放さと、過剰な言葉で圧してくるくどくどしさ・・ なんなんだ、この評価不能の文体は。 表面的な取り澄ましへのアンチテーゼとでも言わんばかり。 いや、ほんとにそうかどうかは知らないけど。
しかし70年代頃の文学ってのはやたらハイソで、ひっでぇ悪文だなぁーと思ったのが超名文だったりとか・・するんですよね。 わからないなりに、ひょっとして凄いんじゃないのか的な文章に翻弄される心地よさは確かにあったのです。 例えばこんな。
天上はモイラを実家に遣っている時に迎えに来たことはない。
因みにこれ、“来た”を“行った”にすれば普通の文章として成り立つのだが、双方向の意識が瞬時に広がる摩訶不思議なニュアンスを醸し出してしまう妙。 間然としているのに味があるとしか言いようがないのだ。
旧弊な美徳に対する作者の嫌厭が根底にあるのだろうか。 で、振り子の針が振り切れちゃって、もうなんか行くとこまで行っちゃいましたといった趣き。 モイラに投影されるファム・ファタル観には、なんとなくではあるけど、フランスの小説に出てくるアンニュイでガサツな小娘を思い浮かべたくなる雰囲気があって、少なくとも日本的な羞じらいの乙女観の対極に位置する資質を如実に発散させてるし、フランス古典なんかに見られそうな進歩的で背徳的で過激な恋愛思想へのリエゾンめいた匂いがムンムンするのは気のせいなのか。
モイラの虜に成り果てた男たちを悶え苦しませる執拗な描写は、靄のかかった想念世界を咽せるくらい濃密なものにしていくし、モイラを視姦するかのような男勝りな作者の目線は度肝を抜くし、餌食となった男たちの悩乱を養分に生育し、手の施しようのない魔物にねろねろとバージョンアップしていくモイラ像は、後半になるほど現実味を削ぎ落とし、感覚的にも理性的にも常人のキャパの範疇を超越して、その魔性をエスカレートさせていきます。
でも、モイラは作品なのだよね。 林作の芸術的創造物なのだ。 モイラの“闇”は深いのだが、やはりわたしが惹きつけられるのは林作なのです。 この小説を支配していたのは間違いなく彼だった。 自らの手でファム・ファタルを育て上げ、掌の中で自由に泳がせ、永遠に所有し賛美したいと欲し、魔獣を飼い慣らす調練師のような快楽を追求することに遊ぶ隠れデカダン男(真のドSとはこんな人なんじゃないかと思う)なのだが、下手するとマッド・サイエンティストに連想が及ぶ。 “モイラ”という響きもちょっと怪獣っぽいし^^; 換喩的なモンスター小説に見えなくもない。
そういう林作を犀利で品があって粋な、めちゃめちゃ格好いい紳士に描きながら、同時にゾッとするような嫌悪感の種火を伏線のように読者の心に植えつけていくのだ。 終局面でのそれとないぶっ返りは満を持した感があり、ラスト一行に収斂させるランディングが見事。
純粋なのかエゴなのか、開放なのか堕落なのか、神に為り済まさない者のそれなのか悪魔のそれなのか・・ 否定も肯定も受け流し、美しやかに妖しく漫然と蠢きながらも、選ばれし者のみが到達できる遊戯的境地の聖域から、“魔”の淵を覗いてごらんと凡民を教唆するようなサディステックな微笑を見え隠れさせた“魔の美学”小説。 底のわからぬものに触れた時の不安と好奇に恐ろしいほど駆り立てられてしまう・・


