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嵐が丘 / エミリー・ブロンテ
[鴻巣友季子 訳] 30歳で早逝した女性アマチュア作家エミリー・ブロンテが、その前年(1847年)に出版した生涯唯一の長篇小説。 ブロンテ一家が暮らしていたウェスト・ヨークシャーの町ハワースの荒野に実在する廃墟“トップ・ウィゼンズ”がアーンショー家の嵐が丘屋敷のモデルなのだそうです。 (すると吹きさらしの丘に佇むこの廃墟に思いを馳せて物語が紡がれた?)
神話のように清冽な観念性、ゴシック小説のような背徳の香り、少女小説のような人間ドラマ・・ 一言で語り尽くせぬ作品なのだけど、まるでケルト版マジックレアリズム小説みたい・・との思いが心を占めてしまいました。 異界の扉の前に立ち、魂だけの存在に漸近していくヒースクリフが、生死を超越した普遍概念に行き着き、森羅万象に霊が宿るとするケルト的世界観の中に自身の憎悪を浄化させていくような気配があって。 謎めき過ぎていて全く掴み取れないなりに発狂という一語では言い尽くせない色合いを帯びて感じられた終局。
十八世紀後半から十九世紀初頭、湿原の広がる高地の田舎を舞台に、土地の名士二家の家系図を複雑に縺れさせる二代の物語が、入り組んだ時間構造を背後に展開します。 その両家に仕えた奉公人ネリーの回想を都会からやってきた紳士ロックウッド氏が聞き語るという独特なスタイル。 この二重に施された“語り”の曖昧性が大きな魅力となっている点は言わずもがななのですが、その手法は最後の最後まで読者を魅了し、ロックウッド氏が寂れた墓畔を歩くラストシーンの、小説を締めくくる大事な台詞にまで及んでいたのではなかったでしょうか。 一見キリスト教的な然るべき死生観に帰結するよう見せかけてはいるが、隠遁生活に憧れたものの田舎に馴染めず、都会へ戻ろうとする似非厭世家のごとき善良なキリスト教徒ロックウッド氏の感慨は、果たして作者の心象とイコールで結ばれているのだろうか? と訝しみたくなる余地をそこはかとなく残すのです。 “静穏の奥に不穏を漂わせながら幕を閉じる”と評した訳者の言葉は的確で、ロックウッド氏の感慨とは裏腹に(安らかな眠りを抜け出して)ムーアの澄んだ空気の中に漂いざわめく霊魂の存在を諾うものであるかのよう。
“主人公二人(母キャサリンとヒースクリフ)の愛はあまりに抽象的で肉体を欠いている”と、同時代人に批判されたそうなのだけど、いみじくも本質を突いていると思えるのです。 個人の魂は階級や財産や教育や保護者の愛など“生まれと育ち”という世俗の桎梏に絡めとられるものであり、純然たる魂だけで生きようとすれば死や狂気と相まみえる他ないのだと・・ そんな現実の条理を痛切に響かせる交響詩のような物語だったなぁ。
登場人物は巨大な運命を託された無力な人形のようでありながら、全知の語り手の不在と相俟ってその造形は驚くほどに揺らぎを秘め多面的。 勧善懲悪要素がどこにも見当たらず、紙一重の欠点と美点、いとも容易く同居する憎らしさと不憫さと可笑しさ、傷つきやすさと残酷さが、作品の陰影をどれだけ豊かにしていただろう。 娘キャサリンやヘアトンだけではない、ヒースクリフも、母キャサリンも、ヒンドリーも、リントン・ヒースクリフでさえも、ネリーに世話をされ、見守られ、彼女を頼った幼き日の瞬間があり、その記憶は読者の心の襞に深く深く染み込むのです。 ネリーという一本の魔法の糸に手繰り寄せられらようにして、透明な心ゆるせる何かを手にして本を閉じているのでした。
どこから来たかもわからない悪魔の子たるヒースクリフに正当な子孫が排除されお家が乗っ取られる・・的な意味合いにおいて、ちょっとだけケルトの民間伝承“取り替え子”モチーフを連想したり。 訳者が示してくれたようにキャサリンで辿ると非常にわかりやすいのだけど、キャサリン・アーンショーはキャサリン・リントンになり、その娘はキャサリン・ヒースクリフになり、最後にはキャサリン・アーンショーに回帰するのだよね。 嵐が吹き荒れ、一循環して元の鞘へ・・ 数式のような家系図の展開を辿り、運命悲劇が一抹の喜劇に転じる神の遊戯のごときプロットには、おとぎ話的ウィットが感じられもして。
どこまでも独善的な信心深さを発揮する狂信者のごとき奉公人のジョウゼフ爺さんが、何かにつけネリーの天敵としてコミックリリーフ的な役割を果たしているのですが、親世代が子供の頃から子世代が大人になるまで悪魔に魂売ったみたいに(笑)ずっと変わらず、一向死にそうにない糞爺さんっぷりで、何気にいい味なのだ。 家人と奉公人の間の不躾で大らかな関係性には、伯爵家のカントリー・ハウスとは別種の土着的な肌合いがあり、その濃厚な風趣に暫し心を遊ばせました。


嵐が丘
エミリー ブロンテ
新潮社 2003-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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