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ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
[若島正 訳] ものすごい密度。 心地よい疲労感。 充実の注釈は、“初読ではなく必ず再読のときにお読みいただきたい”って訳者さんのご助言ですが、無理っす・・誘惑に勝てませんでした。 可愛くて野蛮でお馬鹿さんな小悪魔、そんな元祖ロリータ像は(自分の中では)どんぴしゃりな感じでした。(逆に今、“ロリータ”という言葉がどんな一般的イメージを付与されてるのか聞かれてもよくわからなかったりする;;) ただもう、ここまで高尚な芸術性を備えた作品だったんだなぁって。 ポルノグラフィックな小説と誤解している人もいないだろうけども。 一回読んだくらいで感想晒すの腰が引けます。 ネットの海にゴミ捨てるようで申し訳ない・・と、思いつつ。
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。 我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。 舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
繊細で、傲慢で、哀れな男のグロテスクなメルヘンを抽出するユーモアのセンスにノックアウトされた冒頭の一瞬で、ナボコフの言葉の世界の虜になってしまった。
文学的言及、語りの技巧、絢爛たる言語遊戯・・ 精緻な迷彩が施された多面体のような小説。 少女性愛者のハンバート・ハンバートが獄中で綴った回想記(告白録)の体裁で、一筋縄ではいかないハイブローな文章が織られていきます(正確にはハンバートの原稿をジョン・レイ・ジュニア博士が検閲したテクスト)。 ハンバートの詩情と自嘲と諧謔と妄想と慟哭のハーモニー。 流れる旋律の味わいに読めば読むほど惑溺してしまうのでした。 ちょっと余談だけど、“陰翳と暗闇のハンバーランド”、“タクソヴィチ氏”、“愛人探偵トラップ”、“前ドロリアン紀”あたり、愛して止みません。 ナボコフにおちょくられてこんな言葉まで作らされちゃってるハンバートに同情。 20世紀中葉という時代のアメリカ社会の風俗、その物質的緻密さを活写するロードノヴェル的側面も有し、しかも既読ミステリを思い浮かべてみると、トリック的に「『アリスミラー城』殺人事件」が近いと思ったw でも注釈なかったらポカーンだった・・たぶん^^;
多種多彩な読みを可能にする「ロリータ」。 振り返ってみると、自分はもっぱらロマンチック要素重視で読んでいたことに気づきました。 これカミングアウトしてもいいんだなって、大江健三郎さんの解説に勇気をもらった。
「ロリータ」における作者の意図は何か? という問いに対して、“インスピレーションとコンビネーションの相互作用と答えるほかない”と、“教訓を一切引きずっていない”と、ナボコフはあとがきで牽制してるんだけど、こうも書いています。
私にとって、虚構作品の存在意義とは、私が直截的に美的至福と呼ぶものを与えてくれるかどうかであり、それはどういうわけか、どこかで、芸術(好奇心、情愛、思いやり、恍惚感)が規範となるような別の存在状態と結びついているという意識なのである。
たぶん、罪悪感を棄てた美意識というものは、ナボコフに美的至福をもたらさないんだろう。 この感覚が作品の中枢神経だった気さえして。 個人的嗜好だと言い張っても、読む者の意識無意識に何かしら喚起の種火を残してしまうのが名作の名作たる証し。
同じ性的倒錯者でありながら、ハンバートとクィルティは対照的であり、表裏の関係性が投影されていたのは確か。 分身(あるいは影)と捉えることが可能ならば、ハンバートが本当に殺したかったのは“自分の中の罪悪感と道徳観の欠如”だったと読むこともできるのではないか。 特に、けだものギアが入ってバッドトリップ領域に突っ込んでいった二度目の逃避行の時でさえ、追いかけてきた(と妄想した)トラップは、置き去りにした良心の権化に他ならなかったし、ハンバートは常に“純粋な嗜好性の追求”と“呵責や道徳的な自制”の狭間にあった人であり、クィルティはその葛藤を持たなかった人なのだと思う。 ロリータがクィルティを愛した(愛さざるを得なかった)悲しいほどの荒廃が、この小説の残酷な本質を突いている気がします。
また、愛するロリータが“ニンフェット”ではなくなる時を迎えることへの怖れや焦燥、そこにハンバートのもう一つの自己撞着を読み取ることができるかもしれない。 ニンフェット愛とロリータ愛はハンバートの中でイコールではなかった事が判明する終盤の、救われないことで救われたような救われない痛み・・ つかまえどころのないまま、さざ波のように揺れるだけの微かな感傷が、わたしの胸を焦がしました。 あの再会の場面、薄っすらロリータとシャーロットが重なるんだよなぁ。
注釈によると、ナボコフ研究者の間では、ロリータの手紙が届いてからの出来事は現実に起こったものではなく、ハンバートの作った虚構だという読み方があるそうです。 最初、ピンとこなかったんだけど、慧眼なんじゃないかと、実は今、じわじわ来てます。 クィルティ殺しの場面は、“奪われた贖いを取り戻す”儀式として無意識のうちに寓意的に読んでいたんですが、あの、グロテスクな喜劇舞台と化した一場の、現実感覚の超越具合いが俄然、説得力を増す気がするし、それに、この説を採ると、ジョン・レイ・ジュニア博士が書いた序文もハンバートが構築した虚構の一部になるんですよね。 “道徳意識とは美意識に対して払わなければならない税金である”との訓戒に辿り着いた自身の体験を芸術作品に昇華することに贖いを見出そうと思い定めたハンバート像が、更には、ハンバートにこの贖いを課した、永遠の命たる芸術の力を信じるナボコフ像が、この説を採ることでより際立って見えてきて、作品の主題がピタッと嵌る気がするんだけどなぁ。 ロリータが生きてるうちに手記を発表して彼女に迷惑をかけることはハンバートの本意ではないから、ロリータが死んでしまったのは本当なのだと思う。 むしろ手記を書かせた強い動機がそこに生まれたのかも・・なんて。 あー、眠れなくなりそう^^;

<後日付記>
ハンバートに、いや、ナボコフに騙された・・甘いなぁ・・orz 彼(ら)をもっともっと疑ってしかるべきだったと「ロリータ、ロリータ、ロリータ」を読んで気づかせてもらいました。 そして、「ロリータ」がますます好きになり、ますます“本物の文学”だと思い、ますますわからなくなってしまった。 ハンバートの信用ならざる心から生まれた正真正銘の芸術。 この齟齬をどう読めばいいのか・・受け止めきれない。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社 2006-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★★
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