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エディプスの恋人 / 筒井康隆
ティーンの頃に読んで以来、うん十年ぶりくらいに七瀬三部作「家族八景」→「七瀬ふたたび」→「エディプスの恋人」を読み返しました。 うろ覚えでしかないのだけど、若き日にはスリルとサスペンスの二作目「七瀬ふたたび」を一番面白く読んだ記憶があり、三作目の「エディプスの恋人」を一番つまらないと感じた記憶がありました。 しかしながら今回「エディプスの恋人」がマイベストに急浮上。 印象が全然違う。 こんなに面白かったのか!と。 なのでちょっと感想を残しておきたくなって。 ちなみに「家族八景」は昔も今も安定の面白さでした!
まず、「七瀬ふたたび」のエンディングと「エディプスの恋人」のオープニングで、物語の連続性が断ち切られているんだよね。 え?続編だよね?と、なんとなく釈然としない気持ちを抱きながら読み進めることになるのだけど、もちろんこれは作者の思惑で、ラストにどんでん返しの趣向が待っている。 昔はあのどんでん返しの意味するところにも気づけず、パッとしない恋愛小説だなぁ〜くらいの浅さで読んでいたと思うのだ。 でも再読して感じたのは、“続編”や“小説とその完結”といった概念そのものを俎上に載せたメタ的テーマ性。 ギリシャ神話的パロディに宅して描かれるのは、シリーズもののヒロインとして被書空間に生きる主人公の悲哀なのだよねぇ。 七瀬がそんな“自身の境遇”を発見するための探偵譚になっていて、今回、持ち前の“超能力”もそのために使われています。
なんやかや貞操を守ってきた美貌の七瀬の処女喪失が第三作目にして描かれますよ。 これね、自身の著作に対して全権を振るうことのできる全知全能の作者に完全に弄ばれてて、可哀想過ぎて失笑してしまうのだけど、あのほんの一瞬の視点交換は、作者から七瀬へのサービスでもあったのかもしれないし、ストーリー自体がシリーズを完結させる意義に繋がっているのがなにより心憎い。 作者が七瀬に踏みしめさせた終着点は、まさに完結編に相応しい遣る瀬なくも圧巻の景色だと思えました。



エディプスの恋人
筒井 康隆
出版社 1981-09
(文庫)
★★

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聖女の島 / 皆川博子
聖女の島
−綾辻・有栖川復刊セレクション−

