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レーン最後の事件 / エラリー・クイーン
[鮎川信夫 訳] 悲劇四部作のラストを飾る精華というべき作品。 結末の着想から逆算してシリーズを構築したに違いないと勘ぐりたくなるような用意周到さに喝采を送りたい。
虹色の髭を持った異様な風体の怪紳士が、サム元警部の探偵事務所にやって来て、“百万の値うちの秘密”の手掛かりとなるらしい一枚の封筒を曰くあり気に預けていく。 なんとも調子っ外れな幕開けなのだが、実に、シェイクスピアの稀覯書をめぐって愛書家たちの思惑が錯綜する殺人事件への序曲なのだった。
おとぎ話の中にでも転がり落ちたみたいに珍妙で、ユーモラスないきなりのシチュエーション。 謎要素の盛り方に並々ならぬ稚気を発揮した本格風デザインに血が騒いでしまいました。 愛娘ペーシェンスと青年学者ゴードン・ローの急接近にヤキモキするサム元警部の図など、スラップスティック喜劇調とさえ言えそうな軽快さで進行していく中盤、古文献探求のロマンを孕みながらも、どことなく地に足つかぬような浮遊感と、ヴェールのかかったような朦朧感。 全ては音を立てずに忍び寄る抗し難い終局のための麻酔薬だったのかも。
緻密なパズルミステリのパートはもれなく今回も堪能できました。 謎解きに用いられる二連発の五感系推理で、前者を後者の暗示のように働かせているのが秀逸。 確信の二発目は犯人の特定に及ばないと思うのだけど、限界を心得て読むに足るインパクトの勝利。 余談ですが、サム元警部による暗号解読、“からしつきハムネット・セドラー三人前”がお気に入り♪
なんだか・・ まるでシェイクスピアその人がレーンに憑依したみたいな。 裏ストーリーが実はシェイクスピアの復讐譚だったのではないかと思えるほどの、狂気の、迫真のカタストロフ。 あの数瞬、レーンはシェイクスピアのマニプレーターだったのでは・・ まぁ、自分流の願望的解釈なんですけど。 犯人像が浮かび上がった時、鳥肌が立ちました。
戯曲ではないのに、戯曲を読んでるみたいな不思議な感覚にとらわれるのは、レーンがシェイクスピア悲劇の主人公と同化して、現実が舞台に見え始めるからなんでしょうね。 X、Y、Zと順を追って輝きを失ってきたレーン。 穿った読み方なんですが、シリーズ通して往年の探偵小説の斜陽が描かれていたんじゃないかと、“悲劇”の正体を想うとき、どうしても頭の隅を過ってしまうのです。 本編は明らかに、ロマンスあり、サスペンスあり、ハードボイルドありの、新時代探偵への国譲りを意識させる作品だったと思う。 叡智のレーンは自分が“探偵役”であることを知っていたのかも。 誇り高き全美の“名探偵”が現実社会という舞台で生きられる存在ではなくなりつつあったことも。 彼は、過渡期に差し掛かり黄昏る名探偵像を一身に具現して去った“名優”であり、時代が課した運命の毒盃を陶然と飲み干したのだと、そんな余韻が残った。