甘い蜜の部屋
森 茉莉
筑摩書房 1996-12 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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吾輩は猫である / 夏目漱石
明治38年発表の漱石の処女長編。 言い回しや比喩表現や・・ 滔々と淀みなく繰り出される文章が軽妙洒脱で、言葉遣いは難しいんだけど読んでて消耗しないし苦痛にならないところが希有。
中学校で英語を教える主人の苦沙弥先生をはじめ、家族や宅を訪れる友人、客人の生態を、ご存じの通り猫がウォッチしているという趣向です。 書斎における“太平の逸民”たちの珍妙な談義の様子や、主人周辺の瑣末な出来事が断片的に物語られていきます。
筋があるようなないような(悪い意味ではなく)非常に散文的で、暴走気味なくらい言語を野放しにしたような小説。 ねぇこれ、日本における滑稽・諷刺文学の最高峰なんじゃないかな・・と、何を今更ですがなるほど納得してしまいました。 終始、ニヤニヤ、クスクス、ケタケタ笑いっぱなしだった。 厭世的な人々も即物的な人々も、もれなく痛烈な皮肉で料理しちゃう超絶センス♪
噂によると古典落語のパロディ的な場面展開が仕込まれているらしい。 知ってたら何倍も面白いんだろうけど、少なくとも、漢籍や謡曲や西洋古典の小ネタを散りばめた、ペダンティックな遊び心旺盛の作品というのは(解らないなりに)窺い知ることができます。 主人が猫目線で小説を書いている・・つまり、苦沙弥先生が「吾輩は猫である」を書いていることをそれとなく示唆している場面があって、何気にメタ要素まで盛ってあるところに擽られた。
創作に行き詰ると鼻毛を抜いて原稿用紙の余白に埋め込んでいたという漱石の逸話は知られるところですが、本編の苦沙弥先生も同じことやってます^^; もっとも、苦沙弥先生は漱石がモデルだし、“吾輩”は夏目家の飼い猫がモデル。 この、胃弱で神経質で偏屈で癇癪持ちで気の小さい苦沙弥先生がどのくらい漱石に近似しているのか、いないのか、その辺の匙加減にも興味をそそられます。
軽佻浮薄でありながら禅問答のような会話遊戯は、どこからどこまでがすっとぼけた茶番なんだか煙に巻かれっぱなし。 ただでさえ、上品さと下品さの定義や対人的距離感が現代とはちょっとしたズレがあるし、フェミ的アンタッチャブル領域に至ってはちょっとどころじゃないズレがあるし;; まぁ、いけ好かない奴ら風情に漱石が描出してるっていうのもあるんだろうけども、この時代の能弁なインテリ文化人たちの社交についていけてない自分を感じつつ、なんとわない明治後期の美風が香って来るような心持ちもして味わい深いのです。 で、猫は、人の営みの外側からそんな彼等を雄弁におちょくり、笑うのである。
本当に、人の愚かさに対する穿ち方が容赦ないです。 冷徹な洞察と諧謔の精神には、イギリス小説の影響もみてとれそうな気がします。 甘さの一欠片も入り込む余地のない自虐性には、些か純度の高いヤバさがにおうほどに自己が自己の外に飛び出しちゃってる感じが正直したんだけど、よくよく考えてみれば苦沙弥先生が漱石のすべてではないのだから、この辺りでも煙に巻かれてしまった恰好です。
だとしても、猫は紛れもなく自分を突き放して見つめるもう一人の自分です。 そして、西欧的、文明的なる個の主張には未来があるのか? という漱石自身の煩悶を迷亭君と独仙君の対話に仮託している向きも見受けられ、その意味では迷亭君と独仙君もまた漱石の深淵に眠る一人格なのかなと感じたりもしました。
自意識の肥大化に対比されるのが古来日本的なる個性の埋没で、どっちにしても自己完結型の思索なのがどこか虚しさを掻き立てます。 エゴイズムを抑制する因子として、もう一つ別のベクトル上に、人間には他者を解りたい、他者と繋がりたいという根源的な欲求があるはずなんだけど、この小説では、あえてすっぽりと抜け落とされていて、そこに高等遊民的発想の限界が示唆されていたのではなかったでしょうか。 徹頭徹尾、遠視眼的な洗練さに貫かれているところに痺れるし、平伏したくなった作品です。