皆川 博子
講談社 2007-10
(新書)
★★

修道会により絶海の孤島に建てられた更生施設。 志を持って着任した女性園長とスタッフたちは、隔離された地で、31人の非行少女の更生保護に携わり、共同生活を送っていたのだが・・ 孤島、廃墟、隔離、修道女、少女・・ もうね、素材の背徳感が凄い。
入り組んだ迷路を作って林立する荒涼とした鉄と石の廃墟。 生臭い無機物の息づかいとでも言ったらいいのか、軍艦島をモデルにしたとおぼしき朽ちた建造物に覆われた島の描写が圧巻。 ピラネージの「牢獄」さながらの“幻想の迷宮”が蠢いています。 廃墟ブーム以前の作品であることに瞠目する。
“綾辻・有栖川復刊セレクション” の一冊です。 本格ミステリ作家お墨付きの作品ということで、勝手にそっち系を想像して身構えてしまったのが残念。 幻惑的なサイコミステリです。
禁欲と享楽のせめぎ合い、意識下への抑圧と、一瞬垣間見えるギラついた願望、息が詰まるほど閉塞的で、ニューロティックで、粘つくような空虚が充満する幻夢的思念。
一人称小説の危うさが立ち込めていて、物語がドス黒い破滅を目指し突き進んでいることは痛いくらいわかるのです。
ラストの暗転ものではあるんだけど、徐々に主人公の足場がぐらついていく過程を、暗い坂道を転げ落ちるようにもっと身を任せて読みたかったなぁ。 救いを求め、悪夢へ狂気へ逃避へと円環し、自らを幽閉するかのように完結してしまう世界観が強烈だった。 倦んだ甘美な地獄。
潔癖で生真面目ゆえの弱さ脆さが残酷なまでに抽出されていて、心がざわつき、いつまでもヒリヒリしていた。
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風車小屋だより / アルフォンス・ドーデー
[桜田佐 訳] 19世紀後半の自然主義作家として名高いドーデーの出世作ともいわれる名品です。 プロヴァンスのアルルにほど近い片田舎に、おんぼろ風車小屋を買い取って居を構えたドーデーから、パリの友人たちに宛ててしたためられた手紙のような調子で綴られています。
北風ミストラル、眩い陽光と青空、突き刺すような蝉の声、羊の群れの鈴の音・・ 地中海の恩恵を受ける南仏の美しい風光や、そこに暮らす人々の営みを、細やかな観察眼と詩人の感性でトレースした短篇群は、ロマンティックで、それでいて質実な生命の息吹きを感じさせる、干からびた心に響く慈愛の鐘のようでした。 光を得てはじめて生きるというプロヴァンスの景観が、瞼の裏にきらきらと残ってしまうような感じです。
“風車がピンで留められた大きな蝶のようにくっついている”緑の丘の、打ち捨てられた風車小屋に着いた晩には、床に車座となって月の光に足を温めていた兎たちに遭遇したり、二階の借家人は哲学者顔した陰気なフクロウの爺さんだったり!
夜話しにやって来る笛吹き爺さんから聞いた昔話は、人々が満ち足りた時にはファランドールを踊らずにはいられなかった頃の、最後の風車小屋の物語。 風車の時代が終わっても、お話はこうやって語り継がれ、今また21世紀の極東にまで届いているんだってことに想いを馳せたくなった「コルニーユ親方の秘密」。 羊飼いの少年が夜空を見上げながら語る星の世界の出来事・・清く守られた山の一夜の物語「星」など大好きです。
風車小屋以前にコルシカ島に滞在していた当時の思い出の中から、灯台守の生活風景を綴った「サンギネールの灯台」の静謐な物悲しさや、逆に幻影的なまでの生彩溢れる自然を前に、夢とうつつが溶け合ってしまうような感覚に曝される「みかん」も絶品でした。
聖母祭にプロヴァンスの名もなき詩人たちが発行する小冊子の中の掘出し物を紹介した「キュキュニャンの司祭」は、善良な司祭のマルタンさんの気の効いた教訓話が何とも可愛らしい。 そして、寂れた宿屋の女主人の心象風景に、皮膚の内側が疼くような気持ちになった「二軒の宿屋」が好きでした。
プロヴァンスの生んだ偉大な詩人、フレデリック・ミストラルとの交友の断片が描かれる「詩人ミストラル」では、失われゆくプロヴァンス語への郷愁と、その時流の前に毅然としてビクともしない詩人への敬愛の念がしみじみと伝わってきます。
風車小屋は・・ パリに住むドーデーが暫し喧騒を離れ、独り詩想に耽るために調達した避難所のような存在だったでしょうか。 牧歌的な暮らしへの憧憬が募れは募るほど、それと裏腹に、自分が紛れもない“パリの旦那”であることを痛いほど噛みしめていたかもしれない。 パリをこよなく愛していることを再確認する時間でもあったんだろうか・・なんて考えると、堪らなく胸がギュッとなるのでした。