レーン最後の事件
エラリー クイーン
東京創元社 1959-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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Zの悲劇 / エラリー・クイーン
[横尾定理 訳] 四部作を起承転結になぞらえるとすれば、まさしく“転”に位置づけできそうな三作目。
X、Yの事件から十年の月日が流れています。 ともに事件を追ってきたサム警部はニューヨーク刑事局を退職して私立探偵に転身ているし、ブルーノ地方検事はニューヨーク州知事に栄進し、広く人望を得ています。 レーンはといえば、壮年と見紛うばかりだった若々しさは見る影もなく、“びっくりするほど年をとった老人”へと変貌しています。
特筆すべき点は、探偵実習生的ポジショニングでサム元警部の娘ペーシェンスを起用し、老探偵レーンとコンビ組ませたところ。 本作は、この、狂言回し的役割を演じる若く利発で生意気な小娘ペーシェンスの回想録という体裁を成しています。
舞台となるのはニューヨーク北部、丘の上に灰色の巨像のような州立刑務所が聳え立つ小さな田園都市リーズ。 上院議員選挙が間近に迫ったある日、悪評高い候補者が何者かに刺殺されます。 出所したばかりの元囚人の冤罪を晴らし、真犯人を突きとめて死刑執行を回避できるのか・・ タイムリミット・ミステリ。 “Z”は犯人の残した手掛かり解読キー。
謎解きプラスアルファが求められていることを意識しての作品なのではないかと思います。 サスペンスタッチのスピード感や、ドラマ的要素が取り入れられ、良くも悪くも現代的エンタメの手法。 新時代のフェミニズム感覚を前面に押し出している辺り、当時なら、今とは比べものにならないくらいには新鮮味を持って受け入れられたのではないでしょうか。 その一方で、冤罪者にはどこか、封建時代の名残りであるところの悲しいほどの無知を連想させられたり、思わぬ結末に対するペーシェンスの感慨に露呈するような人権思想の未成熟さが意図的に盛り込まれていたり、時代の光だけではなく影をも色濃く刻んでいます。
とは言っても、見せ場はやはり真打ちレーンの謎解き。 老いてなお名探偵の座を明け渡すことはありません。 行動的ウェイトをペーシェンスにシフトした分、確かに一歩奥へ退いたように映るんだけど、存在感が薄らいだ印象はあまりないんだよね。 推理の進捗は小出しにされずキリギリまで韜晦趣味を利かせ、事実の裏付けが出揃うラストで一気にたたみかけるやり方はこのシリーズの(あるいはクイーンの?)特徴のようで、バラバラのピースが瞬く間に一つの絵を作り出す、その手品のような鮮やかさは時の磨耗を超越し、今なお愛好家を魅了してくれます。 ただ、今回は仮説の証明にとどまったというか、その域を超えてはおらず、確証を自白に頼ってしまったところがイマイチとされる要因の一端なのかもしれません。 でも、クイーン自身自覚していて、その弱点を補うと称し、劇的な舞台作りに利用しているところが巧妙ですし、あるいは完全無欠とはいかない推理が生気を失っていくレーンを表現する織り込み済みの作戦といった含みがあるのだとすれば魂胆が深いですね。
レーンの(外見の)衰えに触れて、ペイシェンスがいみじくも、“十年の歳月が如何に過酷なものであったか”と、想像しているのですが、Yのあの結末から十年、レーンが何を思い生きてきたか、本当は何を考え、どんな心境でいるのかが、ペーシェンスの一人称による手記のため、全くわからなくて、なんとなく不安になるのです。


