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三人の名探偵のための事件 / レオ・ブルース
[小林晋 訳] 古典ミステリの埋もれた名品を発掘、再評価する気運に乗じ、90年代になって初めて翻訳紹介された作品のようですね。 訳者が“ミステリグルメのための特別料理”と評した通り、清々しいほどディープな本格ミステリでした。
××シリーズの一作目なのだそうですが、単品として読むと“名探偵は誰?”という付加価値も有していて、そこもまた興趣の一部なので、シリーズ名はあえて伏字にしてみました。 ま、なんとなく・・そこのとこの展開は読めてしまうんですけどね。 そして実際に大当たりだったんですが、全く失望しないばかりか、読み終えた時には会心の微笑が顔に張り付いていたものです。
本作品が発表された1936年は、探偵小説が黄金期から爛熟期を迎えたあたり。 型を創造し、型を極め、そして型を破り・・ あらゆる意味で“型”を意識し続けてきたクラシカル・ミステリの、ひとつの到達点と言うに相応しい作品で、いわゆる「毒入りチョコレート事件」風味の多重解決ものです。 折り目正しく“型”を継承しながら、同時に自らの“型”を諷刺することで、探偵小説の特質を華麗に描破してみせた妙技には、ある種の神々しささえ漂う気がしました。
サーストン医師の邸宅で開かれたウィークエンド・パーティの夜に起こる密室殺人事件。 本格ミステリの確固とした存在原理、共通認識に徹した舞台立てが意図的に披露される中、難事件と聞き付けて、“どこからともなく”手練の名探偵がわらわらと3人ほどやってくるのです。 まるで湧いて出たかのように^^ 1人は執事を伴った青年貴族、1人は小男の外国人、1人は小男の聖職者・・ってこれ、セイヤーズのウィムジイ、クリスティーのポアロ、チェスタトンのブラウン神父をそれぞれパロッた人物造形。 訳者によると、めっぽう芸が細かいらしいのだが自分にはそこまでの素養がないのがさみしい。
この自信家揃いの名探偵たちが、田舎者の巡査部長そっちのけで、3人それぞれに自分の流儀で捜査をして仮説を打ち立て、事件を再構成し、独創的な“物語”を描いてみせてくれる。 そして・・
ワトソン役の語り手が、順繰りに3人の助手を務めながら所感を綴りつつ事件を記録する(正確には回想録)スタイルなのですが、リアル世界ではなく、自分はあたかも本格ミステリ世界の住人なのだと思っているかのような、語り手のモチベーションがなんとも不思議で、この微妙なメタっぽさに擽られるのです。 名探偵たちが“どうしてやって来たのだろうか?”と自問する件などは、声を出して笑ってしまいました。
冒頭、パーティの席上で勃発する2人の登場人物による探偵小説論争がよいフックになっています。 方や“探偵小説は実人生とは何の関係もない事柄でできた下らないゲームだ!” 方や“そこがいいんじゃないか!”と、リングを現代に移しても決着のつかないバトル^^; わたしね、ここでもさり気なくメタを効かせているんじゃないかと思った。 犯人が言い当てられて初めて作者の心憎い手回しに思い当った気がしたのです。 名探偵ばかりが脚光を浴びますが、探偵小説においては、実は犯人こそが芸術家であり、迷宮のごとき華麗なる絵空事のクリエーターなのですよね。 ネタバレのようで申し訳ないんですが、あの論争には犯人(役)に対する労い・・そんな感懐も込められていたのではなかっただろうか・・ひょっとして。


