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糞袋 / 藤田雅矢
糞袋
藤田 雅矢
新潮社 1995-12
(単行本)


江戸中期の京都。 洛中で生涯“糞尿”とかかわり続け、下肥え運びの下っ端から、やがては糞尿道?を極めてしまった男の人生を追いながら、江戸時代の知恵や文化、生活態系を覗き見る良書。
農学博士の著者から届けられた人間がまだ自然の一部でありえた時代の物語。
ご本人がインタビューで“スカトロ・ファンタジー”などと仰られていただけのことはあり、確かにアブノーマルな領域方面にそこはかとなく踏み込んでいるにもかかわらず、ケレン味のようなものがなく、ある意味お上品だし学術的な香りもするし、糞(笑)真面目なところがユーモラスでもあり、いい味出まくりの蘊蓄系ファンタジーでした。
昔の人の臭いに対する耐性は凄いなぁ〜というか・・現代人より遥かに寛大だったのですよね。
糞尿が排除されるものではなく、生活に溶け込んでめぐりめぐっている様子が、たおやかに描かれていた気がします。 あっでも、お茶やお菓子を食べながらの読書は微妙^^;
ファンタジーノベル大賞の優秀賞作品と心得ていたので、どこまでが本当なんだろう〜と多少悩みつつ読み進めましたが、まさかあんな展開が待っていようとは・・
読み終えてみると終盤の唐突にも感じられるファンタジー路線以外は、ほぼ事実に基づく見地から描かれていたのではあるまいかと推察しているのですが、ちがう? さすがに;;
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早わかり世界の文学 / 清水義範
早わかり世界の文学
− パスティーシュ読書術 −

清水 義範
筑摩書房 2008-03
(新書)


[副題:パスティーシュ読書術] 清水さんが行った文学にまつわる講演の記録と、書き下ろした文学周辺のよもやま話(軽い論考)で構成されています。 いわく“若者向け文学入門編”とのこと。 とてもとっつき易い文学案内の本でした。
“パスティーシュ(模倣芸術)”と呼ばれる小説スタイルを得意としてきた著者ならではの文学観が披露されていて、まず、“文学は繋がっている”という観点から、様々なパロディ文学の流れが紐解かれていたのが興味深かったです。
その最たるものが「ドン・キホーテ」。 17世紀当時、流行りまくって巷に溢れていた騎士道物語に嫌気がさして、それらを皮肉った「ドン・キホーテ」が書かれ、人気に便乗した別作者が「続・ドン・キホーテ」を書き、その偽の「続・ドン・キホーテ」と前作「ドン・キホーテ」をメタフィクションとして取り込んで本物の「続・ドン・キホーテ」が書かれたというリアルタイムの展開が既にすごい。 更に後世の文学界に再評価された後は、文学の中の“ドン・キホーテ的人格”が古典となるほどの飛躍を遂げてしまう。 日本の有名どころでは“寅さん”への継承が紹介されています。
「ロビンソン・クルーソー」への反発から生まれた「ガリヴァー旅行記」、“連作”の技法を創始したバルザック、夏目漱石が「坊っちゃん」を書いた考察や、子供時代の体験から探る読書の効用、著者が選ぶ世界十大小説などなど。
子供への作文教室を開いていた時の体験を綴ったセクションで、作文は“いいことを書かなくてはいけない”、“いい風に終わらなければいけない”と子供は思っている。 つまり大人がそれを強要している。 と語られていたのが印象的でした。
この本で著者がもっとも伝えたかったのは、パロディとパスティーシュの同異点についてではなかったかと思います。 自分はパスティーシュというと清水さんの面目躍如たる文体模倣のイメージが強かったです。 狭義ではそうなるのでしょうけども、もっとパスティーシュ論というべき概念的な考察がなされていて、パスティーシュ文学をけん引してきた矜持が感じられました。
“何かを模倣して笑いを誘う”という点で似たところのある両者ですが、基本、パロディの本質が風刺性にあるのに対し、パスティーシュに風刺性は必ずしも要らないと著者は考えます。
その本質は“かけ離れているのに腑に落ちる快感”、“思いがけない納得に対する笑い”にあり、 “言い得て妙”の精神が、著者の目指すパスティーシュ文学であることを熱く軽やかに表明しています。
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すいかの匂い / 江國香織
すいかの匂い
江國 香織
新潮社 2000-06
(文庫)
★★★★

