人魚伝説 / ヴィック・ド・ドンデ
[荒俣宏 監修・富樫瓔子 訳] “絵で読む世界文化史”シリーズの一冊。 古代から中世、近代、現代へと、歴代人魚の博物誌を紐解きながら人魚の来歴を語り倒すほどに興味の尽きない知的探求への旅。
一言で人魚伝説といっても、様々な要素が混沌と絡まり合っているので、道筋立てて概略を書き残すことができそうにないのが切ない。 神話や伝承のフィールドはどこまでも地続きで、洋の東西でさえも遠い遠い親戚のような気がしてきた・・そんな感慨に耽る読後感。
6〜7千年前にバビロニアで崇拝されていたオアンネスという半人半魚の海神(アフロディテの原形でもあるらしい・・)こそが正統な人魚の始祖といえそうなのですが、しかしながら、オアンネスに由来すると思しき、神として崇められる系譜(?)とは根を異にする、なんといっても後世の人魚伝説に大きな影響を与えたのは、ホメロスによって世に知らしめられた魔物、セイレーンなのでした。(ホメロス以前の、セイレーンのルーツに明確な答えは未だないようです・・)
“セイレーンの歌声を聞いた者は死ぬ”こと以外、ホメロスは何ら詳細を示していない。 だからこそ、人々はそこに寓意や啓示をめぐる解釈を見出そうと、想像の翼をはためかせずにはいられなかったのですね。 人間の営みと共に変化する時代を反映しながらの、三千年に渡るイメージや姿形の変遷の過程は、まるで百花繚乱絵巻。 そして近代以前、実しやかに語られる動物生態学の在り様は、まさに“幻想文学”のそれであり、動物誌ならぬ怪物誌の時代でありました。
そもそもホメロスのセイレーンは人魚ではないし、そこからインスパイアされた古代の文化人たちによって思い描かれたセイレーンも人魚ではなかったのに・・
ギリシヤ神話(の一説)では、河の神アケローオスとテレプシコーレ(ムーサの一人)との間に生れた娘たちと位置づけられているセイレーン。 オウィディウスの「変身物語」では、ペルセポネを探すために自ら鳥の姿に変わることを願って神に聞き届けらたという。 その際、美しい歌声を惜しんだ神が顔だけは乙女のままに据え置いたとされています。
古代では人面鳥身(鳥サイズ)だったというのが定説なんですが、時代が下るにつれて歌声の呪縛は踏襲されつつも姿態の美しさが強調されていくセイレーンは、どんな風に紆余曲折を経て(マイナーチェンジっぷりが面白い!)人魚に至るのか。 エジプトの冥鳥と近似性を醸し出す有翼の死の天使のイメージ、はたまたセイレーンに天球のハーモニーを奏でさせたプラトンや、知への渇望をセイレーンの伝説に投影したキケロ・・といった古代の哲学思想を離れ、中世のキリスト教思想のもとで堕落への甘美で邪悪な誘惑者としての存在感をどのように強めていったのか。 検証の手は緩められません。
近世、近代には、「ウンディーネ」や「人魚姫」など、魂(信仰)を持たぬ存在の象徴に対して、犠牲者や無垢なるものへ向けられる憐れみや愛おしさのようなニュアンスを滲ませたロマン派の人魚観が支持を得るのも、未知なるものへの脅威が薄らいできたことの顕われの一つなのか・・ ちょうどこの頃は、動物分類から幻獣が完全に姿を消し、(科学者曰くの)マナティと人魚の積年の混同に決着がついて間もない時期ですから。
芸術の主題として形而上学的な世界を浮遊する人魚から、似非博物学の餌食となって禍々しい痕跡を残す人魚まで。 “幾ばくかの事実や伝承を核に、人間の持つ様々な不安や畏怖が投影されて成立した一種のシンボル” この言葉がストンと腑に落ちました。 そして“あらわな胸と冷たい魚の尾は、誘惑と拒絶との洗練された戯れの象徴”であり・・なるほど、そうか。 男心を掻き立てる女性の元型なのですね・・永遠に。


人魚伝説
ヴィック ド ドンデ
創元社 1993-11 (単行本)
「知の再発見」双書シリーズいろいろ
★★
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C O M M E N T








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