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Yの悲劇 / エラリー・クイーン
[大久保康雄 訳] 「Xの悲劇」に次ぐドルリー・レーン四部作の二作目。 ワシントンスクエアの大富豪、“マッド・ハッター”と揶揄される悪しき血に呪われたハッター家に襲いかかる惨劇。 ニューヨーク市警のサム警部とブルーノ地方検事の要請で事件解決に乗り出すレーンを待ち受けていたものは・・ タイトルの“Y”はイニシャル。
代表作に推されるくらい評価が高いらしいんだけど、うーん;; Xの方が好き。 こういうセンチメンタルな幕引きは嫌だなぁ、と重い後味を引きずるくらい、推理の楽しさに集中できなくなる雑音が多くて、自分には不向きな作品でした。 ただ、レーンのダークな解決法に思いを馳せる時、現在とは科学的に異なる見地に立つ時代の道徳観をそのまま現在に引き写して論じることはできない、と、そこは熱烈に擁護したいです。 むしろ精神疾患と犯罪の問題に一石を投じた一つの寓話として価値を見いだせる素地を持った作品ではないかと。
純粋推理ものだったXとは違い、“探偵の心情”というところにもかなりのウエイトが置かれ、社会派を先取りするような問題意識さえ内包している分、Xのような本格ミステリらしい外連味や茶目っ気は抑えられています。 でも、論理のジグソーパズルのような推理パートは健在で、そこは十分に満喫できました。 館ミステリであると同時に見立てものの変形ヴァージョンですが、この趣向は今日でも様々派生しながら進化し続けてるんじゃないかな。 二重三重に張りめぐらされ、複雑に縺れた腑に落ちない疑問や矛盾を解き明かし、一本の道筋をつけていくレトリックには、ならではの冴え冴えとしたキレを感じます。 論理ミステリで“意外な犯人”を導き出すという高いハードルを確実にクリアしています。
はー、それにしても。 犯人に対して下したとある決断が、レーンに深い闇を背負わせてしまいました。 クイーンが本格ミステリで“人間の苦悩”をどこまでやりたいと思っているのか知らないけど、この悲劇四部作をシェイクスピア悲劇とシンクロさせる狙いあってのシナリオなんじゃないかと推測したくなります。 Xでは無慈悲なほど超然とし、“神のごとく”完全無欠だったレーンが、法と正義の狭間で“人間として”呻吟し、自問自答し、霧の奥深くへ迷い込んでしまいました。 役ではなく実世界そのもので、レーンはだんだんシェイクスピア悲劇の主人公じみてきてるんですよね。 シェイクスピア劇の名優=往年の名探偵として、暗に名探偵の在り方を論じている節もあり、推理天国から論理では解読できない不条理な地上へ引き摺り下ろされつつある名探偵の宿命を投影しているシリーズなのかも・・と感じたりしている。
舞台人としての名声の絶頂にあったとき、彼は、おびただしい賛辞と、それと同じ程度の嘲罵を浴びた。“全世界を通じて劇壇の第一人者”といわれるかと思うと、“この驚異に満ちた現代で、なお虫食いのシェイクスピアにとりついている敗残役者”ともいわれた。しかし、彼は、これらの賛辞と嘲罵を、いずれも平然と聞きながし、行くべき道を知り、いるべき場所を知っている芸術家としての態度を崩さなかった。彼の不動の抱負と貴い天職を果しつつあるとする無言の信念とは、新興芸術に毒されたいかなる批評家の毒舌も、これをゆるがすことはできなかった。では、なぜ彼はその名声の頂点でふみとどまらないのか? なぜ余計なことに頭を突っこむのか? 悪を追及し、悪を裁くのは、サム警部やブルーノ検事のような人たちの仕事ではないのか。悪? 純粋な悪というものがあるだろうか。悪魔でさえ天使とはいえないだろうか。いるのはただ、無智な人間と、ゆがめられな人間、それから不幸な運命の犠牲者だけではないのか。
そうした疑問に責められながらも、彼は真実を探求し真実を確認するために、そうした疑問を頑固に払いのけて、死体公示所の階段を、力なくのぼっていった。


Yの悲劇
エラリー クイーン
新潮社 1958-11 (文庫)
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