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プークが丘の妖精パック / ラドヤード・キプリング
[金原瑞人・三辺律子 訳] 日本では“インド物”の冒険譚で知られるキプリングですが、1906年に刊行された本書は、イギリスの子供たちのために、イングランドの歴史を紡いだ物語で、故国を愛する想いが生き生きと漲った生粋の“イギリス物”です。 百年の時を経て本邦初訳(!)なのだとか。
確かに、日本の子供たちが読むにはちょっとマニアックよねー。 でも、今回の古典新訳文庫版のように、今まで大人向けに紹介されてなかったのが不思議なくらい。 光文社さん、よい仕事をしてくださいました。 イギリス史に不慣れなので、ところどころちょっと保留ということで^^; 時代の香気と詩趣溢れんばかりの典雅で力強い息吹きを胸いっぱい吸い込ませてもらいました。
ダンとユーナの幼い兄妹が、夏至の前夜、夕闇の牧草地で“妖精の輪”(緑が一段と濃くなった丸い場所)を舞台に、シェークスピアの「夏の夜の夢」を演じていると、戯曲の中に登場する妖精のパックを呼び起こしてしまいます。 ケルト神話のプーカをルーツとするパックは、イングランドで最もポピュラーな悪戯妖精。 19世紀初めには、パック以外の全ての妖精が既にオールド・イングランドの地を離れてしまっているのですが、たった一人(一匹?)でプークが丘に棲んでいます。 茶色の毛で覆われた古い小さな“丘の住人”は、オークとトネリコとサンザシの木がある限り、マーリンの魔法の国を離れないのです・・ きゅん><。
そのパックを案内役に、イングランド・・とりわけ兄妹の暮らすペベンシーという土地に関わる歴史を連作形式で紐解いていく趣向。 英仏海峡に臨むペベンシーは、数多の民族が侵略と防衛に明け暮れた中世において、その興亡を見届けてきた土地なのですね。 ノルマン人の騎士やローマ軍の百人隊長がパックの魔法で兄妹の眼前に甦ります。 時代のうねりに呑まれながら懸命に乱世を生きた身の上の一端が、彼らの言葉で滔々と語り始められると、兄妹は何時しか夢中で聞き入ってしまうのでした。
パック自身が語る一話目の「ウィーランドの剣」は、数千年前に、一帯が湿地(マーシュ)だった頃のペベンシーにやってきた鍛冶屋の神のウィーランド(スカンジナヴィアのトールの血筋?)が、時代が下ると共に人々から見捨てられ、やがて“ウェイランド・スミス”と呼ばれる一介の鍛冶屋として、俗世にまみれて働いたという話で、二話目に登場するサクソン人の見習い僧と、ノルマン征服の数年前に数奇の出逢いを果たします。 ルーン文字の刻まれたウェイランド・スミスの剣は、民族を越えた友情を育て、黄金をもたらし、時を経て黄金は法律へと生まれ変わる・・ 見習い僧(のちの騎士)に贈られたウェイランド・スミスお手製の剣と挿入詩とペベンシーという土地が、時代の異なる物語同士を誘導灯のように繋ぎ止め、予兆めく印となって眼に見えない連鎖を生じさせていきます。
ヘイスティングズの戦いで一戦交え、固い友情で結ばれたサクソン人とノルマン人の騎士が年を取り、聖地巡礼の船旅に出るも、デーン人の海賊船に捕えられ、ゆくゆく西アフリカ(ガーナ河口のマングローブの林)まで船を進める冒険譚「騎士たちのゆかいな冒険」や、帰国後の二人の協力を得て、ペベンシー地方の指揮官が知略を廻らせてヘンリー王とノルマンディ公ロベールによる跡目争いに絡んだ領主たちの反乱を食い止める「ペベンシーの年寄りたち」など、ノルマン朝時代の物語にワクワクしました。
