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ぼくのともだち / エマニュエル・ボーヴ
[渋谷豊 訳] ボーヴは20世紀前半に活躍したフランスの作家。 1925年発表の本書は処女作にして代表作ともいわれ、今でこそ世界中で広く読まれているそうですが、“いかなるイデオロギーとも無縁な作風”が時代の要求に合わなかった(と、解説で指摘されていました)ために埋もれていた不遇の時期があったそうです。 でもこういう生き辛さの感覚は、逆に現代人にフィットしそうだし、再評価もまた時代の要求なのかな・・と思ったり。
モンジュールのうらぶれたアパートの屋根裏部屋に暮らすヴィクトール・バトンは、数年前の戦争(第一次大戦)で片腕を怪我して除隊になり、傷痍軍人年金で慎ましく生きています。 顔色が悪く、くたびれた服を着た、ひ弱で臆病な青年が、毎日、パリの街角で“友達”を探す流離いの物語。
四六時中、迷子の仔犬のようにひとりぼっちで、淋しくて、かまって欲しくて、愛して欲しくて、街をほっつき歩いているバトン。 出逢う人たちに対する思い込みの激しさを思弁的な情景として綴っていく連作形式の小説です。 肥大した自意識の滑稽味がなんとも生温かく、自惚れと劣等感、根拠のない楽観と悲観が入れ替わり立ち替わる浮き沈みの激しさ・・ その振り幅に悪酔いしそうになりつつも、何かしら身につまされるものがあるんだな。 表裏を成した卑屈と傲慢、過敏と鈍感・・ こんな中二性(?)の片鱗が自分にもあるに違いないから。
いつも他人に対する過大な期待とその反動としての絶望というパターンなんだけど、笑い飛ばせるのとも違うし、糞真面目に寄り添えるわけでもなく、突き放せるかというとそれもできない・・ 主人公に対する距離の測り辛さにセンスを感じ、よくもまぁ、こんな人物を造形したもんだとニヤッとしながら読んでいました。
でも、だんだんと未熟さや不器用さでは言い尽くせない、社会で生きるために必要な何かが根本的に欠落してるような居た堪れない痛々しさの方向へ自分の心が重く傾斜していってしまったのよね。 安心して読める優雅な均衡が崩れて(意図的に崩して?)いく流れがあったような・・
船乗りのヌヴーとの出逢いや、その後の成り行き辺りはまるで落語みたいで^^ あのくらいのユーモア&ペーソス加減が自分は一番よかったんだけども。 でもホントこの作品、その時々、人それぞれで、まったく違った印象を受けるんじゃないだろうか。 暇だとろくなこと考えないんだからとっとと仕事を探しなさい! し、ご、と! このバカタレが〜! とか、なんのかんの孤独に酔ってる気配もなきにしもあらずだし、勝手にやって! くらいの気持ちで読んでよかったのかな・・悩むな^^;
こんな調子では歩く道々、さぞや地雷だらけであろうなぁーと思いつつも、バトンが果敢に空回りの行動力を発揮してくれるものだから、何気に街歩き小説のようにもなっていたりする。 旧式アパートのがっしりと格子のはまった窓の外に霞むエッフェル塔、舗装用木材と排気ガスのにおう裕福なマドレーヌ寺院界隈、部屋の間仕切りに染みだらけの鏡が嵌め込まれたセーヌ通りの小さなカフェ、淀んだ水とワインのにおいの立ち込めるジェルクール街、山高帽を被った男がチラシを配るサン・ミッシェル広場、料理と香水のにおいのするゲーテ通り、夜更けのサンジェルマン通りを照らすアーク灯や滑るように通り過ぎる長い黄色の路面電車や石畳をがたがた揺れながら走り去るタクシー、セーヌ河岸から眺めるガラス張りの遊覧船やリヨン駅の高い塔、楽譜付きの歌詞カードを売る文房具屋、ひっそりとした食料品屋、写真屋の店先、宝石店のショーウインドウ・・ 感じ易いバトンの眼を通したファンシーな(笑)景観描写も楽しめる要素に入れたい。