吾輩は猫である
夏目 漱石
新潮社 2003-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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白蝶花 / 宮木あや子
花宵道中」に続き、装画のさやかさんとタッグを組まれてるのね♪ パッと目を惹きます。 相性いいな。 このお2人。 そして「花宵道中」に負けず劣らずの構成力が光ってます。 四章から成る連作長編と捉えると、全体としては三章目が最も長い本編。 一、二章は序章、四章目は終章のようにイメージできると思うんだけど、本編のみが書き下ろしで、その他は雑誌掲載されたもの。 コレ凄いのは、本編がなければ、それぞれ全く独立した(連作でない)短篇として味わえてしまうところ。 外堀を埋めておいて、真ん中の大きなブラックボックスを引っさげて、いざ出版! ってのが憎い・・というより、こんな繋がりが用意できてしまうなんて! みたいな構成の妙にワクワクさせられました。
戦前、戦中、戦後、しかも舞台となるのが、有馬の温泉街、博多市街地の官舎街、東京山の手、山形の港町・・と各地に跨り、時代や場所の描き分けなど、大変なご苦労だったのではないかと思う。 激動の時代に翻弄される・・というとありきたりなんだけど、抗いきれないものを受け入れるしかない女性たちの、操の立て方、我の徹し方、絶対譲れない想いなど、女心のサンクチュアリを描いたような物語。
背徳的な恋情ゆえの甘美さや切なさ・・みたいなシチュエーションは、どれもヒリヒリするほどの渇きと疼き、迸る欲情とが交錯し、生々しいのに透明感があって流石だなぁ〜と堪能。 特に戦地へ赴く男と交わす今生の一夜が凄絶。 生に対する動物としての本能っていうか、生きていることを確認したい、自分の種を残したい・・そんなこと頭で考えなくても、自ずと求め合う切実な肉体がそこにあって、打ちのめされる。 あと、このお話、秘めやかな“毒”の芳しさがあるような。 大切なものを貫くために、何かを誰かを踏みにじってゆく生き方が、時に凛として潔く、匂い立つ。
相当に抉られるし、相当に濃密なのに、どろっとした感じがしなくて、淡く儚く、ふっと吹いたら飛んでいってしまいそうなところも既に宮木ワールドの風格。 2人の少女と一頭の白い蝶の饗宴や、飽かずに庭の乙女椿を眺める少女のひたむきな眼差しや、銀のスプーンで掬ったアイスクリームの冷たさなど、くっきりと胸に刻まれる残像が美しくて、いつまでも転がしていたくなる。


白蝶花
宮木 あや子
新潮社 2008-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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さゆり / アーサー・ゴールデン
米国発の所謂イロモノではない“芸者のメモワール小説”として全米でベストセラーとなり、世界各国で翻訳され、ハリウッドで映画化もされ話題になった。
昭和初期から戦後にかけて、祇園で名をあげた、さゆりという1人の芸妓の半生がモノローグ形式で綴られる。 晩年のさゆりの独白を口述筆記し英訳したという体裁を取るため、原文そのものが、日本語からの英訳を意識して書かれたという巧者な作品。
で、まず、原文が英語であることを忘れてしまう。 言い回しや比喩的、感覚的表現の美しさは、もちろん原文から発せられた魅力なのだろうし、はじめのうちこそ、機知に富んだ発想が逆に、日本語の表現として微妙な違和を感じなくもかなったのに、小川高義さん訳の流れ滴るような京言葉が醸し出す祇園情緒にすっぽりと包み込まれているうちに、これはきっとさゆり独自の感性なのだと、ストンと納得して読んでいた。 そんな自分にすら気付かなかったくらいで・・
著者や訳者が心配しておられたような“事実の検証よりも雰囲気作りや物語性重視というスタンスが日本人読者に受け入れられるか”というような危惧は、わたしにはかすりもしなかった。 少なくとも日本に住みながら、花柳界と全く接点のない一般読者が満足を得るレベルは遥かにクリアして余りあると思う。 そういった文化的な考証云々・・というよりなにより、しっとり、はんなり息衝く日本情緒が秀逸で、ただもう惚れ惚れした。 衣擦れの音、白粉と紅の艶やかさ、美酒の香り、畳の匂い・・ 舞妓や芸妓のやるせない吐息まで聞こえてきそうなほど、精緻で瑞々しい日本美が作品全体から立ちのぼっている。
さゆりの生き様が波乱万丈でありながら、同時に酷く凡庸に映るのは、人生を切り開いていくというよりも、与えられた人生を生き抜くという姿が描き込まれているからかもしれない。 そしてそのことこそが、古い日本の伝統社会を色濃く写し撮った証左となり、なんともいえずリアリティをもって迫ってくる所以なのかも。
抗うことのできない運命に呑み込まれ、もがき、浮き上がってきたしたたかさ、流れのままを受け入れていくしかない抑圧された身過ぎの中にひっそりと熟成された想いが、解き放たれることなく終息するような。 ハッピーエンドにもかかわらず、そんな感じがして・・ 不思議な余韻に包まれた。