少女だった夏の日の追憶の物語11篇。 五感というものが、どれだけ眠ってる記憶を呼び覚ますか・・痛いくらい思い出させてくれる。
言葉にできない感覚をなんでもないことのように淡々と繋ぎとめてくれる江國さんの無造作の妙。 この作品集でも堪能できるのだけれど、でもむしろ、セピアの背景にさっと朱をはいたような鮮烈さ、どきっとするような生々しさが深く心に刻まれる短編群で、わたしのイメージする江國作品にしては、かなりビビッドな印象を残す一冊です。 そして好きです。
不安定ゆえの鋭敏な感受性。 ここではないどこか、自分ではない誰かに恐る恐る手をのばさずにはいられない無垢な危うい衝動によって手にした後ろめたいざわめきは、少女が少女であるための刻印であるかのよう。
むせ返るほどの草いきれ、夏の虫たちの儚く切実な生の営み、かつて宝物であったはずの些末なあれこれらと共に、やがて甘い痛みとなって心の奥深くに眠り続けるのでしょうか。 やるせないほどノスタルジックで、訳もなく泣きたくなってしまう。
最初読んだ時は「ジャミパン」が一番好きでした。 2回目は「海辺の町」。 今回は「焼却炉」のキリキリするほどの切なさにやられました。 また数年後に読み返したら、一番が変わっているのかも。
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ボートの三人男 / ジェローム・K・ジェローム
ボートの三人男
ジェローム K ジェローム
中央公論新社 1976-07
(文庫)


[副題:犬は勘定に入れません][丸谷才一 訳] コニー・ウィリス著「犬は勘定に入れません」の元ネタ的作品。ヴィクトリア朝が生んだユーモア小説の最高峰と称される傑作。
3人のぐーたら(笑)英国紳士(うち1人は著者)と、顔に似合わず凶暴(笑)なフォックステリアのモンモランシー(副題では勘定に入れてもらってませんが、なかなかの存在感を発揮!)を交え、2週間(結局挫折して10日余り;;)に渡るテムズ川での舟遊びの珍道中が、優雅にガサツに物語られてゆきます。実話を膨らませて作ったお話のようです。
江戸が誇るユーモア小説「東海道中膝栗毛」みたいな明け透けの下品さではないんだけど、洒脱だなぁ〜と思っていると、意外にとんでもなく下世話で粗野だったり。 はたまた自然や歴史への憧憬を謳いあげるセンチメンタルなポエマーに大変身したり、本人たちは不平不満だらけにも関わらず、文明を享受し人生を謳歌している健康的な若々しさに溢れていたり・・
あとがきで丸谷さんが“雑駁である故の豊饒さ”と語っておられましたが、ほんとそんな味わいですね。 随所にスラップ・スティックな笑いが満載なのですが、なんで彼らはこんなに見栄っ張りなんでしょうw 失敗や騒動の大多数はこの見栄っ張りさに起因していると思われます。 紳士も大変です。
ユーモアの詰め合わせのようでいて、さり気なく見事なのは、一篇の物語として素敵なオチになってるとこ。
翻訳ものにはありがちですけど、慣れない比喩表現が婉曲の限りを尽くして多発するので(しかも大袈裟!!)、少々読みにくいというのは正直ありましたが、とてもテンポがよいのと丸谷さんの名訳で何時の間にか入っていけてしまいます。
そしてウィリスの「犬は勘定に入れません」と、有形無形に様々な角度でシンクロしているのも楽しかったです。
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ある家族の会話 / ナタリア・ギンズブルグ
ある家族の会話
ナタリア ギンズブルグ
白水社 1997-10
(新書)
★★★

