スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - |
ナイルに死す / アガサ・クリスティー
[加島祥造 訳] 「メソポタミアの殺人」に続く中近東もの長篇二作目に当たる作品で、クリスティーのお気に入りでもあり、ファンも納得の傑作です。 入り組んだプロットですが、計算の行き届いた巧妙な構築力が発揮されており、異国情緒と浪漫と皮肉に彩られたとびきりファンタスティックな物語。
美貌の資産家リネットと夫サイモンが新婚旅行に選んだのは、黄金の大地に雄大なナイルの横たわるエジプト。 しかしリネットにとってはかつての親友であり、サイモンにとっては元恋人であるジャクリーンが、二人の後を嫌がらせのようにつけ回し、行く先々に姿を現します。 復讐をほのめかすジャクリーンでしたが、ナイル河を遡る遊覧船上で遂に殺人事件が・・
遊覧船カルナク号に乗り込み、アスワンからワディ・ハルファへ向かう船旅を渦中の三人と共にするのは、不実な遺産管理人、寡黙な弁護士、扇情的な女性作家、過激な共産主義者、アメリカ人の我儘な老嬢、ゲルマン気質のドイツ人医師、イタリア人考古学者、邪心ありげなメイド、名探偵エルキュール・ポアロなどなど、紛々たる個性のエキセントリックな面々。 そこに紛れる宝石泥棒や殺し屋や・・といった具合で、様々な思惑や人間関係が犇めき合い、縺れ合い、殺人事件の真相は連動する不慮のファクターによって幾重にも覆い隠されてしまいます。
「メソポタミヤの殺人」では、“心理の地層に分け入り、秘められた過去を蘇らせ”たポアロですが、本篇では、“付着している無関係なものを削り落とし、発掘したい真実だけを取り出し”て事件を解決します。 どちらも考古学者に見立てたパブォーマンスぶりで、そんな辺りも気が利いてるんですよね。 今回のポアロの相棒は英国特務機関員にして準レギュラーのレイス大佐です。
現実を束の間忘れさせてくれる佳き逃避文学の味わいが濃厚です。 旅先という非日常空間を生かした舞台劇のような雰囲気。 実際、クリスティーは後に本作を戯曲化しているらしいです。 まるで文明社会を離れた別天地で、荒々しい本能をひととき解放するかのような・・ 戯画的な登場人物たちが冴え冴えと映え渡っています。 まさに “ここは内緒内緒の家”なのです。 ポアロによる恩赦という特別ルールの適応があったりして、ある意味「オリエント急行の殺人」の船ヴァージョンともいうべき類比性が見て取れたと思います。 推理のベクトルが合成か分解かといった点においても、(意図したわけではないのでしょうが)この二作は対を成しているように見えて面白いですし、「オリエント急行の殺人」がハートフルなコメディ劇なら「ナイルに死す」は辛辣な諷刺劇ほどの印象の違いがある点にも興をそそられます。 ただし、そこへ更に甘露なメロドラ要素をミックスすることで生まれる一種コッテコテのケレン味を湛えた躍動感が、本篇を本篇たらしめる最大の魅力だと思いました。
いかんせん、小粒ながら非常にシャープな短篇傑作「砂にかかれた三角形」(「死人の鏡」所収)を直前に読んでいたので脳内に傾向と対策の回路ができておりました。 幸か不幸かメインの筋書きと、そこからの推測でトリックも見抜けてしまい、おおかた答え合わせ的な読みになりましたが、いやいやどうして余裕で楽しかった。 クリスティーの場合、直球的伏線が少なく、その点あまり親切ではないものの、代わりと言ってはなんだけど、特に本篇では殺人に至るまでの道程を辿る第一部において、二重の意味を文章に隠し込む叙述トリックが大いなる伏線の役割を担って華麗なまでに供されており、ミステリを読む醍醐味である“してやられた感”を小憎らしいほど擽ってくれました。
順番に読んでいるポアロシリーズ。 ここ数作は推理=心理分析の傾向が強く隔靴掻痒の感が拭えなかったんだけど、本篇では手掛かりがきちんと提示されているため、ポアロの脳内ブラックボックスが小さく、ポアロとほぼ対等の立場で読者も謎解きに参加できる納得度が嬉しい。
今回のゲストヒロインは一人に絞れません。 リネット、ジャクリーン、ロザリー、コーネリアの四人とみる線が妥当なところか。 運命の明暗となるとまた別の話ですが、彼女たちのうちパパ・ポアロの愛を勝ち得るのはロザリーとジャクリーンの二人だったように思います。 密かな苦悶を抱える女性にポアロは優しいのです。 てか、心理的興味を掻き立てられるんだろうね^^; コーネリアは天然モノのいい子なのだけど、秘密がなさすぎてたぶんポアロの趣味じゃないのだわ。 リネットに至っては・・いやこれはもうポアロというよりクリスティーの冷淡さでしょうか。 明らかにヒロイン級の扱いでありながら、徹底して愛の欠如に晒されて、妬まれ、カモられ、嫌われ、忘れられていきます。 自分の王国に君臨する王女のごときリネットは、西洋的秩序を離れたナイルの水面で、封印を解いた人々の心の魔に呑み込まれてしまったかのよう。 ラスト一行まで軽妙にして痛烈。


