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夢の車輪 / 吉行淳之介
[副題:パウル・クレーと十二の幻想] 著者のパウル・クレーに注ぐ偏愛と“奇妙な味の小説”に対する嗜好とが結びついて生まれたという掌篇集。 幻想領域とは人間の感性を拡張させる舞台なんだなーと、そんな思いに耽りました。 緻密な思考から幻想味溢れる絵を生み出すクレーのスタンスに少なからずの意識を置いて創作されたのではないでしょうか。 十二枚の絵に添えられた十二篇の幻想譚は、幻夢譚と言っても差し支えないくらい曖昧模糊とした“夢”を装置として用い、無意識の欠片のようでありながら知的な構成力に支えられてもいて、滲んで拡散してしまうということがありません。
クレーに寄り添い、クレーの内面へ分け入ろうとする志向ではなく、あくまでクレーから刺激を得た吉行淳之介の独自世界。 抽象画から受ける抽象イメージなのであり、両者の関連は“匂い付け”程度に過ぎないのですが、色彩や動きやリズムといった波長の呼び交わしがあり、その表層的な連関の幽かさがいいのです。
日常の背後に広がる不穏な亀裂に落ちてしまうかのような、現実世界のネガといった雰囲気の夢・・ 先鋭化された深層心理が妙に生々しく匂い立ち、実際に見た本当の夢に材を得ているのではないかと勝手に想像したくなってしまう。 クレーの絵が(常識的なフレームを取り外しただけで)現実のごく身近な気持ちから発していることを思えば、あり得そうな気もするのだが。 どうなんだろう。
なんとも独特の翳りが射していて、昭和期の男の昏いニヒルなダンディズム的香気が濃厚で。 未知で異質な生き物である女への尽きぬ興味と嫌気というアンビバレントな想念が通奏低音のように響き渡っている感じ。 (若干フェミニストの眉を顰めさせそうな)女性の様態をモノ化して観察するかの如きセンスは、もはや年月を経ていい感じで熟成されていて、物憂く悩ましく郷愁をそそられてしまいます。 官能的で強迫観念的で冷酷で、すっとぼけていたりもして・・ 夢とうつつの狭間を行きつ戻りつ、燦めく粒子のような感覚刺激で生理の奥底を揺さぶる妙々たる描写に身を浸してしまいました。
巻末に図版解説付き。 取り上げられたクレー作品の寸感とともに彼が生きた時代とその足取りを追うことができます。


夢の車輪
―パウル・クレーと十二の幻想―

吉行 淳之介
文藝春秋 1983-11 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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山羊の島の幽霊 / ピーター・ラフトス
[甲斐理恵子 訳] 自殺を試みようとするも死にきれず、妻に先立たれた失意を持て余す僕の前に、忽然と現れる謎の幽霊・フィンチ。 無気力につけ込まれて、幽霊の私怨を晴らすための復讐を請け負う契約を交わしてしまう僕。 最果ての山羊の島で出遭った2人の道行きは・・
幽霊に導かれ辿り着いたのは、海にそびえ立つ不気味な巨塔。 重苦しくたれこめる雲、どんよりと陰鬱な影をまとった要塞のような“大学”という異形の共同体。 その巨大迷路に身を投じ、次々と立ちはだかる理不尽なファクトに翻弄されながら、幽霊に忍従するのか、幽霊を支配するのか・・ 運命論と自由意志のせめぎ合いが、僕の内面で激しく沸騰していくのを感じます。
夢や希望を粉砕する官僚たちのお役所仕事、学問の重要性の度合いによって常に階級の入れ替え作業に身を晒す図書館員たちの暴動、机上の空論の中に煌めく真理や誤魔化しのにおい、概念から生命が抜け落ちた本の墓場、地底湖で破壊を司る怪物、変化を嫌う連鎖が招く自家中毒・・
奇妙奇天烈でありながら、まるで社会の縮図のような“大学”に呑まれ、もがき、やがて苛烈な生の痛みに塗れて、脆弱な悲しみが削ぎ落とされていくような、いわくいいがたいカタルシスが訪れるのです。  
ワクワクするような発想が、雨後の筍並みにニョキニョキと湧いて溢れて、“大学”という空間の縦横を埋め尽くしています。 いくらでも深読みできる余白を残しつつも、このぶっ飛んだ世界に弄ばれる感覚を味わえただけで読んだ甲斐がありました。
不条理でシビアな顛末ではあるんだけど、いい按配のウィットが軽快な波長を崩させない。 思考や行動の停滞を打ち破る生命の底力と組織の病根がぶつかり合ってスパークするような・・パワーを感じた物語。