[須賀敦子 訳] ユダヤ系のブルジョア家庭に末娘として生まれ、イタリアを代表する女流作家となった著者が、第二次大戦の陰影を色濃く映し出す一時代を生きた家族の記録を綴った自伝的小説。 ファシズムに翻弄されたイタリアの現代史と折り重なるように描かれていく。 あくまでも健やかに、温かく、鋭く、客観的に、静かに、淡々と・・ そして、澄まし顔した穏やかな諧謔、軽くおちょくるくらいの愛に満ちた可愛らしさと共に綴られている。
あの時、父がこんなことをした。 母がこんなことを言った。 兄が、姉が、友人たちが・・ 何かを殊更に訴えるでもなく、家族や親類の間で交わされた会話や生活風景という質素な素材だけで構成された単調なまでのストイックさの中に、深い慈愛がゆったりと流れていて、誰かの他愛もない言葉が、ある瞬間にふと、心の琴線に触れてしまい、熱いものが込み上げて、この物語に流れる空気ごと抱きしめたくなる衝動に駆られるような場面が何度もあった。
誰が正しいとか間違っているとか、何が好きとか嫌いとかいうのとは全く別な次元で、この物語の中に一貫して漂う凛とした揺るぎのない精神性はなんだろう。 それこそが、家族固有の言葉遣いや言い回しの反復の中にのみ生まれることを許された、命の共同体の証しであり、かけがえのない財産なのかも。
ギンズブルグという作家の言語が、自分の中の地下水脈と繋がっている印象を持ったというようなことを、須賀さんがどこかで語られていたのを思い出します。
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十字屋敷のピエロ / 東野圭吾
十字屋敷のピエロ
東野 圭吾
講談社 1992-02
(文庫)


東野さんがまだ本格ミステリと付かず離れずの距離にあった初期の頃のド本格作品です。 本格マニアを失望させる要素が見当たらない構築力。 あえて言うなら高橋克彦さんの解説で述べられていた、脇道にそれることなく真っ直ぐ事件の的を絞り込んでいく、その無駄のなさ、隙のなさにケチの一つもつけたくなるくらい^^;
邸宅に暮らす資産家一族の人間関係を背景にした殺人事件ですが、パズル狂の主人、車椅子の美少女、悲劇を呼ぶピエロ人形、事件を解明する謎めいた人形師・・と、形式的コスチュームをスタイリッシュにまといながら、見えない緊張に縛られた歪んだ空気を醸成させる匙加減も上々。
“十字屋敷”と呼ばれる特異な形状の館を舞台装置にした大胆な物理トリックの華と、無意識のうちの嘘や錯覚をモチーフにした心理トリックの冷気が共存する好もしい遊戯空間でした。
特筆すべきは、頓死した伯母の法要で十字屋敷に一年半ぶりに戻ってきた主人公水穂の三人称一視点というメイン視点に加え、登場人物たちのやり取りを(その都度置かれた場所から)目撃するピエロ人形の一人称視点がサブ視点として挿入されているところ。
殺人の現場をはじめ、主人公には見ることのできない場面の開示が読者に用意されているとは言え、ピエロの“僕”は純粋な傍観者に違いなくも、あくまで一つの視点の提供者であって、超越的な真理の保有者ではないことが読者にプリズム的混乱を生じさる面白味にもなっていたのだと思います。
二重に仕掛けられた謎の奥行きも期待を裏切りません。 悲劇のピエロ人形と真に共鳴し合うかのような不気味さと悲しみを隠し持つノワールな余韻の生成が見事です。 ラストはピエロ視点の粋な見せ場でもありましょう。
続編があってもおかしくないような終わり方だなーと思ったら、はたして執筆当時は三部作構想だったらしいです。 作者の興味が本格ミステリから遠く離れた(?)今となっては望むべくもないのでしょうが、どんなアイデアだったんだろう・・と、遣る瀬なく夢想してしまいます。
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ウエスト・ウイング / エドワード・ゴーリー
ウエスト・ウイング
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2002-11
(単行本)
★★★★