でも、わたしが一番心惹かれたのは、西ローマ帝国の末期、ブリテン島からローマ軍が撤退する前夜、ローマからの援軍もないままハドリアヌスの長城でピクト人らの侵入を食い止めていたブリテン生れの若きローマ人の、誇りと荒みと怒りと悲しみに満ちた「大いなる防壁にて」や「翼のかぶと」。 ローズマリー・サトクリフは、この物語に触発されてローマン・ブリテン三部作を描いたといわれています。 まったきローマが沈みゆく今、この時。 歴史の節目に生を受けた者の脈打つ鼓動に胸を突かれる物語でした。 余談ですが、この数年後でしょうか・・407年、ローマ軍がブリタニアから完全撤退して以降、ブリトン人の指導者アンブロシウスがサクソン人相手に戦い、アーサー王伝説が生れたんですねー。
「図面ひきのハル」は大航海時代の裏話のような、「宝と法」は、マグナカルタ制定の秘話のような物語。 そして、わたしのもうひとつのお気に入りは「ディムチャーチの大脱出」。 悪名高きヘンリー八世の時代、イングランドを見限り去っていく最後の妖精たち・・ 眠気を誘うホップの香りに包まれた乾燥所(オーストハウス)で、ランタンの灯りに照らされて語り合う、しっぽりとした情景が、この物語の物悲しくも甘やかな幻想美を際立たせているように感じられるのでした。
1910年には、続編「ごほうびと妖精」が出版されているそうです。 どうか、是非、翻訳して頂けないものか・・ 二冊は、イギリスの子供たちに正しい歴史を教える意図をもって著されたといいます。 その意図の、ほんの微かな隙間に、妖精たちが棲めなくなった故国への憂愁が混じっていはしなかっただろうか・・と、そんなことを想ってみたくなりました。


プークが丘の妖精パック
ラドヤード キプリング
光文社 2007-01 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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ペルシャ猫の謎 / 有栖川有栖
ペルシャ猫の謎
有栖川 有栖
講談社 2002-06
(文庫)


作家アリスシリーズの中では変化球モノといった印象の一冊。 真正直な本格ミステリではなかったり、そもそもミステリではなかったり。 読んでる間は肩透かし感が否めなかったけど、あとがきで作品が生まれた背景に触れれば、それぞれ興味深い一篇に変じてしまうから憎いね。 ちなみに火村先生が飼ってる三匹の猫の名前とキャラクターは、有栖川さんの飼い猫と同じなんだって やだなにそれ
このラインナップの中では「切り裂きジャックを待ちながら」がマイベストかな。 クリスマス公演を控えた小劇団のいざこざもので、舞台上のリアリティと現実が浸蝕し合っていく構成にニヤッとなる。 劇中人物化していく火村先生の熱さがレアですw これって、本シリーズの発想の外からもたらされた天啓のような面白さだと思うの。
ネタバレになりますが、科学的合理性で物語を推進しておきながら、肝心の喝破論証部分が文字通りの“印象評”という「わらう月」や、この美味しそうな献立を、さぁ、どう料理してくれるんだ、さぁ、さぁ、と待ち構えていたら、素材のまま振る舞ってくれちゃったみたいな「ペルシャ猫の謎」は、戸惑いの最も大きかった二篇。 ただね。 有栖川さんが確信犯的にこれをやったなってのは伝わってくる。 論理の徹底が論理を無化する体の。
“無知の知”を引き合いに出すまでもなく、論理派を標榜する著者が、論理では説明のつかない領域に誰より敏感になるというのも一理あるのかなと思う。 論理の操り手ゆえの、カチっとパズルのピースが嵌る音への違和感というのか・・ そんな思いの強かった時期なのかもしれないと、千街晶之さんの解説を読んでいて感じるところがありました。
