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ヴァン・ゴッホ・カフェ / シンシア・ライラント
ヴァン・ゴッホ・カフェ
シンシア ライラント
偕成社 1996-11
(単行本)
★★

やがてヴァン・ゴッホ・カフェという名の、ふしぎなカフェがあるといううわさが広がります。まるで夢のような、ミステリーのような、すばらしい油絵のようなカフェがあるといううわさです。
[中村妙子 訳][ささめやゆき 絵] カンザス州フラワーズの町のメインストリートにあるヴァン・ゴッホ・カフェの日常は、ささやかな不思議に包まれています。
かつて建物がまだ劇場だった頃から、その片隅にあったというカフェの壁には、ステージの魔法がたっぷりと染み込んでいます。 魔法は微睡んでいますが、時々目を覚まします。 すると、人や動物や食べ物や置き物が呼応して、優しい奇跡が起こるのです。 奇跡はまた壁に染み込み魔法の一部となるのでしょう。
掌篇の連作集ですが、一篇一篇がなんとなくバタフライ・エフェクト的な物語構成なのです。 いや逆かな。 奇跡のためにさまざまな偶然や不思議の連鎖が起こっている感じ。
傷心の男性、不安な子どもたち、迷子の猫、孤独な老紳士、道草のかもめ、諦めかけた小説家は、それぞれに“在るべき場所への帰還”というテーマを託されていたように思います。 それはカフェの温もりに包まれたからこその境地。
ラストまで読むと、カフェの名前は、あぁ、やっぱり画家のゴッホなんだなぁーとしみじみします。 英語版の表紙は「夜のカフェテリア」を想わせます。 本篇はささめやゆきさんのイラストです。 雑なスケッチ風の味のある“ゴッホの自画像”が、見開きページを飾っています。 卵か鶏かのメタ的魔法へ誘うラストもおしゃれ。 そっと両手のひらで包んでいたくなる愛おしさ。
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青い野を歩く / クレア・キーガン
[岩本正恵 訳] ジョン・マクガハン(現代アイルランド文学の第一人者)の伝統を継承すると評される、注目株のアイルランド人女流作家の第2短篇集。 その全訳です。 一粒一粒、珠玉の光沢を帯びた、胸中に沁み渡る8篇。
抑揚を自制した端的な語り口、選び抜かれたであろう寡黙な文章は、行間いっぱいに可視化されない感情の波動を響かせる。 時に無愛想に思えるほどに簡潔な言葉の背後には、アイルランドの田舎町の、その場所に立って、風に頬を撫でられているような心持ちにさせられる豊かな光景が広がっていて、まるで生命そのものが物語の中に胚胎されているかのような・・神秘的で根源的な力強さが脈打っている。 空気の質感や温度、匂い、肌合いに、すぅーっと心が寄り添う。 人間と自然との交感が絶え間なく、此処にある。
信仰として概念として生き続ける旧世界の記憶は、未だ色濃く刻印され、悠然と流れる歳月の合間に堆積し、澱のように淀んでは染み込んだ人間臭さを浮き彫りにする。 新旧、古今の狭間に漂う人生の、張り詰めた鬱屈や圧し掛かる孤独に、骨髄が打ち震えるような思いで一篇を読み終えると、さぁ次を・・と、すぐには気持ちを立て直せないし、そうしたくない。 読後に何ら重荷を負わされることはなく、それどころか、まるで自浄作用を備えているかのような物語たち。 作為を嗅ぎ分ける隙もなく、嗅覚に従うままに直観的にシンパシーを刺激され、愛着を呼び起こされ、訳もなく泣きたくなるような・・
ほんの一世代前まで、カトリック教会の支配力が強い保守的な社会だったというアイルランドが、90年代に急激な経済成長を経験し、人々の暮らしは大きな転換期を迎える・・そんな時代を反映した片田舎の一風景なのでしょうか。
“選べない時代”は過ぎて、平淡な暮らしの中にも、生き様を選択する痛ましくも切実な瞬間が訪れます。 封印された過去は、熾火のように燻りながら、やがて内側から主人公を照らす哀しくも美しい秘密の匂いを纏う。
木々の豊かな東部と湿地の広がる西部。 太古のケルト的神話世界を呼び覚ますように、大地と炎と水のイメージが繰り返し挿入され、現実と神秘を濃やかに融合させた独特の世界観が息衝き、この空間はどこまでも純度の高い静謐な明るさを貫いています。
「波打ち際で」の初期のバージョンが「バースディ・ストーリーズ」に収録されていたことに全く気づけなかった自分に(ま、毎度のことだが)幻滅しつつ。 最もケルト色が濃厚だった「クイックン・ツリーの夜」が一番好きでした。 今年・・って先は長いけど、わたしにとって、5本の指に入る名短篇に違いない。