山羊の島の幽霊
ピーター ラフトス
ランダムハウス講談社 2008-09 (単行本)
関連作品いろいろ

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霧越邸殺人事件 / 綾辻行人
アール・ヌーヴォー風の意匠を凝らした豪奢な館“霧越邸”で繰り広げられる惨劇。
クローズド・サークル、見立て殺人、暗号、アリバイ崩し、そして細やかな伏線・・ 様々な仕掛けを駆使しながら、それらを歯車のように機能させ、一転二転させつつ、破綻なく練り上げた本格ミステリ。 自力で解けるかギリギリの匙加減で提供されていて、あっと驚きたい派よりは、コツコツと伏線を拾いながら推理参加したい派寄りかなと思います。
でありながら、もう一方で、人の心を鏡のように映し出し、絡めとる異形の館“霧越邸”の場の力は、そこはかとなく謎めいて、まるで幻想小説のような風合いも醸し出しています。
綾辻さんが新本格の騎手と言われていた時代、作品は一部で熱狂的に受け入れられた反面、根強い批判にも晒されていたように記憶しています。 そんな最中に、本格批判へのアンサーという一面も込めて書かれたのではないかと感じるくらい熱量がありました。 上手く言えないんだけど、演劇論に託して推理小説を論じているかのような、霧越邸が本格ミステリの砦そのものであるかのような・・ 不思議な感覚にふと囚われたり。 本格ミステリを演出する舞台が備える超現実的な磁場を見事に具現化して見せてくれたような・・
筋書きの観念性に若さや青さを感じたり、役割的個性のみ与えられた登場人物には淡々しさを感じもするのだけど、衒学趣味に彩られた夢幻郷的舞台と、むしろ滑らかに溶け合い、異様な熱に浮かされたような、濃密にして清冽な、どこか儚くも眩しいまでの世界観を見せてくれました。
綾辻さんの理想とする本格ミステリの様式美を暗示的にも明示的にも追求した(であろう)初期を代表する傑作だと思います。


霧越邸殺人事件
綾辻 行人
新潮社 1995-01
(文庫)
★★
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魚たちの離宮 / 長野まゆみ
夜啼く鳥は夢を見た」の姉妹篇(兄弟篇と言うべき?)なのかなってくらい雰囲気に共通意識が流れているのを感じます。 迸るタナトスのイメージと瘴気をまとったような空気感や、額縁の中の絵のように現実と隔離され、絶対的な不可侵性を保って存在している世界観、そこから立ちのぼるノスタルジーがとても似ているのです。
水を媒介として此の世と隔てられた彼岸に、選ばれし者だけが呼ばれ、攫われていくためのアイテムとしての少年たちは、与えられた役割に向かう宿命を携え、意志とは遠いところにある一個の無機物体ででもあるかのように硬質です。
でも「夜啼く鳥は夢を見た」よりは、微かではありますがドラマらしき筋が見え隠れしています。 底無しの破滅ものとしては前作の方が秀逸かなと思ったけど、本篇は和モダンホラー色がより鮮明で、こちらはこちらで唆られるものがあります。
盂蘭盆の四日間、紺屋を営む旧家の居室で過ごす3人の少年たち。 薄暗く湿り気を帯びた屋敷の佇まいや、庭に垂れ込める鬱蒼とした樹々の草いきれ、青磁色にくすむ池、物憂い雨音、闇に浮かぶ洋燈の円い輪、狐火の碧い焔・・
“祖父の時代の生活の雰囲気を過去形でなく書いてみたかった”とあとがきで語っていらっしゃいました。 長野さんにしか紡ぎ出せないような美しすぎるほど美しい此の世の桃源郷とでも言うべき空間の発想は、身近な温かい処に意外と端緒があったりするんですね。