三人の名探偵のための事件
レオ ブルース
新樹社 1998-12 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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暗い鏡の中に / ヘレン・マクロイ
[駒月雅子 訳] マクロイの最高傑作と評される端整な怪奇幻想ミステリが新訳で届けられました。 1950年作、第11長編だそうです。 精神科医ベイジル・ウィリング博士シリーズの一冊。
コネチカット州の女子学院に勤め始めて間もないフォスティーナという女性教師が、理由も告げられずに突然解雇されるという出来事を発端に物語は始まります。
19世紀ラトビアに伝わる“エミリー・サジェの伝説”を再現するかのような、影と実体が錯綜する生霊騒ぎの、その得体の知れない薄気味悪さがページを繰るごとに濃度を増して、妖しく美しく読者を魅了します。
心霊現象? 超能力? 催眠術? それとも合理的な解決に行きつけるのか、行きつけないのか・・ 超常現象に論理の光を当てるというミステリの奥義にしても、扱われている分身モチーフ自体にしても、極めてシンプルでオーソドックスなんです・・が、心の均衡を失っていくフォスティーナに張りめぐらされた心理的伏線の繊細な作用によって、核心部のトリックが全く陳腐なものに感じられないのが凄い。 そして、それこそ禁断の暗い鏡に魅入られたような、どこか陶然とした戦慄と、曖昧模糊とした幻惑感をもたらす読後。
世界を取り巻く物質と現象、肉体と魂をめぐる、心理学や哲学や民俗学を踏まえた知的談義によって、雑念のように誘発されていく憶測や想像は、プロットの肉付けに絶好の役割を果たしていますし、フォークロア的なヨーロッパ古来の迷信に囚われた恐怖の中に、クルチザンヌや魔女など、旧世界の話題が亡霊のように織り交ぜられ、生彩を放っているのも効果的。
パラダイムが急転する戦後間もないアメリカ社会で、焦燥感のような息苦しさを抱え、神秘主義から科学万能主義の間のどの辺りに自分は立てばいいのか煩悶しているかの如き寄る辺のなさが、物語の感度をまた一層高めていたのかもしれません。 現実社会の幻影が心理的基調として根底に貼りついているような・・
部屋に配置された装飾品や調度品、登場人物の姿形や衣装の描写は気品に満ちていて、また、神経質なほど微に入り細を穿ち、世界がこちらに浸透して来そうなくらい彩度や質感を際立たせているのですが、もしかすると、手を替え品を替え繰り出される形容表現は、伏線のカムフラージュの役割も果たしていたのかも? とりわけ、わたしは“匂い”の道具立てが印象的でした。
濃紺の夜空を背景に透かし絵のように耀くビルや、摩天楼の群れに薄っすら被さる白い朝靄、入り乱れながら汚れたアスファルトの路面を光で濡らすネオンサイン・・ 一番街、パーク街、マディソン街、ブロードウエーなど、1950年当時のニューヨークの街頭風景が活写され、遺伝子に組み込まれてもないくせに、心地よいノスタルジーに溺れてしまいそうでした。


暗い鏡の中に
ヘレン マクロイ
東京創元社 2011-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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はやく名探偵になりたい / 東川篤哉
“もう一息で名探偵”の鵜飼杜夫と、“あと一歩で探偵”の戸村流平コンビによる烏賊川市シリーズ初の短篇集です。 今回は初期キャラ2人だけの登場です。 朱美さんが不在なので戸村くんフル回転ですね。昔はこんな感じだったんだけっけ?
常連の刑事コンビも不在で、かなり削ぎ落とされてる印象。 とにかくも安定の楽しさ! 創意を凝らした堅実なミステリです。 ゆるい顔してさ、トリックの奇抜さと構築力の冴えには感心させられることしきり。
やっぱ東川さんはトリック職人だよなぁって、こうやって短篇読むとしみじみ思う。 ストーリーの肉付けが薄い分、華ある物理トリックの品評会みたいで、まぁそこは好みが分かれるところかと思うけど、「時速四十キロの密室」や「雀の森の異常な夜」みたいな稚気溢れるトリックにはワクワクさせてもらった。 「七つのビールケースの問題」は、点を線にしていくパズラー的作品で、これも巧いんだよなぁ。
一番のお気に入りは「藤枝邸の完全なる密室」。 大好きな古畑任三郎の風間杜夫さんの回を思い出す! 鵜飼探偵の人を食った性格がよく現れてます。 どんでん返しと言っていい鮮やかな展開もしっかり伏線があってニヤっとさせられるし、スマートな解決が皮肉なオチとなる見事な構成でした。
ミステリなので死体は出てきますが悪意は少なく、ユーモアミステリの面目躍如たる短篇集かと思います。 でも、なんて言ったらいいんだろう。 逆に座りの良いの“悪意”が介在せず、その上、エモい空気を殊更に漂わせないからこそ、仄かに生まれるほろ苦さもあるんだよね。 鵜飼探偵が(ギャグ以外の)感情を面に出さないキャラなところも、それがハマるといい短篇になる。
ラストの「宝石泥棒と母の悲しみ」のみ人死なしの一篇で、映像にできない系(笑)のトリックと、キュン死しそうなキャラのハーモニーが憎いかぎり。 「藤枝邸の完全なる密室」以外、鵜飼探偵がほぼほぼ名探偵なのがちょっと不満なくらいで、まぁ、そこは今後の迷走に期待します。