風車小屋だより
アルフォンス ドーデー
岩波書店 1958-01 (文庫)
ドーデーの作品いろいろ
★★★
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なくしたものたちの国 / 角田光代
[挿画:松尾たいこ] 松尾さんのイラストに角田さんがストーリーを寄せて誕生した競作集。 お二人のコラボは「Presents」(大好きでした!)以来でしょうか。
雉田成子という一人の女性の一生を切れ切れに写し取った五つの短篇で構成される連作形式の物語。 気持ちの深〜いところをさらさらと、ズキズキと刺激してくるファンタジー風味が絶妙です。
何かをなくしたらそこに空洞が生じ、空洞はやがて何らかの代償で埋められる・・ 人が子供から大人になって、やがて老いていく人生のプロセスは、その繰り返しなのだと捉まえることができるかもしれません。 質量保存の法則(?)じゃないけど、ある時なくしてしまったものたちも、消滅するのではなくて、何処かに行き着いて存在している。 命だってきっとそう。 全ては大きな円環の中で繋がり合い響き合い、廻り廻っている・・ そんなイメージで人生観、死生観が描かれていました。 なんかね。(ちょっと強引なくらい)とってもポジティブな物語だったなぁ。
正当化するくらいの決意で、思い込みでも構わないから、意志の力でもって断固として自分を肯定して生きていかなくてはならない時もある。 幸せか不幸せかを決めるのは結局のところ主観なのだから、幸せを感じなきゃ損!
捻くれてて嫌になるなぁ・・orz (角田さん、松尾さん、ごめんなさい;;)見当違いも甚だしいけど、こんな受け止め方が今のわたしには精いっぱいでした。 この物語の3章目付近を彷徨いている(しかも成子のように大人にはなれない・・)人生道半ばの未熟者には、少しばかり眩しかったのです。
わたしは“なくしたものたちの国”へ行くのが怖いです。 忘れてしまったものたちへの愛惜と同じ数の、忘れることで得られた安寧のことを考えてしまうから。 思い出したいものと同じ数の、思い出したくないもののことが心を過ぎってしまうから。 “なくしたものたち”と向き合う扉を開いた時、成子のように切ない歓びと大いなる安らぎに包まれる自信がないのです。 だから死ぬのが怖い。
でも、何時か・・ 角田さんと松尾さんが紡いだこの健やかな境地を素直に感受できる自分になりたいものです。 固く封印して遠ざけたあれやこれやさえ、甘やかな痛みと共に愛おしく懐かしく思い返せるように年を取りたいなぁ。


なくしたものたちの国
角田 光代
ホーム社 2010-09 (単行本)
関連作品いろいろ

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ウッドストック行最終バス / コリン・デクスター
[大庭忠男 訳] オックスフォードからウッドストックへ向かう最終バスに乗りそびれた二人の娘。 どうやらヒッチハイクで車を拾ったらしいのですが、そのうちの一人がウッドストックの酒場の中庭で惨殺死体となって発見されます。 にも関わらず、もう一人の娘が一向に名乗り出て来ません。 固く口を閉ざしているのは何故・・?
デクスターの処女長編。 モース警部シリーズ(13作まで続くらしい)の記念すべき1作目です。 “処女作にはその作家のすべてがある”と俗に言いますが、“デクスターらしさ”が如実に顕れた作品として、本編を代表作に推すファンも多いそうです。
鮮やかな解決編に快哉を叫びたくなるミステリも好きですが、あーでもないこーでもないと、難解なクロスワードパズルの空欄を埋めては消し、消しては埋めていく過程の愉しみに特化したかのような推理小説作法も、わたしは好きなのでした。
解説の新保博久さんによるデクスター論が素晴らし過ぎて、何を書こうとしても影響を受けてしまうのが情けないところですが、めげずに開き直って書き散らかしますと、事件解決へのアプローチの特徴は“科学捜査の閑却”と“仮説ありき”といった感じでしょうか。 テレズ・バレイ警察のモース主任警部という、現代のオックスフォード近郊を舞台に活躍する探偵役が、こうも無造作に捜査のセオリーを黙殺し、推理天国という名の脳内ワンダーランドの中で自己完結しているが如き風情は、なんだか呆気にとられるほど超然としていて、ストイックで。 そういう意味では相当に大胆でラディカルな本格趣向といえるかもしれません。
とにかくモース警部の脱線した天才ぶりというのか、悩める名探偵ぶりというのか・・もうね、それに尽きます。 仮説の立証に失敗しては意気消沈したり、癇癪玉を破裂させたりして相棒のルイス部長刑事(執事のように忍耐強い!)にやきがまわったかと危ぶまれぇの、容疑者にはおちょくられぇの^^; それでも持ち前のつむじ曲がりの強情さを発揮して、手持ちのデータを想像力で補うことで一条の光を見出し、再三再四仮説を練り直す作業を繰り返しながら論理を推し進めていくうちに、序盤から中盤、中盤から終盤へと作品空間の濃度がどんどん増していくプロセスを読者は体感することに。 “捜査の初期のように陽気で騒々しくはなく、どことなく凄味が出てきて怖いような気がする”とルイス刑事が独りごちたように、知らず知らずのうちにモース警部の輪郭が陰翳を増していくのもまた趣き深いのです。