ナイルに死す
アガサ クリスティー
早川書房 2003-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
| comments(0) | trackbacks(0) |
死人の鏡 / アガサ・クリスティー
[小倉多加志 訳] ポアロもの中短篇四篇収録の作品集。 全て伝統的な三人称小説スタイルで(当然ながら語り手ヘイスティンズは不在)、叙述形式自体に技巧を凝らしたタイプではないんですが、あっと驚くドラマ性や捻りの利いたアイデアの映える引き締まったコンパクトな仕上がりで、なかなかの良篇が揃っている感じ。
花火や爆竹がパンパン鳴り響くガイ・フォークス・デーの夜にうら若き未亡人が命を落とす「厩舎街の殺人」と、エキセントリックな准男爵が晩餐を前に遺体となって発見される「死人の鏡」。 この二篇は、クリスティーにしては珍しい密室もの。 どちらも銃による横死で、自殺か他殺か判断つきかねるという共通項があり、読み比べるのも面白いです。 状況は密室でも、そこにはちっとも重きが置かれておらず、むしろ密室マニアを敵に回しそうな、いっそのことぞんざいな扱いっぷりなのが、らしいと言えばらしい気がしますねぇ^^ 事実認知の盲点を突く意外な筋書きこそがメインなのであって、密室はそのための補助線に過ぎないと言わんばかり。
兵器省長官の邸宅から新型爆撃機の設計明細書が盗まれる「謎の盗難事件」のみ非殺人事件もの。 第二次大戦間近のキナ臭さをまとっているのが印象的です。 地中海のリゾート地、ロードス島を舞台にした「砂にかかれた三角形」が一番のお気に入りだったな。 二組の夫婦の愛憎が縺れ合う人間劇を折り紙の騙し舟みたいな小気味良いミステリに仕上げた、ほとんど心理サスペンス調の一篇。
顔見知りは「厩舎街の殺人」に登場するジャップ警部と「死人の鏡」に(端役で)登場するサタースウェイト氏くらいかな。 ときに解説の野崎六助さんからクイズが出題されています。 その上級編は次の通り。 短篇「死人の鏡」に登場するサタースウェイト氏は、連作短篇集「謎のクィン氏」に登場するサタースウェイト氏と同一人物か? えー!!微塵も疑わなかったよ;; んで、研究家によって諸説あるというのがその答え。 へぇーそうなんだ。 でも自分としては同一人物で間違いないと思うのだ。 だって「謎のクィン氏」でサタースウェイト氏が束の間名探偵になれたのはクィン氏に異能を授けられた(夢を見させてもらった)からなのであって、その他の点、人生ドラマの熱心な傍観者としてのキャラ造形は、「三幕の殺人」と何ら変わるところがありませんもの。 短篇「死人の鏡」には“烏の巣事件”への言及があるから「死人の鏡」と「三幕の殺人」のサタースウェイト氏もまた同一人物。 ゆえに・・の法則です。
本篇のマイ・ツボりどころは、ホテルのラウンジで男四人、みんなお酒なのに一人だけシロップ・ド・カシスにご満悦なポアロ^^ こういう何気無い擽りがクリスティーって本当に巧いと思う。 イギリス人女性作家てありながら、“イギリス人”をも“女性”をも“作家”をも客体化して、その特徴をシニカルに滑稽に描かずにはいられない稀代の人間観察者クリスティーは、ことポアロという格好の素材に対して、悪戯心が過ぎるほど辛辣な筆をふるって弄り倒しているし、そりゃまぁ時には自家中毒気味にもなってうんざりもしただろうけど(笑)、彼女の本心の本心は決してポアロに冷たくないのですよ・・とわたしは思います。


