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チャリング・クロス街84番地 / ヘレーン・ハンフ
[副題:書物を愛する人のための本][江藤淳 訳] “イギリスの神保町”とも呼ばれるロンドンのチャリング・クロス街にある一軒の古書専門店マークス社に宛てて、ニューヨークに暮らす劇作家の女性(著者)が送った一通の注文書をきっかけに、1949年から1969年の二十年に渡って交わされた手紙のやり取りを編集した往復書簡集。 本好きなら、きっと誰もが憧れずにはいられないような、軽い嫉妬を覚えるほどの素敵な交流の記録です。
米ドルの力が示すアメリカの繁栄と、戦後の痛ましい窮乏から徐々に立ち直るイギリス。 第二次大戦後二十年の両国の背景が透かし絵のように刻まれているのも、奥行きを感じさせる一因なのでしょう。
古き良きイギリスとその文学に惹かれる利発なアメリカ人女性と、彼女の要望と快活な語り掛けに対して折り目正しい誠実さに控えめなウィットを忍ばせて応えるイギリス紳士・・という構図なんですが、著者ヘレーンと担当者のフランク・ドエル氏、両者の呼吸が紡ぎ出す空間の居心地のよさといったら、本好きなら・・ふぅ。 以下略。
どうだろう・・ ヘレーンの心を覗くことはできないけれど、長の年月、夢に見ていたイギリスへの訪問を、結局ずっと躊躇っていたようにも窺えて。 チャリング・クロス街84番地の古書店を通して、ずっと彼女の傍に寄り添っていた文学の中のイギリス、心のイギリスを壊したくなかったのかな・・ 生前、お二人が一度も会わず仕舞いだったことが、いつまでも鼻の奥をジーンとさせるのです。 そこに“文通”の持つ淡く甘やかな美風を重ね合わせ、名状し難い余韻とともに本を閉じました。
イギリスの食料が配給制だった時期、ヘレーンは盛んに卵やハムの小包をマークス社に送るんですが、フランクが出張中だったりすると、“フランクのハンフさん”に、勝手に手紙を書いていいものかと、同僚たちがおずおずと気を揉みつつ、でも居ても立っても居られずとばかり、各々こっそり(?)御礼状をしたためていたり、イギリスを訪れたヘレーンの友人夫婦が、マークス社に立ち寄ってみたら、“ハンフさんのお友達”を歓迎するためにぞろぞろと店員さんたち挙って出て来ちゃったり・・ 微笑ましくて温かくて心擽るエピソードの数々♪
17世紀から19世紀ごろの英国古典文学が手紙の中で綺羅星の如く踊っています。 わたしは全くついていけないんですけど、著者が愛する、その馥郁とした息吹は胸いっぱいに吸い込むことができました。 歳月が育んだ古書のゆかしい美しさと一緒に。


チャリング・クロス街84番地
−書物を愛する人のための本−

ヘレーン ハンフ
中央公論社 1984-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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白昼の悪魔 / アガサ・クリスティー
[鳴海四郎 訳] 夏のヴァカンスで賑わうデヴォン州近郊の小さな離島、その海岸沿いに佇む白亜の高級リゾートホテルのテラスで、デッキチェアに身を沈め、海水浴客で賑わう浜辺を眺めながら、ホテルの長期滞在客たちが瑣末な世間話に興じる優雅な光景で幕をあける本作は、なにか目が眩むほどに白昼夢のような別天地感を湛えていて胸が詰まります。 看護婦や薬剤師に志願し、ロンドンで空爆を体験しながら、どんな想いを込めて執筆したんだろうなって。
スマグラーズ(密輸船)島のジョリー・ロジャー(海賊旗)ホテルなんてロマン香るネーミングがもう浮世離れしていますし、ピクシー(荒野の妖精)湾にある洞窟、一面ヒースの生い茂る野原、八月の太陽、紺碧の海・・ 絵のように美しく煙る保養地での探偵遊戯。 暗い現実なんて絶対に描いてやるものかという心意気が偲ばれる(気がしてしまう)、第二次大戦中のイギリスがもっとも苦境にあった時期にクリスティーが遺した作品なのです。
