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シンデレラの罠 / セバスチアン・ジャプリゾ
[平岡敦 訳] うわー。 このアンニュイな優雅さは、雰囲気だけで二重丸。 フランスミステリって殆ど読んだことないくせに、これはフランスミステリ以外のなにものでもないわ! とかなんとか叫び出しちゃいそうな様式美(っぽさ)が匂い立つ作品でした。 サスペンス仕様ですが、でも素顔は、尖んがりまくった本格ミステリの感触でした。
“私は、探偵であり、証人であり、被害者であり、しかも犯人である” これは、1962年の刊行当時から今に伝わる有名な惹句。 オールタイムズ・ペストに選出される色褪せない古典ミステリ。 その新訳です。 一度読んだくらいで消化できるようなタマではありません^^;
南仏のカデ岬の別荘滞在中に火事で顔と手に大火傷を負い、一命を取りとめた娘と、焼死した娘。 ミシェル(ミ)とドムニカ(ド)の2人は背格好も髪の色も同じ幼なじみでした。 生き残った“わたし”は記憶を失い、真相は闇の中に。 皆は“わたし”をミだと認識しているが本当にそうなのだろうか? なぜドでないと言えるのか? やがて徐々に、互いが互いをミドラ伯母さんの遺産相続人だと思い込んでいたことが明らかになり・・
外面的には動かし難い結末があるにもかかわらず、当事者さえも分らない真相が眠り続ける不穏な予感に牽引され、ぐいぐいページを繰ってしまうんですが、読めば読むほど霧は深く、掴んだかと思えた次の瞬間には、するんと手からこぼれ落ちていく真実・・
過去の風景を寓話のように綴った第一章で、すでにこの本の虜にさせられてしまいますが、読み終えた後も、あの導入部分にどんな暗示がなされていたのか、ラストとのシンメトリーをどう解釈すればいいのか、そもそも解釈するべきなのか・・ 薄明かりの中を手探りするような宙ぶらりんのもどかしさが募るばかり。 深読みすればきりがない底無し感、果実を与えぬまま放り出す釣れなさ、狐疑逡巡の果てしない繰り返しで幕を閉じるのが魅力といってもいいんでしょう。
しかし、訳者さんが指摘しておられたように、“真相なんかどうでもいい”というスタンスなのではなく、“中吊り感も含めて精緻に計算し尽くしてある”という印象をわたしも抱きました。 そこに本格ミステリのスピリットが仄見える気がするのかも。
時系列をランダムに行きつ戻りつする薄靄の中の脳内映像と、視点や思惑によって歪められる記憶の継ぎ接ぎ・・ その相乗作用を加速させ、眩暈を誘う罠を巧妙に仕掛る作者の魂胆が損なわれないように、テクストに拘った訳を心がけられたという新訳は好評のようです。
心理サスペンスとしても美味。 表面的には遺産相続の話なんですが、ミとド、そして2人の影に纏わりつくジャンヌ。 三人の女性たちの屈折した愛のもつれ、共依存的な錯綜が底流にあって、それがあからさまにではなく、覆われたヴェールからちらちらと透けるように映し出されています。 ここにも、想像で補う余白が読者を魅了するもうひとつの構図を見出すのです。
この物語の行間を埋め尽くした種明かし本を書いたら平気で5倍くらいの長さになりそう。 もちろん種明かされ方は千差万別でしょうけれども。 ちょっと読んでみたいかも・・無粋を承知で。