文字としての情報はタイトルのウエスト・ウイングだけ。 とある古い瀟洒な洋館の西棟へ続く暗い階段を上り、開いたドアの先のドアを開けて・・ 踏み入ってはいけない禁域の奥へ奥へと誘われてしまう文字のない絵本。
無音感の密度が非常に濃いです。 壁紙や絨毯の模様、床やドアの木目など、いつにないほど執拗に一面を埋め尽くす線描の稠密さが、説明されない怖さを充満させるに一役買っていること請け合い。
ゴーリー作品の中でも屈指のホラー色。 いや違うな、ホラーというよりクラシカルなゴースト・ストーリーの世界を彷彿させる空気。 英国正統派怪奇小説のファンには堪らない一冊だと思います。
彫像のように瞑想する紳士、影のように虚無的な夫人、アルカイックに微笑むメイド、歩けないのかもしれない少女といった、なんとか現実との接点が感じられる存在も、ひょっとするとかつての生者なのか。
打ち捨てられた小さな靴、床に倒れている男、壁で塞がれた窓、梯子階段を上った屋根裏部屋にひっそり鎮座する荷造りされた巨大な箱など、怪しめく不吉の気配を堂々と発散させているかと思えば、部屋の隅に人のように横たわる丸太のような絨毯や、裸体の男や全身包帯ずくめの男など、若干滑稽味を醸すシュールさが紛れていたり。
半分水に浸かった部屋、人型の壁のシミ、宙に浮く紙屑や蝋燭、窓の外にぼーっと佇む幽霊などなど、一見してポルターガイスト風なシチュエーションも、騙し絵のような目の錯覚や微妙に狂わせた遠近法による効果のせいなのか、行き着くところ判然としないのです。 わざと意図的に判然とさせないための詐術を仕掛けまくって読者の解釈を眩惑するのです。 怪異なのかそうじゃないのか、幻影なのか実体なのかと・・
開いたドアの先の無明の闇に消えていく女性のドレスの裾が鏡越しに見えているカットや、倒れた椅子の足が優美な曲線を(妙に生々しく)仄暗い壁の曲がり角から覗かせているカットなんかが好き。 ゴーリー印の妙ちくりんな生き物と白い小さなカードももれなく発見できます。
見返しと扉の間に存在している白紙のページのその隅に、パン屑を落としながら歩くヘンゼル風の少年の可愛い小さな絵が。 暗澹たる記憶の塗り込められていそうな、あのお屋敷の邪悪な西棟へ向かっちゃってるのでしょか? ああぁー坊や! 行ってはダメぇー>< ・・と思ったら! よくよく見ればばら撒いてるのはドクロじゃないですか! 惨劇の黒幕かよ! 帰りかよ! みたいな^^;
今、西棟に入らんとする怪し気ムンムンな扉絵の人影は、きっとダミー。 読者にカメラアイを提供する探訪者、記録者に過ぎないのではなかろうか。 しかし溜息が漏れるほど巧者ですねぇ。
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雑多なアルファベット / エドワード・ゴーリー
雑多なアルファベット
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2003-02
(単行本)
★★★

[柴田元幸 訳] 今までと違う文庫サイズほどの小型本です。 開いてみてびっくり。 絵ちっさ! ってそれもそのはず、初版はマッチ箱より更に一回り小さいくらいの豆本として刊行されたのだそうです。 その後の普及版で本の型の方は一般的な大きさになって、絵の方は原書そのままに保持されているというわけ。
400部限定だった初版本のうち、なんと100部はゴーリー自身が白黒の線画に色を塗ったカラー版。 本書の表紙を飾る豆本は何気にそのプレミアムなカラー版w ゴーリー作品コレクターの濱中利信さん所蔵の本物の写しなんですって。 なるほど洋書の表紙を見に行ったら絵の色が違った! あちらはまた別のコレクターさんのカラー版なんだろうな。 ゴーリーの並々ならぬ造本愛がひときわ発揮されている作品ではないでしょうか。
内容はというと、ゴーリーの十八番アルファベット・ブックの一冊です。 ヴィクトリア朝教訓をほどよくパロディにしているらしい。 元ネタに全く明るくないのだけど、やはり短い二行連句の定型押韻詩風なのか、アルファベット学習風なのか・・ 軽やかなリズムに乗って訥々と真面目に子供たちを啓蒙してるような感じなのかなぁと想像してみる。
それがひとたびゴーリーの手にかかると・・フフフ。 格言もどき系、感慨系、クスッと系、ちょっと不気味系、それがどうした系、まったくもって意味不明系などなど。 無防備に無造作にナンセンスでシュールな場面がぽんって差し出されてる感じなんだけど、言葉はめちゃめちゃ緻密に練られてるのだから不思議。 このABC順の単語って、どうも韻ありきでチョイスしてそうですよねぇ。 意味や無意味と交わって広がるシチュエーションは後からついてきてるみたいな・・
原題は「The Eclectic Abecedarium」です。 Abecedariumはラテン語由来の古い単語で、英語式に読むと“エイビーシーデアリアム”となり、全体を訳すと“折衷的なアルファベット・ブック”となる。 古くは版画と飾りアルファベットがコラボしたゴージャスな本が作られていたみたいな共通理解が恐らく西洋にはあるんだろうなと思う。 Abecedariumには、物々しく華美な中世風の装飾本を連想させる響きがあるらしく、(ヴィクトリア朝だけではなく)微妙に中世の装飾本のパロディにもなっているっぽい。
訳は今回、一つの型を踏襲していません。 ことわざ調、語呂合わせ調、七五調、有名なフレーズの捩り調など、多彩で雑駁でありつつも、それでいて奇妙な統一感をみせるパフォーマンス。 いつもほど神経質な肌触りはなく、若干ヘタウマ的な可愛らしさを滲ませているスタンプチックな絵ともいい親和力。
たどたどしく意味を理解できたとしても、原文が醸し出す世界観のすべてが理解できるわけではないのが現実ですが、でもその一方で、柴田元幸さんが韻文訳の難しさを踏み越えようと創意工夫されるその現場をつぶさに見せてもらえることが、もはやゴーリーを読む楽しみの一部になっているかも。
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敬虔な幼子 / エドワード・ゴーリー
敬虔な幼子
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2002-09
(単行本)
★★★★