長閑な島で誰もがヴァカンスを満喫していたある日、滞在客の一人である元スター女優が陽光の降り注ぐ海辺の一角で扼殺された死体となって発見されます。 白昼に悪事あり。 いったい誰が殺人狂の悪魔なのか・・ 名探偵ポアロが捜査に乗り出します。 自家薬籠中の暗示めいた手掛かりも冴えに冴えていますが、加えて、むやみに難しくない直接的で親切な、煙草の吸殻を拾い上げる類いの(ポアロのお好みではない)手掛かりも多く、頑張れば推理参加できそうなくらい堅実なミステリという印象。 事件の構図を複雑にする思惑の絡ませ方も流石です。 こね回し過ぎず、絶妙の匙加減で機能させていてスマート。 犯行計画が偶然に頼りすぎなのは(クリスティー仕様として)もはや許容済みで気にもならなくなってるんですが、若干快楽要素がある犯罪なのが異質というか新味。 そう思わないと動機が弱いのだ。 だからこその“悪魔”と言える犯人像。
なんという既視感だろう・・と思ったのも当然で、これは、短篇「砂にかかれた三角形」に改変を施して長篇として仕立て直した作品と理解するのが妥当でしょう。 あちらは短篇ということもあり、サスペンスフルなアイデアストーリー(の一級品)という感じで、トリックそのものには重きが置かれていませんでしたが、本篇はその部分が大幅に補強、修正され、謎解きミステリ小説としてのきちんとした骨格を具えた別物の作りになっています。 人間関係も何枚か厚みが施され、読後感の良いロマンス小説としてのドラマ要素が加味されています。 導入部に関して言えば、もう“似ている”なんてレベルではないのですが、ここまでの相似形にはむしろ、短篇版を知っている読者へのミスディレクションとしての狙いが含まれていると思えてなりません。 あの「女性と組んでいる共犯」は誰か? つまり、あの「二人の男性の正体を真逆」に作り変えたところが振るっていて、そう来るのか!とニヤリ。 リゾート感全開な雰囲気はそっくりですが、地中海のロードス島からイギリス南西部の架空の小島へと舞台も変更されていて、短篇版を既読でも読み比べる楽しみが横溢しています。
個人的にはウィットたっぷりなガードナー夫妻がお気に入り♪ お得意の風刺的キャラではあるんだけども、まさかクリスティーが描く夫婦像に癒されるとはね^^;


白昼の悪魔
アガサ クリスティー
早川書房 2003-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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泡をたたき割る人魚は / 片瀬チヲル
これが新時代の人魚姫伝説なのでしょうね。 現代版人魚姫の日常であり、神話です。 ストーリーも元来の「人魚姫」を擬えていて、その違いに自然と目が奪われる仕掛けになっているところが巧いなぁと思う。 若い作家さんらしい鋭敏な感性に支えられた瑞々しい文章の煌めきに惹き込まれました。 月や星座、虫や草花、貝殻や魚、絵の具の色彩が、空の青と水の青のグラデーションに包まれ、滲み、瞬いている空間は、どこか無機的で、希薄で、静謐で、レプリカのようで、とても綺麗。 皮膚と鱗の境界や、人それぞれが所有する“泉”の肌触りなど、観念的なモチーフが寓話の中で生き生きと開花しています。 一番圧倒されたのが人魚に変身する刹那の描写。 キリキリと胸が痛むようで、体の芯がぞわりと痺れるようで・・鳥肌が立ちました。 ちょっとベルニーニのダフネを思い浮かべてしまった。
