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魔剣天翔 / 森博嗣
プロローグの言葉の連なりが美しくて。 これは! と期待値跳ね上がり。 青い空を翔けるプロペラ機のメカニックな鼓動と、パイロットの研ぎ澄まされた息遣いが、フラジャイルな詩情の中に溶け込んでいる。 これを書きながら森さんは「スカイクロラ」の世界観を膨らませていったのかしら。
フランスから帰国したエアロバティックスのチーム“エンジェル・マヌーヴァ”による航空ショーで、飛行中のパイロットが射殺される事件が発生。 “空中密室”でいったい何が起こったのか?
メイントリックもシンプルで綺麗だったし、ダイイング・メッセージや、脅迫状の暗号解読ネタとか、こういう遊び心も嫌いじゃないんで楽しめました。 “原因と結果は一対一に対応しているわけではない”的な逆解析のジレンマを地で行くような曖昧さを残したエンディングの余韻が、この物語の切なさに相応しかったなー。
チーム名と同名の行方知れずになった宝剣を追う保呂草さんが裏稼業(?)で本領発揮しているので、何時になくハードボイルド風味が盛られていたり、変な関西弁を操る盛り上げ番長の紫子ちゃんが乙女になってきたせいか、全体のテンションが少し落ち着いたりと、背景の人間模様にも揺らぎが感じ取れる一冊。 今回も練無にスポットがあてられていて、ガーリーだけど“男の子の練無”が甘酸っくリリカルに描かれています。
人間の不安定さを顕在化させる落ち葉の季節・・ そういえば、小説内の時間経過は5作で半年くらいです。 ただ相変わらず年代を確定できるような要素が何もないんですよ。 ここまで来ると故意的と思われてならないわけで。 何か隠し種があると邪推。 「今まで(90年代には思えないという理由で)80年代頃かなって勝手に想像してたんだけど、もしも、もう少し昔の話だったら」? そこで突然、まさか! と、天啓のように閃いてしまった。 そうすれば、決定的とも思える「異母兄妹」の辻褄が合うじゃないですかっ!
記述者の保呂草さんは、内容に“多少の演出”をしていることを予め告白しています。 でもまだ、答えを明かすわけにはいかないと言う。 早く先が知りたいぃぃぃ。
航空ショーを見ながら、飛行機工学についてへっ君に語って聞かせている生き生きとした紅子さんが素敵。 この時、2人はこんな会話をしている。
紅子 「そうよ。 好きな人が教えてくれることって、もの凄くしっかり頭に入ってしまうものなの。 一度聞いただけで絶対に忘れないわ。 だから、もし、しっかりと覚えたいことがあったら、人でも本でも、その相手を好きになることね」
へっ君 「それは、どうして?」
紅子 「さあ・・・、どうしてかしら。 きっと、全部の自分が一斉にそちらを向いているときだからじゃないかな」
へっ君 「いつもは、全部の自分はあちこち向いているの?」
紅子 「うーん、寝ている人もいたりするかもね」
可愛いよへっ君、可愛いよ!! この場面大好き。 最後の言葉はほんのり意味深? やばい。 妄想がどんどん独り歩きしてる・・orz これでぬか喜びだったら目も当てられないわー。
あと、気になった点。 地の文ではなく(Vシリーズの性格上)保呂草潤平の思考ということになるんだけど、こんな記述が。
有限を無へ結ぶことは、無限を有限に返す幻想を見せる。 そして、目的を成し遂げるためには不必要な部分を潔く切り捨てる。 「美」には、そんな冷たく固い意志が感じられなければならない。 的確に目標を据える尖鋭さ、危うさにこそ、私たちは畏れ、そして憧れる。
登場人物の関根朔太画伯を表現しているのかもしれないが、なんか自分は、Fにおける真賀田博士の行為を連想させられてならなかった。 (百年シリーズを先に読んでるからなのだが)


