春にして君を離れ / アガサ・クリスティー
[中村妙子 訳] メアリ・ウェストマコット名義で発表された非ミステリ、いわゆる愛の小説系を読むのは初めて。 この充ち満ちるザッツ英国感! 貪るように味わってしまいました。 いや、実に残酷な作品でした。 傍目には模範的で申し分なく充実して写るのに、底無しに空疎で乾いた家族、夫婦のポートレイトです。 ラスト来たこれ、痺れるほどの救いのなさ・・
結婚してバグダッドで暮らしている末娘の病気見舞いに出かけた帰路、一人砂漠の駅のレストハウスに数日間足止めされた英国婦人ジョーン・スカダモアは、皮相的な自己満足を脅かす黒い染みのような違和感に駆り立てられるように、理想的(であるはずの)家庭生活の奥に隠れ潜む真実を直視しようとしては恐れ、拒み、自身の安寧を揺るがす疑念を反芻し続けます。
文明から切り離されたエアポケットのような時間の狭間で、索漠とした不安を抱きながら狐疑逡巡を繰り返す思惟思考のプロセスを、照りつける異国の太陽の下の蜃気楼めいた神秘体験風に活写する手練や、本人が気づけない欺瞞を読者だけに暴いて見せる知略の辛辣さ・・
時代背景的には第二次大戦前夜辺りでしょう。 虚栄と偏見の狭き牙城で慢心して生きている夫人像や、踏み込まない優しさの鎧を身に纏い、冷めて諦観している英国紳士のような夫像は、いかにも戦前の上流中産階級を想わせる類型的品性なんだけど、人の普遍的な懊悩を描いているから全く古くなく、逆にカリカチュアとして突きつけられることで心の芯に針をグサグサ刺されるような怖さがあって、どうしようもなく身につまされてしまう。
何を以って幸福とするか・・ ファースト・プライオリティがかけ離れた者同士による結婚の不毛の、その核心部を覗き見てしまったような空恐ろしさも然ることながら、他者への共感を欠いた正義ほど危ういものがあるだろうかという想いに激しく揺さぶられました。 反論の余地を与えずに周囲を圧するジョーンの正当性が物語の底でひっそりヒトラーに敷衍していたのを感じたからかもしれない。 些細に思える独善と、ずっと遠くの破滅が繋がっている恐ろしさの暗示は、時代を超えて迫ってくるから。
そして、ジョーンを憐れな道化にしたまま傍観者の構えを崩さない夫のロドニーに対しても、コペルニクスに憧れながらコペルニクスになろうとしない、その怯懦がモンスターを育てるのだと、著者は最後に告発している・・ そう感じさせられるのです。 そして恐らくレスリーにはポーランドの姿が重ねられていたのでしょう。
旅先に属する開放やエキゾチシズムの非日常と、家に属する慣性や秩序の日常に、クライマックスとアンチ・クライマックスとのコントラストを巧みに関係づけていくストーリー展開が見事で、上質なサイコスリラーのような趣きでした。 突き放した人間観察力を基幹とした優雅で皮肉な筆さばき、クリスティーに惚れ直してしまった一冊となりました。


春にして君を離れ
アガサ クリスティー
早川書房 2004-04 (文庫)
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★★★★
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