失踪者たちの画家 / ポール・ラファージ
[柴田元幸 訳] 何が本当で、何はただの物語なのか・・? もんやりとした空虚、淡い喪失と孤独が揺曳する都市奇譚です。 さざ波のように拡張し収縮し、解き明かしようのない何かが潜む、目の前にあって、かつ恐ろしく遠い“都市”は、生者と死者と失踪者と人形とが質量を変えることなく流動し循環し続けるエーテル的世界みたいなイメージ。
田舎育ちの青年フランクは“都市”へ出てきて死者の写真家プルーデンスに恋をする。 或る日そのプルーデンスが失踪する。 失踪者の画家となってプルーデンスの行方を捜し続けるフランクは何故か警察に目をつけられ投獄される。 投獄中に革命が起きて体制が変わる。 解放されて新しい人生が始まる。 新しい恋人もでき将来の見通しも立ち始めるがプルーデンスを忘れらない・・ 超約するとこんな感じになってしまい、決して複雑な筋立てではないし、一貫して連続する時空間に支えられているにはいるのです。 が、しかし。 神話のような、おとぎ話のような、夢物語のような・・ 様々な語り手が紡ぐ綺想に彩られた“物語”が点綴するように挿入され、コラージュを成してメインストーリーを幾重にも覆っていき、交換可能な等価性や異化作用を呼び覚ましながら現実と虚構を撹乱します。 物語の小さな水滴に映し出される“都市”の豊穣さは無限の多様性をはらみ、単線的なプロットに読者を縛りつけてはおかないのです。
プルーデンスはどうも恐怖政治に加担するような仕事をしていて、フランクと出会ってからはそんな自分を恥じていたのかなと思える節もあり、当局に抹殺されたか隔離された(或いは亡命した?)かなんかして生死があやふやになった者らが“失踪者”の正体ととれなくもなく。 “人形”というモチーフも意味深で。 過去を捨て、与えられた役割を生きる仮面をかぶった別人となってプルーデンスは戻ってきたってことなのか・・ キワキワの現実サイドで逞しめの妄想を膨らませることもできるのですが、その“現実”にしたところで極めて寓意的で、修辞や比喩表現なのか本当の出来事なのかさえ曖昧模糊としたまま展開していくありさま。 拠りどころのなさが見せる幻影なのか、フランクの視点で捉えられているのは物理的現実を自由に出入りする相当な超感覚的現実なのだけど、フランクと読者の間に思考や感情のズレがさほどないためか意外にも読みやすく、興趣が最後まで全く途切れませんでした。
どこでもなくて、どこでもありそうな。 大聖堂広場があって、港があって、市場があって、工場があって、美術館があって、様々な居住地区があって・・ 歴史の蓄積だけが醸し出せる文化風土の香気をまとった西洋の古都を想わせる“都市”。 その全容は、何というか、読者が作中の現実やら物語やらを組み合わせながら肉づけしていくカスタマイズ性があるというと変なんだけど、イメージの蔓が交錯し繁茂する混沌とした“都市”は、画一化された視点で捉えることはできず、“都市”を語る者の数だけ“都市”は存在するし、真実とは誰かにとっての真実でしかないのだと思わせられる。 それと同時に、昔話が人々の心の象徴であるように、連綿とした命の営みの欠片を写しとった語りはそれ自体、不思議な普遍性を有してもいるのです。
月との親密性や煌めく詩情は「絵のない絵本」を、荒唐無稽でとんちんかんな理不尽さは「不思議の国のアリス」を、何となくなのだけど想起させられたり。
新体制になっても依然、透明な壁は存在し。 ラストはそこはかとなく厭世的な雰囲気を帯びて、 酩酊した男の束の間の現実逃避に付き合っていただけなのか? いやいや物語の結果が酩酊なわけだから・・と、何とも悩ましい円環にはまり込み、いなされてしまうのです。 都市の中にフランクがいるのか、フランクの中に都市があるのか・・ 幻惑の渦に身を委ね、朧々たるメランコリックな想念とともに漂泊する・・ そんな遣る瀬ない余韻が美味。
文学作品の装画を手掛けるというスティーヴン・アルコーンによる影絵のような切り絵のような版画は、嬉しいことにアメリカ版原本がそのまま使われてるようです。


失踪者たちの画家
ポール ラファージ
中央公論新社 2013-07 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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