巨匠とマルガリータ / ミハイル・A・ブルガーコフ
[水野忠夫 訳][池澤夏樹=個人編集] 旧ソ連公認の文学史から一度は抹殺されてしまうも、スターリン死後の“雪解け”の時代に再評価の一歩が始まり、徐々にその機運が高まって、特にペレストロイカ時代以降の歴史の見直しの過程で研究が進み、今や完全復活を果たした作家ブルガーコフの代表作。 しかし名誉回復を知らないまま、本人は1940年に四十八歳で亡くなっています。 特に晩年は不遇をかこち、そんな中で活字になる当てもなく本作は書き続けられたという。
熱い春の日の夕暮れどき、悪魔一味がモスクワに降臨し、大パニックを引き起こします。 文学雑誌の編集長との神の有無をめぐる議論に始まり、アパートの一室を乗っ取って住み着いては満月の悪魔集会を開いたり、黒魔術の見世物興行で舞台に出演しては劇場中にルーブル札の雨を降らせたり・・ それはもうエスカレートするわするわ^^; さながらドタバタ狂詩曲の様相とでも申しましょうか。 SFとメルヘンとロマネスクが渾然一体となったような映像喚起力のあるスペクタクルな幻想性と、端役の隅々に至るまで(むしろ端役なればこそ?)のキャラクターの生きのよさが絶品。
粛清の吹き荒れた恐怖の時代のモスクワが悪魔によって虚仮威され、翻弄され、嘲笑される小気味良さには、ある種痛快なものがあり、同時代に生きながらのこの発想の放胆さ、不敵さに拍手喝采を送りたくなります。 モスクワの住宅問題、外貨隠匿行為やその発覚への強迫観念、不適切分子の精神病棟送りなど、1930年代の冬の時代真っ只中のモスクワの社会状況のあれこれが、辛辣な皮肉とユーモアでグロテスクなまでに活写されているのですが、主題となっているのは共産主義の根本に関わる無神論の問題だったでしょう。 無神論が共産主義社会の機能不全を引き起こしている大きな要因であると著者は告発しています。 人間は人間の理性を過信してはいけないのだと。 無神論を敵に回しては人知を超えた存在同士、神と悪魔は一蓮托生というか、高次元で止揚されてしまうのだよね。 そんな顛末が新鮮で面白かったのだけど、月報で池澤夏樹さんが、ブルガーコフは人間の善性を信じて失敗進行中の共産主義を目の当たりにしている今更、神に頼るわけにもいかないから悪魔に頼ったのだと分析されていて、これは至言!とちょっと笑ってしまった。
本作品のもう一つの軸を成すのが、当局サイドに阻まれて“傑作”の発表が叶わない作家の“巨匠”と、彼を支える愛人のマルガリータ。 ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスを主人公に据えて執筆した、二千年前のエルサレムにおけるナザレの人ヨシュアの磔刑にまつわる物語がキリスト賛美とみなされ、“巨匠”は編集者や批評家の執拗な攻撃を受け、精神を病み、自らの小説を火に焚べて燃やしてしまいます。 マルガリータの無心の愛が(悪魔に届き)“巨匠”とその作品を救ったように、きっとブルガーコフの晩年は妻エレーナの支えがあればこそだったのだろうな。 ブルガーコフ自身と妻エレーナが“巨匠”とマルガリータに投影されていたことに疑いはなかろうと察せられます。 しかもタイトルから想像するに、本作は二人の愛の結晶と言っても言い過ぎじゃない気さえしてきます。 ブルガーコフとその作品の復権の陰にはエレーナの奮闘があったという。 本作はまさに愛の力によって忘却の灰の中からよみがえったのであり、作中の悪魔の名セリフ“原稿は燃えない”を自ら証明してしまうとはなんとも魔術的で伝説的ではないか。
臆病であることの罪深さを神にも悪魔にも繰り返し説かせながらも、反体制の烙印を押されることに怯え、声を上げたくても上げられない人たちの真摯な心の葛藤に対しては同情的であり、二千年間さまよった煉獄からのポンティウス・ピラトゥスの救済というかたちでその意思が表明されていたと思います。
それでも、現実世界はにべもなく眼前に横たわり。 ソヴィエト時代の権力機構の中で生きていかざるを得ない人々の逞しさと哀愁が滲むエピローグ。 ポンティウス・ピラトゥスの苦悩は時代を超えてイワンに引き継がれた感があるのですが、イワンには同時に“巨匠”の最期を見届けた弟子としてのマタイ像がおぼろげながら重ねられているようにも思え、迎合するくらいなら詩人であることを辞める道を選択したイワンへの眼差しは決して冷たくないし、献身的な妻の存在は、もしかしたらたった一人の読者を得る日がいつか来るかもしれない可能性を否定するものではなかったんじゃないかと思えたりもして。 未来へ託されたささやかな福音の感触をいつまでも反芻したくなる余韻深い読後感なのです。


巨匠とマルガリータ
ミハイル A ブルガーコフ
河出書房新社 2008-04 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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