おぞましい二人 / エドワード・ゴーリー
[柴田元幸 訳] 少年ハロルドと少女モナが大人になり、出会い、ともに暮らし、幼子をさらっては無残に殺害して埋めることを繰り返し、やがて犯行が露見し、措置入院先の精神病院でそれぞれが死亡するまで。 猟奇犯罪者の一生のプロセスが淡々と飄々と描かれていく・・のはいつもと同じ。
ただ、クスッと要素のないゴーリーは初めてだし、のしかかるような生身の質感も、リアルな量感を持った救いのなさも初めてだったので、まだちょっと動揺している。 実は読む前、内容を半端に仕入れていたばかりに、ヴィクトリア朝のダークサイドを何かしらパロディにしたエログロ系っぽい感じなのかなぁって、勝手に想像しちゃってたのだ。 これは・・全く違う。
それほど昔ではない二十世紀、現実に起きたある凄惨な事件がゴーリーの頭を離れず、物語にせずにはいられなかったという製作経緯があるそうだ。 その事件とは1965年にイギリスを震撼させた“ムーアズ殺人事件”。 男女二人が4年にわたり、5人の子供を残虐に殺してムーアに埋めていたことが発覚したというものらしい。 自作のうちで“どうしても書かずにはいられなかった”のはこの本だけだ、とゴーリーは述懐しいるそうで、そこからも察せられる通り、本作はゴーリー唯一の(?)マジ本なのだ。 “遊び”がないのはさもありなん。 強いて言うならシュールやナンセンスや不条理を志向するゴーリーが、避けては通れなかった、その究極的な一境地ではあるのかなぁと、そんな気はしないではない。
闇・・ 真っ白・・ いや、色がないというべきか。 付着するものの少なさが、罪悪感の乖離が、愛の不毛が、絶望のなさが、理解の及ばなさが、境遇や感情だけでは割り切れない、負の概念では片付けられない虚無が、底知れず恐ろしくて悲しい。 悲しいというのは、そう思って納得したい一方的な自己防衛の感情なのかもしれないのだけど。
擁護も突き放しもなく、ひたすらに凝視することを突き詰め、研ぎ澄ませた最終形態がここにあるといったコンディション。 薄皮一枚さえあるか無しかの距離感で面接させられるようで、向き合うためにはこちらにも覚悟がいる。 いつもの凝り性的なディテールへのこだわりが、むしろ現実味を補強するような生々しさを伴って立ちのぼるのも不思議だった。 点景を綴り合わせた寡黙な描写の連なりの、その空白を埋めるブラックホールのような重さがしんどかった。

<追記>
wikiを読むと常識的な頭での理解の糸口が探れたような・・気も一瞬。 実際の“ムーアズ殺人事件”は、“幼い頃から暴力にさらされ続けて屈折した女”と“サディスト嗜好のサイコパスの男”によって起きた悪い要因の連鎖だったと総括的に分析されているのだが、ゴーリーはこの下敷きを踏襲し、少女と少年(環境因子と先天因子)を描き分けていることがわかる。 だから現実の事件は二人の判決もそれぞれに異なるのだが、ゴーリーはそこは描き分けをしていない。 なんだろう、あえて一体化させている感がある。 常人には分かり得ない歪な愛(?)のモニュメントのように。 何を描きたかったのか、表紙の雄弁さにゆっくりと気づかされていった。
“愛しあおうとして長時間懸命に頑張っても、成果はなかった”のページが岐路だったか。 この一ページにのみ感じられる人間としての発露が、本の印象を大きく左右していたと思う。 二人に踏みとどまる努力をさせたのはゴーリーだったのだろうか。
読み返すほど、やはりこれはゴーリーが咀嚼し、ゴーリーの意思が反映された“物語”なのだということが、そういう慮りが感じられてくるのだ。 出版時、まだ二人が生きていた現実を離れ、二人の死までも描いたことは“昇華”だったに違いあるまい。 誘発される“悲しい”気持ちには、少なからずゴーリーの内的成分が関わっていると今は思える。


おぞましい二人
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2004-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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