死人の鏡
アガサ クリスティー
早川書房 2004-05 (文庫)
関連作品いろいろ

| comments(0) | trackbacks(0) |
もの言えぬ証人 / アガサ・クリスティー
[加島祥造 訳] 一族を招いたイースターの晩、小緑荘の女主である老婦人エミリイ・アランデルは階段から転落するが幸いにも軽症でことなきを得た。 しかし日を置かず、エミリイは正当な相続人の甥や姪ではなく、付き添い婦に遺産全額を譲るようにと作り直した遺言状を残して病死してしまう。 階段の転落事故に疑念を抱いた生前のエミリイからの調査依頼の手紙が、なぜか彼女の死後、ポアロのもとに二ヶ月遅れで届けられる。 昔風の“蜘蛛の巣式筆跡”で、絶対秘密を要する私事に力を貸して欲しいと縷々綴られた要領を得ない文面が、ポアロの小さな灰色の脳細胞を刺激する。
過ぎし日の育ちの良さを連想させる長閑で退屈な、威厳ある昔気質の田舎町を舞台にした遺産騒動もの。 ヴィクトリア時代の遺物のような空気感が大好物でした。 ミス・マープルの縄張り的なシチュエーションなのだけど、エミリイの古い友人で同じくオールド・ミスのキャロライン・ピーボデイなる名脇役が登場し、ポアロとの掛け合いで魅せてくれます。 タジタジなポアロがなかなかにレアで、ミス・マーブルと共演したらどんなだったろうなぁーと詠嘆調の感慨に暫し耽ってしまいました。
本篇の名脇役といえば、絶対に外せない一匹がおります。 エミリイの飼い犬でワイヤヘアード・テリアのボブ。 可愛すぎにもほどがあります>< ボブのボールに躓いて階段から落ちたことにされちゃうんだけど、ポアロはボブの容疑も晴らしてあげるんだよ。 解説によると、クリスティーの愛犬で同じくワイヤヘアード・テリアのピーターがモデルらしい。 ピーターに捧げられた献辞が、これまた胸キュン♪
態度や仕草はもちろんなんだけど、犬語がわかる(笑)ヘイスティンズが披露してくれるボブのご機嫌な内面模写というのか、成りきり描写というとか・・ これが頗るふるってるのだ。 ヘイスティンズにこんな才能があったなんて! ちょっと紹介するとこんな感じ。
彼は仰々しく部屋に入ってくると、気持ちのよい態度で自己紹介した。
“いや、はじめまして。どうぞよろしく” それからわれわれの足首を嗅ぎまわり、“変な音を立てて失礼。しかしこれがぼくの仕事なんだよ。どんな人間が入ってきたか用心しなきゃならないからね。しかし退屈でしょうがないときだから、どんな訪問者だって大歓迎さ。あんたは犬好きのする人間らしいね”
最後の言葉はわたしに言った言葉である。
<中略>
ボブは、今度はポアロのズボンを調べはじめた。充分調べ終えると、ながながと匂いを嗅いで、“うーむ、悪かないけど、本当に犬の仲間にゃなれない人だ” それからわたしのところへ来て頭をちょっと傾けると、何かを期待するかのようにわたしの顔を見上げた。
ポアロはネコ科の生き物だからねw ヘイスティンズは“同類”だとちゃんと認識されてますね^^ 本篇は(「カーテン」以外で)ヘイスティンズが登場する最後の長篇だったのだけど、これを読んで、彼がクリスティーに愛されてなかったわけではないのだと確信できた気になれた。 「ABC殺人事件」でフェイドアウトさせたら可哀想だったもの。 何気にヘイスティンズへのはなむけだった節も・・ 少なくとも読み手の自分はそんな気持ちになって目頭が熱くなってしまったのだ。
推理パートそっちのけで、何かと心が揺さぶられる一篇だったなぁ。 で、事件の方はというと、 殺人事件そのものの性質が殺人者の気質を反映し、犯罪の重要な鍵をなすというプロファイリング的信念のもとに進められる聞き取り調査がメイン。 関係者それぞれから話を聞くうちに、一人の人間の多面性が見え隠れしはじめ、意味深長な食い違いや思わぬ底意が浮かび上がってくる・・といったような。
ポアロの捜査法はより心理重視の傾向が強くなっていて、ほとんど推理=性格分析なのでwhyとwhoの組み合わせに焦点が絞られ、犯人にしか物理的に成し得ないという意味でのhowがまともに機能していない点が、やはりどうしてもミステリとして物足りなく感じてしまうのか。 容疑者リストからの消却に“人を殺すタイプではない”が平然と適応されちゃうからなぁ。 それにしては肝心の心理分析が意外な犯人を導き出すためのこじつけにしか感じられない程度なのだよね。 “洞察によって得た充分な確信”だけではなく、目撃者が誤認した鏡の仕掛けを証拠の決め手に用いているので、前作に比べると正統的な推理小説の体裁は踏まえる気があったのだなとは思うのだけど。 しかし、これもいわゆる“ノックスの十戒破り”な一篇だったりする。 解説読むまでは意識しなかったけど。
オマケのような最終章がイカしてるったらない。 家名を重んじる旧式な価値観を体現していた依頼人の意向に添う上首尾な幕引き・・ スマートでちょっとダークなポアロの解決法を、ミス・ピーボデイの発言を通して華麗に反射させる手腕が光ってます。 ボブはヘイスティンズに連れられてアルゼンチンに旅立ったのかな・・幸せに暮らすのだよ。
余談ですが、ポアロの英語読みって“ハーキュリーズ・パイロット”なんだね。 なんか凄いw あと、爪の先までイギリス人の典型である執事のジョージ、忘れられてなかった! 直井明氏の解説もトリビアルな情報が満載で楽しかったです。 ちなみに表紙ホワイト・テリアでしょ・・なんでよ? 可愛いからいいけど。