魚たちの離宮
長野 まゆみ
河出書房新社 1993-07 (文庫)
関連作品いろいろ

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夜啼く鳥は夢を見た / 長野まゆみ
初期の傑作と言われる人気の高い作品らしい。 抽水植物の生態を沼に沈む子供の幻影に昇華した、水の底の桃源郷からの誘惑を想わせる怖くて美しいお話。 蓮の精が掛けた泡沫の魔法のように淡く、妖しく、気怠い夢想の世界に誘われてまいりました。
眠り、少年の兄弟、睡蓮、沼、水蜜桃・・ タナトス的モチーフが噎せ返るほど甘美なイメージを滲み渡らせています。 仄白く霞む真夏の午后、生温かく澱む夜の闇、息をひそめる鉛色の沼地、水笛の透き通る音色・・ 甘苦しいノスタルジアに躰が火照り、のぼせてしまいそう。 此処ではない何処かなんですよねぇ。
繊細な陶器のように毀れやすく、陽炎のように虚ろに揺らぎ、熟れた果実の蜜のように絡みつく・・ 言葉が紡ぎ出す瘴気の中に落ちて溶けて微睡む愉悦。 夢とも気付かず夢を見ている心地よさで満たされるひと時。 相変わらず中毒警報発令中。


夜啼く鳥は夢を見た
長野 まゆみ
河出書房新社 1993-05 (文庫)
関連作品いろいろ

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おぞましい二人 / エドワード・ゴーリー
[柴田元幸 訳] 少年ハロルドと少女モナが大人になり、出会い、ともに暮らし、幼子をさらっては無残に殺害して埋めることを繰り返し、やがて犯行が露見し、措置入院先の精神病院でそれぞれが死亡するまで。 猟奇犯罪者の一生のプロセスが淡々と飄々と描かれていく・・のはいつもと同じ。
ただ、クスッと要素のないゴーリーは初めてだし、のしかかるような生身の質感も、リアルな量感を持った救いのなさも初めてだったので、まだちょっと動揺している。 実は読む前、内容を半端に仕入れていたばかりに、ヴィクトリア朝のダークサイドを何かしらパロディにしたエログロ系っぽい感じなのかなぁって、勝手に想像しちゃってたのだ。 これは・・全く違う。
それほど昔ではない二十世紀、現実に起きたある凄惨な事件がゴーリーの頭を離れず、物語にせずにはいられなかったという製作経緯があるそうだ。 その事件とは1965年にイギリスを震撼させた“ムーアズ殺人事件”。 男女二人が4年にわたり、5人の子供を残虐に殺してムーアに埋めていたことが発覚したというものらしい。 自作のうちで“どうしても書かずにはいられなかった”のはこの本だけだ、とゴーリーは述懐しいるそうで、そこからも察せられる通り、本作はゴーリー唯一の(?)マジ本なのだ。 “遊び”がないのはさもありなん。 強いて言うならシュールやナンセンスや不条理を志向するゴーリーが、避けては通れなかった、その究極的な一境地ではあるのかなぁと、そんな気はしないではない。
闇・・ 真っ白・・ いや、色がないというべきか。 付着するものの少なさが、罪悪感の乖離が、愛の不毛が、絶望のなさが、理解の及ばなさが、境遇や感情だけでは割り切れない、負の概念では片付けられない虚無が、底知れず恐ろしくて悲しい。 悲しいというのは、そう思って納得したい一方的な自己防衛の感情なのかもしれないのだけど。
擁護も突き放しもなく、ひたすらに凝視することを突き詰め、研ぎ澄ませた最終形態がここにあるといったコンディション。 薄皮一枚さえあるか無しかの距離感で面接させられるようで、向き合うためにはこちらにも覚悟がいる。 いつもの凝り性的なディテールへのこだわりが、むしろ現実味を補強するような生々しさを伴って立ちのぼるのも不思議だった。 点景を綴り合わせた寡黙な描写の連なりの、その空白を埋めるブラックホールのような重さがしんどかった。

<追記>
wikiを読むと常識的な頭での理解の糸口が探れたような・・気も一瞬。 実際の“ムーアズ殺人事件”は、“幼い頃から暴力にさらされ続けて屈折した女”と“サディスト嗜好のサイコパスの男”によって起きた悪い要因の連鎖だったと総括的に分析されているのだが、ゴーリーはこの下敷きを踏襲し、少女と少年(環境因子と先天因子)を描き分けていることがわかる。 だから現実の事件は二人の判決もそれぞれに異なるのだが、ゴーリーはそこは描き分けをしていない。 なんだろう、あえて一体化させている感がある。 常人には分かり得ない歪な愛(?)のモニュメントのように。 何を描きたかったのか、表紙の雄弁さにゆっくりと気づかされていった。
“愛しあおうとして長時間懸命に頑張っても、成果はなかった”のページが岐路だったか。 この一ページにのみ感じられる人間としての発露が、本の印象を大きく左右していたと思う。 二人に踏みとどまる努力をさせたのはゴーリーだったのだろうか。
読み返すほど、やはりこれはゴーリーが咀嚼し、ゴーリーの意思が反映された“物語”なのだということが、そういう慮りが感じられてくるのだ。 出版時、まだ二人が生きていた現実を離れ、二人の死までも描いたことは“昇華”だったに違いあるまい。 誘発される“悲しい”気持ちには、少なからずゴーリーの内的成分が関わっていると今は思える。