「赤い帽子」は準レギュラーのハッスルボーイ(笑)森下刑事を主役に据えた、言わばサイドストーリー。 オーソドックスな警察の捜査行だし、火村&アリスも登場しないし、何故こうなった? という意味で大いに疑問符だった一篇ですが、これ、大阪府警の機関誌に掲載されたんだって。 へぇ。そんな依頼が舞い込んだりするんだねぇ。 本物の刑事さんってミステリ小説に苦笑してそうなイメージなんだけど、時にはミステリ小説から勇気や誇りをチャージしてくれることもあるのかな。 そんな想像をするとちょっと嬉しい。 新米刑事の“アルマーニ”の理由が明かされています
ノン・ミステリの「悲劇的」と「猫と雨と助教授と」は、どちらも“火村英生に関する注釈”的掌篇です。 いみじくも好対照な火村像を浮かび上がらせ、キャラクターの深化に貢献させている辺り、それとなくマストなニ篇だったのかも。 総じて“謎解きの方程式からはみ出すような雰囲気”を好意的に受け止められる素地があったので、個人的には、うん、まぁ、よきかな
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朱色の研究 / 有栖川有栖
朱色の研究
有栖川 有栖
角川書店 2000-08
(文庫)


作家アリスシリーズ8作目。 和歌山県すさみ町の海岸の別荘で2年前に起こった未解決の殺人事件。 火村がその関係者であったという教え子からの捜査依頼を引き受けた矢先、犯人による挑発の影が蠢き始め、火村とアリスは新たな殺人事件の第一発見者に指名されてしまいます。
終末感漂う夕焼けが、不吉な暗示をまとって物語を牽引するプロローグの情景や、夕日や炎や灯りに象徴されるめくるめく朱色のイメージが増殖し、派生し、繁茂し、行間に染み渡っていくかのような神秘性や、火村と犯人の叡智と狡知が目に見えない火花を散らして相まみえているような隠微な蠕動や、純心とエゴが錯綜する未成熟で甘美な動機や・・ それらがデモーニッシュな一体感を作り上げた作品で、雰囲気満点でした。
大阪のマンションを舞台とした現在進行形の事件と格闘する前半部と、潮騒に包まれた南紀のリゾート地で過去を探る後半部とが、どんなルートで連結するのか・・ 読んだことなかった趣向なので凄く楽しめました。 なるほど、前半のちょっと腑に落ちない箇所は伏線にもなっていたわけなんですね。 そしてこの二段構えの企み深いプロットは、単にトリック的な策略に留まらず、犯人の人間性との有機的な関わりを秘めていたことが最後に見えてくるのです。 街と旅情と、衒学的なトリビアが有栖川さんらしい・・と云っていいのかな。 “朱色”から想起される太陽祭祀や補陀落渡海などと絡めた民俗学的な蘊蓄も興味深く読みました。
あと、そこはかとなく漂うセンチメンタリズム。 でも、そこにはいつも以上の深味が見て取れた気がしました。 本格の作家さんに対する褒め言葉かどうかは疑問ですが、今回は動機周辺が秀逸なんだけど、(本格ミステリにおいての)こういう文学チックなニュアンスは票が割れそうかも。
何時になくアリスの使い方が上手いと云いましょうか、アリスの持ち味が際立っておりました。 キャラの方向性がくっきりと見えた作品です。 オチやボケどころのわきまえ方、不正解の外掘りを埋める自らの役割に磨きをかけている辺り、本編では名人芸の域に達していたし、一方、推理は冴えない代わりに、ロマン溢れる推理小説論を弁じたり、火村先生の名所見物批判を喝破したり、そして何をおいても、犯行に至る心理の解明パートというもう一つの静かなクライマックスがアリスに託されていたところに醍醐味を感じました。 割り切れないものに対する眼差しの豊かさは、火村先生にないものを持ってるんだよね。 火村一強ではなく、息の合った相互フォローぶりが、いい感じで香ばしさを増している気がする。
片や、火村先生を悩ませている悪夢の正体が明かされました。 犀利でどこか危うげな名探偵が、原罪に似た闇を抱えながら徹底したリアリズムと合理的解釈を貫き通し、まるで自ら地獄の淵を廻るように殺人者を糾弾し続けるモチベーションの所在は、これからも思わせぶりに焦らされながら小出しにされていくわけですよね・・ どんどんハードル上がっちゃうと思うんだけど大丈夫なのか? と、ちょっと心配になりかかってる今日この頃
