心中への招待状 / 小林恭二
[副題:華麗なる恋愛死の世界] 河竹黙阿弥の「三人吉三」を題材に江戸末期の世相風俗を紐解いた「悪への招待状」の姉妹エッセイ。 こちらは元禄大坂版で、テキストとなるのは近松門左衛門の「曽根崎心中」です。 古典を読むとき、自分自身不慣れなものだから、現代人の感覚で推し量って頓珍漢に賞賛したり批判したりしがちだし、まぁ、そういう勝手な読みも一つの咀嚼法ではあるのかもしれないけど、当時の人が吸っていた空気、時代背景や精神風土を理解した上でなければ味わえない醍醐味が間違いなくあるんですよね。
世話浄瑠璃の嚆矢にして心中物の元祖と言われる「曽根崎心中」に内在するカリスマ性を探り、独特な悲劇の型として日本文化に定着することとなった“心中”の本質に迫る本書は、現代人が心中物、延べては浄瑠璃、歌舞伎、古典文芸を賞玩するための助けになってくれる一冊。
ビギナーとしてはまず、死生観の違いを念頭に叩き込んでおかなければ始まりません。 死に対する恐怖感や絶望感や嫌悪感が今とは明らかに異なり、死が終わりではなく別の新たな始まりに近い時代だっだということを。 未曾有の商業的発展を遂げた元禄時代の大坂のルネサンス的気運の中で、恋人たちの人間性の発露の手段として生まれ、喝采をもって受け入れられた心中は、“負け”の意識ではなく、むしろ“勝ち取る”意識だったと、小林恭二さんは繰り返し指摘しています。 人間讃歌的なイメージに近かったのかなぁ。 しかし時代が下り、徐々に元禄大坂的な心中の本質が見失われ、追い詰められた果ての哀れな窮死へとすり替わっていくことになるのだけど、その元凶を近松が(鈍感な観客のために?)創造した九平次というキャラクターに探るあたり、とても興味深かったです。
もう一つ。 “心中立”という行為がエスカレートした終着点が心中であり、正真正銘“恋する二人の究極の約束”だったことは語源を辿ってもわかるのですが、近松が心中物の最期の局面で必ず描いた修羅場には、まさにこの“高揚した恋の絶頂感”が仮託されていて、それは同時に新しい世界への通過儀礼でもあったはずなのに、後世その悉くがカットされ、心中が孕む荒々しいまでの能動性は失せ、打ちひしがれた者の末路としての悲哀が見せ場になっていく、という指摘もなされています。 死や自死に対する意識の変化を考えればやむを得ないのかなぁ。
心中における“遊女と町人”という一つのパターンについても、双方のバックグラウンドを検証することで、女性側のシビアな現実認識と男性側の未成熟なロマンチシズムの合致が、いかに心中と好相性であったかが浮き彫りにされています。
最終章では「心中大鑑」の事実関係に沿って、一大センセーションを巻き起こした現実の事件としての曽根崎心中のあらましが紹介され、これに著者の心理的脚色(情理分析)がピタリとはまり、それまでの論旨が手堅く補強され、すっかり説得されてしまいました。 巧者ですねぇ。
近松の原作でしか味わえなくなっているという冒頭のお初の“観音廻り”が、いかに重要なシーンであるか、十重二十重にめぐらされた隠喩の解説も堪能しました。 この時のお初がどんな外観だったか、近松の文脈や当時の風俗から考察されていたりもします。
幾つかのセンテンスが引用されているにすぎませんが、近松の詞章は漠然としていて意味がよくわからないのにうっとりしてしまうのです。 耳に心地よくて何度も何度も音読したくなる気持ちを止められない。 特に好きなのが、徳兵衛の男ぶりを描写した一節。
平野屋に春を重ねし雛男、一ッ成口桃の酒、柳の髪も徳々と、呼ばれて粋の名取川、今は手代と埋れ木の、生醤油の袖したたるき、恋の奴に荷はせて
うっかりしがちだけど、散文ではなく、あくまで“浄瑠璃の歌詞”なんですよね。 七五調の詩歌の世界。 当然ながら逐一解説してもらわなければ理解できないのですが、解説してもらってまたびっくり。 なんという掛詞や縁語の嵐! なんという自由度! 文法を超えて広がる詩情! プレモダンがハイパーモダンに見えてしまう感覚に近い興奮が。 読んでみたいなぁ、近松・・


心中への招待状
 −華麗なる恋愛死の世界−

小林 恭二
文藝春秋 2005-12 (新書)
関連作品いろいろ
★★★
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