シンデレラの罠
セバスチアン ジャプリゾ
東京創元社 2012-02 (文庫)
関連作品いろいろ

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黒い玉 / トーマス・オーウェン
[加藤尚宏 訳][副題:十四の不気味な物語] オーウェンはベルギーの幻想派作家。 本書は、1980年に本国で出版された(著者の代表作を集めた)幻想小説選集所収の三十篇の中から十四篇を訳出したもので、残りの半分は対となるもう一冊の「青い蛇」に収録されているようです。 日本オリジナル版は二冊組で刊行された格好ですね。
粒揃い。 短篇というより掌篇に近く、ラスト数行に凝縮される毒とウィットの巧妙さも然ることながら、サイコとオカルトが渾然となった、圧し掛かるような胸苦しさ、不気味さが独特のオーラを放っている。 舞台は、50年代から60年代頃? 或いはもう少し前? ちょっと古めなのがよい♪
なんだろう・・この感じ。 「ねじの回転」が頭を過りました。 モダンで重厚な雰囲気はヨーロッパ怪奇小説の流れをしっかり汲んでいて、そこに近代的な心理学の綾が絡みついてきて、いったい何が本当なのかわからなくなってしまう怖さ。
超常現象は起きたのか? それとも起きなかったのか? 主人公のパーソナリティが混沌としてきて、いつまでもそこに停滞し逡巡していると、この倦んだ世界観に眩惑され骨まで溶かされて、それこそ、読んでるこっちが得体の知れない何かにトランスフォームしてしまう(あるいは既にしている)んじゃないかというようなアブナイ錯覚に陥りそうでゾワゾワと寒くなります。
序文の中で著者は、次のような文章を残しています。
中身をくるむ言葉はどうでもよい。ただその中身が、秘められた心の奥から、他人の頭や心に入っていくということである。これこそがわたしの味わう喜びなのである。読者をわたしの共犯者にし、意識の闇の十字路まで案内し、そこに読者を置き去りにすること、それである。
吸血鬼とぐるになった読者が、自分流に今度は、黒い闇の光の新たな伝達者となるかもしれない。
これは・・ 作品集の核心に触れている気がします。 とくに表題作の「黒い玉」は、恰もこの感覚を体現したかのよう。 カフカを思わせる自己崩壊的な不条理感が最も映えた作品で、やっぱり一番好きです。
「鼠のカヴァール」も好き。 「変愛小説集」的な愛を感じる作品で、でもその愛が、決して美化されないところに得難い哀調が醸し出されていて、いっそう甘美さを際立たせているかのよう。 この小説集のラストを飾るに相応しい名篇だと思いました。
主人公は“何か”と対峙していて、常にその場を耐え難い緊張が支配している感じがします。 でも、何処までが“自分の内”で何処からが“自分の外”なのか、その意識が極めて流動的で・・ だからこそ、悪魔に魅入られ、駆り立てられるような一瞬で世界が豹変してしまう危うさが、そこには潜んでいるのでしょうか。 暗い孤独と熱病のような嗜虐性が蠢く絶望と恍惚の虚空は、幻想的なのにリアルで・・ 邪悪なのに哀しくて・・ 紗を通して透かし見るような光沢のある小説世界でした。


