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雪の練習生 / 多和田葉子
パラダイム、イデオロギー、プロパガンダ、ヒューマニズム・・その他もろもろ時代ごとにあられもなく変転する政治や社会制度、権利や義務に巻き込まれ、翻弄されながら、ソ連から東ドイツ、そして統一ドイツへと生を繋ぎ、サーカスや動物園を通して人間と関わり合ってきた異邦人・・ 北極を知らないホッキョクグマたち三代の物語。 ベルリン動物園のアイドルだったクヌートと、その母、祖母の遍歴が虚実を綾なして綴られていきます。
抗いようのない脅威としての人間も、きっと動物にとっては自然の中の一部なんだろうな。 変化する環境をそういうものとして受け取り、少しでも適応(進化)しようと模索している練習生の姿です。
記憶の地層に歴史となって折り重なった想念が、個体を超越し、種の内側に小宇宙を形成して響き合う・・ 未だ見ぬ北極を血の中に感じてしまうシロクマたちの打ち震るえるイノセント。 乾いた真っ暗な瞳の奥底で涙の雫が蕾のまま凍りついているような感覚に胸が締め付けられて苦しくなってしまうのだけど、疼くような痛みには切々とした抒情があって、感傷を排除しない物語としての瑞々しさがとても美しいのです。 それに細目描写の端々にユーモアが愛くるしい顔を覗かせるから、人懐っこくて優しい肌触り。
三代のシロクマたちは三つの章に割り当てられ、時間を下って描かれますが、それぞれの章の語り手にはちょっとした叙述的技法のトリックが仕掛けられていて、これが物語世界と読者との間に薄い被膜の作用をもたらし、適度な距離感を演出していたようにも思えました。
自分という檻から離れ、世界を眺める視点を提供されながら、現実というのは分解寸前の結晶のように不確定なものでしかないのでは? そんな問いかけで揺さぶりをかけられる感じ・・ どこか、カフカ的な実存の不安のようなものが水面下を貫流していたような気がして。
人間社会の有り様に対するクリティカルな問題意識を散りばめつつ、読者の心を物語の深部で捉え、自らその奥行きを穿っていくような作品で、いつの間にか内省の機会を与えられ、促されていく上質なファンタジーです。
クヌートが死んでしまう直前と言っていい時期に刊行されたことが奇跡のよう。 結びの文章の神々しさ・・


雪の練習生
多和田 葉子
新潮社 2013-11 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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短篇ベストコレクション 現代の小説2005 / アンソロジー
短篇ベストコレクション
−現代の小説2005−