ぼくのともだち
エマニュエル ボーヴ
白水社 2005-11 (単行本)
関連作品いろいろ

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K町の奇妙なおとなたち / 斉藤洋
昭和30年代、東京のはずれのK町に暮らす少年の目線で辿る日常風景。 身の回りの“奇妙な”大人たちとのエピソードが綴られています。 プロローグとエピローグの追憶に挟まれた本編は、大人になった“わたし”を語り手としながらも、そこに大人的見地を極力介在させないという、不思議なテイストの連作集でした。
学校に上がる前から4年生頃までの時間が流れています。 思春期以前の幼少年期を瑞々しい感性で捉えた児童書・・ですが、大人向け児童書系? そんなカテゴリがあれば、一番しっくりくる気がします。
道路の片側だけの小さな商店街、路地の先の長屋、国鉄の駅を“しょうせん”と呼ぶ名残り、プロパンガスを売る“炭屋”、裸電球の街灯、神社の境内にやってくる“カタ”、戦争の傷痕、その遣る瀬無さ・・ 小さな町の中で、人々が密接な関わり方をしている昔の風情に抱かれて、子供の眼に映る大人の奇妙さ(不文律のようなもの)が、子供の内面で薄ら寒い不気味さと親和する気配を淡々と描く筆力が際立っています。
明らかに(大人の眼から見れば)説明できない怪異と、奇妙だけど(大人の眼から見れば)裏がありそうなことが分け隔てなく渾然一体となって眼前に置かれている・・ そんな子供独特の感受性が自分にもあったのかなぁ。 今となっては、辻褄の合わない出来事を覚えていなかったり、ぼんやりとした像しか結ばなかったりするのは、大人になる過程で知らず知らず改竄し、排除してきたからなのかなぁ。 などとやや詠嘆的に想いめぐらせてしまいました。
ゆっくりと流れていた子供の時間の中では、見えないはずのものさえ、悠然と見えていたのかも・・ 時間が加速するに連れて振り落してしまった隙間の記憶を手探りするようにページを繰らずにはいられない・・ そんな感覚を楽しみました。
会うと必ず十円をくれるまれやまさんのおばちゃんや、副業で祓い屋をしている八百八のおじさんや、全身に刺青のある親戚のこうきちおじさんや、“わたし”の父を“兄貴”と呼ぶサブロウさんや、その父は町の人から“先生”と呼ばれていて・・ 奇妙といえば、少年はいったいどんな家の子なんだ? というのがまさに奇妙の根源^^ 大人的な説明を加えてもらえれば、なんだそういうことかと味気ないほど簡単に納得もするんだろうけど、子供の目線というのは不思議なものだなぁーとしみじみ。
ある章がある章の布石になっていたり、後半になるほど各章が密に絡み合い、やがて解けていく不思議もある。 そんな構成が、少しずつ大人に近づくことを体現していたようにも思えるのでした。


K町の奇妙なおとなたち
斉藤 洋
偕成社 2012-09 (単行本)
関連作品いろいろ

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鳥類学者のファンタジア / 奥泉光
モーダルな事象」を読んだら、セット読みしたくなって急きょ再読です。 メビウスの輪のように荒唐無稽なりの秩序あるプロットだし、ストーリー的にも(奥泉さんにしては)平明なので読み易くて楽しい楽しい。
いや〜忘れてるもんですね。 ピアニストだった祖母に呼ばれるように戦時中のドイツにトリップする時空旅行もの・・くらいは覚えてましたが、ケプラー氏や脇岡孝太郎左衛門は、あんなに面白いのに殆ど抜けてしまってました・・orz でもコフマン少佐は異様に覚えてた・・のは何故かw 流石に桑幸は出てきませんがね、北川アキって“わたしの馬鹿心”の人だったんだ・・ブブッ。
「モーダルな事象」では“泣ける!”をあれほどコケにしていたくせにズルい^^; 何故か今回読んでいて、登場人物ですらない池永牧彦という不在の人物に照準が合ってしまって・・ 二匹のパパゲーノと暮らし、二人の“霧子”の父であり息子であった彼の祈りの物語だった気さえして、そんな心持ちで読んでいたから、ずっとうるうるしっぱなしでした。 祈ることと忘れないことはとても近しい感情なんだな・・という想いがじんわり胸の内に広がりました。
こんなにも「モーダルな事象」とリンクしていたことに(今さらながら)びっくり。 ピュタゴラスの天体、オルフェウスの音階、宇宙オルガン、雨宮道祐博士、トーマス・ハッファー文書、神霊音楽協会、メギス夫人、フィボナッチ数列、七角形の部屋・・ それらしいモチーフがざっくざく♪
桑幸の幻視もフォギーのタイムスリップも、此の世ならざる不可思議の全てはロンギヌス物質(やっぱり正体は「ダーク・マター」だったんですね!)に依拠しているわけで。 ロンギヌス物質の霊力に魅了されたり、振り回されたり・・ 愚かで哀れで愛しい人間の物語が位相を変えて描かれているんだなーと感じます。
幸か不幸か、ロンギヌス物質に漸近した時、あちら側へ行って(逝って)しまうのか、こちら側に留まるのか、その境界線上の揺らぎが、どちらの作品からも感じ取れた気がします。 人間であることを放棄しなければ(人格を消滅させなければ)あちら側の住人になることはできないのだけれど、美しい完璧なる世界を夢想し渇望せずにいられないのもまた人間・・
一瞬の交歓を例えば、論理とは別の道筋を通って訪れる発想の転換や、此の世の外から下りてくるインスピレーションとして、あくまで“こちら側”の次元の中に消化吸収し、自らを推し進める糧に変えられたら・・ それが一番ハッピーな取り扱い法(?)なのではなかろうか。 地上という物質世界にしがみついて泥臭く汗臭く、歓びや哀しみと共に生きるのが人の定めであればこそ。
でも、ロンギヌス天体に仮託される存在(非存在?)をそっと胸に秘めることは、時に、とりわけ死を前にした時、計り知れない救いになる・・それもまた真実なのだろうと思う。 乱暴を承知で書くのですが、ロンギヌス物質をめぐる思想性って般若心経に通ずるものがある気がして・・うまく言えないんだけどなんとなく。
雨宮博士だけは、なんかちょっと超越してる気がする^^; 自分としては「モーダルな事象」における桑幸的に、その何倍もベートーベンがカッコ良かったです><。 天球の音楽に自ら到達する才能を存しながら、最後までそれを拒絶し続けた地上の楽聖・・ 彼の音楽性を的確に捉えた挿話であったことに唸らされました。
霧子は引き返してきた人。 猿渡は逝ってしまった人。 その点、フォギーは迷いがないというか揺るぎがない。 いや、迷ってるんだけども、ちゃんと地に足つけて迷ってるから魂の危うさがない。 ジャズで培った即興的しなやかさは、強さとイコールで結ばれている。 ジャズが天球の音楽に相反する“地上の音楽”のメタファーだったかもしれない。 だからジャズ・ピアニストで非完璧系(笑)の彼女を主人公に据えたこの物語は根っこが元気であったかで気持ちがいい。 とってもイカシテるのだ♪


