バーデンバーデンの夏 / レオニード・ツィプキン
[沼野恭子 訳] レオニード・ツィプキンはソ連時代を生きたユダヤ系ロシア人作家。 と言っても本業は病理学者だそうで、地下出版の非公式文学とは距離を置いていたため、発表するあてもないまま、ただ純粋に文学を愛する気持ちで詩や小説を書いていたという。 民族迫害や恐怖政治に蹂躙された過去、そして現在が、悪夢のように重ね重ねのし掛かってくる生涯に、駆け足のプロフィール紹介を読んだだけで胸がざわついてしまった。 皮膚の下に隠し持つ悲しみと痛みは、作品に取り払えない影をひっそりと落としている。
70年代後半に執筆された本作品は、海外出版の可能性を託されたジャーナリストの友人とともに海を渡ることになった。 1982年、ニューヨークのロシア語週刊誌で雑誌連載が開始されたとの朗報に接することはできたのだが、ツィプキンが56歳の生涯を閉じたのはその矢先のことだった。 連載後、英訳版が出版されるに至るも、当時は注目されず埋もれてしまった本作を、ロンドンの神保町と言われるチャリング・クロス街の書店で古本の山の中から“発掘”したのが彼のスーザン・ソンタグ。 本書には「バーデンバーデンの夏」本篇に加え、2001年の再販本にソンタグが寄せたエッセイ「ドストエフスキーを愛するということ」が付載されている。 揺蕩うような流離うような心の旅の物語。 熱く静かな耀きを秘めた“意識の流れ文学”の佳品だ。
冬のある日、モスクワ発レニングラード行きの列車に乗った“私”は、横揺れの激しい車内で頼りなく明滅するランプの下、一冊の古い本を開き、読み始める。 それは、ドストエフスキーの二度目の妻アンナの日記だった。 ツィプキン自身の限りない投影である語り手“私”が綴る自伝と、文豪ドストエフスキーの評伝が縒り合わさり、徐々に溶け合うような構成がベースとなっている。
時折ふと我に返り、雪に覆われた車窓やその白い覆いを透かして滲む停車駅の様子などに目を留めつつ、またいつの間にか“私”の心は本の中へ、およそ百年前の世界へと沈潜していく。 新婚のドストエフスキー夫妻がペテルブルグをたち、ドレスデンやバーデンバーデンやバーゼルで過ごした一夏へと。
ドストエフスキー夫妻の物語は “私”の想念として鮮やかに写実される。 史料に忠実でありながら、その空白部分を“私”のイマジネーションで補強した思索世界だ。 現在の冬と過去の夏、ソビエト体制下とロシア革命以前を行きつ戻りつ列車に揺られる“私”はやがて、暗い記憶が吹き溜まる凍てつく冬のレニングラードへ到着する。 同時にそこはかつてドストエフスキーが暮らし、彼の小説の登場人物たちが闊歩したペテルブルグでもある。
衝動に突き動かされるように大通りや路地に点在するゆかりの場所を巡り歩く“私”の、さながら聖地巡礼の旅の終着点は、ドストエフスキーが最晩年に移り住んだクズネーチヌィ横町の角のアパート、現在のドストエフスキー博物館であった。 頭上の壁にラファエロの「サン・シストの聖母」の複製画が飾られた書斎の端の革張りのソファーで息を引き取った文豪の、その臨終の数刻へと思いを馳せるのである。 アンナを媒介者に、彼女の眼を通して。
小説の趣向は、ヨーロッパ滞在経験を綴ったドストエフスキーの著書「冬に記す夏の印象」へのさり気ない目配せのようであるし、ドイツの保養地バーデンバーデン滞在中のセクションは、その直前作「賭博者」のもう一つの物語であるかのようにも感じられるし、バーゼル美術館での一幕には次回作「白痴」への大いなる予祝が込められてもいるのだ。
ドストエフスキー夫妻の物語は、“私”の思索世界で繰り広げられており、目線は常にアンナを介した“私”であるため、小説内の現実と連続的で共時的な関係を保ち、小説全体が現在と過去という単純な二元構造では表現できない朦朧とした流動性を具えている。 また、直線的な物語とは違い、ドストエフスキーの作品論をはじめ、ツルゲーネフやプーシキンとの関係性や、現代ロシアの文学動向への言及などを射程に入れているため、時制や場や語られる対象が目まぐるしく移り変わる。 しかしそれらは評論のための評論ではなく、ドストエフスキーを見つめる姿勢の中から自然に生まれた情熱の露として作中に溶け出しているように思えた。
ドストエフスキーはなぜ反ユダヤ主義者だったのか? それはツィプキンの遣る瀬無い、狂おしい問いである。 この煩悶が、憂いが、心の傷が作品を生み出す母胎になっていたのは間違いないのだろう。 小説の中ではあれほど他人の苦しみに敏感で、辱められ傷つけられた人たちを熱烈に擁護しながら、偏見に凝り固まってユダヤ人を罵倒する、その自己矛盾に気づかないドストエフスキーに代わって、自身はユダヤ人でありながら、ユダヤ人を嫌うドストエフスキーに惹かれてやまない“私”の自己矛盾を曝け出し、精神の呼応を乞い願い、対話を呼びかけている。 その想いは躊躇いがちに満ち引きを繰り返し、やがて自己の片割れを渇仰するアンドロギュノス的な恋情さえ想起させるほどに昂まっていく。 憎しみを愛で浄化しようとするかのような激情が苦悩と陶酔を同時にもたらし、キリキリと切ない。
夫婦の性愛に仮託される他者との共鳴を“海を泳ぐ”、自身の深部への探求を“山を登る”と表現し、横と縦の二つの意識を対象化させている点が興味深く、究極的には、ツィプキン自身とドストエフスキーとの“魂の交感”の可能性と、“魂の深淵”を突き抜ける死の瞬間への関心、この二つが大きなテーマを成していたのではないかと感じた。 しかしながら答えは夢想に委ねる他にすべはなく、辿り着ける場所もない。 可能性を可能性のまま永久に持ち続けるのが人間の真実であるのだと、開かないドアの存在を一番よくわかっているのは“私”なのだと・・ そんな物憂い吐息が聞こえてくる。 雪煙の中に濃密な気配となって篭る熾火のような命の芯の、その火照りが、とても美しく思えた。


バーデン・バーデンの夏
レオニード ツィプキン
新潮社 2008-05 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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