恋がしたくて人間になりたかった古の人魚姫。 恋をしたくないから魚になりたい今人魚姫。 草食系ならぬ魚系ですからねぇ。 いわんや肉食系をや。 というか、誘惑と拒絶を併せ持つ“人魚”という具象がとてもしっくりくる恋愛観。 人と魚のいいとこ取りなのか、それともその真逆なのか・・
楽じゃ物足りないし、大事じゃ重すぎる。 責任の伴わない永久的愛情を求めても無理ってものなのだけれど。 人の心は変容する。 その最たるものが恋だから、恋が怖い。 というのは、もう若者じゃないけどわかる感情です。 鬱陶しい情緒に煩わされたくないという気持ちを拗らせて、逆にひどく不自由で面倒くさく生きてるみたいに見える。 恋という縛りを逃れようとしていたら、恋という縛りから逃れたいという状態に縛られてしまってるみたいな。
古の人魚姫は恋破れて泡になったけれど、恋が始まりさえしない今人魚姫は、泡となることもなく、無精卵を産んで自分で食べてしまう水槽の中のグッピーみたいに、溜息の泡を尾ヒレで無為にたたき割っている・・ 今王子が結婚相手に人魚を求めるというのも、何かとても諷刺的。
干渉し合わないという居心地の良さは、一見、スマートなようでありながら、自分のしてあげたいこと、してほしいこと、それだけの関係でしか他人と繋がろうとしない閉鎖的なエゴにもなり得るだろうし、いかにも現代チックな病理を突き付けられている心地がして・・ そんな遣る瀬無さが、お伽話のように美しく汚れのない舞台の中に腐敗するように溶け込んでいて、ふわふわしているのに鋭利で・・ 非常に世界観豊かな作品だと感じました。


泡をたたき割る人魚は
片瀬 チヲル
講談社 2012-07 (単行本)
関連作品いろいろ

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青蛙堂鬼談 / 岡本綺堂
[副題:岡本綺堂読物集二] 春の雪の宵、怪談会の集いに招かれた十二人の客人たちが、代わる代わるに一席ずつ話を披露するという百物語趣向の連作怪談集「青蛙堂鬼談」に、単行本未収載の短篇二篇が付録されています。 大正後期発表の作品群。 平明な語りの品の良さが非常に心地よい・・
中国では、“祀って敬えば福をもたらし、ないがしろにすれば禍を招く”という青蛙神にまつわる民間信仰が杭州地方を中心に広く根付いているらしく、ざっと説話を繙くだけでも様々なバリエーションの変化が確認できるんですね・・と巻末の解題で知りました。 綺堂は本編の導入部で、“金華将軍”という名の三本足の蝦蟇の由来を、清の阮葵生の「茶余客話」を参照しながら紹介してるんですが、これも青蛙神伝説の一つの枝葉ということになるんでしょう。
会を主催した主人は、支那通の知人からこの話を聞いて以来“青蛙堂”と号し、支那みやげに貰った三本足の蝦蟇の竹細工を床の間に飾って珍重している趣味人なのです。 床の間に控える青蛙神が聴き手に加わる恰好で、舞台にちょとした緊張感が生まれています。
で、まず、青蛙神の話の流れを受けて、青蛙堂主人に件の伝説を教えた支那通の客人が第一の話者として、青蛙神にまつわる(明代末期江南の)別の伝説を披露するんですが、ここからはもう綺堂の創作で、以降、江戸末期、維新の動乱期、戦国末期から江戸初期、明治大正期、日露戦時下の満州・・と、話者毎に舞台を転じながら、多彩な怪異の数珠が連なります。
綺堂の創作の淵源には志怪小説の素養の膨大な蓄積があり、その汲めども尽きぬ源泉から吸い上げるエッセンスを大切に扱い、原初の名残りを消し去らないのも魅力なんじゃないかなと感じます。 なんていうか・・東洋人なら誰もがDNAを疼かせずにはいられない懐かしさ。
解題によれば、実に本編の作品もその多くが志怪小説に材を得ているのだそうで、博覧強記の柴田宵曲さんが「綺堂読物の素材」の中で典拠に触れているそうです。 てか、宵曲さんの頭の中に入ってみたい・・ なんで砂漠の中の一粒一粒を見つけ出せるんだ?