もの言えぬ証人
アガサ クリスティー
早川書房 2003-12 (文庫)
関連作品いろいろ

| comments(0) | trackbacks(0) |
終わりの感覚 / ジュリアン・バーンズ
[土屋政雄 訳] 若くして自殺した旧友の日記と500ポンドの遺産を、昔の恋人の母親から遺贈され面食らうトニー。 老年期の穏やかな暮らしに突然小石を投げ込まれたような出来事が、かつて学生だった遠い60年代へと彼を呼び戻し、過去の時間の中に埋没させていく。
青年時代を追懐する語り手トニーの意識の流れを追う手記は、人の記憶の不確かさを暴くばかりで、それはもう容赦ありません。 ミステリやサスペンスのガジェットを借用した親しみ易さと、的確で緊密な筆致、優雅な皮肉の棘が上質なブレンド感を織り成しています。 特に終盤の二転三転には、語り手その人の面目がよく表れていて、呆れるくらい達者な作家だと思いました。
老いと若さ、現実と理想という二項対立を巧みに構成原理とし、“記憶は出来事と時間の合計ではない”という命題を表象した寓意性も感じる作品でした。 序盤で畳み掛けるように連なりをみせる暗示を、膨張、凝縮させる奔放な叙述力は言葉の魔術師のそれでしょう。
丹念な検証が積み重ねられ、理路整然として間然するところがないように見えた述懐に、得体の知れない不穏の霞みが立ち込め始めます。 正当性の御札のように紳士的であることを頼みとしながらも、劣等感や虚栄心を慰撫する自衛本能の侵食を免れることができず、自己批判と自己満足、自己嫌悪と自己憐憫の紙一重の狭間に揺曳する語り手。 あくまでも、突き放した自己観察の場として用意されたはずのテクストが、現在の心の内から過去を推し量ることの限界性を証明してしまうというレトリック。 言葉を尽くしても尽くしても、実人生を呼び起こせない悩ましさから曰く言い難い滑稽味を醸し出す妙趣・・
若さの暴走は、特殊な性癖でも怪しい思想でもなんでもなく、悪人や冷血漢がいるわけでもなく、人の卑小な連鎖が引き起こす散文的な悲劇であることが、それとはなしに滋味深いのです。 読み終えて残るのは語り手の哀しいほどの平凡さ。 でも、それは人生の意義や価値を貶すものではない・・はず。 思索の虚しさがしんみりとした肌合いを残すのも、作者が語り手を静かに肯定しているからだと思えてきます。 2011年ブッカー賞作品です。