ウッドストック行最終バス
コリン デクスター
早川書房 1988-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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写楽まぼろし / 杉本章子
差し詰め“写楽○○説”に連なる系譜の作品ではありますが、江戸文化最盛期の偉大な担い手の一人であった蔦屋重三郎の評伝小説という視座から、写楽像に切り込んでいくという趣向が採られています。
安永、天明、寛政期における江戸出版界の立役者的存在であり、綺羅星の如き絵師や戯作者をプロデュースした蔦重が、吉原の大門口に開いた小さな絵草子屋から身を立て、類い稀なる先見の明で、通油町に店を構える一流の地本問屋にのし上がり、やがて寛政の改革で時制に媚びずに凋落するまで。
この時代、蔦重を主役に据えようものなら、もうそれはそれは文化人がザックザクってなことになってしまうわけでありまして。 美味し過ぎます♪ 大盤振る舞いなんかじゃなくて、当たり前に出てくるから凄いんです。
ざっと挙げると、平賀源内、喜多川歌麿、恋川春町、朋誠堂喜三二、大田南畝、山東京伝、そして東洲斎写楽。 何らかの差し障りが生じて戯作から身を引いたという志水燕十が、こんな風に肉付けされてしまうなんて! (馬琴や一九も蔦重の恩を受けていますが、活躍するのはチョイ後ですね・・)
わたしは「じょなめけ」で知ったんですが、蔦重にとって初代中村仲蔵は親戚筋に当たるんですよねぇ。 当然、杉本さんがそこを見逃すはずもなく、仲蔵がしっかり物語に食い込んでいるのも嬉しかったです。
蔦重の人間性や生き様を紐解いていく先に見えてくる写楽・・ なぜ10ヶ月という短い期間に大量の芝居絵を残して忽然と消えたのか、なぜその間、急激に画技が衰えたのか、なぜ蔦重はここまで写楽に入れ込んだのか、なぜ実像が見えてこないのか・・ 要所要所で丹念に史実と整合させる基軸の間に、大胆な秘話を織り混ぜながら、杉本章子流の構想が一幅の絵のように浮かび上がってくることに唸らされます。 それと同時に、写楽へ辿り着く論拠で瞠目させるというよりは、人情味溢れるドラマチックな一篇の物語小説として愛され、称えられるに相応しい作品のように思った次第です。
仲蔵が病没し、春町が自害し、喜三二が筆を折り、南畝が変説し、歌麿が離反し・・ 蔦重の晩年を読むのは、いつもいつも辛いんですが、奥行きのある人物なので、作家さんによる味付けが楽しみで仕方がないんです。 本編は、何かこう、写楽という舞台装置を使った蔦重への手向けのようにも思えるのでした。
杉本章子さんは、時代考証が盤石なので、疑り深くならずに安心して江戸情緒に浸らせてもらえるような心持ちになります。 粋と品の良さを兼ね備えた江戸市井の空気感が大好きです。


