プリンセス・ブライド / ウィリアム・ゴールドマン
[佐藤高子 訳] 1973年の作品。 ファンタジーの傑作であり、ヒロイック・ファンタジーのパロディの傑作であり、メタフィクションの傑作であり、父と息子の甘苦い物語の傑作だ。 絶版が惜しまれるなぁ。
わたしの全人生は、十歳の時に父が一冊の本を読んでくれたことから真のスタートを切った・・と著者のゴールドマンに言わしめ、世界一のお気に入り本だと豪語させる『プリンセス・ブライド』とは、ヨーロッパのどこぞにかつて実在したフローリン国出身のS・モーゲンスターンなる作家が、第一次大戦直後に発表した小説だ。 現在フローリンは他国の一地域になっているらしく、ゴールドマンの父はかの地からアメリカに渡った移民だっだという。 今や自身が父親になったゴールドマンは、希少本となって久しい『プリンセス・ブライド』を探しあて、十歳になる我が息子へプレゼントするのだが反応が悪い。 その時初めて気づくのだった。 父親は、子供だった自分が喜びそうな箇所だけを繋ぎ合わせて読んでくれていたのだと。
扉には、“真実の恋と手に汗握る冒険物語の名作”という副題が意気揚々躍っているのだが、実際のところモーゲンスターンは子供向けの小説ではなく、一種諷刺的な自国の歴史とともに西洋文明における王政の衰退を書き綴っていたのだと知ったゴールドマンが、オリジナル・テキストから大時代的小説の“退屈さ”を抜き取り、まさに扉の惹句そのままの娯楽抜粋版を自ら編集し世に問うべく出版した、それが本書(という体裁)。 そしておそらくは息子を楽しませたい、夢中になる顔が見たいと願う心情がモチベーションになってるんだろうな、と思わせる陰翳が素敵なのだ。
この辺の経緯は、前書きのようなセクションを設けて編集ノート的に記されているのだけど、著者が自身を虚構世界の登場人物の一人にしてしまっているのであって、編集ノート自体がそもそも肉声ではない。 娯楽抜粋版『プリンセス・ブライド』を読むにあたり、読者は著者のゴールドマンとともに読解対象の“外部”に立つことができるが、本書「プリンセス・ブライド」を読むとき、ゴールドマンを読解対象の“内部”に置き去りにして、読者は一人で“外部”に立つことになるという二重性の面白さ、著者の実像、虚像が織り成す想念世界の揺らぎが何より魅力的だ。
腹黒い王子や公爵、美しい姫、恐怖の海賊、殺し屋、姫の誘拐、決闘、黒装束の男、六本指の剣士、狂気の断崖、火の沼、死の動物園、奇跡師・・ あたかも無時間の中に漂っているようなアナクロニックな時代設定。 そこで繰り広げられる中世のおとぎ話、騎士物語、ヒストリカル・ロマンスをフュージョンさせたかのような、愛あり冒険あり策略ありの娯楽抜粋版『プリンセス・ブライド』自体、滅法楽しいのだが、そこへ度々ゴールドマンが顔を出し、あーだこーだと突っ込みを入れる。 自分ででっち上げた架空作家による架空小説を肴にテキスト分析やら史実考証やら学術研究の成果やらオリジナル論考やら、あれやこれや突っつき回すという壮大な洒落、これはもう悪ノリとしか言いようがない楽しさ。
ヒロイック・ファンタジーの強固な定式性を踏まえながらも、そのパロディである本書は、“人生とは不公平だ”という苦い認識に立って展開され、理不尽さという不気味な恐怖を排除していない。 愛と正義の法則の遵守という暗黙の読書契約に違反しているんじゃないかという読者側の不服感も織り込み済みなのだが、そこに描かれているのは黒い哄笑を込めた冷淡さではない。 至高への夢想と挫折という若者の通過儀礼を寓意化しているような側面も感じられ、労りがあり共感があり、それでも人生は捨てたもんじゃないと思えるカタルシスへの導きがある。 そして何より、ワクワクする冒険を語り、ハッピーエンドを語り、子供を懸命に勇気づけ、幸せを願い、狼から守ろうとする親心の尊さが底流していたからこそ、愛おしい物語だと感じたんじゃなかったろうか。


プリンセス・ブライド
ウィリアム ゴールドマン
早川書房 1986-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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