“話はあとも先もないほうが面白い”と「捜神記」の水脈を絶やさず、怪談に理屈を持ち込むことを好まなかった綺堂が紡ぐ怪異譚には、非計画的な効果を知り尽くした人が書いた、知的操作を剥き出しにしない洗練された素朴さがあります。
抒情は時空間の質感や温度を匂わせる映像美でのみ表現されていて、そこには、帰趨するところを知らない人心の底なしの闇のようなものが渦巻いて・・といった淡い基調が、実話に根差した本物の伝説のような臨場味を醸し出すのです。
どれもそれぞれに上質感が漂うんですが、「猿の眼」が抜きん出ていたかな。 ぞわっと襲う不穏な感覚のただならなさが美味。 「龍馬の池」も好きでした。 こちらも不合理さが際立つ話なんだけど、寂寞とした幽玄な風情が幻想的で寄る辺なく・・
水戸の城下に伝わる「梟娘の話」と、遠州七不思議の一つとして知られる「小夜の中山夜啼石」という、2つの民間伝承を、江戸期の随筆や資料に取材して紹介したエッセイ風の掌編も、本編の“付録”として好もしく、総じて、時間に汚されることのない名品だと実感しました。


青蛙堂鬼談 −岡本綺堂読物集二−
岡本 綺堂
中央公論新社 2012-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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もうひとつの街 / ミハル・アイヴァス
[阿部賢一 訳] 未知の文字で書かれた一冊の古本を手にした語り手の眼前に、この世界と紙一重の裏側で蠢く奇妙な平行世界への扉が開かれます。 越境への誘惑に駆られ境界線上を放浪する語り手・・ その足取りを追うという粗筋だけを眺めれば非常にシンプルですが、シンプルほど厄介なものはないの好例のような作品です。
虚数の世界、反物質的世界を想起させられるんですが、それらは遠い原初への郷愁を呼び覚ます装置として具現化されています。 人の意識の古層に疼く、対を成すもうひとつの世界の断片的な記憶や、おぼろな共感を頼りに、かつて一つだった遠い昔の肥沃な暗い輝きを思い出そうとするテキストは、ボルヘスやカルヴィーノの地平を切り開く作家(と紹介されていました)に相応しい魔術的な色彩を迸らせて飽くことがありません。 覚悟してはいたものの、いやはや、探究的で、宇宙観的で・・ 虚を突かれる形而上学的刺激に満ちた物語でした。
でも、うっとりするほどシュールでファンタジックな細部のモチーフの連なりによって、寓話のようなムードが全編を押し包んでいるし、境界に亀裂が生じた場所に引き寄せられて、向こう側を物欲しげに眺めていた語り手が、じわじわ浸蝕し合いながら、謎めく異郷の怪しい異邦人との接触面を広げていく展開はアドベンチャラスでスリリングでさえあって、難解さを相殺するコスチュームを纏った演出、趣向がいわゆるスプロール・フィクション風な印象も刻んでいます。
そして、舞台となる街、雪の降り積もった凍てつく夜のプラハ。 茫洋と美しく錯綜するミスティなプラハに魅了されずにいられない。 旧市街広場、ペトシーンの丘、カルロヴァ通り、カレル橋・・ ローカルなスポットや街路の隅々まで、雪片と見惑う幻想のベールにすっぽりと覆われて、鈍く淡く混淆しながら闇と光がせめぎ合っています。 ペルッツのプラハと響き合って、もうね、聖地巡礼したくなるほどの魔都レベル。
“重要な伝達を唯一もたらすのは喧騒やざわめきであり、言葉は喧騒やざわめきに意味もなく付随するものにすぎない”とは、まるで、言葉で表現できないものを切り捨て、見失うことで発達してきた言葉の拭い難い一面を嘲笑うかのよう。 そんな境界の向こうの言葉の概念を言語化しようというパラドックスへの果敢な試みは、秩序を根こそぎひっくり返したような悪夢的な文脈が全く頭に浸透せず、大変な消耗を余儀なくされたわたしをもって、その成功の証しと頷いてはいけなかろうか。
“あの世界はこの世界が空っぽとみなす場所にあり、あの世界の空っぽなところはこの世界で満ち足りている”のだとしたら、そもそも捉えられないものを描写しようというのが無理な話なんだが、意味がないという意味、言葉にできないという言葉のジレンマに切り込んで、それを見事に格納してしまった物語だなぁと思うのです。