余談ですが、あとがきを読むと、アリスにとっての片桐氏のような担当編集者さんが、有栖川さんの傍にもいらっしゃるようで、なんかちょっと心温まる気分になりました 愛あるあとがきがスマッシュヒット♪
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英国庭園の謎 / 有栖川有栖
英国庭園の謎
有栖川 有栖
講談社 2000-06
(文庫)
★★

国名シリーズ4作目。 気分転換に打ってつけの山椒系(笑)ミステリの詰め合わせ。 どれも頓知というか、ナゾナゾ的な軽妙さが端的に味わえ、そこへプラスアルファー、シリーズ読者には、キャラのあうんのノリが安定感となって心地よさをもたらしてくれていて楽しかったです♪
表題作の「英国庭園の謎」は、乱歩が提唱したという暗号の分類や、ヨーロッパ庭園史の蘊蓄といった雑話パートが興味深かったのと、詩に込められた暗号なんかも好きだし、その創作スピリットにも頭が下がる思いなんですが、なんというか・・ 犯人を断定する材料ら辺のぼやけ感が惜しまれるような気がしました。
一番ハマったのは「完璧な遺書」。 珍しく倒叙形式の変化球でしたが、作品としての仕上がり具合が至妙。 無駄のなさがいい・・って、これ、唯一アリスが登場してないんだよね・・ムダよばわりじゃないよアリス;; 有栖川さんは、こういう文筆家ならではの着想を巧く作品に生かしているところがエコだなーと思う。
独特の言語感覚を持った謎掛け師さながらのサイコくんを捕まえようと奔走する「ジャバウォッキー」や、自力ではまず解けないけれど種明かされたら、おぉ! ってなる「雨天決行」など、言葉遊び系の作品が好みだった。
謎解きに特殊知識を必要とするアンフェア系って、生粋のミステリ読みさんには興醒めな向きもあるらしいんだけど、自分は基本、蘊蓄たれもの好きなのでぜんぜん嫌じゃないです
「竜胆紅一の疑惑」は心理ホラーチック、「三つの日付」はアリバイ崩し・・と、趣向に富んだ彩り豊かな6編でした。 鉄ちゃんネタもあり♪
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いちばんここに似合う人 / ミランダ・ジュライ
[岸本佐知子 訳] 岸本訳の本は今まで相性よくって結構な信者になってたんですが、この短篇集はどうも・・う〜ん;;合わんかった;;; というか、正直、読み方がよくわからんかったに近いかも。 どう? わたしの感性すごいでしょ? って、鼻をツンと尖らせた小娘みたいな物語たち・・と思った。 自分の中の何かが取り返しのつかないくらい鈍磨してるからこんな感想になってしまうんだとも思った。
でも読み終えて一息ついてみると、現代社会の生き難さのようなものが滲み出ていた気がしています。 足りないというよりは過剰であることの息苦しさや歪みのような。 人は人を求め、繋がりたいと渇望する生き物なのに、心はあまりに繊細で複雑で微視的で・・ 繋がることで更なる孤独の深みを覗きこんでしまう、不器用で冴えない主人公たちの(墓穴掘りのような)16の物語です。
壊れかかっているようで壊れていません。 最後の防衛ラインで、自らを見つめる冷静な眼に守られている。 自覚があるんです。 みんなマトモなんです。 ちゃんと自分で自分を一番可哀想と思ってあげられてるから、読んでるこっちの出る幕じゃない気がしちゃったのかな。