さゆり 上さゆり 下
アーサー ゴールデン
文藝春秋 2004-12 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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きもの / 幸田文
“きもの”というタイトルはもっと象徴的な意味合いなのかと思っていたので読んでびっくりした。 まさに衣食住の“衣”と人との係わり合いを綴る小説。 明治後期から大正にかけて、知恵袋のようなおばあさんの助言を受けながら、子供から娘へと成長するるつ子の半生を辿る。 日々の生活、冠婚葬祭、大震災という非常時下で、人の心をさもしくしたり、平らかにしたり、迷わせたり、励ましたり、役に立ったり、どんな時でも必ず人に寄り添う“きもの”を通して、自然と身に着く礼儀作法や生活の知恵、育まれる物腰や佇まい、心の有り様、心のふれあいなどが細やかに描かれていく。
抑えた筆致で淡々と紡がれる小説にしては、長女のお姉さんが悪目立ちし過ぎているようにも思えてしまったのだけれど、本書は幸田さんご自身の自伝的小説なのだと知った。 何かしらの遺恨があるのだろうか。 また、著者最後の長編となった本書は未完なのだそうだ。 非常に残念。
生活と密着し、着心地や自分に似合うかどうか、役に立つかどうかで生地や柄や仕立て方を慎重に選ぶ精神の中に、覚悟を決めて装う一着や、想いを込めて仕立てる一着があり、1つのはぎれや布地を何度も仕立て直して、最後は雑巾になるまで使い切るような昔ながらのモノを大切に扱う習慣がまだ根深く息づいていた時代なのだなぁ・・と、感慨深く、どこか誇らしく思える。 現代人にはなかなか真似のできないことだけど、その心に学ぶものはあまりに大きい。

<余談>
るっちゃんがお母さんからあまり愛されなかったと感じたのは、もしかしたら、るっちゃんがおばあさんの秘蔵っ子でありすぎたからなんじゃないかと、ふっと感じてしまった。 手に負えない小さいるっちゃんを持て余さないおばあさんにはかなわないという劣等感で、お母さんはずっと寂しかったのかも。 偉大なおばあさんや頑張り屋のるっちゃん以上に、なんだかわたしはお母さんに感情移入してしまった。 子供たちには何かをしてもらうよりも何かをしてあげたくて仕方がない。 何の見返りがなくても、ただ享受してくれることが嬉しくて、なんの憂いもないような華やかな我が子の姿を見ていられたらそれが幸せなお母さん・・ るっちゃんみたいな子は苦労しちゃうのかもしれないけど、でも圧倒的な母心なんだもん。 なんだか無性に悲しかったなぁ。