知覚してよいはずのものだけを知覚するために、自ら無意識に感覚を限定し、制御することや、そもそも知覚に依存し、その世界を万能だと思い込むことが人のリミットになるのだと警鐘を鳴らす一方で、“現実”という認識の不確かさが秘めた可能性に言葉の未来を模索しようとする息吹・・ このテキストに、そんな意味合いを求めようとする硬直さそのものを澄ましてからかってるみたいな一歩先ゆく感。
夜のプラハを彷徨する語り手の蠱惑的な不思議体験は、閉塞感を打開しようと迷走する(恐らくは作家の)思索の旅路そのものなのではなかったでしょうか。 連鎖しながら進むダンジョンは、その一つ一つに何か啓示的でないという啓示が満ちているようで、でもそれは思考した途端に壊れてしまう・・ 認識できるすべてを駆使して行われた認識への反抗小説と言っても過言でないかもしれない。
ただもう、ヴィジョンを創造する幻視力に酔いしれ、堪能するばかりで本望だったよね!って最後には開き直ってしまいたくなりました。 読み終えてみると、まるでメビウスの輪のような、クラインの壺のような・・ 未知とは、捨て置かれ、忘れられた内部に他ならないのだと。 そんな想いがぼつんと残りました。


もうひとつの街
ミハル アイヴァス
河出書房新社 2013-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★
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愛国殺人 / アガサ・クリスティー
[加島祥造 訳] ポアロのかかりつけの歯科医師ヘンリイ・モーリイが何の兆候もなく拳銃で自殺した。 その死に疑問を抱くポアロの前に第二、第三の事件が起こるが、当局による捜査の中止命令、干渉を止めて事件から手を引くようにとの何者かの脅迫など、巨大な陰謀を思わせる不穏な影が纏わりつく。 背後に隠された驚くべき企みの正体とは。
冒頭、誰も彼もが歯痛に悩まされ、図らずも(笑)件の歯科医に容疑者たちが集います。 日常風景的お膳立てを起点とした幾分コミカルな幕開けは、謎解きミステリ小説の稚気に溢れているのですが、第二次大戦初期という時代観が反映されており、登場人物にも政府を牛耳る保守派の大銀行家、過激な共産主義やファシストの若者、諜報活動家といった時代精神の胡乱さをシンボライズしたような面々が顔を並べ、不安定な政情や疑心暗鬼による不寛容さの暗雲が重苦しく垂れ込めています。
計画の段階で偶然に頼りすぎてる嫌いはあるし、自力では絶対に推理できないくらい陽動手段が込み入っているものの、公と私、社会と個人の二面的要素を巧妙に練り込んで真相を煙に巻く複雑なプロットに全く失望しませんでした。 推理小説としても佳作だし、そしてやはり、時の経過に風化しない強度を持ったメッセージを物語に昇華した点が印象深い。 進行形の昏迷の最中にありながら、クリスティーの何よりの武器であるエグいまでの客観性が躍如としていて、近視眼的になってないところに惚れてしまいます。
クリスティー自身の政治的立場は、英国保守主義の伝統に則ったものであったそうですが、本作で描かれるのは、社会システムの是非ではなく、人間存在の問題であり、イデオロギーの対立として落とさないところに衝迫力を感じます。 命の価値の不平等性へのポアロの静かな怒りがあり、決意がある。 それはとりもなおさず、かくあれかしと願うクリスティーの心の反映に他ならないのでしょう。 肉体的な危険にさらされる冒険活劇ではなく、ポアロらしい頭脳戦の推理譚であるにもかかわらず、ここで示される探偵の苦悩、孤独な戦いには、どこかハードボイルドな印象さえ生まれています。 この小説の真髄はポアロのプライオリティにあり、その矜持と品格にあったとさえ思えてきます。 と同時に、かつてあった心性への惜別の情、失われつつあるものへの郷愁が滲み、切ないような思いに駆られもする。