正体は、その辺に転がっていそうなありふれた孤独なのに、毒やら滑稽味やら気色の悪さやらに装飾されてオブジェのようなアーティスティックな孤独になる。 中核にあるセンチメンタルで平凡な(ゆえに汎用的で普遍的な)痛みと、それをコーティングする前衛的なドギツさが、なんか・・ちぐはぐ。 各々がバラバラに個性を主張し合って、互いに手を取り合うことを拒んでいるようにさえ感じる。 要所要所では煌めいているのに。 どういう気持ちでこの作品集と向き合ったらいいのかわからなかった。
独特の青臭さが、ティーンネイジャーを描いた時に、これでもかってくらいフィットしてオーラを放ちまくっていたから、「何も必要としない何か」の少女たちや、「子供にお話を聞かせる方法」のライアンが魅力的に映りました。
あと、印象に残っているのが「モン・プレジール」のフレンチ・レストランのワンカット。 これもなー。 やや感傷的ではあるんですけども、映像美を感じさせる出来すぎた情景に酔って、ズキンと心が疼きました。 たとえそれが幻影でも、妄想でも、錯覚でも、同じ波動を分かち合えた一瞬の耀き、その眩しさと儚さをエキストラという道具立てが見事に表象していたと思います。
どうなんだろうか・・ 読み返したら段々馴染んでくるというタイプなのかなぁ。 実際、何篇か読み返してみた中で、初読時には全く掠りもしなかった「動き」が意外と名編なことを発見できました。 意味のない前進にすら何か意味がある。 そこに意味を見出そうとする美学と、グロテスクなくらい悪趣味なユーモアとが綺麗に融合していて、例えようのない哀愁のハーモニーを奏でて見せてくれていたのを危うく見落とすところでした。 あぁ、きっと、こういうものを目指していたのかなーと思えるようなビジョンが記号的なくらいシンプルに伝わってきて・・ (ちょっと恥ずかしいが)マイ・ペストだなこれ^^;


いちばんここに似合う人
ミランダ ジュライ
新潮社 2010-08 (単行本)
関連作品いろいろ

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半七捕物帳 五 / 岡本綺堂
残すところあと二巻。 そろそろ名残惜しさが湧いてきました。 フォーマットが整っていますから、その都度、物語に入り易いですし、愛着が増してきて、引き離されたくない気持ちが募ってしまいます><。 ここへ来て、風俗や風物の情緒がどんどん濃度を深めている気がする。 これは!と思う半七老人の蘊蓄を書き留めて置きたいんだけど、全部は無理だもの;;
焼け石に雀の涙ですが、少しばかりの試みを。 橙に“龍”という字を書いて大晦日の晩に縁の下へ投げ込んでおくという火伏せの呪い。 管狐(細い管の中に潜んだ狐)を使う“狐使い”や、梓の弓を鳴らして生霊や死霊の口寄せをする“市子”などの民間信仰。 江戸時代の煤掃きは(師走の)十三日と決まっていて、その日には笹売りと絵馬売りの声が季節らしい気分を誘い出す・・等々。
なにを問いかけても、老人は快く相手になってくれる。一体が話し好きであるのと、もう一つには、若いものを可愛がるという柔かい心もまじっているらしい。彼がしばしば自分の過去を語るのは、あえて手柄自慢をするというわけではない。聴く人が喜べば、自分も共によろこんで、いつまでも倦まずに語るのである。(第一巻「広重と河獺」より)
差し向いで小半日を語り暮らす老人と“わたし”(若き日の綺堂)。 2人の交際がとても気持ちがよくて。 この前座として披露される明治のひとコマがもたらす無上の奥行きを慈しみつつ読んでいます。 その前座から本題への展開や、別の話から手繰る流れ作りなど、最初の頃は訥々としていたように思えましたが、本巻辺りになると少しく熟れています^^