アンソロジー
徳間書店 2005-06
(文庫)
★★

[日本文芸家協会 編] 2004年発表の最優秀作品を厳選したアンソロジー。 朱川湊さんや奥田英朗さんや絲山秋子さんが入ってきました。 当時、リアルタイムで読んでたなぁ。 長篇の人気が高いせいか意外にも宮部みゆきさんは初登場なんですね。 常連の浅田次郎さんや筒井康隆さんの安定感もよき。 2004年は中嶋らもさんが急逝されました。 以下、寸感です。
「雨のあと」は、モームの「雨」の新解釈版ともいうべき作品。 “真面目な小説は怖い”という登場人物の言葉が刺さる。
「チヨ子」は、ハートウォーミングな着ぐるみファンタジー 笑。 不覚にもジーンとして涙ぐんでしまった。 “人は何かを大切にした気持ちに守られている”名言!
「スターティング・オーバー」は、男女3人同期会トーク。 30歳社会人の恋愛模様のリアル。
「タイフーン・メーカー」は、放送作家の夢遠く、七顛八倒の下積み生活記。 トーンが明るく爽やか。
「自転車を漕ぐとき」は、離婚&失業中の孤独な男が、店頭で見かけた自転車をきっかけに甦らせる少年時代の友情と淡い恋の記憶。 “ペダルを漕ぎ出す”再生風の物語なのだが、一抹の翳りが秀美。
「いっぺんさん」も、郷愁を誘う物語。 少年時代のほんのりファンタジックなかけがえのない思い出。 ストーリーの温もりに涙腺決壊。
「鉄の手」は、町工場を舞台にした若者meets老人もの。 老人の“手”に生きざまの刻印を見た若者の成長ストーリー。 ほろ苦くも爽やか。
「バタフライ和文タイプ事務所」は、緊張をはらんだ静かな奇想の世界。 壊れた活字を通した新米タイピストと活字管理者の交感が、なんてフェティッシュでエロティックなことか。 そしてどこか可愛らしい。
「子猫」は、中年女性視点で描かれる男女の再会もの。 パリを舞台にしたエレガントな空気の掌篇なのだが、女性の一瞬の心理をナイフのような鋭さで切りとっている。
「降り暮らす」は、施設で育った義姉弟の共依存もの。 閉じた世界の狂気寸前の甘やかな絶望。
「マジック・アワー」は、キラキラと眩しい青春王道小説。 キュンとして胸がいっぱいになる。
「逃げ道」は、旧時代とおぼしき寒村の因習に絡めとられた類型的な人物の情景として描かれる掌篇で、象徴的な読みを可能にしている。自然災害の猛威を前になす術ない人の姿を重ねてしまった。
「バッド・チューニング」は、整合性、正しさ、狂いのなさを指針として生きる調律師の男の人生模様。 民族楽器の数々が登場する音楽小説でもあり、ラストは仄かに皮肉でユーモラスな風合い。
「名も知らぬ女」も、音楽テイストな作品。 猥雑な街のライブハウスと能楽堂で見かけた謎めいた女性に惹かれていく男が描かれ、やがて羽衣伝説と響き合う。
「ベル・エポック」は、ある友情のかたちが描かれているのだが、二人の女性の間に優しさのような残酷さのような、表面化されない距離感の探り合いや攻防があって、行間が深すぎて読み尽くせなかった。
「かもめ亭」は、港町の料理屋の一日の情景の中に描かれる家族小説。 父と息子の和解が心に染み入るしっぽりとした佳篇。
「精神感応術」は、家族とともに静穏に暮らす祖母の若き日の意外な追憶。 現在と重なり合うラストに小粋なトキメキが。 上澄みを掬い取ったような一篇。
「グレープフルーツ・モンスター」も、平々凡々たる主婦の話。 隠し持つ欲求不満を作者に戯画化されちゃって、もはやおちょくられてるでしょ;; 哀愁と滑稽味がなんとも。 「精神感応術」との並びが切なくなる 笑
「オヨネン婆の島」は、昭和中期の離島の過疎地に住み、本土への移住の決断を迫られる青年視点の物語。 土着の習俗や島の生態が活写され、青年の逡巡とともに得難い光芒を放っている。 あっけらかんとした朴訥さが胸を打つ。
「幻夢の邂逅」は、もし軍医の誤診がなかったら「三島由紀夫」は「桂米朝」と陸軍病院で枕を並べることになっていたかもしれない・・ 深い洞察によって紡ぎ出される歴史のifもの。 ワクワクする!
「冬の旅」は作中作のメタ効果で幻惑させるサイコホラーだろうか。 それとも選ばれし者だけに許された禁断の越境なのかな。 情景が美しく“綺譚”と表現したくなる世界観。
「ワーク・シェアリング」は、皮肉たっぷりの辛辣なユーモアが冴えるショートショート風アイデアストーリー。
今回のお気に入りは「バタフライ和文タイプ事務所」「オヨネン婆の島」「幻夢の邂逅」「冬の旅」あたり。 そしてわからないのに惹かれる「ベル・エポック」。

<追記>
「ベル・エポック」は再読でしたが、以前読んだ時は、静かな切ない友情ものとしか思わなかったし、実は今回も初読はそうでした。 巻末解説の“技巧的”という言葉に触れて、え?という思いでネットのレビューを探したり、再々読したりしているうちに、本当に本当に悩ましい気持ちになってしまいました。
でも誰かの力を借りてですが、自分では辿り着けない深みに触れることができてよかったです。 また読んでみたい。
「子猫」の個人的な解釈です。 当たってないかもしれませんが。
その一瞬、自分が子猫のように感じてしまったんじゃないでしょうか。 相手にとっては束の間の戯れ、慰みに過ぎないのだと。 長い歳月、心の底に熾火のように秘めてきた自身の重すぎる思いとの温度差に対して、直感的に怯えを抱いてしまったのではないかと。

