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私の家では何も起こらない /恩田陸
日当たりのよい小高い丘に建つ二階建ての古い家は、何人もの持ち主の手を渡りながら、忌まわしい事件に彩られてきた過去を持つ幽霊屋敷。 先史時代には先住民の聖地だったという伝説も囁かれる場所に建つ、一つの家にまつわる記憶、来歴をめぐる物語。
小さな破風とポーチ、崩れかけたウサギ穴、風にそよぐ林檎の木、地下の貯蔵庫に並ぶ小壜、壁に掛けられたスケッチ、アップルパイの焼ける匂い・・ 明るく穏やかな日常風景と、その背後の暗闇に封印されたものたちの気配、息遣い、影。
バートンの「ちいさいおうち」、ポーの「黒猫」、農場、ジンジャー・クッキー、ピクルスの瓶詰などなど・・ 明確な記述はないけれど、そこはかとなくアメリカン・カントリーな香りを湛えたゴースト・ホラーです。
幽霊譚なので当然といえば当然なから因果、因縁モノです。 つまり“訳あってそこに棲んでいる”わけなのですが、死者はすでに、かつての悲惨も狂気も纏っておらず(なぜならそれらは生者たちのものだから)、 記憶や想念は時空の中に茫漠と蓄積されるだけで、幽霊たちはただ、無念無想の境地で漂っているように感じられます。 そこに意味を求め、熱を与えるのは常に生者。 幽霊は生者各々の想いを反射する鏡のような存在ではなかろうか。 わたしの読後感として残った、この物語の幽霊たちが纏う幾許かの諦念や悲哀さえもまた、作者が込めた想いの反射の一部ということになるんだろうなぁ・・と。
丘の家の時代毎の局面で、幽霊と対峙し、さまざまな情動に明け暮れてきた生者たちも、一人、また一人とあちら側に呑み込まれ、無色の蓄積物となって後の生者に色づけを委ねていく。 そんな上書きを繰り返しながら、痕跡を綿々と刻んでいく人の世の不思議・・
物語を通して、“理不尽な搾取”というキーワードが見え隠れします。 もしかすると遠い遠いインディオの記憶や想念が、地層の最深部に眠っているのかもしれない。 それに感応せずにはいられなかった生者たちの想いが、この土地の、この家に、狂気の磁場を作り上げてしまったのかなぁ・・などと夢想してみる。 どこか、レクイエムのような趣きも漂わせつつ、そしてまた、蓄積され続ける歳月の重さという深遠なものを突き付けられているような感慨もお覚えつつ・・
詩美性とでもいうのか、クラシカルなムードで牽引する恩田さんらしさが如実に現れた、ひんやりと優雅な逸品でした。