芝居好きの半七老人による明治歌舞伎の噂話や劇評などは、小ざっぱりとした語り口でありながら総身がゾクっとするくらい粋で風流で、素養もないのにうっとりと聞き惚れてしまう。 今(明治二十六年当時)、“矢口の渡”のお舟を勤めているという訥升(三代目澤村訥升、のちの七代目澤村宗十郎ですね?)の話題から、似たような事件がありましたと語り始める「新カチカチ山」や、休場中に芝居茶屋の若い衆が飴屋に扮して稼いでいるのに出くわすところから、昔はいろいろの飴屋がありましたと語り始める「唐人飴」や、(明治二十七年当時)九蔵(三代目市川九蔵、のちの七代目市川團蔵ですね?)の宗吾が評判だったという新富座の“佐倉宗吾”(東山桜荘子)を見物した話から、あの芝居は三代目瀬川如皐の作で、嘉永四年、猿若町の中村座の八月興行で・・と話が及ぶ「青山の仇討」など。 また、「菊人形の昔」で捕まえ損なったお角が「蟹のお角」で再登場したり、「唐人飴」で未解決のままだった風評が「青山の仇討」の犯人の仕業だったりと、後日談や姉妹編として繋がりを見せる話の運びも流暢です。
なんとなく・・心に残ったのが「新カチカチ山」。 この話、理不尽さが妙に切なくて忘れられない。 一番好きなのは「河豚太鼓」かな。 タイトルの“河豚太鼓”(素焼きの茶碗のような泥鉢に河豚の皮を張って、竹を割った細い撥で叩く子供の玩具で、江戸末期に流行ったらしい・・)が、探索を導くアイテムとして印象深く溶け込んでいる感じとか、最後、無造作に付け足される乳母の消息が物語に得もいわれぬ哀調を添えている辺り・・堪らないです。
場末の寂しい屋敷町だった青山の、青葉の茂る季節の椿事「唐人飴」は、更紗でこしらえた唐人服や鳥毛のついた唐人笠を身につけて、鉦を叩いたりチャルメラを吹いたり、変な手つきで踊ったりして飴を売り歩く大同商人の様子や、神社仏閣の境内で許されて、土地相応に繁盛していた小屋掛けの芝居興行“宮芝居”の様子など、風情に浸りながら読みました。
「幽霊の観世物」で描かれているのは、いってみれば“お化け屋敷”なのですが、今と決定的に違うのは、見物の多くが本物のお化けだと信じている点や、あくまでも“お化けの観世物”であるから、人間が忍ばせてあるとわかれば商売あがったり・・ばかりかお咎めまであるらしい点^^; で、時代がかったこの特異性が事件の綾となっているのが巧い。 クライマックスがドタバタ喜劇のようで、ちょっと笑いを誘われた「青山の仇討」もよかったです。
目利きの半七は、畑違いの屋敷方や寺社方の、元来面倒な仕事に首を突っ込まざるを得なくなることもしばしばですが、時節がら第三巻の「異人の首」以来、「菊人形の昔」と「蟹のお角」では再び異人絡みの事件にかかずらったり、この巻だけでも、外国船土産の“安政の大コロリ”と“文久の大麻疹”、安政元年の春ごろ伝わったという写真術、黒船防禦のため“お台場”を築く空前の大工事、関東諸国の百姓の次三男から末はやくざ者まで徴兵した歩兵隊が屯する歩兵屯所・・と、泰平の夢を破られた江戸末期の市井の風景が多彩な面影を刻んでいます。
子分の弥助の名が“千本桜”の維盛に縁があるので“鮓屋”と呼ばれていたり、見ず知らずの他人に“おい、兄い”と声を掛ける響きの心地よさや、茶店の女房が烏のように色が黒いからと、堂々“烏茶屋”と呼ばわってまう江戸っ子の口の悪さ(それを女房の方も至って気にしていない図太さ)とか・・ 心奪われる何気ない描写というお宝が、苦心の跡もなく無防備に転がりまくっているのを、おぉ、勿体ない勿体ないと、一粒一粒拾い集めているかのようなわたし。

第五巻収録作品(十篇)
「新カチカチ山」「唐人飴」「かむろ蛇」「河豚太鼓」「幽霊の観世物」「菊人形の昔」「蟹のお角」「青山の仇討」「吉良の脇指」「歩兵の髪切り」


半七捕物帳 五
岡本 綺堂
光文社 2001-12 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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