魔剣天翔
森 博嗣
講談社 2003-11 (文庫)
関連作品いろいろ

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夢・出逢い・魔性 / 森博嗣
相変わらず馴染めないままの4作目ですが、“夢で逢いましょう”と“You May Die in My Show”のダブル・ミーニングで一本♪ ちゃんとストーリーにも掛かっていて、「封印再度」以来の鮮やかなお手並みに座布団一枚^^ スタジオのセットという眩くて空虚な場所が、夢、幽霊、幻・・といったモチーフや人の認識の曖昧さを際立たせていたような・・ 空間作りが達者です。
テレビのクイズ番組に(女子大生三人組としてw)出場することになった紅子、紫子、練無。 と一緒に保呂草も上京。 死んだ恋人の夢に怯える番組プロデューサーが、テレビ局の一室で何者かに銃殺される事件に遭遇します。 夢と現実が錯綜する密室の怪事。
推理パートは変に穿ったところがなく、今回は割と普通に楽しめた部類かなぁ。 でも逆に“普通のミステリ”としては突っ込みどころが満載で、森さんだと思わないで読んだら噴飯ものかもしれない。
事件の顛末を事後に構成し直して(自分も三人称に置き換えて)、登場人物の保呂草潤平が記述しているというスタイルがVシリーズのデフォなんですが、今回は、一部に一人称で犯人の独白が挿入されています。 犯人の独白によって読者は知らされているけど、おまえら知らないのに何でそこを放って置く? “Show”というキーワードを捻じ込みたかっただけなのが見え見えっぽいピースとかなぁ;; あとやっぱり、犯人の造形にブレがあるというか、雑というか、森さんにしては大味というか・・矛盾や不明瞭さを(いつもほどには)巧く料理できてなかった気がしたり。
そして、このシリーズの人間関係には未だ何処にもそそられるものがないし、相変わらずキャラデザには心が折れそうで・・ 読んでて孤独になってくるんですが、強いて書けば、練無の女装趣味がちゃんとストーリーに活かされてた点や、紅子さんが殆ど終始キャットカバーモードだったので、真っ当な探偵役に見えたのはレア? あっ、それと、保呂草さんと稲沢探偵(友情出演キャラ)が同室に宿泊したことを後で思い出してちょっとドキッとなった^^; 舞台が東京だったこともあり、愛知県警の林警部は出番なしの巻。 林、ざまあケケケΨ 紅子さん(ついでに七夏も)、もう林なんか放っときなよ。無視無視! 
周囲の凡人の雑魚どもは、非凡人の主役キャラ様の優越意識を擽る道具のようにしか存在させてもらえないっぷりの甚だしさw 森さん、主役キャラたち依怙贔屓しすぎ^^; 甘やかすにもほどがあるでしょと言いたくなってくる。 この居た堪れない感なんとかしてw  ま、今回はエンタメ度重視作ってことで。
あっ、今ふと思ったけど、このベタさ、観客を意識したサービス精神や張り物めいた演出っぽさ・・ もしかして作品そのものが“Show”を暗示していたのかな。