黒い玉 −十四の不気味な物語−
トーマス オーウェン
東京創元社 2006-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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半七捕物帳 三 / 岡本綺堂
思いなしか、ついと筆が乗って来られたような・・ 単に読んでる自分が乗ってるって話かもしれませんけど^^; 涼風のそよぎのようにサッと心を吹き抜けていく感触は変わりませんが、この巻は、幾分か心に掛かる肌合いが盛り込まれていたような。
半七がどこへ出しゃばっても、それは嘘でないと思って貰いたい。
いきなり一話目「雪達磨」の枕話にこんな一文があり、ニマニマしちゃいました。 どうやら読者から、半七が自分の縄張りを踏み越えて活動する(こともある)のは嘘らしいと、物言いがついたようで^^; “わたし”に釈明させているのが微笑ましかったです。 でも、出張る先々に心なし気を遣ってるんだよね。ふふ。 半七が歩き回ってくれるから、お江戸八百八町の濃やかな風情を慈しむことができるんですもの。 どんどん出しゃばって(笑)くれなきゃいけません。
野暮を言って名調子に水を差す気はさらさらないのですが、半七親分、気前がいいし、面倒見がいいし、どうやってちっぽけな給金で遣り繰りできているんだろうと、ちょっと気になっていたのです。 でも、「松茸」の最後でわたしなりに謎は解けました。 昔の人は義理堅いですからねぇ。
なに、わたしはお役だから仕方がねえ。そんなに恩に被せることもねえのさ。(第二巻 「鷹のゆくえ」より)
と言われたって、それじゃあ気持ちの片付かない者も大勢いたんでしょう。 明治の半ばを過ぎてからも、遠い昔の一度の恩を忘れずに半七老人を訪ねて来る人があるんですから・・
「雪達磨」といえば、この短篇の犯人の浅慮っぷりがツボでしたw 江戸っ子ならさもありなん、と思えてしまうところが味わい深いんだよなぁ。 そして、
むかしの悪党は今の善人よりも馬鹿正直だったかも知れませんね。(第二巻 「津の国屋」より)
と半七老人が懐古するように、半七親分に尻尾をつかまれると途端に観念してしまうところなどに、江戸っ子たちの行き方がふっと偲ばれるようで・・ そこに差し伸べられる半七の花も実もある計らい・・ その、古き時代のこぢんまりしたおおらかさに、何時の間にやらしみじみとした感慨が湧いている。
この巻には、「あま酒売」「海坊主」「雷獣と蛇」「人形使い」など、謎解きの後に怪談味の残る短篇も散見されます。 解説の戸板康二さんによると、「青蛙堂鬼談」という、綺堂が書いた怪異談集に通ずる雰囲気があるそうです。 ぜひそちらも読みたいです。 わたしの中では特に、「あま酒売」の不気味さが白眉。
好きな作品の一つ「松茸」には、昔、下谷辺りの大家さんをしていた三浦老人という半七の昔なじみが友情出演(?)しています。 新聞記者の“わたし”は半七老人の紹介でこの三浦老人からも昔話を収集しているらしい・・そんなこんなが窺い知れる一篇でもあります。 で、もしや? と思って調べたら、「三浦老人昔話」という作品集を本当に綺堂は書いているのでした! 筆記者は同じ“わたし”で、おそらくは半七の外伝みたいな趣向なんでしょうね。 これも読みたーい♪
旅絵師に扮した文政期の幕府御庭番が隠密の御用で奥州筋を旅する「旅絵師」は、伝え聞きの昔話で半七自身は登場しないんですが、なんとも物語性の深い佳品で、既読作品通して、最も余情に浸った一篇でした。
“落雷の時には雷獣が一緒に落ちて来て襖障子や柱などを掻き破っていく”とか、“冬に湯の中で飼うという触れ込みの金魚が、文化文政のころに流行って、一旦すたれて、幕末になって又ちょっと流行った”とか・・ 馴染みのなくなった時好や迷信や風習など、話の行きがかり上、その都度、半七老人が注釈を入れてくれるのですが、とりわけ船頭のこんな習慣が印象的です。
身投げのあった場合に、それが女ならば引き上げて助けるが、男ならば助けない。なぜと云うと、女は気の狭いものだから詰まらないことにも命を捨てようとする。死ぬほどのことでもないのに死のうとするのだから助けてやるが、男の方はそうでもない。男が死のうと覚悟するからには、死ぬだけの理窟があるに相違ない。どうしても生きていられないような事情があるに相違ない。いっそ見殺しにしてやる方が当人の為だ、とまあ、こういうわけで、男の身投げは先ず助けないことになっている。
へぇ・・  あと、子供の夏場の玩具として定番だった“水出し”の仔細な説明とか。 実物が見たくなって興味津々ネットで調べてしまいました。 たしか・・ 江戸時代に作られ、今に伝わる最古の(?)噴水も、動力を使わないこの原理が応用されているんですよね。
偽浪士の押借り騒動を追って、日増しに活気づく港町横浜まで出張っていく「異人の首」は、世の中の乱れた江戸末期の時節柄に、文明開花を先取りしたようなエキゾチックな風光が混ぜ込まれた異色作で、忘れ難い稀有な一篇。
この光文社文庫版は、あとがき執筆陣が豪華ですね。 思えば第一巻の都筑道夫さんは、江戸情緒はあくまでオプションに過ぎず、半七の真髄は推理にある!と断言されていましたが、本巻の戸板康二さんはといえば、推理よりも物語の周囲を彩る江戸の風土と季節感、洒落た会話が堪らん!とおっしゃる^^ まさに半七の魅力はここなんですよねぇ。 読む人によって十人十色の味わいがあるところ。 北村さんと宮部さんも、不思議なほど好きな作品が被らないのだと語っておられました。 なんだろうなぁ・・この懐の深さは。

第三巻収録作品(十四篇)
「雪達磨」「熊の死骸」「あま酒売」「張子の虎」「海坊主」「旅絵師」「雷獣と蛇」「半七先生」「冬の金魚」「松茸」「人形使い」「少年少女の死」「異人の首」「一つ目小僧」