青い野を歩く
クレア キーガン
白水社 2009-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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仕掛け花火 / 江坂遊
[副題:綾辻・有栖川 復刊セレクション] 星新一さんとは、またテイストの一味も二味も違うショートショートの書き手、江坂遊さん。 星さんは生前、ご自身とはタイプの異なる江坂さんの作品を誰よりも認めていらっしゃったそうです。 本編は1992年に刊行された39篇から成る初期作品集の復刻版です。
日本にこんな素敵な奇想の作家さんがいたことを知りませんでした。 なんてファンタスティックな極小世界なんでしょう。 “奇妙な味”という言葉を使うと陳腐になってしまうけど、自分の中では、奇妙な味分野の最上位の掌編集といったイメージが近いように思います。 明確なオチや皮肉や切れ味がショートショートの生命線のように思い込みがちでしたが、もっと自由でいいのだと、江坂さんの紡がれるストーリーに接し、ショートショートの懐の深さを改めて教えてもらった心地です。
民話や昔話風、ファンタジーやSFやホラー風といった多彩なタッチが魅力ではありますが、それら全てが響き合い、調和して、ロマンや叙情やノスタルジー、恬淡とした可笑しみをさざめかせ、色鮮やかな情景と匂い立つような余韻を創出する世界観が見事。 言葉は極限まで削ぎ落とされているというのに、どうしてこんな陰影に富んでいるんでしょう。
三部構成になっており、厳密ではないのだけど、序盤はゾワっと怖めだったりブラックユーモア基調だったり。 終盤に向かうにつれ、段々と心に沁み入るような温かみのある色彩が多くなるように感じられました。 自分は中盤あたりに溺愛作品が多かったです。
一番のお気に入りは「月光酒盛」。 今昔物語のような素地を洗練させた雰囲気があって、ふと「陰陽師」や「雨月物語」を思い起こしました。 ラスト、仄かなユーモアと寂寞とした余韻が美しく、忘れられない一篇。
「夜釣りをする女」は、女性がビルの屋上で夜釣りをしているというシチュエーションがもう、シュールでロマンチックなんだけど、これはラストが謎オチっぽくて無性に惹かれた。 たぶんニヤッとする解釈でいいんだと思うけど、あの寸止め感が堪らない。
今思ったけど、黄昏時や夜を背景とする話が結構多いです。 だから宵闇の暗さや不穏さ、密やかさ、寂しさ、心許なさ、優しさ・・ そんな空気感が生まれていたのかも。 一方で江坂さんの原点には落語があるそうで、語り調、掛け合い調の軽やかな文体が多いのも特徴的なのです。 これが馥郁としてカラッと明るい独特の雰囲気に繋がっているんだと思う。 この相反する要素が喧嘩せずに分かち難く融合しているところが、なにより江坂さんを江坂さんたらしめていたのかもしれない。
平凡な日常が次第に非日常に侵食されて、遂には彼方側へ行ってしまう系の「ある日の妻」は嫋々たる余韻を、「我が家遠く」はクスッとしたくなるユーモアを楽しめました。
一気に世界がグラっと反転する「夢ねんど」や「会議中」も、ラストの一抹のユーモアが可愛らしく、特に「夢ねんど」は、冒頭の一文が放つ詩情にノックアウトされてしまった。 同じく世界がひっくり返る系でも「猫かつぎ」や「かげ草」は、“語り”の妙味を楽しむ作品です。
シュール系では「背中」や「地下鉄御堂筋線」が、感性の変テコさを迸らせていて圧巻。 そしてやはり、掉尾を飾る「花火」が滋味深い名作。 夏の終わりのイリュージョンが哀愁を掻き鳴らします。 他、「新しい店」「踊る男」「骨猫」「秋」あたりも印象的で大好きな作品です。