Zの悲劇
エラリー クイーン
新潮社 1959-10 (文庫)
関連作品いろいろ

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Yの悲劇 / エラリー・クイーン
[大久保康雄 訳] 「Xの悲劇」に次ぐドルリー・レーン四部作の二作目。 ワシントンスクエアの大富豪、“マッド・ハッター”と揶揄される悪しき血に呪われたハッター家に襲いかかる惨劇。 ニューヨーク市警のサム警部とブルーノ地方検事の要請で事件解決に乗り出すレーンを待ち受けていたものは・・ タイトルの“Y”はイニシャル。
代表作に推されるくらい評価が高いらしいんだけど、うーん;; Xの方が好き。 こういうセンチメンタルな幕引きは嫌だなぁ、と重い後味を引きずるくらい、推理の楽しさに集中できなくなる雑音が多くて、自分には不向きな作品でした。 ただ、レーンのダークな解決法に思いを馳せる時、現在とは科学的に異なる見地に立つ時代の道徳観をそのまま現在に引き写して論じることはできない、と、そこは熱烈に擁護したいです。 むしろ精神疾患と犯罪の問題に一石を投じた一つの寓話として価値を見いだせる素地を持った作品ではないかと。
純粋推理ものだったXとは違い、“探偵の心情”というところにもかなりのウエイトが置かれ、社会派を先取りするような問題意識さえ内包している分、Xのような本格ミステリらしい外連味や茶目っ気は抑えられています。 でも、論理のジグソーパズルのような推理パートは健在で、そこは十分に満喫できました。 館ミステリであると同時に見立てものの変形ヴァージョンですが、この趣向は今日でも様々派生しながら進化し続けてるんじゃないかな。 二重三重に張りめぐらされ、複雑に縺れた腑に落ちない疑問や矛盾を解き明かし、一本の道筋をつけていくレトリックには、ならではの冴え冴えとしたキレを感じます。 論理ミステリで“意外な犯人”を導き出すという高いハードルを確実にクリアしています。
はー、それにしても。 犯人に対して下したとある決断が、レーンに深い闇を背負わせてしまいました。 クイーンが本格ミステリで“人間の苦悩”をどこまでやりたいと思っているのか知らないけど、この悲劇四部作をシェイクスピア悲劇とシンクロさせる狙いあってのシナリオなんじゃないかと推測したくなります。 Xでは無慈悲なほど超然とし、“神のごとく”完全無欠だったレーンが、法と正義の狭間で“人間として”呻吟し、自問自答し、霧の奥深くへ迷い込んでしまいました。 役ではなく実世界そのもので、レーンはだんだんシェイクスピア悲劇の主人公じみてきてるんですよね。 シェイクスピア劇の名優=往年の名探偵として、暗に名探偵の在り方を論じている節もあり、推理天国から論理では解読できない不条理な地上へ引き摺り下ろされつつある名探偵の宿命を投影しているシリーズなのかも・・と感じたりしている。
舞台人としての名声の絶頂にあったとき、彼は、おびただしい賛辞と、それと同じ程度の嘲罵を浴びた。“全世界を通じて劇壇の第一人者”といわれるかと思うと、“この驚異に満ちた現代で、なお虫食いのシェイクスピアにとりついている敗残役者”ともいわれた。しかし、彼は、これらの賛辞と嘲罵を、いずれも平然と聞きながし、行くべき道を知り、いるべき場所を知っている芸術家としての態度を崩さなかった。彼の不動の抱負と貴い天職を果しつつあるとする無言の信念とは、新興芸術に毒されたいかなる批評家の毒舌も、これをゆるがすことはできなかった。では、なぜ彼はその名声の頂点でふみとどまらないのか? なぜ余計なことに頭を突っこむのか? 悪を追及し、悪を裁くのは、サム警部やブルーノ検事のような人たちの仕事ではないのか。悪? 純粋な悪というものがあるだろうか。悪魔でさえ天使とはいえないだろうか。いるのはただ、無智な人間と、ゆがめられな人間、それから不幸な運命の犠牲者だけではないのか。
そうした疑問に責められながらも、彼は真実を探求し真実を確認するために、そうした疑問を頑固に払いのけて、死体公示所の階段を、力なくのぼっていった。


Yの悲劇
エラリー クイーン
新潮社 1958-11 (文庫)
関連作品いろいろ

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Xの悲劇 / エラリー・クイーン
[大久保康雄 訳] バーナビー・ロス名義で1932年に発表された作品で、言わずと知れた悲劇四部作(これもシェイクスピアへの目配せなんでしょうね・・)の一作目。 同時期、エラリー・クイーン名義では国名シリーズを執筆中。 評価の高い初期に書かれたパズル指向の傑作です。
ニューヨークを走る満員の路面電車内で発生した、ウォール街の株式仲買人毒殺に端を発する一連の事件を、元シェイクスピア劇の名優にして頭脳明晰なドルリー・レーンが鮮やかに解き明かします。 路面電車で幕が上がり、渡船、鉄道列車と、大都市の交通網を舞台に設えた殺人劇。 ニューヨークの活気が極上の背景を提供しています。
ハドソン河畔の断崖に聳り立つ城郭のような大邸宅、エリザベス朝の荘園を模した舞台美術さながらの“ハムレット荘”に隠棲し、失った聴力を補う驚異の読唇術を発揮しつつ、シェイクスピア戯曲の深い理解に基づく人間観察力やセリフに込められた警句の引用で周囲を瞠目させる、このペダンティックな老探偵キャラも然ることながら、犯人の狡智っぷりがこれまた至妙の域。 変装対決までかましてくれるサービス精神がさまになっちゃうんですよねー。
クイーン初読みでしたが、古典本格爛熟期のマニエリスム的な色艶がなんとも。 外連味を醸しつつも実社会と半ばコミットし、真正面から書かれた本格ミステリの最後の宴のような突き詰めた輝きを感じます。 一見変わらないようでありながら、いわゆる新本格というのは、ここから360度ツイストされて斜め上的異次元世界で繰り広げられているんじゃないかと、そんなことを思った。 と同時に、日本の新本格の作家さんたちがクイーンの血を色濃く受け継いでいることを疑う余地なく実感したり。
ストーリー構成と推理の展開が歯車のように噛み合った謎解きの醍醐味をお腹いっぱい味わいました。 タイトルの“X”は、被害者の一人が遺したダイイング・メッセージに依拠しているんですが、推理的にはあくまで傍証として(余興として)採用された趣向であるところが小洒落ています。 パロディとしてしか使いものにならないとかバカにされるけど、創始にしてこのウィット♪ また、一説によると、陳腐に感じられるまでに追随され普及したフーダニットのとある手法(本編では一応メイントリックになるのかな?)が初めて用いられている作品でもあるらしい。
だけど本領が発揮されているのはそこではないのです。 推理の突破口となる目のつけどころや、そのヒントとなる手がかりの提示の仕方や、アンフェア回避のための周到な手回しや、論理の破綻を防ぐための予防線の張り方など、だからこうしたのね! といちいち納得できる筋道の緻密さ、論拠が恣意的であったとしても呑み込んで腑に落として余りあるだけの確固たる演出力と語りの巧妙さ・・ それらが形造る総合的パズルの完成度こそが傑出しているのです。
シリーズの結末を訳者解説でバラされてしまいました・・orz いっそ一気に読みたくなったので、ま、いいや。 新潮文庫の旧版ですがお気をつけください。 ってまぁ、改訂版や新訳やいろいろ出てますので今更手に取る人も少ないのでしょうけど、これ、訳者さんが特別ヒドイんじゃなくて、昔は昨今のようなネタバレマナーがなく、総じて無頓着だったんですよね。 古いミステリ本の解説は用心するのが鉄則です。 豆知識。