半七捕物帳 三
岡本 綺堂
光文社 2001-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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半七捕物帳 二 / 岡本綺堂
腕利きの岡っ引き、神田三河町の半七親分の探偵譚。 第二巻は十三話を収録。 懇意になった半七老人を赤坂の隠居所へ訪ね、昔語りを聞いては手帳に書き留めた若き日の“わたし”こと綺堂。 その古い手帳を捲り、興味を感じたものを段々に拾い出して、時代の前後を問わず紹介している・・ という趣向なので、どこから読んでも金太郎飴のように半七です♪
でも時には、自分の手掛けた事件ではなく、例えば「津の国屋」の主役は若い岡っ引き(半七は助っ人役)だったりしますし、「槍突き」は、文政期の岡っ引きの探偵談を又聞きしたもの、「小女郎狐」は寛延期の地方の岡っ引きの探偵談を“御仕置例書”から引いてきたもの・・と、アレンジも程よく混ざっています。
この二巻では前巻以上に、化け猫、河童、狐の祟り、銀杏の精などの不思議が次々と出来し、その裏に隠された犯罪を半七が合理的に解決するスタイルが生彩を放っているように感じられます。 子細ありげに云い触らされる奇っ怪な風説には何か綾があり、洗ってみると種がある。 泰平が揺らぐ幕末の世相風景を織り込みながら、迷信の強い江戸っ子たちを瞞着する悪事が紐解かれ、そこに介在する半七の温かくも涼やかな眼差しが印象深い短篇ぱかり。
昔と云っても三四十年前ですけれども、それでも世界がまるで違っていて、今の人には思いも付かないようなことが時々ありました。
幕末の江戸市井に根を張った、岡っ引き上がりの半七老人の恬淡な語り口によって、時代の生み落とす犯罪と、その解決作法が物語の中で明治の世にふくふくと伝えられ、更に(物語の外で)本書が著された大正・昭和期に伝えられているのです。 それを今、こうして手にすることができる幸せ。 何重もの得難い郷愁に誘われます。
基本的人権が保障されていない江戸社会は、本来、推理小説が成立する土壌ではないのだけれど、敢えて体制側の岡っ引きに証拠収集の手続きを踏ませ、論理的に犯人を突きとめさせている。 そこの相互矛盾が、痛烈な社会批判と権力者に対する皮肉になっていて面白いのだ・・ といった捕物帳論を森村誠一さんによる解説の中に見かけ、なるほど! と感じ入りました。 そんなこと、今まで思いもつかなかったです。 後世の作家が前時代を舞台に据える旨味を横溢させた、その走りとも言えるんじゃないだろうか。
綺堂によって書き下ろされて以来、根強いファンに連綿と愛され続ける系譜。 日本独自の探偵小説の一形態である“捕物帳”を(シャーロック・ホームズをヒントに)創造した綺堂の偉業に、今更ながら痺れています。

第二巻収録作品(十三篇)
「鷹のゆくえ」「津の国屋」「三河万歳」「槍突き」「お照の父」「向島の寮」「蝶合戦」「筆屋の娘」「鬼娘」「小女郎狐」「狐と僧」「女行者」「化け銀杏」


半七捕物帳 二
岡本 綺堂
光文社 2001-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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ブラジル蝶の謎 / 有栖川有栖
ブラジル蝶の謎
有栖川 有栖
講談社 1999-05
(文庫)


作家アリスシリーズの第2短篇集。 国名シリーズとしては3作目。 いきなり脱線します。 あとがきで有栖川さんが“この本はまるで私と携帯電話の格闘の歴史のようだ”と述懐されているんですが、確かに、背景が1992〜1995年頃を行ったり来たりしているのを読むにつけ、意図的、あるいはそれとなしに描かれる携帯電話の存在感や非存在感がなんとも興味深く、黎明期の初々しさが懐かしくもあり、こそばゆいような感慨が湧いてくるんですよねぇ。 ちなみにアリスは1995年の初めにはコートのポケットに入れています。
今んとこ短篇の方が好きかなー。 まだ読んでるのが初期の作品群というのもあるんだろうけど、良くも悪くも少しばかり青臭い 余分なものが削ぎ落とされる短篇は、有栖川さんの場合特に、パズラーとしての小気味よさが際立って見える気がする。
アリバイ崩し、雪上の足跡、暗号、不可能脱出もの、落し話風・・などなどバラエティに富んだアイデアで楽しませてもらいましたが、この短篇集で目を引くのは、第一話の「ブラジル蝶の謎」と最終話の「蝶々がはばたく」が、“南米”と“蝶”というモチーフでシンメトリーを象るように配置され、しかも、ピンで留められた蝶が再び羽ばたき始めるまで・・そんな物語性を帯びた流れさえ感じさせる構成の妙。
寒村の土着的な伝承とシュールなトリックが“奇想”というに相応しい情景を醸し出していて、自分は「人喰いの滝」が結構好きだった。 「彼女か彼か」は最後がオチっぽくて、ああいう単純さも好きなんだけど、欲をいうとね、あれなんかもっとドタバタコメディタッチでもよかったんじゃないかって気がする。 「屋根裏の散歩者」のようなアホくさーってやつか、毒とウィット系かなんか一篇くらい混ぜてくれると嬉しいんだよなぁ。 有栖川さん得意なの知ってるから。
でも、なんといっても最終話の異色作、「蝶々がはばたく」が格段に素晴らしい。 しっぽりと静かで、胸の奥が熱くなる・・ 一縷の光が託されたかのような物語。 自分自身を切り刻みながら謎を解いている火村先生の、いつにない穏やかな表情が目に浮かぶようだった。 あの一篇の余韻で、本短篇集の値打ちが決まったといっても言い過ぎではない気がする。 差し向かいで越前蟹をせせる三十路野郎二人・・ これフィールドワークじゃありませんから! 正真正銘の二人旅ですから! どんだけ仲良しなんよ
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海のある奈良に死す / 有栖川有栖
海のある奈良に死す
有栖川 有栖
角川書店 1998-05
(文庫)