おぞましい二人
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2004-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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まったき動物園 / エドワード・ゴーリー
[柴田元幸 訳] ゴーリー世界の動物園に棲む架空の生き物が名前順に紹介されるアルファベット・ブック。 さながらゴーリー版“幻獣辞典”の趣き。 ゴーリーなので察しはつきますが、陰鬱として、荒涼として、浅ましく、さもしい、ミゼラブルな負の動物園です。 邪悪、虚無、怠惰、強欲、絶望、賎陋、陶酔・・ なんたらの大罪みたいな生き物たちだらけなんだけど、良からなさや珍奇さ、ダメダメ具合がめっちゃ愛おしく感じてしまったのは何故だろう。
今回、なんだかとてもアイロニーとペーソスの純度が高くて切なかったのだ。 この世の穢れを引き受けてくれてるような、そんな定めを背負っていることさえ知らず粛々と淡々とチンケでコワッパな魔物として生きてるような。 どうにもこうにもいじらしく健気に思えてきてしまい。 この感覚は「ギャシュリークラムのちびっ子たち」を読んだ時に近いかもしれないけど、その何倍も強かった。 ただ、ゴーリーがなんらかの意味を積極的に込めたとはさらさら思ってなくて、読者に投げてるからこその自由度がこんな気持ちを誘発させるのだとはわかっている。 病みつきにさせられる魔法の秘密はむしろそこなんだろうな。
姿形の不気味さや奇妙さや可愛さやユニークさと、シチュエーションのシュールさやダークさや滑稽さに、個別の性質が加味され、それらの強弱濃淡、色合いの違いが集まって、またとない禁忌とネガのワンダーランドが生み出されています。 首吊りに失敗してるワムブラスと、前足を見つめるトウィビットに堪らん哀愁を感じます。 囚われのジェルビスラップはそっちかい!なツッコミ待ちのトリッキーな絵面にクスッとなります。 唯一無二なのに死んじゃってるゾートもお気に入り。 一番チャーミングなのはレイッチとポスビー辺りかな。 モークのビジュアルにも妙に惹かれます。
最初わからなかったんだけど、白黒反転している表紙と裏表紙が凄かった! おとぼけ風歌舞伎の隈取りみたいな顔した虎たち(あるいは正の世界に生きる元気なリンプフリグなのか?)が犇めいていて、タイトルと著者名が虎模様の中に擬態のように紛れています。 もっと詳しく言うと中央の虎たち八匹は、表紙と裏表紙とが完全な反転を成しているのだけど、その周りを取り囲む植物の葉(ほとんど見分けがつかない!)はそれぞれ別個に描き分けられているという凝りっぷり。ゴーリーは表紙の仕掛けも毎回楽しみの一部なのです。 脚韻を踏んだ二行連句を短歌調に仕立て直した訳もいつもながら(いや、いつも以上に)お見事。素晴らしい仕事に感謝。