私の家では何も起こらない
恩田 陸
メディアファクトリー 2010-01 (単行本)
関連作品いろいろ

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パロール・ジュレと紙屑の都 / 吉田篤弘
かつて一つの国家であった小国群の物語。 “離別”によって分裂して以来、煮詰まってグスグスになった覇気のない対立関係を燻ぶらせている国々。
特務機関の諜報員、十一番目のフィッシュは、北の街・キノフで起こる奇怪な現象を探る任務を託されます。 キノフでは、口にする言葉が凍りつき、“パロール・ジュレ”と呼ばれる結晶体になるという。 また、凍りついた言葉を秘術によって解凍する“解凍士”が存在するという・・
このフィッシュなる諜報員。 書物に潜り込んで“紙魚”と化し、頁を泳ぎ渡ることを生業としています。 本の中の魚(のイメージ)なんですねー♪ で、書物に潜伏し、複数冊を適宜乗り換えながら、越境(密入国)し、目的地キノフへ“漂着”したり、書物に封じられた人物に同期(つまり変装みたいなものなんですが)して、現実世界に“再登場”したり。
なぜ凍るのか、どのようにして凍るのか・・ あわよくば優位に立つ為に、情報をいち早く入手しようという、なんとも曖昧模糊とした目論見のために命じられた神秘の解明が、やがて国家の、街の、人の過去を焙り出す機軸へと変容していく。
他国から侵入した諜報員と、国内で活動するレジスタンス。 それを取り締まるべく体制に従事する(素振りの)刑事ロイドの真の目的が、物語に切ない陰影を落としています。
監視、尾行、罠・・ 追って追われるスパイごっこを演じているような。 緊張感を欠いた、優雅とも倦怠ともつかぬ終わりのないカードゲームに興じているような。 堪らなくナンセンスな空気感なのですが、どこにでもありそうで、唯一無二のようで、孤立と親密さを漂わせた静謐で猥雑なキノフという街によく映える。
半ばフェイクのように添景的人物を織り交ぜつつ、視点をずらして剥ぎ合せていく手法や、本筋を外れて散りばめられるギミックのコラージュに眩惑翻弄されて、物語のビジョンが微塵も思い描けないまま、五分の四くらいまで隔靴掻痒の感と共に(ある意味それを楽しみながら)読み進めていたんですが、最後の最後でグングン惹き込まれました。 風呂敷の畳み方に快哉を叫びたくなりました。 真実を概念でコーティングした、真実以上に真実味を帯びた偽の報告書! これが秀逸なんだ。
発した本人の記憶にさえ残ることなく、誰にも気づかれず、塵屑のように捨てられた(それゆえに真摯で無垢な)呟き。 その粒子の一瞬震わせた空気の微動が結晶化され、冷たいコイン状の欠片として痕跡を残すという現象に、ふと、人物や書物を重ね合わせてしまいました。 時流に疎まれて踏みつけられ、忘れ去られて取り残された一人(一冊)が、長い眠りを経て時空の襞の中らか再発見される・・って素敵すぎるから。 マイノリティの格好よさってこれだよなって思う。
有史以来、永遠に解凍されず、この世には無いものとみなされているパロール・ジュレが、もしかしたら我々の世界にだって、まだ秘められているやもしれない・・ そんなところにまで想いが及ぶのも満更ではないんです。 吉田作品のモヤモヤと仄かに哲学的なところ、とても好きです。 パロール・ジュレは、眠れる思想や哲学の原石のようなもの・・なのかもなぁ。


パロール・ジュレと紙屑の都
吉田 篤弘
角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-03 (単行本)
関連作品いろいろ

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富士日記 / 武田百合子
富士山の麓、一合目近くに建てられた武田家の別荘、通称“武田山荘”での暮らしを綴った日記。 昭和三十九年から五十一年(泰淳逝去の年)まで。 赤坂の自宅とを往復しなからの、13年間に渡る、泰淳、百合子夫妻(ときどき娘の花ちゃんが参加したり、前半では犬のポコ、後半では猫のタマを交えたり・・)の山の家での生活風景が、ハッとするほどの鮮度で迫ってきて、心臓を鷲掴みにされた心持ち。
脆弱な自分の精神には余り過ぎる大きなものに圧倒されて、読み終えた今も、胸の奥の芯が熱を持ったまま震えていて・・ まだ今、そんな具合です。
地元の人たちとの交友、泰淳さんの作家仲間や出版社の来訪、日々の献立や買い物の子細な記録、樹木や草花、鳥や小動物や虫、月や星や雲、高原、湖、富士山・・ 素っ気ないくらいに簡潔な筆で書き留められていく暮らしの中の瑣事や近景。 その研ぎ澄まされように釘づけにされてしまうのです。
極力、感想や分析は述べられず、そのかわりに在りのままを凝視する姿勢を貫くことで、固定観念や陳腐さや平凡さが反旗の狼煙をあげるような凄みが、其処彼処に宿ってしまうとでもいったらいいのか・・ そんな満遍ない事物や事象に対する点描の中に、朝夕の、季節の、そして時代の移ろう呼吸音が聞こえてくるかのような興趣が息吹き、さざめく不思議。
百合子さんの、奔放にして節度ある眼差しのブレのなさ。 その反映として立ち現われる人や動物たちの、なんという愛嬌、可笑さ、清冽さ、哀しさであろうか。 生きることの残酷さや不条理、自然や動物と人との間に厳然と引かれた境界線から目を反らさずに、痛みを甘受する人だけが受け取ることのできる、神様からの授かりものなのだろうと思う。 澄明で端的で力強い、この巧まざる感性の煌めきは。
なんかもう、何も書けないくらい良くて。 何も書きたくないって心境です。 書き散らかしましたけど。 ただ、百合子さんの言葉を引き写して、たくさん書き留めて置きたいと思った。 活字と活字の間に満ち渡り溢れ返る魂ごと含めて。
文章の中に防衛線やバリアを張らない潔さが好きだ。 出されたお茶菓子を遠慮する場面で食べてしまうところが好きだ。 どこか動物のように全身全霊で生きてるところが好きだ。 泰淳さんと百合子さんは、時に母親と息子のようで、時に父親と娘のようであった。