いわゆるマザー・グースの見立て殺人ものではありませんが、目次に並ぶ章タイトルは、マザー・グースの有名な数え唄「One, two, Buckle My Shoe」の詩句を準えており、ナンセンスゆえに想像力を掻き立てる意味深長な節回しが、物語のプロセスと連動するように機能しています。 終章での聖書の引用は、神の聖絶命令に背いたサウル王に「ファシストの冤罪を救った」背教者としてのポアロを重ねているのでしょうか。 それとも、神に見放されたサウル王たる犯人を「必要とし続ける選択を下すであろう」イギリスという国の未来に対する憂い、煩悶、その選択を甘受するポアロ自身、クリスティー自身への問いかけなのでしょうか・・ 暗示的モチーフの埋め込みも自家薬籠中のものとしており、40年代前半がクリスティーの黄金期であることを確信したくなる上質な作品です。 ぶっちゃけ本篇と「ゴルフ場殺人事件」はタイトルで損をしている気がしてならない;;


愛国殺人
アガサ クリスティー
早川書房 2004-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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杉の柩 / アガサ・クリスティー
[恩地三保子 訳] ハンターベリイ邸の未亡人ローラ・ウエルマンの姪エリノアと義理の甥ロディーは婚約中だった。 しかし野ばらのような娘メアリイが現れるとロディーは彼女に心を奪われ、婚約は解消となってしまう。 ウエルマン夫人が亡くなり、莫大な遺産を相続したエリノアだったが、嫉妬と憎悪に身を窶し、黒々とした深淵を覗き見るように張り詰めた殺意を募らせていたある日、彼女の作ったサンドイッチを食べたメアリイがモルヒネ中毒で急死する。 殺害の機会も動機もエリノアの有罪を指し示すばかりの状況に加え、心に思い描いた願望通りの現実を前にして、良心に責め苛まれ、自らを裁き、自尊心ゆえに容疑の払拭を拒んでしまうエリノア。 一人、エリノアに想いを寄せるピーター・ロード医師が、拘引され殺人罪の名のもとに裁判を受けるエリノアを救おうと、切実な思いでポアロのもとを訪れます。 弁護士が無罪を主張し得るに足るだけの証拠を探してほしい・・と。
被告席から法廷を見渡すエリノアの、取り留めのない心象を映すプロローグの裁判シーン、そこからフラッシュバックするように殺人事件の道程を描く第一部、第二部がポアロの捜査、第三部が法廷劇といった三部構成。 第三部の立役は弁護士に譲り、真相解明パートにおいて今回のポアロは黒子に徹しています。
(エリノアとピーター・ロード医師はシロだと言ってしまったので)ネタを多少割ってますが;; クリスティーは一種の意外性を狙って“最も怪しい人が犯人”タイプの作品を書くことはあったけど、本作は(意外性というよりは)プンプン臭う人物のアリバイ崩しや動機探しに近いスタンスで同タイプを扱っている印象で、ちょっと珍しい感触。 専門知識がないのでトリックは絶対見破れないし、犯人に有利な偶然が重なり過ぎるきらいはあったものの、法廷での逆転劇という胸のすくような鮮やかさに加えて、ゲスト・ヒロインであるエリノアの仮面と素顔のせめぎ合いを読みどころとした点が成功していたため、極めて満足度が高いです。
ポアロが性格分析だの心理学だの盛んに持ち出す割に、今まではどちらかというとお遊び的な扱いに留まるきらいがあったのだけど、本作はプロットへの援用が素晴らしいだけでなく、人間心理そのものに引き込まれます。 あとがきで山野辺若さんが述べておられたように、現代以前の人々の類型標本のような風刺画的な人物造形から、“個”として細分化しながら拡散していく現代人の内面を描くことへクリスティーの関心が移りつつある気配を感じた作品です。
読み終わってもタイトルの意味が全く理解できなかったので調べてみたところ、 原題の「Sad Cypress」はシェークスピアからの引用でした。 「十二夜」を典拠とする詩の一節で、直訳すると“悲しき糸杉”ですが、西洋において糸杉は死の象徴(直接的に棺の材料でもあった)であり、原典では“墓所”や“棺”の詩的表現として用いられているようです。 この“Sad Cypress”を“杉の柩”とした古典訳を踏襲してのタイトルなんですね。 エルガーの「威風堂々」パターンに近い感んじかな。 そしてこの言葉が、激しくも実りなき絶望的な恋の歌の一節であることから、エリノアの心情と重ね合わせることができるのだと判り、のみならず、ウエルマン夫人の過去、そこから現在に敷衍する悲劇をも暗示させているであろうことが切なく沁みました。 メアリイという美しい花が無残に手折られ、その死を贖うささやかな晴れ舞台さえ用意されていない救済のなさは、ハッピーエンドの裏側で反響する声なき余韻となって胸の奥を静かに揺さぶるのです。