Xの悲劇
エラリー クイーン
新潮社 1958-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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特別料理 / スタンリイ・エリン
[田中融二 訳] 巧緻な傑作としてレジェンドを打ち立てた処女作「特別料理」他、全10篇を収めた第1短篇集にして、“クイーンの定員”に指定された珠玉作品集。 クイーンその人が序文を寄せていて、エリンにまつわる打ち明け話、こぼれ話を披露したりと名調子を振っているというプレミア付き。 奇妙な味のクライム・ストーリー的なジャンルや、EQMMでの活躍など、ロバート・トゥーイと重なる部分が多いと思うんですが、なんと対照的な。 トゥーイ好きのわたしは、こんなにも輝かしい栄光に包まれているエリンについ嫉妬・・><。
「特別料理」のみ既読でしたが、改めてこの香り立つノワールな空気を堪能しました。 一つ一つ緻密に計算し、吟味し尽くされた言葉から発せられる意味深長なニュアンスが、会話の端々に期せずして含蓄される皮肉となって否応なく読者を魅了する叙述の妙味・・ 何度読んでも素晴らしい。
根源的な発想も然ることながら、2人の紳士客とチェシャ猫のような異相の料理店主という人物設定まで・・ エリンはもしや何処かで触れる機会があったの? って勘繰りたくなるらい、無性に賢治の某作品が想起されるのですが、当然ながらこの類似性によって「特別料理」という作品が貶められる感覚は皆無です。 強いメッセージ性を宿した賢治の童話的色彩が、エリンによって都会的で洒脱なホラーへと蘇ったような・・ ま、そんな気がするだけなんですけども^^; だからこそ、その偶然の好対照をなんだか嬉しく感じたりしている。
全ての作品において、洗練された文章のセンスと、明晰かつ精緻なディテールがずば抜けています。 緊張の密度が濃く、完成度が高く、読み応えがありました。 特に、芝居とも現実ともつかぬカラクリの中に幽閉される「パーティーの夜」がお気に入りの一篇。
経済的、あるいは精神的安定への欲求に餓えた人々が、“社会的通念”の範疇を気づかぬうちに逸脱して、病的な執着や歪んだ生き甲斐に取り憑かれ、回避し難い結論に向かって盲進してしまう狂気・・ 社会生活の小さな歪みに虫眼鏡を当ててじっくり観察されるような怖さというのかな。 彼らのような特徴の一端は誰でも持ち合わせていることを突き付けられる不安や不気味さなのかな。 上質なサスペンスであると同時に啓示的な深みを感じる作品集でもありました。


特別料理
スタンリイ エリン
早川書房 2006-07 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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