終わりの感覚
ジュリアン バーンズ
新潮社 2012-12 (単行本)
関連作品いろいろ

| comments(0) | trackbacks(0) |
わたしたちはまだ、その場所を知らない / 小池昌代
思春期の甘酸っぱさと、師弟関係の小暗いロマンを織り込んだ学園風景に、詩の微粒子がきらきらと散りばめられていて、胸がきゅぅーとなりました。 小池さんの詩に対する溢れる想い・・ 恐らく整理のつけようがないくらいの想いの丈を、(誤解を恐れず書くと)戸惑いながらも果敢に、言葉の世界に写し込もうと試みた物語だったのではないかと、そんな印象を持ちました。
中学一年生のミナコとニシムラくん、国語教師の坂口先生の、詩に恋をした同志の覚束ない繋がりは、それぞれが未熟でぎこちなく、直向きで、眩しい。 詩に魅入られ、詩を追いかける求道者のような、巡礼者のような。 自分なんかとは進化の違う道を通った、違う星の生き物みたいに脱俗的で孤高な彼女たちを見ていると、この世じゃないどこか真空の世界の出来事みたいに思えて、手を伸ばしたら弾けて消えてしまいそうな淡々しさが不思議な手触りとして残りました。 あー、それに引きかえ我が思春期のクッソ恥ずかしさときたら;;
小池さん独特の“冷たい熱”のような感触が好きです。 深淵の底に広がる言葉の闇路を切り開く孤独な作業は、心に明りを灯すときめきと同時に、身を削る自傷行為のような痛みを伴うものなのかもしれない。 苦悶によって純化されていくことの甘やかな愉楽は、毒にも薬にも蜜にも聖水にも転調するポテンシャルを秘めた“詩”と向き合う強度を持ち、溺れる危険を承知で言葉に挑む覚悟を決めた者だけが得ることのできる報酬なんだろう。 三人の未来にエールを送りたい。
“芽吹き”を探しているミナコに訪れる雪解けの季節が、希望的な暗示を与えてくれます。 ラスト、人と詩と場所が重なり合う奇跡のような瞬間は、まるで宗教画のようでした。 彼女たちが、人の姿をとった詩の精霊のように見えました。


わたしたちはまだ、その場所を知らない
小池 昌代
河出書房新社 2010-06 (単行本)
関連作品いろいろ

| comments(0) | trackbacks(0) |
怪談 牡丹燈籠 / 三遊亭円朝
アンソロジーの「牡丹灯籠」を読んでから、円朝の「怪談 牡丹燈籠」の全容に興味が湧いて読んでみました。 序文はなんと坪内逍遥! 速記という新しい技法を用いて口語調で書かれた文章の躍動感を称えています。 同じく序文を記した速記者の若林玵蔵も“言語の写真法を以って記した”と誇らしげ。
大衆に広く親しまれ、のちの言文一致運動に大きな影響を与えた講談速記は、明治17年出版の本作、「怪談 牡丹燈籠」に始まります。 正直、現代人には当たり前すぎて、有難味すら全くわからないわけなのですが、心を凝らせば、この画期的な書物を手に取った当時の人々の感動に想いを馳せることができるという別の感動がありましょう。 そしてむしろ、耳慣れないのに懐かしい昔言葉の名調子は、またちょっと違う価値観で現代人の心を擽るものがありましょう。
辻褄の合わないところは幽霊のせいにして、上澄みを掬い取るように読むのが手本なのかもしれませんが、敢えて、斜め裏読み(?)的な色眼鏡で読みたくなってしまう・・そういう気持ちを掻き立てられる話だなぁと思いました。
主従や親子の血筋の因果が廻る仇討話に、男女の転生の因果という幻想的な風合いを織り込んだ人情もの・・ですが、軽やかに舞台を転じながら視点と場面がテンポ良く入れ替わる展開や、ストーリーの巧妙さ、勧善懲悪的な様式美を愛でるだけではあまりに勿体ない。 なんかね。 尖んがった幻想作家が書いた型破りの推理小説っぽい面白さですよこれ。
今日、カランコロンの幽霊譚として独り歩きしている一場は、むしろ、中国明代の民話「牡丹燈記」や、それを翻案した浅井了意の「牡丹灯籠」の円朝バージョンとして完結させた趣きですが、確かに、全く本筋ではない新三郎とお露の悲恋譚の、儚さや存在感の希薄さが“幽霊的”でとても綺麗な印象を残します。 と同時に、全編通して読むと、ほんとに幽霊だったの? という陰翳がそこはかとなく深いんです。 新三郎殺しは種明かししたけど、あとは勝手に想像してね的な突き放し感がクールですらある。 今日では、白翁堂勇斎が直に幽霊を見たことになったりしてるけど、円朝はそう語っていなかった。 “幽霊を見た”のは、恋に狂って神経を病んだ新三郎と悪党の伴蔵だけなんだよね。
この語りの特徴として、内面描写と客観描写に納まりきれない“本人の言い分”とでもいうべき建て前描写(?)が堂々と紛れているため、一部の真実は最後まで読者に明かされていない可能性があることを念頭に置くべきです。 少なくともそのような嫌疑をかけて然るべき余地は十分にあります。 つまり、なぜそんな嘘をついているのか? なぜそんな思い込みをしているのか? ということが説明できれば、いかようの解釈をも拒まない寛容さがあるんです。 そう考えると百両の流れもチラリホラリと仄見えてきそうではないか?
新三郎が舟の上で見た怪夢や、徳の高い良石和尚や白翁堂の千里眼など、本当の不思議の要素と、不思議を隠れ蓑にした人間のあさましき姦計を平然と同列に語ることで生まれる曖昧さが、非常にノワールなのである。
リアル小説の不文律を無視した語り(騙り)が、今読むと逆に斬新さを提供してくれることが嬉しく、この解放的な底巧みには、現代小説の閉塞感(なんてものがあるとすれば)を破る一つのヒントが隠されているように思えてならなかったです。