ポアロの相棒を務めるピーター・ロード医師は、ポアロが猫なら間違いなく犬キャラで、どこかヘイスティングズ大尉の再来のような趣き。 ポアロに嘆息されたり、“どうしてそう頭が回らないのですか”なんて言われちゃったり、信頼しきってるヘイスティングズ以外には滅多にこんな態度とらないのに。 めっちゃ愛されてるのだ。 これは単なる妄想に過ぎないんだけど、優しくて愛嬌があって心を安らかにしてくれる顔をした、砂色の髪のソバカスだらけの気のいいピーター先生は、擬人化された愛犬のピーターなんじゃないかと。 献辞もピーターに捧げられているし、ピーターが亡くなった時期に書かれていることを思うと、なんだか無性にそんな気がしちゃって。 暗い熱病のような恋情の呪縛を解き、深い傷を癒すことができるのは陽だまりのような無辜の愛に違いありません。


杉の柩
アガサ クリスティー
早川書房 2004-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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ポアロのクリスマス / アガサ・クリスティー
[村上啓夫 訳] 殺人が洗練され過ぎて貧血症的になってきたと指摘され、その返礼として書いたというだけのことはあり、らしからぬ王道的な派手やかさを具えた夢のような仕上がりになっています。 クリスティーからのクリスマス・プレゼントな一冊。 大好き!
かつて南アフリカに渡りダイヤモンドで身代を築いた大富豪の老人シメオン・リーが、離れて暮らす家族一同を招いたクリスマス・イヴに、屋敷の自室で惨殺死体となって発見される。 壊され散乱した調度品や家具類、辺り一面に広がる血の海、断末魔の雄叫び、そして密室! 血がドバーの死体とか、バカミス系物理トリックとかクリスティーがやってくれるなんて、まさかまさかの出血大サービスに歓喜♪ まぁ、外から鍵かけただけだし密室そのものの不可能性をがっつり扱っているわけではないんだけど、大御所の系譜に連なる心理トリックを援用して不可能犯罪を完遂するための副次的な密室状況を上手くお膳立てしてるなぁと思いました。
あの犯人があのトリックを仕掛けていざ起動させる姿を想像して大爆笑。 後から考えると「マクベス」の一文を引用したエピグラフのダブルミーニングにニヤッとなるし、良き伏線となっていた老執事の混乱ぶりが不憫でクスッとなります。 目を凝らして読むとあちこちでいろんな人が“取り違えてる”んだよね^^; 解説読むまで気づかなかったのですが、偏屈なスクルージ老人ならぬ“シメオン老人と三人の幽霊の物語”は、間違いなく「クリスマス・キャロル」への目配せですよねぇ。 しかしながら、家族感情の団結を促し、平和と善意の心を行き渡らせる荘厳な祝祭として、ディケンズが知らしめた古き良き英国のクリスマス精神を見事に反転させる悪魔的茶目っ気の発想が創作の淵源にあっただろうことが察せられます。 クリスマス・シーズンには日頃の不満を抑制して偽善を心がけ合うため、裏を返せばそこに緊張が生まれ、取るに足りなかった嫌悪が突然より重大な性質を帯びて顕在化する可能性があるというポアロの持論が的中する展開に。
因みに背中の後ろの冷たい隙間風が気になるポアロのお好みは、薪を焚べて赤々と燃える暖炉の火ではなく(クリスマスムードもへったくれもない)最新式のセントラルヒーティングとな。 結構新し物好きなんだよね^^
死者の性格が謎の焦点であり中心であるとみてとったポアロが心理学風アプローチで真相に迫る・・ そこはいつもな感じなんですが、“血の犯罪”という象徴的イメジャリーに一貫した整合性を持たせ一本の筋を通しているところが好もしい。 皆を集めてさてパートで、起こったかもしれない可能性を突きつけて無実な者らを一人一人震え上がらせるあの悪趣味な(笑)平行推理披露の段取りさえ、単なるローマン・ホリディではなく、血の中に潜んだ犯罪を象徴する物語の歯車になっているかのようでした。