[柴田元幸 訳] 3歳にして人の罪深さと神の慈愛を知ったヘンリー・クランプ坊やが、善行を重ね、信仰に励み、4歳で神の御許に召されるまでの物語。
“幼な子の敬虔な魂の昇天”というヴィクトリア朝様式のお涙物語モチーフをパロ・・ってないんだなこれが。 いや、パロってないと見せかけて大いにパロってる(かもしれない)摩訶不思議さにやられました。 クオリティ高っ! 一回目、サラッと読んじゃって、あれ? なに? みたいな肩すかし感にビビったのだけど、何度も読み返していると、素かネタか、ギリギリラインの揺さぶりがジワジワ来る。
確かに慇懃無礼な誇張法が若干用いられてはいるのだけど、ほとんどヴィクトリア朝時代の価値観の常道をそのまま引き写しているだけと言ってしまえばそれまでなのだ。 しかし、どうにもこうにもある種不敬な雑然とした感慨が滑り込んでくる。 そこはやはり時代感覚の隔絶であり、メタ目線で突っ込み読みせずにはいられないからなのだよね。 皮肉的な苦さや滑稽味、サイコ的な恐怖、ヒューマニズム的な反発・・ エントロピー増大の法則? もはやこの物語を素直に読む心は取り戻せないのだ。
当時の作家が書いたのであれば、背景事情に想いを馳せ、価値観を踏まえ、心情に寄り添おうとする読み方ができるわけだが、四角四面のヴィクトリア朝なりきり物語を現代作家がしれっと書くって発想が前代未聞で、ここに妙ちくりんなアナクロニズムが生じ、身に覚えのないグロテスクな読み心地が誘発される。 いやぁ〜、こんな本・・ないわぁ。
因みに本書、最初の500部限定版刊行時には、レジーラ・ダウディ(Regera Dowdy)名義だったんだって。 ゴーリーは他にもオグドレッド・ウィアリー(Ogdred Weary)、D・オードリー=ゴア(D.Awdrey-Gore)といった別名を用いることもあったらしい。 ぜんぶエドワード・ゴーリー(Edward Gorey)のアナグラムなのだ^^
最終ページ、ヘンリー・クランプ坊やの白い鴎型のお墓の隣りにちゃっかりこんとE.G.の墓標がww
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ロートレック荘事件 / 筒井康隆
ロートレック荘事件
筒井 康隆
新潮社 1995-01
(文庫)


ロートレック絵画コレクションに彩られた瀟洒な洋館の別荘で、妙齢の令嬢が次々と殺されて・・という、あられもないゴシック全開な舞台の中に、著者の透徹した深い企みが潜んでいます。
丁度、バブル絶頂辺りなんでしょうか。 成金臭というか・・ 上流階級とは似て非なる匂いがします。 あくまでも意図的にドキツくて、毒気にあてられながらも、登場人物たちの自意識過剰っぷりと反比例するように、著者はどこまでもクールな感じがして、なかなか面白く読めました。 まぁ、粘っこく暗い話ではあるんですが。
ふと時折、意識の表面を微かな違和感が掠めていくけれど、掴み取る間もなく消え去ってしまうような。 これって「叙述トリック」として“してやったり”なパターンですよね。 浮薄なミステリ読みなので偉そうなことは言えないんですけど;;
終盤、犯人の供述が始まるに至って、えっ?!っとなるんですが、でもここでわたし、咄嗟の反応は鈍かったですね^^; 供述が進むに連れて徐々にじわぁ〜っと来ました。 えっ????!?!!!! みたいな。
多分、これを読んだ多くの方が同じ反応を示さざるを得ないと予想するのですが、読み返さずにはいられない衝動に駆られます。 そして、どれだけ緻密な言葉選びがなされていたかということに愕然とし、拍手を送りたくなります。
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