まったき動物園
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2004-01 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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弦のないハープ / エドワード・ゴーリー
[副題:またはイアブラス氏小説を書く。][柴田元幸 訳] ゴーリーのデビュー作。 文、長っ! ちゃんと文章を綴った物語になっていることに意表を突かれましたが、ゴーリースタイルの基本は驚くほど完成されていて、この時点で既に洗練の極致。 ゴーリー作品は、時代も場所も不明ながらそこはかとなくヴィクトリア朝イギリスを底流させているのが特徴ですが、本作の舞台は紛れもなく前時代のイギリスで、その生活様式を遺憾なくパロっています。 原文は昔風の流麗さを意識した持って廻ったような文体なんじゃないかと勘繰ってるんだけど、どうだろう、違うかな。
副題にもある通り、高名な作家であるC・F・イアブラス氏が『弦のないハープ』と題した新作の小説を執筆する過程、工程が(どことなく評伝調で)描かれていく作品。 物書きの生態ウォッチング風味と言いましょうか、まぁざっくばらんに言って生みの苦しみと、その苦しみの報われなさが体現されている感じ。 テーマは“文士稼業の底なしの酷さ”と言い切っても差し支えなさそう。
頭の中に降りてきたと思えた詩句が以前読んだ本のパクリじゃないか不安になって調べ始めたり、古本屋の投げ売りコーナーに過去の自作(しかも贈呈本)を見つけてしまったり、未知のファンから貴方の作品を象徴していると称した意味不明な贈り物が届けられたり、担当編集者が要らぬお世話で送ってきた書評掲載紙の山が気になって仕方なかったり・・ 読者は気鬱症のイアブラス氏の言動に逐一付き合わされることに。
とにかくネガティブ。 隙あらばネガティブ。 ちょっと作家版マーフィー的な。 ユーモラスで哀愁の漂う自虐あるあるなノリがそれとなく醸し出されていて、やはり悲劇を装った喜劇なのだよなぁ。
可哀想にここで挫折か・・くらいの負のオーラを漂わせていてもページをめくると何事もなかったように次のステップに前進しているからまるで重くない。 むしろスッ飛び感が淡々と軽やかだし、時にこの手法がとぼけた可笑しみを誘発させてたりもして。 あんなに憤慨してまで嫌がってた表紙カバーが結局そのまま採用されちゃったんだねw とか、骨董屋では文句垂れ垂れだったのにファントッドの剥製はちゃっかりお買い上げしちゃってるじゃないかw とかね。 のちの絵の中でのみ読者が知り得る“結果”にクスッとしてしまう。
面白いのはイアブラス氏作の『弦のないハープ』と本書の表紙が同じであるところ。 作中イアブラス氏は罵りの限りを尽くして表紙の画稿を酷評するのですが、つまりイアブラス氏はゴーリーをコケ下ろしてるわけなのだよね^^; 煮詰まりすぎて相当に病んぢゃって、ある夜、小説内の脇役であるグラスグルー氏と階段の前で出くわしてしまうシーンがあるのだけど、このグラスグルー氏は裏表紙でイアブラス氏と博識の友人と一緒に、今まさに弦のないハープの生演奏を鑑賞しているゴーリー氏にそっくりで、創造主と創造物の関係が揺さぶられ、内側と外側がひっくり返るようなメタ感覚が添えられている。
古めかしく埃くさく暗然たる雰囲気、典雅な装飾的意匠、その端々に散りばめた芸の細かさ、見覚えのあるアイテムの数々が目を飽きさせません。 トレードマークの珍獣ファントッドはここから始まってたんですねぇ。 謎の白いカードも発見。 イアブラス氏が小説を書くとき必ず(しかもなぜか後ろ前で)着用するスポーツ用セーターに「蒼い時」の犬二匹を思い出しました。
こちら側の日常世界を離れ、英仏海峡という境界を越えて見果てぬあちら側の世界へ旅立たんとするイアブラス氏。 このラストは吉兆か凶兆か・・ 巧妙な余韻に惚れ惚れします。


弦のないハープ
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2003-11 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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題のない本 / エドワード・ゴーリー
庭にけったいな五匹五様の魔物(蟲の精霊?)が一匹ずつ順番にジャーン!と登場して、陽気に(?)蠢いて、いそいそとまた順番に退場していく。 その一部始終を家の窓辺から坊やが淡々と目撃しているだけのことなんだけど、そのまた一部始終を固定カメラでとらえているという構図。
蟲たちが繰り広げる気ままな饗宴、まんざらでもないレビュー・・だがなんだかわからんが、“激しくシュール”な世界なのです。 みんなが舞台に出揃って輪になってノリノリで踊っていると、隕石のお化けみたいなのが空から闖入し、その爆風?妖気?を食らってズッコケるところがクライマックスみたくなってて、なんだったんだあれはw でも全て想定内の舞台演出感がなきにしもあらずで楽しい。 いやもう、最初から最後まで意味不明すぎて謎すぎなんだけど、基本成分は多分、ドタバタナンセンス喜劇ショーかな。 妙ちきりんでリズミカルで奇々怪々で可愛いのだ。 ハイ集合〜!おっとっとハイ解散〜!てな感じで^^; 登場し退場するマイ・スペースがそれぞれに決まってるんだよね。ふふ。
創作オノマトペみたいな短いフレーズの押韻チックな造語(?)が、一ページの光景を一言で表していて、その連なりが変てこなわらべ唄みたい。 この音の響きが世界観を作ってるとさえ言えると思う。 日本語なら片仮名ではなくまさに平仮名の響き。 一回、パラパラアニメで見てみたいなぁ。 もちろん音声つきで。 その仕上がり具合を思い描いてみるとニマニマしてしまいます。 雲の動き、木や葉叢の揺れ、塀に差す影など、同じアングルの中でも時間経過とともに細かな画面構成の全てが移ろっているのも体感してみたい。
ゴーリー印の惚けた顔した無表情な坊やの冷めた目線がいい味を醸すんだよね。 蟲たちとのテンションの差がもうね。 反応してあげたら?的なw シンプルだから強い、もう絶対これしかあり得ないという“表情”になっている。 最終ページの“ふー。”の、そして誰もいなくなった感と、すべて世は事もなし感と、つわものどもが夢のあと感が綯交ざったような、しらばっくれて茫洋とした余韻が堪らないのです。 表紙と裏表紙は更にそれ以前とそれ以後を表し、一連の時間軸に組み込まれていそうです。