富士日記 上
武田 百合子
中央公論社 1997-04〜06(文庫)
関連作品いろいろ
★★★★★
富士日記 中 富士日記 下
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停電の夜に / ジュンパ・ラヒリ
[小川高義 訳] ラヒリは、ロンドン生まれのアメリカ育ち。 カルカッタ出身の両親を持つインド系移民の二世です。 アメリカにおいて、二十世紀末頃から新たな潮流の一つとして脚光を浴びている移民・マイノリティ文学。 そのスタイルも拡散、細分化が進み、様々な資質にそってフレキシブルに継承させているであろうと想像しますが、そんな昨今にあっても、一際輝きを放つのではないかと思える短篇集。
アメリカとインドの間に身を置く人々が織り成す9篇。 家を飾る調度品に民族的な衣装や化粧、既にアメリカナイズされていても何処かに残るふとした習慣、香辛料の匂いが立ち込めていそうな日々の料理・・
ほんのり色づけされるエスニックな情緒。 でも、そこを殊更に強調するような物語ではなく、ましてや民族のへ不当評価に対するメッセージ性などといった居丈高さもなく、ラヒリの眼はむしろ、人間の普遍性に注がれているように思います。
だからいっそ、アメリカという国の血肉となって、確実に根を張る移民文化の強かさや、自身の源流でもあるインドへ向ける愛惜と敬意が、しんしんと伝わってくるのかもしれません。
他人の痛みに触れることへの恐れや戸惑い、それでもシンパシーを求めておずおずと手探りせずにはいられない寄る辺なさ、語りつくせぬ疎外感など、誰もが日常のどこかで抱いたことがあるような、相互理解と孤独の間で揺れる距離感の不確さを、インド系アメリカ人や、彼らを見つめる眼差しに投影させて、繊細かつ抑揚のない筆致で浮き彫りにしてみせる。 それは何時しか、特別な人たちではなく、現代を生きる不特定多数の人々の心にシンクロしてしまうのです。
どの物語にも瑞々しい感性が脈打っているのですが、最終話の「三度目で最後の大陸」が、やはり一押しかな。 一連の物語群の集大成のような醍醐味が感じられるというか、なんかもう愛が詰まっていて素敵すぎる!
移民二世の少女が、遠いバングラデシュ独立戦争の痛みに初めて触れた感覚をノスタルジックに描いた「ビルザダさんが食事に来たころ」や、白人少年の眼を通して描かれる、祖国を離れたインド人女性の喪失感が切なく沁みる「セン婦人の家」など、とても好みでした。
が、一番印象深いのは、表題作の「停電の夜に」。 もはや主人公がインド系夫婦であることの必然性すら感じられないんだけれども、傷つけ合うという行為によって、最後の愛を交わしているかのような二人の濃密な時間が愛しくて遣る瀬無くて・・ 密やかで鮮烈な・・美しい物語。 久しぶりに抉られた恋愛小説(といっていいのか)だったなぁ。
お恥ずかしい話ですが、インド(とバングラディシュ、パキスタン辺り)の歴史や宗教や民族や言語について無知過ぎる自分と改めて向き合いました。 この本がわたしのインドIQを跳ね上げる契機になればよいのに・・


停電の夜に
ジュンパ ラヒリ
新潮社 2003-02 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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本所深川ふしぎ草紙 / 宮部みゆき
本所深川ふしぎ草紙
宮部 みゆき
新潮社 1995-08
(文庫)