作家アリスシリーズ4作目。 東京の出版社で久しぶりに友人の推理作家、赤星楽と再会したアリス。 “行ってくる、海のある奈良へ”とアリスに言い残し、次回作のための取材旅行へ出掛けた彼は、その翌日、若狭湾の岩場に横たわる死体となって発見されることに・・
旅情ミステリの風合いが強いので、いつになく行動ベースの物語でした。 また、警察の捜査に協力するお馴染みのパターンとはちょっと違って、火村とアリスは独立して真相究明に乗り出しています。
次々現れる人魚をめぐる符丁に突き動かされるように、故人が取材旅行の目的地として定めたと思われる福井県の小浜を、その足跡を追うように旅する火村とアリス。
奈良東大寺の二月堂への“お水送り”が行われる神宮寺や、八百比丘尼が入定したと伝えられる洞窟がある空印寺など、“海のある奈良”というキャッチフレーズを持った風光明美な古都、小浜(また捜査の途中で浮上してくる某所)の歴史や文化、八百比丘尼伝説や人魚伝説を啄ばむペダントリーが渾然一体となって、物語に悠然としたふくよかさを与えている感じ。
面白いのは、この推理小説そのものが、殺害された推理作家の次回作である“人魚の牙”の構想を再現していく行程にもなっていて、アリスや火村や犯人までもが作中人物と同一化して動いているような錯覚に陥らせてくれる点。 真相が浮かび上がった時、作中作品もおぼろげながら輪郭を結び、でも現実と虚構がどの程度一致していたのかいないのか、モンヤリとした印象を刻むばかりで不思議な余韻を響かせています。
考古学者の作中探偵と火村がカチッと重なることによって、最後まで残る“海のある奈良”という言葉の謎を解き明す趣向が巧いなぁーと思いました。 幻となった小説を掬い取る作業は、亡き友人への追悼というのか、ちょっとレクイエム的な抒情も感じ取れて、悲しい物語に花をたむけているような優しさが有栖川さんらしいのかな?と思います。
本篇は、被害者が推理作家であることに加え、アリスの作品に初のビデオ映画化の話が持ち込まれたり、アリスの担当編集者さんが探偵チームに加わったりと、ほぼ業界人だけで進行していく筋立てなので、なにかと内輪ネタが垣間見れるのが楽しい。 作中で使った名前を被らないようにデータベース化して人名名簿を作ってるとか、へぇ、なるほど
一つはアリバイ崩しで、もう一つは広義の密室ものという感じか。 どちらもトリックとそれを補完するロジックが、今一歩ぬるいというか。 ふとした発言の言葉尻を推理の端緒にする辺りは好きなんだけども。 「46番目の密室」好きとしては、もっとゴッチゴチの本格書いて欲しい気もするのだけど、もうそういうのって有栖川さんの仕事ではないのかな。
あと、火村先生に物申したい。 アメリカ人少年が日本地図わからないのは当たり前と見るのが妥当で、苦笑するほど奇想天外なトリックではないと思うのだ。 それどころか、奈良に海がないことを知らないうっかり忘れている関東人や東北人も普通にいるんじゃないかと思うぞw 言い過ぎ? 
本作中、アリスの11作目「セイレーンの沈黙」なる新刊が出版されています。 大技トリック炸裂させてるらしいです。 読みたい♪ これ、解説の我孫子武丸さんの仰せの通り、順当に“学生アリスシリーズ”の11番目の作品で実現されると期待していていいのかしら? ならワクワクなんだけど。 違ってたらごめんなさいですが、「月光ゲーム」がアリスの処女作ではなかったといううろ覚えの記憶があって;; あぁ確認しないと!
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