怪談 牡丹燈籠
三遊亭 円朝
岩波書店 2002-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★
| comments(0) | trackbacks(0) |
サム・ホーソーンの事件簿2 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] 原書の刊行予定が待ち切れずとばかり、第2巻は日本独自の編纂で13話から24話までの12篇を本国に先駆けて刊行した恰好のようです。 エドガー賞を受賞した「長方形の部屋」(レオポルド警部もの)を併録。
あとがきでは、ご丁寧にも“サム・ホーソーン医師略歴”の更新、補足をしてくださっちゃって・・orz これはもう嫌がらせとしか思えないんだが・・仕方ないのかなぁ。 まだこの時点でも、先々の刊行予定の目途が立っていなかったようなので、ファンサービス的な意味合いも込めての情報提供だったのでしょうけども。 改版するときは是非とも配慮して頂きたいものです。 略歴読んでなかったら、サム先生とエイプリルって、もしかするともしかしゃうんじないの〜? 意外と意外に大穴なんじゃないの〜? って思ってたかもしれないのに^^;
ま、そうは言ってもメインは謎解きですから。 これがね。相変わらずの安定感でホントに楽しい。 探偵小説のサブジャンルとして“不可能犯罪”に特化したシリーズなので、衆人環視の殺人や人間消失や、人体密室(凄い!)あり、空中密室あり、目もあやな謎の提示が特徴的ですが、その回収としての結末に失望しないだけのクオリティが一様に保持されています。 オカルティックな伝道集会や幽霊屋敷や古い風車小屋、19世紀に流行したという八角形の家、密造酒に絡んだギャング抗争の一端や大都会ボストンの殺人鬼や曲芸飛行のパイロットやジプシーの呪い・・などなど、舞台やモチーフも雰囲気満点。
第2巻は、1927年の秋から1930年7月まで。 アメリカ社会史の出来事を踏まえつつ、ニューイングランドの片田舎の生活風景が物語の中に息づいていて、保守的な地盤の中にも、時代の移り変わる兆しが見え隠れしています。 大きな記念病院が開院し、黒人医師がやってきたり、フェミニズム思想を持つ女性やフラッパーな女性が生新な香りを振り撒いていたり。 雑貨店の一角の郵便業務が郵便局として独立したり・・
住民からは治療のために、レンズ保安官からは犯罪解決のために、サム先生が呼ばれる日々が平常風景^^ 読み進めていくうちに、縦糸と横糸の密度が増して、ノースモントという田舎町に自分がどんどん馴染んでいくのを感じます。 シリーズものを読む悦びです。
2巻目に来て、背景の人間模様にも若干ウェイトが加味されたかな? と思える向きもあり、郵便局のドタバタチックな光景を大恐慌の始まりに絡めて描いた「ピンクの郵便局の謎」などは、珍しくちょっとリリカルで、しかも殺人の起きないミステリという異色作だったのが印象的。 レンズ保安官との親交など、しつこくなくさり気ない味わいがあり、推理の箸休めとしての匙加減が申し分ない。
ミランダとのロマンスをはじめ、サム先生の周辺に妙齢の女性がチラついてきました。 でも結末知ってるからなぁ・・orz あと、特徴的な出来事としては、7年乗った愛車のピアース・アロー・ランアバウトとの悲しいお別れが。
筆頭容疑者になってしまったり、密室に閉じ込められたり、ギャングに誘拐されたり、サム先生危うし! な場面もありますが、我らがホーソーン医師はいつもスマートで理知的。 半ば慢心すれすれの、恐れ知らずの自信に満ちた若者の息吹きが、厭味にはならずにむしろ眩しいのは、サム老人が回顧しているからなんだろうな・・