きもの
幸田 文
新潮社 1996-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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俳風三麗花 / 三田完
昭和初期。 句会に集う3人の妙齢の女性たちが、若さを謳歌しながら、友情を温め、恋に頬を染め、人生に迷い、想いを俳句に託す。 彼女たちのキラキラとした美しさが眩しく、若さ故の心の揺れが微笑ましく、そっと見守っていてあげたくなる。 またラストが素敵なのだ。 一句で泣かせるというのが、この作品の成功を証明しているかのよう。 ホントによい作品だった。 大好き。
句会の様子ってこんな風なのね。 俳句を作る時の頭の中ってこんな感じなのね。 俳句ってこんなに奥が深いのね・・ とにかく俳句に纏わる全てが新鮮なのだった。 季語もいっぱい紹介される。 わたしが気に入ってしまった1つが“山笑ふ”。これは春の季語で、山の樹々が一斉に緑に芽吹こうとする様子なのだそうで、なんという深い味わいだろうと感嘆する思い。 暗い時代の予感を孕んではいるのだけれど、文芸の華やかなりし昭和初期の“明”のエッセンスを抽出したような爽やかさ。 作品全体に薫風が吹きまくっている感じ。 それだけに、数年後の彼女たちに待ち受ける運命を思うとたまらない気持ちになってしまう。 この時代の美しさ、かけがえのなさが目に沁みる。
ところで、資生堂パーラーで蟹クロケットを食べるシーンがあるんだけど、同じようなシーンを何処かで読んでいる気が。「街の灯」だったか「玻璃の天」だったか・・ なんだか英子やベッキーさんが、この本のちゑや壽子や松太郎と、銀座あたりですれ違っているんじゃないかという気がしてならないのだった。
さらに余談なのだけど「天平冥所図会」に登場した和気清麻呂(広虫の弟)は、この時代の十円札の肖像だったのねぇ〜。 すごい出世してたのねぇ〜(無知;;)


俳風三麗花
三田 完
文藝春秋 2007-04 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★★
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照葉狂言・夜行巡査 ほか / 泉鏡花
鏡花の初期の作品3作が収められている。 文語調・古文調の難しさは覚悟していたのだが案の定辛かった。 だけど辛いながらも、やっぱりこれは口語調・現代調で書かれたら別物になってしまうという気がした。 鏡花の愛した江戸情緒の余韻を残す古き日本の情景が、美しく艶やかに繊細に脳裏へ広がっていく感じ。 見せびらかさずに静かに大事に誇りたいような・・そんな作品たち。
「照葉狂言」は、とにかく甘美。 初恋の甘酸っぱさと少年から見た年上の女性の持つ色香が芳醇な気配となって立ち込めていて、気づけばもうずっとこの空間にわたしを置いといて〜と願うほどにうっとりしていた。 いわゆる“反俗の美”に繋がると思うのだけど、どの作品も透明感があって“純”という言葉がよく似合う。 特に3作目の「外科室」は、情景の美しさはもちろんなんだけど、これほどまでに純愛の核心を鮮やかに切り取った短篇をほかに知らない・・くらいには思う。
本書には、巻末に角田光代さんのエッセイが付いている。 鏡花を読んでいるうちに旅先のタイにて日本の美を知るというような体験をされたとか。 「この本が、世界に存在することに」に登場したタイを旅する女性は、ご本人がモデルだったのかな。


照葉狂言・夜行巡査ほか
−泉鏡花〈1〉 読んでおきい日本の名作−

泉 鏡花
教育出版 2003-08 (新書)
泉鏡花の作品いろいろ
★★★
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自由戀愛 / 岩井志麻子
自由恋愛、職業婦人、人道主義・・デモクラシーの風を謳歌しながらも、旧時代的な壁にぶち当たったり、情動や意地に翻弄されつつ、身の内に情念を滾らせ、したたかに生き抜いていく女性たち。 大正モダンの時代のうねりと彼女たちの人生のうねりが見事に絡み合った濃厚な世界に、どっぷり惹き込まれてしまった。
モガ、モボ、ハイカラ、カフェー、銀ブラ・・よいっすねぇ。 上質な筆によってこんなレトロ空間にほんのひと時誘われるのは心地よい。


自由戀愛
岩井 志麻子
中央公論新社 2004-11 (文庫)
岩井志麻子さんの作品いろいろ
★★★
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