夢・出逢い・魔性
森 博嗣
講談社 2003-07 (文庫)
関連作品いろいろ

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月は幽咽のデバイス / 森博嗣
傾斜地に建つ大規模な木造家屋、“薔薇屋敷”“月夜邸”“黒竹御殿”などの異称で呼ばれ、狼男の噂が囁かれる大邸宅で、白い大きな満月夜に起こる惨事。 令嬢の婚約パーティに招かれた一行が怪死事件に巻き込まれます。
こぼれた水の謎解きは面白かったんだけど、メインの密室トリックが想像の斜め上をいくというか・・これ、想像しちゃいけないお約束じゃないのか? はっきり言って、密室における禁じ手を使いやがった・・しれっと^^;
森さん流に言ったらこれも、無意味な固定観念に拘束されてた方がおバカさんってことになるのかな。 そういえば“約束を破る”とか“嘘つき”とかいった話材が、伏線と言えるんだか言えないんだか、微妙にサブリミナルされてたような気がしないではなかったけど、気のせい? それにしても「ミスリードが真相でした」なんて捻じくり返った挙句、超シンプルに行き着くような皮肉ミステリ、森さんだから怒られない。 そもそも、怒られないための予防線の張り方の妙味が森ミスの真髄であるとさえ。
密室事件にはこういう究極に野暮な解決篇も存在することの見本をお示しになったのか・・というのは表面的なロケーションで、北村薫さんが「笑わない数学者」の“逆トリック”を看破したように何か崇高な隠喩が仕掛けられているの図? うーん、自分にはわからない;;
でも一筋縄ではいかないのが森ミスクオリティだと思うので、やはり短絡的に読む気にはなれないのです。 “人はすべての現象に意図を見出したがる”と言ったと思いきや、すかさず同じ口で、“意志も意図も作為も賢いほど姿を見せない”と言ったりするからね。
前作「人形式モナリザ」は、完璧だった黒幕の鎧の僅かな綻び目から驚愕の真相が最後の最後に頭をもたげ、物語は一気に暗転して、おぼろげながら読者にその全容を想像させてくれたのですが、本作は黒幕の存在を臭わせるに留めていて、少なくとも、若干オープンエンド風に、読者に真相を委ねる手法が採られているのは確かと思う。 でも“面倒なこと、難しいことを避けたがる常人”のわたしは、これ以上、頭を悩ます気力がないです;; 
科学者を自称する紅子が、いったい何の研究をしてるんだかさっぱり明かしてもらえないでいるんですが、今回、“永久機関”という言葉にちょっと過敏に反応していた節が。 “マッドサイエンティスト”という呼称が使われたりするし、百年シリーズを先に読んでるので、あれ? って思ったんだけど、もしかして紅子は真賀田博士と何処かで繋がってくるのかな? ふと、ざわざわ得体の知れない予感を掻き立てられて、そっちの方にも興味の矛先が向き始めました。
S&Mシリーズと違って、本シリーズは(今のところ)はっきりした年代がわかるような記述がないんだけど、愛知県の“那古野市”という架空都市が存在する同フィールド上のストーリーなんだから、何処かで交わる構想があって全然おかしくないし、むしろそれを期待したいなー。 ただ両シリーズが同時代でないのは確か。 こちらはまだパソコンや携帯が全く存在してないんだよね。 太陽光発電が目新しい技術として描かれてたり。
このシリーズのダークホース的(?)存在、保呂草さん。 その訳アリのインパクトがだんだん薄くなるのは、構造上やむを得ないとしても、このまま尻つぼみになるとも思えないんだよなー。 今回、ラストの一言が気になるのは考え過ぎ? まだまだ叩けばホコリが出そうな^^;

<後日付記>
保呂草の“ラストの一言”は、わたしが想像していたのとは全く違った意味で、思いっきり意味深だったことがシリーズを読み進めるうちに判明。
この時の自分は確か、保呂草は実はトラウマ持ちで自殺でも考えてるのかな? くらいに思ってたからね・・orz 
ネタバレしちゃうと、「この物語は事件後すぐに記述されたのではなく、保呂草にとって遥か昔のモノローグだったんですよね。 つまり、これを書いている彼は、そろそろ老境なんですよ。 だからエピローグで“私”に戻った一瞬、自然とあんな言葉をもらしてしまった」のだと思われます。


