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人形式モナリザ / 森博嗣
Vシリーズ2作目。 さて。どうしよう。 キャラのハイテンション加減が鬱陶しい^^; ついていけそうにないかもと弱音を吐きたくなるくらい躓いている。 特に、紅子と林警部と七夏の戯画的ともいえる三角関係パートがダメだなこれ。うん・・orz 犀川先生と萌絵にはあんなハマれたのに、なんだかこのシリーズは性に合わないっぽい;; ごめん、読むんだけどね。
長野県諏訪市のリゾート地で夏のひと時を過ごす阿漕荘の面々と紅子は“人形の館”と呼ばれる私設博物館で乙女文楽を鑑賞中に、衆人監視のステージ上で演者が殺害される事件に巻き込まれます。 平行して起こる奇妙な絵画盗難事件と、著名な彫刻家が死ぬ前に作り続けた千体余りの小さな人形に隠された秘密には、どんな繋がりがあるのか?
わたしはラスト一行を高く評価しました。 描かないことによって描かれていた部分が、黒々と一気に脳内を占拠して、読み終えた瞬間うわ〜〜となった。 操り手の存在が消えて人形が人間になり、操り手の存在が浮かび上がって人間が人形になる・・ 人形遣いのモチーフが巧妙に、そしてあまりにも華麗に料理されていたことに最後の最後で気づかされるのです。
ざっくり読み返したら、回答を引き寄せる最大級の手掛かりが、例によって散りばめられた観念的な思索の中に悪びれもせず堂々と紛れ込んでいます。 このしてやられた感が心地よい。 難を言えば、「“無の人格”であることを宿命づけられた操り手の非存在感が完璧すぎて、読者を疑わせる綻びすらなかった」点かもしれません。 でも、そこがまさに黒子である真の操り手の本質を体現しているともいえるのだからジレンマです。 森さんが仕組んだこういうパラドックスに触れた時、ちょっと興奮するわたしです。
“現実がどんなに複雑でも言葉にすると呆気ない”“言葉とは不器用な手法だ” これは、森作品に頻出する表現ですが、騙されて真に受けてはいけないと思う今日この頃。 確かに言葉の原理の一面には違いありませんが、森さんはこの言い回しをわざと作為的に用いているんじゃなかろうか。 簡単なことを複雑に見せかけたり、陳腐なことを有難く感じさせてくれるのも、また言葉なのです。 何を隠そう森さんは、この後者の言葉の作用によってミステリ小説におけるトリックの脆弱性をカバーしている確信犯なんだから。
人は宇宙の彼方から伸びた見えない糸で操られている人形で、その糸が、自分で立ち、自分で考えているという幻想を見せてくれる。 空には糸の通る小さな穴が開いていて、人の数だけそれが光っているのだと夜空の星を見ながら紅子が夢想する場面が好き。


人形式モナリザ
森 博嗣
講談社 2002-11 (文庫)
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