期待はずれな子供たちに不満を隠せないシメオン老人は、平和の促進ではなく家族間の不和を喚起して気晴らしに面白がろうと目論んで、そんな自らの血に背かれる(因果応報ではあるものの)ある意味では番狂わせの結果となってしまうわけで。 何気に頗る皮肉の利いたストーリーですが、人の心の善性、成長や再生、過去から未来への眼差しを、受け継がれる血と微かに共鳴させることも忘れない、照れ隠しのように素っ気なくも暖かな終局。 今のところポアロ・シリーズのマイベスト♪


ポアロのクリスマス
アガサ クリスティー
早川書房 2003-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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死との約束 / アガサ・クリスティー
[高橋豊 訳] 「ナイルに死す」に続いての中近東もの。 舞台となるのはローズレッド・シティと呼ばれる薔薇色のペトラ遺跡。 クリスティーは雰囲気を過剰に描かないのだけど、禍々しげで妖しげなエキゾチシズムが、今回は少しばかり幻想的で香り豊かでした。
魔力を持った不気味な偶像のように君臨する老女に唯々諾々と付き従う夢遊病者のような家族たち・・ キャンプに参加した一行の中に、奇異に映るアメリカ人一家の姿があった。 しかし、異常な権力欲にとりつかれた独裁者にしてその死が誰をも幸福にする醜怪な家長の老女は、皆が散策に出かけている間に宿舎用の祠で急死する。 旅先での持病の悪化としてなんら不自然なところはないかに見えた矢先、一行に加わっていた医師の部屋から治療用の劇薬と注射器が失くなっていることが発覚し、さらに死体の手首に針の跡が確認されるに至り、誰も望まない殺人事件の捜査が始まることに。 近郊を訪れていたポアロが急きょ呼ばれ、真相解明を託されます。
走行中の乗り物という舞台や、非日常感を活かした豊かな演劇性などの共通項を具えていた「ナイルに死す」も、「オリエント急行の殺人」と好対照に映りましたが、本篇もまた別の意味で「オリエント急行の殺人」を意識して構築したであろうことが想像されます。 虐げられてきた容疑者全員が垣間見せるいかにも犯人らしい不審な行動や、いわくあり気な嘘の数々。 既視感めいた“あの”チグハグな状況を再現し、それを巧妙に反転させる極端なアイデアが採用されていて、読み終えてみればその見事さにニヤリとなります。 相変わらず甚大な想像力を必要とする伏線ばかりで勘に頼らない限り見破れないパターンですが、奇をてらった趣向が仕組まれていて個人的には満足度高めです。 「オリエント急行の殺人」に比べると地味ですが、このやり過ぎ感は双璧と言っていいと思うよ。 証言と時間の推移をその検証とともに(ある法則性に則って)綺麗に逆行していく解明パートが上出来で心踊ってしまいました。
訳のせいもあるのかどうか、ユーモラスなところがほとんど皆無で、ポアロがいつになくクソ憎らしく感じます^^; 圧制者から解放されやっと訪れようとしている家族生活の平和を踏みにじるキャラ的な、あえてヒール役というか、それもまぁ一種のミスリードだったかもしれないのだけれどね。 全体的にトーンが暗いように感じられるのは、目前に迫った第二次大戦の影が否応なく落ちているからなのかな。 ゲストヒロインは新米の精神科医ですし、心理学の大家が登場したりもして、潜在意識の中に潜む人間の悪魔性に対して差し迫った注視のほどが感じられもする。 険しい赤い崖の上の聖地から、残虐性と恐怖の基盤の上に置かれた暴力世界のドアを今まさに開こうとする狂乱の下界を眺めるシーンは、何かしら暗示的で、瞑想的で。 “多くの人を救うための一人の死”をめぐるクリスティーの葛藤がほのかに透けて見える気さえして。 でも踏み込まない解決が自身の役目と心得たエンターテナーが見せるエンディングの軽やかさが、逆にどこか苦しくて心がざわついてしまった。 ちょうど最晩年のフロイトがナチスの迫害を逃れてイギリスに亡命した時期と重なる頃の作品かなと思うと感慨が湧きます。


死との約束
アガサ クリスティー
早川書房 2004-05 (文庫)
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