サム・ホーソーンの事件簿2
エドワード・D・ホック
東京創元社 2002-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
| comments(0) | trackbacks(0) |
トリスタン・イズー物語 / ジョゼフ・ベディエ 編
[佐藤輝夫 訳] よく知られている“イゾルテ”はドイツ語読みで“イズー”はフランス語読みらしいです。 12世紀中葉にフランスで成立し、のちにドイツをはじめ、ヨーロッパに名を馳せた愛の叙事詩。
ケルトに起源を持つといわれる伝説に魅了された当時の宮廷詩人らが、同時代人のために妍を競うように翻案したそうですが、残念ながら多くは消失し、散り散りの断片でしか残っていないのだとか。 その様々な異本の残塊を丹念に拾い集めて底本とし、到達しうるかぎりの最も古い形で19世紀末に再生させたのが本書。 中世文献学者ベディエの遺産です。
コーンウォールを中心に、アイルランド、ウェールズ、ブルターニュと舞台はケルト圏ですし、トリスタンとイズーの運命を支配し、死に至る熱病の如き愛によって二人を結びつけた秘薬が象徴する魔術など、ケルト的痕跡を色濃く残しつつも、中世キリスト教社会の精神の中に語り直されたその融合的色調を興味深く読みました。
十字軍時代の抑圧的な社会にあって、秘かな感情を贖う物語として熱狂的に受け入れられたんでしょうねぇ。 如何なる理非をも越えた愛の宿命が甘美な破滅に昇華するというタナトス的至福への飽くなき畏怖と憧憬は、人の世の永遠の主題なのかなぁ・・としみじみ。
騎士トリスタンと王妃イズーの、喜悦と苦悩に縁取られた悲恋譚を軸に、剣と魔法の冒険ストーリーを軽く絡めた趣きなので、なんというか、新訳で読んではいけないかもしれない。 勇壮な活力に鼓舞された愛の表現は、現代においては些か陳腐に成り下がってしまう恐れがあると思うのですが、その点、滑稽さや稚拙さを神聖なるものへと高め、世界観の中に無理なく誘ってくれる典雅な訳文が素敵でした。
でもこれ、逆説的に愛という途轍もない感情の極致を“秘薬”というアイテムに結晶化させたともいえるわけで。 秘薬が先か、愛が先か。 運命と意志が交錯するような・・いわく言い難い不思議な感慨に陥るのです。 恋愛をストレートに表わせなかった(であろう)時代にあって、トリスタンとイズーは、言わば抗えない力の犠牲者の形をとって描かれているのですが、そこにこそ、現代人がこの物語に向き合える鍵が隠れているかもしれない。 “恋に落ちる”という情動の深淵を覗き見るような哲学的な何か・・
それと、マルク王の葛藤が陰翳を刻んでいて、読み方によってはマルク王にこそ、感情の照準を合わせてしまいそうになるほどでした。 マルク王が秘薬を飲んだという説を採らなかったのは編者の慧眼というほかありません。
田辺聖子さんの「隼別王子の叛乱」(の第一章)がずっと頭に浮かんでいました。 そうかー。 トリスタン伝説の本朝版だったんですねぇ。 そうだったんだー。


トリスタン・イズー物語
ベディエ 編
岩波書店 1985-04 (文庫)
関連作品いろいろ

| comments(0) | trackbacks(0) |