はやく名探偵になりたい
東川 篤哉
光文社 2011-09
(単行本)
★★★
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ノーサンガー・アビー / ジェイン・オースティン
[中野康司 訳] 1798年頃に書き始められたものの、出版社との紆余曲折をはじめ、諸々の事情が重なり、作者の死後1817年に「説得」と合本の形で発表されたそうです。 後々の推敲の跡があまりなく、オースティン作品の中で最も若々しいと評されています。 (まだ読んだことないんですが)ヒストリカル・ロマンスってこんな感じなのかなぁ? と思わせてくれる。 往年の少女漫画を彷彿とさせる世界観が広がっていてトキメキが止まりませんでした。 実際、“ラブコメの元祖”との定評があるらしい。 納得です。
中産階級の田舎の牧師一家でのびのびと育った17歳の平凡な娘、キャサリン・モーランドが主人公。 世間知らずで純情なキャサリンが経験を得て、内面的な成長を遂げるという普遍性を有した物語であり、試練を経て、思いを寄せるヘンリー・ティルニーとの結婚に辿り着くまでを描いた王道のラブストーリーでもあります。
無論それだけではなく、一世を風靡したゴシック小説のパロディになっていたり、財産重視か愛情重視かによる結婚観の対比であったり、社交的な因習への皮肉であったり、善と悪が混在する人間性の描写であったり、散りばめられた先行小説の引用であったり、当時は軽視されていた“小説”に対する作者の愛情表明であったりと、主題ともいうべき様々な醍醐味がひしめき合っているのです。 しばしば作中に作者が顔を出し、補足したり釈明したり主張したりと弁舌を振るう“語り”の手法も、逆に新鮮で面白かったなぁ。
二部構成の作品で、まず第一部では、シャペロン(付き添い役)の地元の名士アレン夫妻とともに、キャサリンは垢抜けた温泉保養地バースに滞在することになり、滞在中のエピソードが綴られます。 社交場での舞踏会の様子や、知性と教養に溢れ、ウィットに富み、やがてキャサリンを導く指針となる青年ヘンリーとのときめく出会い、軽薄で派手な美しい娘イザベルとの熱に浮かされたような友情、勘違い男のイザベルの兄ジョンとのトラブルなど、田舎娘の初々しい社交デビューの経緯が、享楽的な都市小説風に展開されるとともに、慣習を無批判で受け入れる浮薄な世間に流されそうになりながらも踏みとどまり、良い感化を与えてくれる人物を見極めるヒロインの、育まれていく自主性が刻印されています。
そして第二部では、ヘンリーの父であるティルニー将軍の招きで、キャサリンはティルニー家の邸宅、グロスター州の“ノーサンガー・アビー”に滞在することになります。 古い修道院を改装した由緒あるお屋敷に、バース滞在中に読み耽っていた、ラドクリフ夫人のゴシック小説「ユードルフォの謎」の舞台を重ね合わせ、心躍らせるキャサリン。 一時は根拠のない怪奇的な妄想の虜になって恥ずかしい失敗をしでかすものの、ヘンリーの啓蒙により、常識の光に照らされて理性の世界に引き戻されるのですが、この、ゴシック小説の世界へ踏み迷ってしまうキャサリンの行動の喜劇性はとても印象的。 更にヘンリーの妹エリナーとの落ち着いた真の友情や、イザベルとのごっこのような友情の破局が描かれ、クライマックスにはティルニー将軍の心変わりによる酷い仕打ちが待ち受けます。
財産と愛情の対決の構図にもなっている父と息子の宿命的対決を経て、愛情の勝利が謳われるラスト。 ネタバレで申し訳ないんですけど、実家に篭り悲しみに沈むヒロインの元へ、ヒーローが駆けつけ結婚を申し込むという王道パターンは、いくつになっても乙女心を擽ります。
当時の女性は、男性からの告白後に恋に落ちることが美徳とされていたそうなのですが、この作品はまずキャサリンが恋に落ち、その思いを感じ取ったヘンリーが、徐々にキャサリンに対して愛情を募らせていくという図式になっていて、常識を裏返した型破りな恋愛観が意図的に表現されているんですね。 芯をしっかりと持ちながら、新しい価値観を創造していくオースティンのかっこよさが時代を超えて伝わってきます。



