突然ノックの音が / エトガル・ケレット
[母袋夏生 訳] ホロコースト第二世代としてテルアビブに生まれたイスラエル作家の短篇集。 と聞くと、なにか重厚なテーマを双肩に担ってそうな巨匠のイメージを連想しがちなのだけど、ケレットは極めて庶民感覚の作家。 一回揺する度にガラリと変わった映像が立ち現れる万華鏡のような読み心地の超短篇38作は、家庭や仕事や恋愛をめぐる日々の暮らしの中で、生きることの実感を希求する身近な思いに満ちています。 苦い痛みは残るけれど切なる願いの種が撒かれていて、人々を肯定的に見つめる眼差しが印象深くもありました。 そして、そんな思いを機知に変容させるべく、生彩ある筆致を自在の境地に遊ばせています。 説明を排して極度に切り詰めたテクスト。 日常的な感情の次元と奥行きを秘めた奇想の次元を軽々と跨ぎつつ、有無を言わせぬ状況に向き合うことを余儀なくされる人々の、可笑しみや悲しみの陰翳を濃いものにしていく手ぶれのなさ。 本文中に出てくる“月並みを変わったアングルとライトで壊す”という言葉がぴったりくる感じ。
マイベストは表題作の「突然ノックの音が」。 シュールな不条理劇なのだけど、緊張感とユーモアが絶妙。 ドアの外に待ち受ける危険への恐怖と可能性への希望とが綯い交ぜになった狂おしさが行間から滲み出ていて、言いようのない輝きがありました。 “ノックの音”は 本作品集でケレットが用いる最も強力なバネだったのではないかと思います。 同趣のシチュエーションは繰り返し変奏されますが、物語的な冴えを見せる「金魚」が中でもよかったなぁ。 扱われているのは孤独や疎外感なのだけど、胸の奥に哀憫と慈愛の小さな灯りがともるようで。 願いを三回叶えてくれる金魚という道具立てはロシア民話に材を取っているのだそう。
白い石の下の穴の中に広がる別世界を夢想した「嘘の国」の優しさ、ボタンのかけ違いのような負の連鎖を描いた「チーザス・クライスト」の鋭利さも魅力的だった。
閉塞感を逃れようと居場所を探してる感じは凄くあって、変化への期待と恐れは“ノックの音”以外にも転生やパラレルワールドや変身モチーフに投影されていたのではなかったかと思いました。 転生ものも結構多いのだよね。 その中で一番のお気に入りは「終わりのさき」。 キュンと切なくなって堪らなかった。
安息日、シェケル通貨、割礼式、キパ(帽子)、清浄食規定、ファラフェル屋台、兵役、シオニスト、ノブレス(イスラエル煙草)、仮菴の祭・・ 馴染みのない単語が無造作に出てきたり、自爆テロが日常と隣り合わせだったり。 移民国家の民族的多様性、マジョリティとマイノリティ、地域の特色や格差など、当然ながら作者との理解の共有が出来ておらず、文化的記号表現が分からずに様々な機微や妙味を見逃していることは間違いないだろうし、さらに本作品は、“スラングまじりの市井の言葉”を多用しているそうで、登場人物が自分の日常的な言葉で喋る、その語り口はどんなにか強い喚起力に満ちていることだろうと、これもまた想像するしかありません。 にもかかわらず、読みの可能性を摘みとらない姿勢はどこまでも読者を選ぼうとしておらず、国や文化を事もなげに超えて、生身の人間の息遣いとして心を繋げずにはおれない普遍性に行き着いています。


突然ノックの音が
エトガル ケレット
新潮社 2015-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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