鳥類学者のファンタジア
奥泉 光
集英社 2004-04 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★
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マレー鉄道の謎 / 有栖川有栖
マレー鉄道の謎
有栖川 有栖
講談社 2005-05
(文庫)
★★

旅先のマレーシアを舞台にした国名シリーズ第6弾。 クアラルンプールの観光を終えて、マレー鉄道に揺られイポーへ。 そこで英都大学時代の旧友である大龍(タイロン)に出迎えられて、高原のリゾート地、キャメロンハイランドに向かった火村とアリス。 大龍が営む雨傘椰子に囲まれたゲストハウスで旧交を温めながらゆったりと寛ぐはずの憩いのひと時は、殺人事件の勃発であえなく事件解決までのタイムリミット・チェイスへと急転してしまうことに。 “ジム・トンプソン失踪事件以来のキャメロンハイランドのミステリ”を追って“フィールドワーキング・ホリデー”と化した2人のとんだ休暇の顛末です。
作家アリスシリーズとしては、これまでで最長らしいんですが、とても座りのいい作品という印象でした。 目張り密室の物理トリックのHowも面白かった(こういうの好みですw)し、第二第三の殺人で力点の置かれたWhyと絡む仕掛けも堪能できたし、火村先生が犯人と対峙するWhoの見せ場も周到ですし、がっかりする要素が見当たらないと言っては失礼なのかもしれないけど、このボリュームでよくぞここまでスマートにまとめたなぁーと感服します。 背後に横たわる事件の骨組みとしての物語性も、灰汁がないのに不思議と悩ましく余韻を引くあたり、このシリーズの真骨頂という感じもします。
トラベローグ的にはそれほど濃くはないですが、バックパッカーや昆虫マニアの旅行客、突然のスコールや屋台料理など、南国リゾートの空気感も相応に味わえて、“ハロハロ”とか“オーケーラ”とか、マレー製英語がキュート♪
冒頭の“蛍の川の対話”がいいアクセント。 火村先生が犯罪者を狩り立てる理由は、相変わらず哲学問答のような犯罪談義のベール中に包み隠されていて、素顔を晒そうとはしないのですが、もうね、ずっとこのまま思わせぶりでいいと思うの。 ほのかで淡き“蛍なす”の枕詞に、薄っすらと物語が被覆されていたのもオツというものでしょう。
アリスの“どっちが行き止まりか教えるためのスカ推理”を冷やかす火村先生との掛け合いが、このシリーズの和み系お約束の構図だと思ってるんですが、国際的な恥じっかきもなんのそので、叩かれて大きくなるアリス(笑)はいつも通り愉しませてくれました。 もっと派手にやらかしてもいいよアリスw まぁ、でも今回は、サムライ・イングリッシュの操り手たるアリスに乾杯ってことで
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