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カーデュラ探偵社 / ジャック・リッチー
[駒月雅子 他訳] カーデュラは、落魄れてしまった元貴族の伯爵(故郷は東ヨーロッパらしい)なのですが、現在(1970年代?)はアメリカに渡っており、人間離れしたタフガイっぷりを発揮して(空も飛べるので尾行が上手w)、生活のため探偵稼業に勤しむ日々を送っています。 でも営業時間は夜間のみ。
夜間営業ゆえか、警察に相談できない訳アリな依頼人満載のカーデュラ探偵社の事件簿7篇と、探偵を始める前の番外編(お金を稼ぐためボクサーに志願しちゃってるんですが、もちろん試合は夜間のみw)1篇を合わせたカーデュラシリーズ全8篇に、既刊の邦訳短篇集には未収録のノンシリーズ作品5篇を加えた本邦オリジナルの短篇集。
あちこちに分散したり埋もれかけていたカーデュラシリーズを一冊にまとめた完全版は、なんとこれが世界初なのだとか。GJ! 「クライム・マシン」に数篇収録されていたのを読んで以来、この完全版の刊行が、それはそれは待ち遠しかったです。
我らがカーデュラは全身黒づくめの紳士。 仕立てのよい服は幾分くたびれておりますが^^; “暫く陽の光を浴びたことがないような”なまっちろい顔色をしていて、糸切り歯が長くて、故郷の土を入れた煙草入れを持ち歩いていて・・などなど、バレバレの符丁がいっぱい。 カーデュラ(Cardula)という名前も、もちろん“アレ”のアナグラムです。 ただしカーデュラが“アレ”であることは、本文中ただの一言も記されてはおらず、遠回しな状況表現を積み重ねることで、痒いところをコショコショされるようなユーモアが作品中にどんどん充満していく感覚・・ それが絶妙にカーデュラを引き立てるんですよねぇ。
“人間の不実さにほとほと嫌気が差して”しまったカーデュラは、従僕のヤーノシュに「なんて物騒な世の中だろうね」などとこぼしちゃってます^^ “世間一般の印象とは裏腹に”道義をわきまえた正直者なのですが、軽やかに人間の法律を飛び越えて、カーデュラならではの価値観で悪事に制裁を科す超人っぷりが、一つの持ち味にもなっていて、ダークとロマンとウィットの混合物が堪らなく小粋。
そうそう、宿敵、ヴァン・イェルシング三世教授(時代を経て、若干綴りが変わったのかしらw)も登場します。 あとね、カーデュラ流デートの誘い文句に悶絶しました^^ ドライなユーモアとツイストの効いたクライム・コメディ・・ リッチー、好きだよー。 亡くなる年までカーデュラシリーズ書いてたんだねぇ。 もっと読みたかったなぁ。


カーデュラ探偵社
ジャック リッチー
河出書房新社 2010-09 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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唐沢家の四本の百合 / 小池真理子
高原の雪の別荘で繰り広げられるクローズド・サスペンス。 裕福な唐沢家の三人の息子に嫁いだ三人の義理姉妹と後妻の娘。 四人の女性を四本の山百合に喩えて平等に愛する洒落者の義父・・
明るい光に満ちた屈託ない家族の穏やかで幸福な日々に破綻が生じ、やがて引き起こされる惨劇が緊迫感漂う心理劇タッチで描かれていく。
妃佐子が“夫ではなく義父を愛していた”ことが物語の核にあるのだが、妃佐子のモノローグ形式であるにもかかわらず、その事実がわからないように作られているので、ラストでの唐突感が不自然というか、少しばかり納得いかなかったのだ。 見逃してるのだったら自分の読みが甘いだけなんだけども伏線ってあった? 推理小説ではなくサスペンスとはこういうもの?? 妃佐子が事件の一部始終を物語風にまとめた手記と思えばいいのか。 そう思わなければこの小説自体が成り立たないもんな;; いかんいかん ミステリ脳になってしまった
まぁそこはともかく、虚栄心や嫉妬心といった負の感情が、どのように生成され、関係したか、事件の勃発から収束へ向かうプロセスで、描きたかったのは“なぜ?”の要素だけだったと言っても過言ではないと思う。
足の不自由な娘が結局、哀れな存在として描かれているのが、なんとも古風な耽美小説っぽい。 でも、小池さんの描く下々の常識を蹴散らすようなセレブリティな雰囲気や、そんな人々の静かな狂気を孕んだような危うい幸福感はすごく好き。