写楽まぼろし
杉本 章子
文藝春秋 1989-01 (文庫)
杉本章子さんの作品いろいろ
★★
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緑の石と猫 / 高橋順子
詩は殆ど読まないくせに、詩人の描く小説世界が好きです。 止められないです。 裏切られたことがないです。 最近、読書熱がクールダウンしてまして、読む気満々で手に取ったわけではなかったけれど、こんな時だからこそ? この本と御縁を結べてよかったと思えた一冊。
光と影が入り混じっては別れる・・人生の断片。 その一瞬一瞬の明滅、交錯は、何物にもかえ難く確固として美しいのです。 一拍の鼓動のように。 喪失感は人生を貧しく空疎にするものではないんだって想いが散りばめられていたような・・ わたしにはそんなイメージの作品集でした。
合理性を突き詰めない方法論で心のバランスをとっている感覚に共振する時、幻想文学が自分に大きな充足を齎らしてくれるのだと、そんなことを滔々と思い廻らせました。 尤もここに編まれた短篇群は小難しく読む類いというよりも、ファンタジィという可愛らしい響きの方が似合うのですけれど。
彼岸と此岸の境を縫うように往来する猫の存在と、海によって外界と隔てられた島という界域が醸し出す、濃縮された神秘的気配と、DNAを擽られるような民話的ノスタルジーが印象深いです。 特に一番のお気に入りは、ビルの屋上に群生する苔の青臭さが鼻の奥に残る「苔の花」。 きっとセイシェルの猫目石に蠱惑されインスパイアされた物語なのだろうなぁーと想像している「緑の石と猫」や、会いたい人に会えるということの真の意味がストンと胸に納まった「花観音の島」なども好きです。
総じて結びの1、2行に惚れます。 呆気なさと余韻というアンビバレンスに嵌って溜息が洩れるほどに上質感が際立つエンドマーク。 物語は更なる高みへ・・


緑の石と猫
高橋 順子
文藝春秋 2009-10 (単行本)
高橋順子さんの作品いろいろ
★★★
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変なお茶会 / 佐々木マキ
文明開化の横浜に住むMr.カメタロウ・オオイワのもとに、恒例の招待状が今年も届いた。 招待地は、年に一度の月の夜にココアが湧き出す岩山(素敵に変な天然資源!)があるトランスバール。 そこで天然ココアのお茶会が催されるのだ。 賢治の「どんぐりと山猫」を思い出してしまうカタコト日本語の怪しげな招待状が可愛いのだ^^; で、この招待状書いたの誰なの? お城は集合場所なだけで関係ないっぽいし、三日月お月様かな? まさかココアじゃないですよね?w
どういうわけか招待状を毎年受け取る人が世界各地にいて、年中行事のように彼ら彼女らは遥々と出かけて行って、再会を喜び合い、仲良くお茶会して、また来年ねーと各々の国へ帰っていく。 それだけのお話なのだ。 ほんと変。 でもいいなぁ。 こんなん幸せだなぁ。
なんといっても招待地へ赴くための奇妙奇天烈な乗り物、移動手段のヴァリエーションが楽しくてワクワクする。 興を削ぐので詳細は控えるが、ちなみに我らがMr.オオイワは電気自転車に乗って出かけるのだ。 後ろにでっかいバッテリーみたいなのくっついてて、青と赤のボタンくっついてるヘンテコなやつ。 ナントの公証人デュブウ夫妻の“それからヤギで”がツボw
全体的に雰囲気はどこか懐かしい十九世紀調で(招待状の日付が191X年な事に後で気づきました!)、レトロな夢がむぎゅっと詰まっている感じ。 原色遣いのパワフルでシンプルな絵が魅力的。 エスニックでありながらコスモポリタンな世界平和感がめっちゃ好きっ♪


変なお茶会
佐々木 マキ
絵本館 1979-09 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★
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