ノーサンガー・アビー
ジェイン・オースティン
筑摩書房 2009-09
(文庫)
★★
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名探偵なんか怖くない / 西村京太郎
初版刊行は1971年。トラベルミステリーの大御所、西村京太郎さんが著した初期の快作です。 なんとメタ本格ミステリ
日本人のある資産家が、警察の手にも負えない三億円事件を解決しようと私財を投げ出して模倣の事件をお膳立てし、狂言回しさながらの犯人の青年がどのような行動をとるか、クイーン、ポアロ、メグレ、明智小五郎の四人の名探偵に観察、推理させるという趣向。 老境に入ったとはいえ、今なお頭脳明晰、教養豊かな名探偵たちが東京に集い、競演する夢のようなシチュエーションを実現させてしまった作品
三億円事件は言わずと知れたセンセーショナルな昭和の未解決事件。 1968年12月10日に実際に起こった“現実”の事件です。 名探偵たちが解決してきた事件とは“次元の違う”事件を彼らは解決できるのか?!
舞台となっているのは三億円事件の二年後かそこいらで、まだまだ巷でも三億円事件がホットな話題として取り沙汰されていた時期なんじゃないでしょうか。 タイムリーな要素に、黄金期探偵小説のパロディ要素を掛け合わせ、とてもキャッチーな作品に仕上げているなぁーという印象です。 でも当時はまったく売れなかったんだって いやいやなんのなんの、2006年、新版出ましたから! 何気に息の長い作品になってますって
パロディといっても、アンチものではありません。 例えば「三人の名探偵のための事件」のように、本格ミステリそのものを揶揄するような皮肉なテーマ性はなく、純粋に往年の名探偵たちへのオマージュであり、正攻法の本格ミステリなのです。
名探偵たちの立ち居振る舞いや性癖や思考回路、解決してきた事件のあれこれと、小ネタが盛りだくさん。 古典ファンであればあるほどニヤニヤできると思います。 そのぶん、色々と全方位にネタバレありますので注意を要しますが、まぁ、わたしの場合はすぐ忘れるから無問題。 つか、冗談抜きで昔の小説は結構これがデフォなのですよ 西村さんばかりが悪いわけじゃないのです
新版の巻末には綾辻行人さんとの特別対談が収録されています。 この名探偵シリーズは、「名探偵が多すぎる」「名探偵も楽じゃない」「名探偵に乾杯」と4作続くそうです。 因みに綾辻行人さんは「名探偵も楽じゃない」が、西村京太郎さんは「名探偵に乾杯」がお気に入りなのだとか。 西村さんは特にメグレがご贔屓らしい。 確かに、読んでいて作者のシンパシーを一番感じたのがメグレでした。納得 豆情報ですが「名探偵に乾杯」は、クリスティの「カーテン」を読んでからがおすすめみたいです。


名探偵なんか怖くない
西村 京太郎
講談社 2006-07
(文庫)

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殺人交叉点 / フレッド・カサック
殺人交叉点
フレッド カサック
東京創元社 2000-09
(文庫)
★★