題のない本
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2004-11 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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怖い絵 3 / 中野京子
西洋絵画に秘められた“怖さ”を探る、目鱗ポロポロの知的エッセイ。第三弾。 今回、中野さんの解説を読む前に、まず絵を観て自分なりにざわざわ感の正体を探ることはできないものかと試みてみましたが、やはり力不足を痛感するばかり。(見当違いな怖さを感じてたりね^^; 恥ずかしいから書かないけど・・)
古典絵画というのは、素人が純粋に感性だけに頼って鑑賞すると痛い目に遭うなと、このシリーズを通して教えられた気がします。
ほんとうに描きたいものを自由に描くことが叶わなかった時代の絵画の中に、画家や被写体の抑圧された内面や、顕在化されない社会の本質が無自覚なまま息を潜めていたり、現代とは違った価値観のもとで表現された絵画に、現代人の感性では探れない寓意が込められ、メッセージを発していたり・・ それを読み解くには歴史を知ることが不可欠です。 そういう意味で、中野さんの手解きは、わたしと絵画の溝をなだらかに埋めてくれるものでした。
このシリーズ、完結編なんだそうです。 よいお仕事をして下さったことへの感謝と共に、3年先、5年先でよいから、またネタが溜まったら書いてくださるといいなーと、ラブコールも送りたいですねぇ。
何も知らずに眺めた時と、背景を知ってからのギャップに一番ゾッとなったのがヨルダーンスの「豆の王様」。 搾取に喘ぐ使用人たちの痙攣的な高揚感を、満足げに見つめる支配者の歪んだ悦楽・・という構図を意識すると、絵がぐにゃっと一変。
ビジュアル的に鳥肌立ったのは、ルーベンスの「メドゥーサの首」。 画家の比類なき力量と完璧な演出で“人工美の極致”を魅せてくれる。 美しい・・と表現するしかないような至高の暗黒ホラーだなぁ。
レッドグレイヴの「かわいそうな先生」、ホガースの「ジン横丁」、ゲインズバラの「アンドリューズ夫妻」から垣間見える、18、19世紀イギリスの硬直した階級社会の闇。 特にガヴァネスという存在は、いろんな小説に出てくるだけに、自分の中で思い入れも深く、その“かわいそうな”側面を掘り下げてもらえたのが収穫。
ミケランジェロの「聖家族」では、マッチョな聖母マリアに思わず笑いが込み上げてしまったんですが、ルネサンス期に盛んに描かれるようになった聖家族像の中で、ヨセフの扱われ方が改められていく訳が論考されています。 教会は、現実社会の変化と聖書の間の整合性を図るため、ずいぶん無茶なことをいろいろしてきたんでしょうね。 これはまだ可愛いもんだと思います。
レーピンの「皇女ソフィア」や、(伝)レーニの「ベアトリーチェ・チェンチ」は、絵の裏のドラマ性に惹き込まれ、忘れられない一枚になりました。
神話をモチーフにした絵が自分は好みなんですが、(伝)ブリューゲルの「イカロスの墜落」の、現実の中に神話が紛れ込んでる感じが堪らなく不気味。
20作品の中で、一番好きなのはヒュースリの「夢魔」かな。 ここだけ中野さんの解釈がピンと来なかった。 インキュブスの醜悪な姿形は、横たわる美女が無意識に押し込めた禁断のビジョンなのではないかと・・ だからこその倒錯した官能が・・ あぁぁぁ、すみません。 ヒューマンな中野さんと、M女なわたしの主観の相違なのだと思います。 そして、バイロン、フランケンシュタインへ連なる運命的な細い糸にうっとり・・


怖い絵 3
中野 京子
朝日出版社 2009-05 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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