月は幽咽のデバイス
森 博嗣
講談社 2003-03 (文庫)
関連作品いろいろ

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人形式モナリザ / 森博嗣
Vシリーズ2作目。 さて。どうしよう。 キャラのハイテンション加減が鬱陶しい^^; ついていけそうにないかもと弱音を吐きたくなるくらい躓いている。 特に、紅子と林警部と七夏の戯画的ともいえる三角関係パートがダメだなこれ。うん・・orz 犀川先生と萌絵にはあんなハマれたのに、なんだかこのシリーズは性に合わないっぽい;; ごめん、読むんだけどね。
長野県諏訪市のリゾート地で夏のひと時を過ごす阿漕荘の面々と紅子は“人形の館”と呼ばれる私設博物館で乙女文楽を鑑賞中に、衆人監視のステージ上で演者が殺害される事件に巻き込まれます。 平行して起こる奇妙な絵画盗難事件と、著名な彫刻家が死ぬ前に作り続けた千体余りの小さな人形に隠された秘密には、どんな繋がりがあるのか?
わたしはラスト一行を高く評価しました。 描かないことによって描かれていた部分が、黒々と一気に脳内を占拠して、読み終えた瞬間うわ〜〜となった。 操り手の存在が消えて人形が人間になり、操り手の存在が浮かび上がって人間が人形になる・・ 人形遣いのモチーフが巧妙に、そしてあまりにも華麗に料理されていたことに最後の最後で気づかされるのです。
ざっくり読み返したら、回答を引き寄せる最大級の手掛かりが、例によって散りばめられた観念的な思索の中に悪びれもせず堂々と紛れ込んでいます。 このしてやられた感が心地よい。 難を言えば、「“無の人格”であることを宿命づけられた操り手の非存在感が完璧すぎて、読者を疑わせる綻びすらなかった」点かもしれません。 でも、そこがまさに黒子である真の操り手の本質を体現しているともいえるのだからジレンマです。 森さんが仕組んだこういうパラドックスに触れた時、ちょっと興奮するわたしです。
“現実がどんなに複雑でも言葉にすると呆気ない”“言葉とは不器用な手法だ” これは、森作品に頻出する表現ですが、騙されて真に受けてはいけないと思う今日この頃。 確かに言葉の原理の一面には違いありませんが、森さんはこの言い回しをわざと作為的に用いているんじゃなかろうか。 簡単なことを複雑に見せかけたり、陳腐なことを有難く感じさせてくれるのも、また言葉なのです。 何を隠そう森さんは、この後者の言葉の作用によってミステリ小説におけるトリックの脆弱性をカバーしている確信犯なんだから。
人は宇宙の彼方から伸びた見えない糸で操られている人形で、その糸が、自分で立ち、自分で考えているという幻想を見せてくれる。 空には糸の通る小さな穴が開いていて、人の数だけそれが光っているのだと夜空の星を見ながら紅子が夢想する場面が好き。


人形式モナリザ
森 博嗣
講談社 2002-11 (文庫)
関連作品いろいろ

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黒猫の三角 / 森博嗣
S&Mシリーズに続いて刊行されたVシリーズの1作目。 国立N大学も出てくるし、舞台も引き続き那古野市なんですねぇ。 もしかして登場人物リンクしてたりする? と期待したけど(今のところ)それはなかったです。 たぶん。
老朽化したアパート“阿漕荘”の住人たち(大学生の小鳥遊練無と香具山紫子、便利屋と人材派遣屋を兼ねた私立探偵の保呂草潤平)と、隣家の大邸宅の敷地の一角の、百葉箱を膨張させたような小さな木造小屋“無言亭”に居候している元お嬢様、瀬在丸紅子。 以上、エキセントリックな濃ゆい面々をメインキャストに第2シリーズ開幕です。 一年に一度、ある特殊なルールに従って繰り返される奇怪な殺人事件。 またしても密室の惨劇・・まさか今回も密室に特化したシリーズ・・なのか?
キャラのノリがパワーアップしていて、よりラノベ感が増したような。 その分、取っつき易いシリーズのようではあるんだけど、んー、どうなんだろうか・・ 特に目新しいものは感じなかったんだよなー。 定量的な観察の上に成り立っているルールに従わなければならない理不尽さを抱え続け、少しばかりの偽善を引き受けながら生きるという格好良さが人間にはあるのだよ。 どんなに正論であろうとも自己完結してしまったら、それはもう社会で生きていくことを放棄したのと同じこと。 生きるって矛盾の坩堝だ。 でも生きるってそういうことだよね・・的なテーマ(わたしは敢えて逆向きにそう読んでいる・・)然り、俗に言う“犯人の動機”とやらが如何に曖昧で不確かでナンセンスであるかを世に知らしめるための、本気で動機を描くとはこういうことだー! 的な犯人像然り、本当の意外性とは人を喜ばせるものではなく白けさせるものだということを証明しようとするかのような肩透かしトリック然り。
正直、ちょっとS&Mシリーズの焼き直しという印象が否めなかったんだけど、それだけブレてないんだよなー。 こうやって何度も何度も同じところを耕されて性懲りもなくずぶずぶハマっていくパターンなのだわ。 また10冊こんな調子だけどいいかないいともー。 付き合いますともー。 って気になっちゃってるし;; いやいや、まだ導入部ですからこんな世迷言も早計というものだよね。 だよね?


