江戸ふしぎ草子 / 海野弘
江戸時代初期から幕末に至る各々の時勢、あるいは大江戸をはじめとする諸国津々浦々の、その土地ならではの事情を反映した、庶民風俗を伝える二十話の掌篇集。 文献史料に遺されている奇談珍談や不思議話にインスパイアされて生まれたのではないかと思われ、洒脱ならではの素朴が香ります。 史料の背後に想いを馳せ、歴史に書かれなかったささやかな隙間を埋める淡い幻影のような物語なのですが、特殊な芸や技で民間の文化を潤し、支えた名も無き人々へ捧げられているような・・ 主張しないその声がそっと掬い取られていて、しみじみと、ほろりとさせられる佳篇ばかり。
江戸市中から外れて自由な気風が育ち、江戸っ子の遊びの解放区となった深川。 武士も町人とともに商売や遊びにうつつを抜かした田沼時代。 古典に対する興味が起こり、庶民に浸透する国学ブームをもたらした元禄文化。 太平の世では見世物になり、秘密の魔術や忍術と似てきた砲術。 江戸の先生と地方の弟子の俳句添削通信のために発達した俳諧飛脚。 退廃的な文化を繰り広げた文政年間に現れた“まじない横丁”。 上野山下の広小路の遊女“けころ”。 幕末から明治にかけて職人たちが腕を競ったスーパー・リアリズムの“生人形”。 家元に属さず段位も受けられなかったが名人もいたらしい在野の将棋指し。 夢見のいいおまけ絵を付けて町を流した枕売り・・
表紙は春信の「清水の舞台より飛ぶ女」。 以下、何篇か覚え書き。
【結び人】 江戸中期の旗本で有識故実の学者であった伊勢貞丈は、宝暦十四年、古くから伝わる結びの技法をまとめた「結記」を出版する。そのあとがきで貞丈は、“これらの結びは伊勢家のものではない”、“結びには流儀はない”と繰り返しているという。この書物の成立には、市井に生きた無名の“結び人”の助力の影が感じられはしないか・・ そんな発想から生まれた物語なのだろう。
【煙芸師】 煙草の煙を芸にする“煙芸師”は、いったいどんな凄技を持っていたというのだろう。見たい者に見たいように見たいものを見せたのではなかっただろうか。寛政三年、手鎖五十日の刑を受け、憂さを持て余した山東京伝も心の目で煙を追って慰めを得た一人かもしれない。京伝がのちに煙草入れ店を開く伏線的な含みも感じさせる物語。
【神足歩行術】 勝海舟を後援した幕末の実業家で、地元(射和)の開発と振興に尽くした竹川竹斎は、“神足歩行術”の使い手だったという。文明開化の波の中に埋もれてしまうが、竹斎が書き遺した歩行術はなかなかに合理的な内容であるらしい。晩年は事業の失敗でひっそり暮らしたそうだが、日本の新しい方向に眼差しを注ぎ、激動の時代を生きた竹斎の小さな伝記である。
【鋳物師】 江戸中期の長崎に津村亀女という女鋳物師が実在する。豪放な性格、自由な芸術家気質は幾つかのエピソードに伝えられるそうだが、女性らしい感性の繊細な小物の作り手だったという。長崎の鋳物師の作品は海外でも好まれた。亀女の人生にもこんな秘話があったら素敵だ。
【花火師】 江戸時代、大川(隅田川)以外の花火は禁じられていた。秩父の村で大掛かりな花火があがったという通報があり、役人が調べたが花火師を見つけることはできず、村人が狐に化かされたのだろうということになった、という文政年間の記録があるそうだ。その裏舞台を夢想する花火師ロマン。
【松前風流女】 女性の旅は厳しく制限されていた時代に、蝦夷から京都まで一人旅をした女性がいたいう記録が奇談として遺っているという。その女性の作として物語の中に織り込まれている和歌や詩も、史料を引用したものなのだろうか? だとしたら本当に、ふらり気楽な旅路の様子が垣間見えて感興をそそる。
【甘酒売り】 享和の頃、浪華新町の遊郭で全盛を誇った桜木太夫が零落し、浪華橋のたもとで甘酒を売って暮らしを立てたという記録がある。その影にこんな助っ人がいたもしれないという物語。作者不明(?)の“花はむかし名は桜木の一夜ざけ”という句を、芭蕉が詠んだと匂わせるラストがいい。 時代は違うのだけど芭蕉はきっと冥府から甘酒を飲みに(句を捻りに)訪れたのだろう。


江戸ふしぎ草子
海野 弘
河出書房新社 1995-08 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
| comments(0) | trackbacks(0) |
C O M M E N T








http://favorite-book.jugem.jp/trackback/932