怪談 牡丹燈籠 / 三遊亭円朝
アンソロジーの「牡丹灯籠」を読んでから、円朝の「怪談 牡丹燈籠」の全容に興味が湧いて読んでみました。 序文はなんと坪内逍遥! 速記という新しい技法を用いて口語調で書かれた文章の躍動感を称えています。 同じく序文を記した速記者の若林玵蔵も“言語の写真法を以って記した”と誇らしげ。
大衆に広く親しまれ、のちの言文一致運動に大きな影響を与えた講談速記は、明治17年出版の本作、「怪談 牡丹燈籠」に始まります。 正直、現代人には当たり前すぎて、有難味すら全くわからないわけなのですが、心を凝らせば、この画期的な書物を手に取った当時の人々の感動に想いを馳せることができるという別の感動がありましょう。 そしてむしろ、耳慣れないのに懐かしい昔言葉の名調子は、またちょっと違う価値観で現代人の心を擽るものがありましょう。
辻褄の合わないところは幽霊のせいにして、上澄みを掬い取るように読むのが手本なのかもしれませんが、敢えて、斜め裏読み(?)的な色眼鏡で読みたくなってしまう・・そういう気持ちを掻き立てられる話だなぁと思いました。
主従や親子の血筋の因果が廻る仇討話に、男女の転生の因果という幻想的な風合いを織り込んだ人情もの・・ですが、軽やかに舞台を転じながら視点と場面がテンポ良く入れ替わる展開や、ストーリーの巧妙さ、勧善懲悪的な様式美を愛でるだけではあまりに勿体ない。 なんかね。 尖んがった幻想作家が書いた型破りの推理小説っぽい面白さですよこれ。
今日、カランコロンの幽霊譚として独り歩きしている一場は、むしろ、中国明代の民話「牡丹燈記」や、それを翻案した浅井了意の「牡丹灯籠」の円朝バージョンとして完結させた趣きですが、確かに、全く本筋ではない新三郎とお露の悲恋譚の、儚さや存在感の希薄さが“幽霊的”でとても綺麗な印象を残します。 と同時に、全編通して読むと、ほんとに幽霊だったの? という陰翳がそこはかとなく深いんです。 新三郎殺しは種明かししたけど、あとは勝手に想像してね的な突き放し感がクールですらある。 今日では、白翁堂勇斎が直に幽霊を見たことになったりしてるけど、円朝はそう語っていなかった。 “幽霊を見た”のは、恋に狂って神経を病んだ新三郎と悪党の伴蔵だけなんだよね。
この語りの特徴として、内面描写と客観描写に納まりきれない“本人の言い分”とでもいうべき建て前描写(?)が堂々と紛れているため、一部の真実は最後まで読者に明かされていない可能性があることを念頭に置くべきです。 少なくともそのような嫌疑をかけて然るべき余地は十分にあります。 つまり、なぜそんな嘘をついているのか? なぜそんな思い込みをしているのか? ということが説明できれば、いかようの解釈をも拒まない寛容さがあるんです。 そう考えると百両の流れもチラリホラリと仄見えてきそうではないか?
新三郎が舟の上で見た怪夢や、徳の高い良石和尚や白翁堂の千里眼など、本当の不思議の要素と、不思議を隠れ蓑にした人間のあさましき姦計を平然と同列に語ることで生まれる曖昧さが、非常にノワールなのである。
リアル小説の不文律を無視した語り(騙り)が、今読むと逆に斬新さを提供してくれることが嬉しく、この解放的な底巧みには、現代小説の閉塞感(なんてものがあるとすれば)を破る一つのヒントが隠されているように思えてならなかったです。


怪談 牡丹燈籠
三遊亭 円朝
岩波書店 2002-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★
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