アクロイドを殺したのはだれか / ピエール・バイヤール
[大浦康介 訳] 著者は文学を精神分析に応用する“応用文学”の提唱者。 「アクロイド殺し」は、手法の独創性によって推理文学史上に屹立する名作ですが、“語り手の背後に殺人犯を隠す”のはアリか?ナシか?の物議で有名ですね。 本書はその賛否に加担するようなミーハー感覚の読み物ではなかったです。 推理小説が自ら構築する絶対的な真実を自ら侵犯してしまう、その逆説性に着目し、意識の錯覚と自己認識の二重性の上に築かれた推理小説モデルとしての「アクロイド殺し」のテクストを、精神分析理論とのアナロジーで語り、新たな照明を当てています。
端的に言えは、ポアロの推理を“妄想”と断じ、両義的な言説と省略による嘘に注意を向けながら小説が提供しているデータに違反せずに真犯人を追及することで、「アクロイド殺し」をもう一度捉え直し、書かれ得たかもしれない別の物語を探ろうとする試みです。 作品が出す解答を無批判に受け入れることから離れ、自律的読みの可能性を押し広げる訓練の場にもなっていると言えます。
著者は、作者と登場人物と読者の意識や無意識が錯綜する、言わば解釈のグレーゾーン領域のような“中間的世界”を想定します。 捜査の手をすり抜けた真犯人はそこへ逃げ込み、息を潜めているのではないかと。 この“中間的世界”をめぐるディスコース分析のために、オープン・エンディング性とは対極にある、謎解き主体のいわゆる本格ミステリというジャンルを持ち出して複数的読解の道を切り開こうとするのには、やはり何かしら挑発的ないし批判的、或いは遊戯的意図が窺えそうです。
読者の主観的介入や独創的読解を妨げる推理小説の一義性を批判した上で、それにも関わらず、真相を隠蔽するテクニックを複雑に絡み合わせたロジックや、解釈の目論見に合致するよう取り計らわれる情報の恣意的な取捨選択により、別の物語として再構成され得る潜在的な真相という副産物を無限に生み出し、意味決定が不可能な状態さえ招いてしまう自己矛盾を抱える羽目になっていると突きつけるのです。
だから、推理小説の意外性や独創性へのアンチテーゼとして、真相はこれ見よがしに、“地味で無難な推理”から導き出されるものとばかり。 むしろ仮説そのものは副次的であって、推理小説がいかに多義的な読みを可能にする脆弱性を孕んでいるかを見せつけたいのだろう・・と、終盤まで内心たかを括っていて、更に白状すると、真っ向から正攻法で論じる大真面目さが、地上の論理で本格ミステリに挑むドン・キホーテの逆ヴァージョン?みたいに見えて、今どきこんな・・とバツの悪い気分で読んでいたのです。 それが段々、いや何度も白状するけど殆ど終盤になって、著者はドン・キホーテではなくセルバンテス(ドン・キホーテを演じているセルバンテスと言うべきか)なのだということがわかってくる。
(以下、ネタバレご注意) 実は、本書は丸ごと「アクロイド殺し」をメタ化したミステリの構造になっていたのです。 つまりその、ミスリードにまんまと引っかかっていたわけです。 しかも独自に導き出した“真相”には説得力があり、ここまで踏み込むのか!というくらい“パラノイア性妄想”的なまでにエキサイティング な解釈(但しここでも本家同様、不利な点は巧妙に隠されていそうです)だし、その解釈によってポアロを攻撃し追い詰める著者の姿勢は、著者が弁じるポアロ像と二重写しにもなっています。 何より面白いのは、この本が導く真相もまた、一主体に過ぎない著者によって生み出されたのであって、著者の主張が依拠した公理の一つの例証となっている点。 つまり著者自身が信用ならない語り手だったのです。 しかしまぁ、しかつめらしいハイソな言説のあれもこれもが伏線だったと思えばニヤニヤが止まりません。
で、これ結局、アンチなのかオマージュなのか。 どこまでが評論なのか。 もう全編これ評論という体裁に見せかけた小説なのか。 一人称の“われわれ”が非常に気になるのです。 著者なのか登場人物なのか。 そのどちらでもあり得ると言いたいのか・・


アクロイドを殺したのはだれか
ピエール バイヤール
筑摩書房 2001-09 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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