唐沢家の四本の百合
小池 真理子
中央公論社 1995-09
(文庫)

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吾輩は猫である / 夏目漱石
明治38年発表の漱石の処女長編。 言い回しや比喩表現や・・ 滔々と淀みなく繰り出される文章が軽妙洒脱で、言葉遣いは難しいんだけど読んでて消耗しないし苦痛にならないところが希有。
中学校で英語を教える主人の苦沙弥先生をはじめ、家族や宅を訪れる友人、客人の生態を、ご存じの通り猫がウォッチしているという趣向です。 書斎における“太平の逸民”たちの珍妙な談義の様子や、主人周辺の瑣末な出来事が断片的に物語られていきます。
筋があるようなないような(悪い意味ではなく)非常に散文的で、暴走気味なくらい言語を野放しにしたような小説。 ねぇこれ、日本における滑稽・諷刺文学の最高峰なんじゃないかな・・と、何を今更ですがなるほど納得してしまいました。 終始、ニヤニヤ、クスクス、ケタケタ笑いっぱなしだった。 厭世的な人々も即物的な人々も、もれなく痛烈な皮肉で料理しちゃう超絶センス♪
噂によると古典落語のパロディ的な場面展開が仕込まれているらしい。 知ってたら何倍も面白いんだろうけど、少なくとも、漢籍や謡曲や西洋古典の小ネタを散りばめた、ペダンティックな遊び心旺盛の作品というのは(解らないなりに)窺い知ることができます。 主人が猫目線で小説を書いている・・つまり、苦沙弥先生が「吾輩は猫である」を書いていることをそれとなく示唆している場面があって、何気にメタ要素まで盛ってあるところに擽られた。
創作に行き詰ると鼻毛を抜いて原稿用紙の余白に埋め込んでいたという漱石の逸話は知られるところですが、本編の苦沙弥先生も同じことやってます^^; もっとも、苦沙弥先生は漱石がモデルだし、“吾輩”は夏目家の飼い猫がモデル。 この、胃弱で神経質で偏屈で癇癪持ちで気の小さい苦沙弥先生がどのくらい漱石に近似しているのか、いないのか、その辺の匙加減にも興味をそそられます。
軽佻浮薄でありながら禅問答のような会話遊戯は、どこからどこまでがすっとぼけた茶番なんだか煙に巻かれっぱなし。 ただでさえ、上品さと下品さの定義や対人的距離感が現代とはちょっとしたズレがあるし、フェミ的アンタッチャブル領域に至ってはちょっとどころじゃないズレがあるし;; まぁ、いけ好かない奴ら風情に漱石が描出してるっていうのもあるんだろうけども、この時代の能弁なインテリ文化人たちの社交についていけてない自分を感じつつ、なんとわない明治後期の美風が香って来るような心持ちもして味わい深いのです。 で、猫は、人の営みの外側からそんな彼等を雄弁におちょくり、笑うのである。
本当に、人の愚かさに対する穿ち方が容赦ないです。 冷徹な洞察と諧謔の精神には、イギリス小説の影響もみてとれそうな気がします。 甘さの一欠片も入り込む余地のない自虐性には、些か純度の高いヤバさがにおうほどに自己が自己の外に飛び出しちゃってる感じが正直したんだけど、よくよく考えてみれば苦沙弥先生が漱石のすべてではないのだから、この辺りでも煙に巻かれてしまった恰好です。
だとしても、猫は紛れもなく自分を突き放して見つめるもう一人の自分です。 そして、西欧的、文明的なる個の主張には未来があるのか? という漱石自身の煩悶を迷亭君と独仙君の対話に仮託している向きも見受けられ、その意味では迷亭君と独仙君もまた漱石の深淵に眠る一人格なのかなと感じたりもしました。
自意識の肥大化に対比されるのが古来日本的なる個性の埋没で、どっちにしても自己完結型の思索なのがどこか虚しさを掻き立てます。 エゴイズムを抑制する因子として、もう一つ別のベクトル上に、人間には他者を解りたい、他者と繋がりたいという根源的な欲求があるはずなんだけど、この小説では、あえてすっぽりと抜け落とされていて、そこに高等遊民的発想の限界が示唆されていたのではなかったでしょうか。 徹頭徹尾、遠視眼的な洗練さに貫かれているところに痺れるし、平伏したくなった作品です。


吾輩は猫である
夏目 漱石
新潮社 2003-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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