仕掛け花火
― 綾辻・有栖川 復刊セレクション ―

江坂 遊
講談社 2007-11
(新書)
★★★★
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人魚伝説 / ヴィック・ド・ドンデ
[荒俣宏 監修・富樫瓔子 訳] “絵で読む世界文化史”シリーズの一冊。 古代から中世、近代、現代へと、歴代人魚の博物誌を紐解きながら人魚の来歴を語り倒すほどに興味の尽きない知的探求への旅。
一言で人魚伝説といっても、様々な要素が混沌と絡まり合っているので、道筋立てて概略を書き残すことができそうにないのが切ない。 神話や伝承のフィールドはどこまでも地続きで、洋の東西でさえも遠い遠い親戚のような気がしてきた・・そんな感慨に耽る読後感。
6〜7千年前にバビロニアで崇拝されていたオアンネスという半人半魚の海神(アフロディテの原形でもあるらしい・・)こそが正統な人魚の始祖といえそうなのですが、しかしながら、オアンネスに由来すると思しき、神として崇められる系譜(?)とは根を異にする、なんといっても後世の人魚伝説に大きな影響を与えたのは、ホメロスによって世に知らしめられた魔物、セイレーンなのでした。(ホメロス以前の、セイレーンのルーツに明確な答えは未だないようです・・)
“セイレーンの歌声を聞いた者は死ぬ”こと以外、ホメロスは何ら詳細を示していない。 だからこそ、人々はそこに寓意や啓示をめぐる解釈を見出そうと、想像の翼をはためかせずにはいられなかったのですね。 人間の営みと共に変化する時代を反映しながらの、三千年に渡るイメージや姿形の変遷の過程は、まるで百花繚乱絵巻。 そして近代以前、実しやかに語られる動物生態学の在り様は、まさに“幻想文学”のそれであり、動物誌ならぬ怪物誌の時代でありました。
そもそもホメロスのセイレーンは人魚ではないし、そこからインスパイアされた古代の文化人たちによって思い描かれたセイレーンも人魚ではなかったのに・・
ギリシヤ神話(の一説)では、河の神アケローオスとテレプシコーレ(ムーサの一人)との間に生れた娘たちと位置づけられているセイレーン。 オウィディウスの「変身物語」では、ペルセポネを探すために自ら鳥の姿に変わることを願って神に聞き届けらたという。 その際、美しい歌声を惜しんだ神が顔だけは乙女のままに据え置いたとされています。
古代では人面鳥身(鳥サイズ)だったというのが定説なんですが、時代が下るにつれて歌声の呪縛は踏襲されつつも姿態の美しさが強調されていくセイレーンは、どんな風に紆余曲折を経て(マイナーチェンジっぷりが面白い!)人魚に至るのか。 エジプトの冥鳥と近似性を醸し出す有翼の死の天使のイメージ、はたまたセイレーンに天球のハーモニーを奏でさせたプラトンや、知への渇望をセイレーンの伝説に投影したキケロ・・といった古代の哲学思想を離れ、中世のキリスト教思想のもとで堕落への甘美で邪悪な誘惑者としての存在感をどのように強めていったのか。 検証の手は緩められません。
近世、近代には、「ウンディーネ」や「人魚姫」など、魂(信仰)を持たぬ存在の象徴に対して、犠牲者や無垢なるものへ向けられる憐れみや愛おしさのようなニュアンスを滲ませたロマン派の人魚観が支持を得るのも、未知なるものへの脅威が薄らいできたことの顕われの一つなのか・・ ちょうどこの頃は、動物分類から幻獣が完全に姿を消し、(科学者曰くの)マナティと人魚の積年の混同に決着がついて間もない時期ですから。
芸術の主題として形而上学的な世界を浮遊する人魚から、似非博物学の餌食となって禍々しい痕跡を残す人魚まで。 “幾ばくかの事実や伝承を核に、人間の持つ様々な不安や畏怖が投影されて成立した一種のシンボル” この言葉がストンと腑に落ちました。 そして“あらわな胸と冷たい魚の尾は、誘惑と拒絶との洗練された戯れの象徴”であり・・なるほど、そうか。 男心を掻き立てる女性の元型なのですね・・永遠に。


人魚伝説
ヴィック ド ドンデ
創元社 1993-11 (単行本)
「知の再発見」双書シリーズいろいろ
★★
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