一人称小説とは何か / 廣野由美子
[副題:異界の「私」の物語] 著者の文学論評に嵌りつつある今日この頃です。 一人称小説というと、物語レベルを離れてついディスコース分析的な方向へ興味が走りがちで、タイトルから真っ先に連想したのも“語り手の信頼度”についての問題でした。 しかし、もっと土台に立ち返ってアプローチがなされていたというべきでしょうか。 語り手の制限された認識のみを通して伝えられる情報の特殊性というのは、それはその通りなのだけど、語り手を信頼できるかできないか以前に、そもそも読者ではない“他者”の主観によって築かれた物語なのであり、多かれ少なかれ例外なく読者の経験では得られないものの見方を開示しているという事実。 思えば当たり前のことを忘れかけていた気がします。
“他人を生きる”という機能を備えた一人称形式において、“異化作用”が際立った特色を発揮し得ることへの着目と関心が本書の構想の出発点となったようです。 “異化”とは、普段見慣れたものを“見慣れないもの”として表現することによって認識に揺さぶりをかけ、ものの本質に触れさせようとする芸術の技法のこと。 “異化作用”がどのように人間の実相を露わにし、鈍磨した生の感覚を回復させるか、あるいは小説の可能性をいかに押し拡げるか、主として十八から十九世紀イギリスの一人称小説を題材に検証が試みられています。
まず第一章で、機能や構造の観点から生成期の代表的な一人称小説を見渡しつつその特性を確認し、第二章から第六章で、語り手の設定方法(“私”の属性)の意匠によって鮮やかな異化作用が生じている注目すべき作品を例に、その効果を各々詳細に分析していくというスタイル。
第一章で扱われているのは、回想形式の「ロビンソン・クルーソー」(1719)→書簡体・日記体形式の「パミラ」(1740)→脱線に次ぐ脱線の「トリストラム・シャンディ」(1760-1767)→重層形式の「嵐が丘」(1847)→リレー形式の「月長石」(1868)で、それら機能や構造を念頭に置きつつ、第二章から第六章では、具体的に優れた異化作用を具えた作品を、やはり年代順に「ガリヴァー旅行記」(1726)→「この世からあの世への旅」(1743)→「フランケンシュタイン」(1818)→「引き上げられたヴェール」(1859)→「ブラック・ビューティ」(1877)と、作品同士の影響なども考慮に入れながら俎上に載せています。
他者の極端な視点を共有することで得られる新奇なる疑似体験の物語の数々。 不思議の国の旅人、死者、怪物、超能力者、動物・・ 彼ら“異界の語り手たち”は、極端に人間社会から疎外された、あるいは自らの変容の結果、社会から逸脱した者たちであり、どんなに荒唐無稽に思えても常に現実認識と結びついていて、なにかしら社会やそこに生きる人間の鏡なのだということがつくづくと感じられる。 一望すると(広義の)SFの系譜っぽいイメージが湧いてくるのだよね。 “認識を異化する文学”のフロントランナーであるSFが、諷刺や警告と親和性の高い所以に納得がいき、ストンと腑に落ちた心地。
その他、時代や地域を越えた種々関連作品のコラムが章ごとに挟まれ、なんとまぁ密度の濃かったことか。 特に第二章から第六章のメインの五篇については、読了したんじゃないかくらいの充実気分を味わっちゃってるんだけど・・いかんいかん
フィールディングに興味津々です 二世紀のギリシアの諷刺作家ルキアノスを愛し、その著作に影響を受けて書いたといわれる喜劇精神に富んだ怪作「この世からあの世への旅」も読んでみたいし、サミュエル・リチャードソンの「パミラ」を当てこすって書いたというパロディ作「シャミラ」と「ジョウゼフ・アンドルーズ」も気になります。
「フランケンシュタイン」に込められた、ルソーの教育論への賛意と異議を探る読み方が興味深かったのと、ジョージ・エリオットの異色短篇「引き上げられたヴェール」の、暗い文学性の深みに沈んでもみたい。 それとやはり、スウィフトが心に刺さりました。 あなたの苛烈なまでの人間嫌いにとことん付き合ってみたいわたしがいます。 「ロビンソン・クルーソー」のパロディだったらしい「ガリヴァー旅行記」ですが、人格破綻のプロセスが描かれていたなんて。 衝撃的すぎて震えた。 お恥ずかしながら小人の国の冒険譚(ハッピーエンドの童話)しか知らなかったです...


一人称小説とは何か
 −異界の「私」の物語−

廣野 由美子
ミネルヴァ書房 2011-08 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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