再読。 本所七不思議をモチーフにした連作短篇集。 怪奇幻想系ではなく、捕物系の人情小説です。 七不思議の真偽に重きは置かれておらず、心模様の象徴として物語のコアとなり溶け込んでいるイメージ。
全篇通して岡っ引きである回向院の茂七親分が事件を解決に導きますが、彼は各篇の主人公となる市井の人々を支える脇役、物語から一歩引いた存在として描かれています。 でも読み進めるうちに茂七親分の懐の深さにしみじみとした思いが募っていく。
すれ違いや憎しみ、貧しさなど、シビアで遣る瀬ない話が多いのだけれど、救いのない終わり方にはなっていない。 希望と言うほどの光ではないけれど、人生の続く道が、確かに照らされているという思いを抱ける終わり方が良いです。 茂七親分のさりげなくも温かい采配によるところが大きいのだろうと思う。
「片葉の葦」がマイベスト。 ほろ苦くも切なくて。 この一篇だけ七不思議の明言がなく、伝承とは遠いところで主人公の心に寄り添い、物語の中で不思議のまま息づいている感じがすき。
最終話のラストシーン、本所を去っていくため両国橋を渡る娘に向けて、茂七親分が「また来いよ」と手を振り見送る光景がしっぽりと心に残る。 いや、正確に言えば、そんな親分を見て、橋の真ん中で行李を背負い直し、ひとつくしゃみをする娘まで含めて。 読者に情を押しつけない絶妙の塩梅が、たまらなく琴線に触れるのです。 良い短篇集を読んだなぁ・・という満たされた気持ちで本を閉じました。
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スケッチ・ブック / ワシントン・アーヴィング
[吉田甲子太郎 訳] W・アーヴィングは19世紀前半のアメリカ人作家。 代表作といわれる原書は、32篇の短篇で構成されているようですが、その中から訳出された13篇を収める再編版。 構成内容は随筆(風)や伝聞記(風)のフィクションで、概ね原書の縮図のような趣きと理解していいようです。
渡欧中に執筆された短篇群ということで、そのためかヨーロッパから着想を与えられた作品が中心です。 人生の青春期のように激しく躍動する当時のアメリカ社会の喧騒を離れ、蓄積された歴史の襞の間を漫歩し、思索や瞑想に耽り・・といった、ろう長けた西欧の伝統基盤に遊ぶ風流人のような雰囲気は、読んでいる者をも快くしてくれるものでした。
とてもとても精神的な世界観なのですが、全然小難しいものではありません。 地方色豊かな風習や、廃墟や墓地の美学、素朴さや善良さや清貧へ向けられるノスタルジックな感慨・・ 全然違ったら申し訳ないのですが、ラフカディオ・ハーンが日本に抱いた幻想と響き合うような何かを、わたしは感じた気がしました。
“不幸にもひと眼につかないつまらぬところでばかり写生してきた風景画家”的スタンスで、感興の赴くまま画帳を開いてスケッチを溜めていくように、浪漫溢れる美文で綴られる小品の一篇一篇。 こういう書物の中に安らぐことが、わたしにとっての憩いなんだなーと沁々思いました。
全体に厭世的で懐古趣味的ではあるんですが、やはり自分はアメリカ人であって、傍観者に過ぎないのだという線引きから誘発されるようなメランコリーと、それさえも楽しんでいるような酔狂な気配とがブレンドされ、何とも言えない独特な芳香を放ってしまうんです。
アメリカ人初の風刺文学といわれる著作「ニューヨーク史」でアーヴィングは、オランダ移民の典型としてニッカポッカー氏という架空の人物を造形しているのですが、そのニッカポッカー氏の遺稿から引いてきたとする民話色の強い短篇「リップ・ヴァン・ウィンクル」と「スリーピー・ホローの伝説」が収められていて、この二篇が最も有名なアーヴィングの作品と云われているらしい。 (ジョニデの映画は原作とは全くの別物ですね・・)
わたしが一番好きだったのは「駅馬車」かな。 クリスマスの前日に故郷へ帰る人達で賑わう乗合馬車の様子を描いているのですが、制服を着た老僕と、老いたポインター犬と、子馬のバンタムが、一族の子供たちの到着を小道の果てに立って待っている光景が無性に泣けてきて・・
そしてわたしは、絵に描いたような美談「妻」にも泣けてしまうのである。 あと、「幽霊花婿」が面白かったなぁ。 騎士たちが戦いに明け暮れていた中世にあっては、似たような事が普通に起こっていたんじゃないかと推察しちゃうよね。 花嫁の父親である男爵や、花嫁の監督者である独身の二人の叔母が良いお味の佳作です。


スケッチ・ブック
ワシントン アーヴィング
新潮社 1957-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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