[平岡敦 訳] 愛のもつれから男女二人を殺害してしまった犯人は、捕まることなくまんまと逃げおおせたのですが、時効寸前に思わぬ落とし穴が待ち受けていて・・
犯人と被害者の母親の独白を交互に配する手法のテンポのよい中篇フレンチミステリ。 初版は1957年。 本篇は1972年の改稿版で、フランス・ミステリ批評家賞を受賞しています。
(豆ですが)著者による覚書によれば、執筆において核心部のトリックは後付けだったらしいです。 また、訳者あとがきによれば、フランス語でこの仕掛けをやるのは至難の業なんだそう。へぇ〜そうなんだ。
“サプライズエンディングの傑作”と銘打たれていたので、自ずと警戒心が高まってしまい、かなりわかり易く感じました。 最近、ミステリ読みがちなのもあるかも。 時々はトリックを見破れるというご褒美もミステリを読む愉しさの一部です。
もちろん、トリックがわかってもストーリーがわかるわけではないので、興が削がれることはなく、“そう”思って読んで違和感ないかどうかをニマニマしながら答え合わせしつつ、ラストはどう着地するんだろうとワクワクし通しでした。 実は「百合」だったってパターンだなコレ・・と勘繰りすぎて外したんだけど(笑)。
文章が平易で簡潔で(仕掛け上そうなるよね)、プロットもそつがなく、とてもシャープで読みやすい作品です。 “太陽のせい”は「異邦人」のパロディでしょうか(笑)。
併録の「連鎖反応」にもソネ警部が登場するので、無理やり連作と言えなくもない。 犯人の直属の部下が、後に事件のあらましを再構成して綴ったという体裁の、組み立てもオチも見事なブラックユーモアの快作!
2作とも、登場人物の相関図をミステリのプロットにパズルのように組み込むのが上手いです。 どちらもバッドエンドではあるんですが、ショートショートのような鮮やかさがあって、アイデアの勝利に喝采を送りたくなるエンディングです。
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モンタギューおじさんの怖い話 / クリス・プリーストリー
[三辺律子 訳] 木々が葉を落とした寒い森と、牧草の伸びた放牧地を抜けて、変わり者の老人、“モンタギューおじさん”の住む丘の上の小さな家へ、怖い話を聞きにやって来るエドガー少年。
悪魔を象った版画、中身のない金の額縁、真鍮の望遠鏡・・ 洞窟のように暗い書斎に、所狭しと飾られた風変わりな品々は、それぞれに痛みや恐怖に共鳴した物語を持っていて、モンタギューおじさんは、そんな望まれぬ品々のコレクターのだという。 いわくありげなモンタギューおじさんの口ぶりに、半信半疑になりながらも、呪われた品々にまつわるお話をせがまずにはいられないエドガー少年。
児童書コーナー本ですが・・容赦ないです。 オカルト的な怖さもですが、それよりむしろ、上質な心の闇系ホラーとして、大人が読んでもなんら遜色ないと思ったし、わたしなぞは、些か子供が読むには苛酷すぎやしないかと心配になったものです。 でも、大人が思っているほど、“子供騙し”は子供に通用しないんですよね。
教育や愛情をはきちがえた大人が、子供を軽んじ、本気で接しようとしなければ、子供はそれを敏感に察知し、大人を馬鹿にし、反感を強めていく・・ そんな悪循環の中に放置され、疎外感、孤立感を深め、生意気になっていくしか術のなかった不幸な子供たちが、モンタギューおじさんが語るお話の中の主人公なのです。 そして、お話に耳を傾けるエドガー少年自身の家庭的背景にも、おぼろげながら同種のニオイが嗅ぎとれて、得体の知れない呪縛の餌食になってしまったお話の中の子供たちがこちら側に浸潤し、エドガー少年とオーバーラップしていくような不穏な圧迫感が、じわじわと募っていく・・
一見、古典的でモダンな怪奇幻想の風合いを凝らした不条理もののようでいて、実は“魂の死”にも通じる、とても根深い社会病理を潜ませている辺りが特徴的かなと思いました。 もし、自分が子供だったらどんな読み方をしていただろうかと、好奇心をそそられます。 今読むと、“子供を侮る大人への警告”のような響きの方がより強く感じられて、そちらに気を取られて素直にアンティークな怪談の恐怖(完成度が高い!)を満喫できなかったのが、それはそれでちょっと残念に思いました。 個人的な好みは、「ノボルノ、ヤメロ」「剪定」辺り。
不遜、残酷、虚無、絶望、善意や良心の名残の非力さ・・ 読み進めるうちに心にどんどん負荷がかかって、暗澹とした気分になりかけましたが、やはりそこは流石です。 連作長編として、きちんと着地点が用意されていました。 「迷える子供たちの御魂の守り人、あるいは鎮魂のような役割が、モンタギューおじさんの贖罪」なのだと思えた時、そこにささやかな救いと安堵と、幾ばくかの甘やかな哀しみを感じることができました。
本当は怖いのに、怖がってなんかいないんだと自分に言い聞かせて強がってみせたり、ジェットコースターが頂点まで上がってしまってから、やっぱり怖い! と思う時の心境だったり、水を流す音が怖くて、その音に追い立てられるようにトイレを飛び出した記憶とか・・ エドガー少年の内面を追いながら、自分の子供時代を懐かしく思い起こしたなぁ。 デイヴィッド・ロバーツ氏によるちょっとゴーリー風味の挿絵が好き♪


モンタギューおじさんの怖い話
クリス プリーストリー
理論社 2008-11 (単行本)
関連作品いろいろ

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