黒猫の三角
森 博嗣
講談社 2002-07 (文庫)
関連作品いろいろ

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アクロイド殺人事件 / アガサ・クリスティー
[中村能三 訳] 1926年発表のポアロシリーズ。 キングズ・アボット村でかぼちゃ畑を耕しながら長閑な隠遁生活を送るポアロ。 探偵業を引退した名探偵が、地元の名士ロジャー・アクロイド氏の殺害事件を、灰色の脳細胞で鮮やかに紐解きます。 シリーズとしては3作目ですが、時系列順というわけではないのかな?
本来のヘイスティングズ大尉に代わり、本編ではシェパード医師が事件の経緯、つまりポアロの探偵譚を綴る記述者の役割を果たしています。 シェパード医師というエポックメイキングな“ワトソン”の背後でほくそ笑むクリスティーまでもが目に浮かぶような華麗な妙技。
本作は推理小説史上に名を刻む名作中の名作ゆえに、未読ながらも犯人情報に曝される確率が高いですよね。 口惜しいかな犯人が誰なのかわたしの耳にも届いていたもので、“ラストの驚愕”という極めつけの醍醐味にこそ到達できなかったものの、ポアロがあの犯人をじんわりやんわり追い詰めていく倒叙ミステリのような楽しみ方を見出しつつ読みました。
ちょっと自分を買いかぶりすぎかもしれないけど、もし白紙の状態で読んでいたとしても、早晩見抜けた(推理ではなく勘で、という意味ですが;;)気がするんだよなぁ。 それだけ読者に対して提示される手掛かりが多かったのだと思ったし、フェアであることに何時になく神経を使っている女史の執筆姿勢が縷々伝わってきます。 何はともあれ、こういう際どいテクニックをやらかして、ミステリ作法の因習をぶち破ったチャレンジャー精神を称えたい。
ただ、なんというかあれです。(以下、ネタバレ含みますのでお気をつけください)作者ではなく登場人物が読者を騙している点で、通例の叙述トリックとも違うし、登場人物が無意識に嘘をついてしまうという意味での“信用ならざる語り手”系とも違うし、物語の手法として何となく微妙に中途半端な印象が残るのは否めないのです。 もしかするとその辺が物議を醸す端緒だったりするのかな。 でも、客観が主観を封じるギリギリのラインを課したテキスト(手記)の禁欲の妙味には、個人的に非常に感じ入るものがあったなぁ。
それはそれとして。 ゴシップ好きの狭い地域社会の中の旧弊な生活空間で繰り広げられる人間模様の描写が素晴らしい。 有害な好奇心や見栄や羞恥や後ろめたさで縁取られる味わい深い人々の社交風景。 彼ら、彼女らの内面に介在し錯綜する諸事情の断片が、ポアロの犀利な洞察力で正しい場所に嵌め込まれていく推理の過程には間違いなく一級品のエレガンスが漂っています。

<後日付記>
クリスティー文庫版で再読し、笠井潔さんの解説に触れ、自分が“一人称小説”と“手記”の概念を混同していたために“中途半端に感じた”のだと気づかされました。
この小説は、ポアロが真相に辿り着くことはできないと踏んでいるシェパード医師が、捜査とほぼ同時進行で(将来、発表することも視野に入れて)事件のあらましを記録しているという体裁なのだから、外側からの事実にしか触れず、隠したいことは書かない取捨選択の介在は必然なんですね。
“一人称小説”が持つ暗黙の形式という制約を逃れた、主観のフィルターを通すだけの根拠を有する”手記”だということが、この作品の最大の鍵であり、クリスティーの企みだったのたと理解を新たにしました。


アクロイド殺人事件
アガサ クリスティー
新潮社 1958-08 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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