収録作品
雨のあと / 阿刀田高
チヨ子 /宮部みゆき
スターティング・オーバー / 石田衣良
タイフーン・メーカー / 平安寿子
自転車を漕ぐとき / 薄井ゆうじ
いっぺんさん / 朱川湊人
鉄の手 / 三羽省吾
バタフライ和文タイプ事務所 / 小川洋子
小猫 / 高樹のぶ子
降り暮らす / 唯川恵
マジック・アワー / 関口尚
逃げ道 / 筒井康隆
バッド・チューニング /中島らも
名も知らぬ女 / 村松友視
ベル・エポック / 絲山秋子
かもめ亭 / 内海隆一郎
精神感応術 / 泡坂妻夫
グレープフルーツ・モンスター / 奥田英朗
オヨネン婆の島 / 熊谷達也
幻夢の邂逅 / かんべむさし
冬の旅 / 浅田次郎
ワーク・シェアリング / 草上仁
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リヴァトン館 / ケイト・モートン
老人介護施設で暮らす98歳のグレイスの元へ、新進気鋭の女性映画監督が訪れた。「リヴァトン館」という貴族屋敷で起きた70年前の悲劇的な事件を映画化するため、唯一の生き証人であるグレイスに取材をしたいと言う。グレイスの脳裏に「リヴァトン館」でメイドとして過ごした日々があざやかに蘇ってくる。 そして墓まで持っていこうと決めていた、あの惨劇の真相も……。死を目前にした老女が語り始めた、驚愕の真実とは?
[栗原百代 訳] ケイト・モートンのデビュー作。 第一次大戦前夜からの10年間を舞台にした英国もの。 黄昏ゆく貴族社会の様子がくっきりと刻印されている物語・・ってだけで、反則なくらいアドバンテージあります。 面白くないわけがない。
2作目の「忘れられた花園」は、19世紀から20世紀初頭のイギリス児童文学と少女小説のエッセンスやモチーフをふんだんに散りばめたネタ的要素の強い小説に思えたけれど、こちらはもっとずっと素直でストレートな印象。
時代背景に身を沈め、その香を満喫しながら、蒔かれた種の行く末をゆっくりゆっくり見守るように読んでいく感じなのだけど、終盤クライマックスで一気に濃密なゴシックサスペンスが開花するのです。 ロマンス要素が強いけど、そこはやはり、お嬢様と侍女の主従関係の綾がサスペンスの主軸。 で、その真相は、呆気にとられるほど空転的で、え? これでいいの? ってくらい虚しく辛辣だったりする。 ある意味、旧世界の「美しさ」が踏みにじられるような描き方、これこそが移ろいゆく価値観のメタファだったのか。
狂おしい熱情と、戦争が遺した暗い傷と、取り返しのつかない齟齬によってもたらされた痛すぎる残酷なカタストロフが、長い時を経て、やがて廻り交差する運命の糸をもって静かな救済に転じるかのような。 過去、現在、未来を連綿と繋ぐスケール感ある物語でした。
デビュー作「スタイルズ荘の怪事件」を執筆した直後のアガサ・クリスティーがカメオ出演してたのがツボ! 実際のベルギー難民支援活動の様子なんかもチラッと出て、ポアロ来たー! って思ってしまった ホームズからポアロへ。 そんな時好の変遷が顔を覗かせてもいたり。


リヴァトン館 上
ケイト・モートン
武田ランダムハウスジャパン 2012-05
(文庫)

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NOVA 1 / アンソロジー
[副題:書き下ろし日本SFコレクション][大森望 編] オリジナルの文庫SFアンソロジー開幕編。 2010年代の日本SFを牽引して欲しいと編者が白羽の矢を立てた作家たちの競演。 “nova”は英語で“新星”を意味するそうです。
特にテーマを設けず、作家思い思いのSF、またはSF的想像力に支えられた物語の新作が寄せられ、更には、2009年3月に早逝された伊藤計劃さんの絶筆「屍者の帝国」も特別収録されています。 ほんのプロローグなのですが、架空の19世紀ロンドンの闇の輝きが半端なく、続きが気になって仕方なかった。 のちに円城塔さんが書き繋いで完成させ、話題を呼びましたね。 いつか読みたい。
正直、ついて行けるか不安でもあり、果たせるかな手強い作品もありました。 奇想やホラーやミステリのようなテイストから、ガチなSFまで色彩豊かなヴィジョンが広がっていて、なんやかや苦戦しつつも楽しかった。 オーバーヒート気味ではありますが、これくらい尖ってるのも時には悪くない。 少なくとも良い刺激をもらいました。
特に連続した三篇、スペキュラティブ・フィクション的な「黎明コンビニ血祭り実話SP」と「Beaver Weaver」と「自生の夢」は、テキストによる現実改変や語りによる現実拡張の主題へのアプローチが示し合わせたようになされていて、意識の深淵を探るような難解でスリリングな読書体験でした。 書いてて意味不明なんだけど、被書空間で意識が擬人化されてるみたいな、言葉を紡ぎ出す格闘のメタファーみたいな・・ いや、やっぱり上手く言えません;;
「黎明コンビニ血祭り実話SP」は超ドB級で、「Beaver Weaver」は思弁的で詩的で瑞々しい。 壮大なバカバカしさともいうべき疾走感溢れる円城節が、なんだかやっぱり無性に好きなのだと再確認。
そして「自生の夢」は、近未来のリアル感がどこか怖いくらい暗示的で。 キャパ不足でモヤッとした感覚しかつかめないながら一番心を揺さぶられました。 人間性の屍化を食い止めようとする物語にも思えて、もしかすると「自生の夢」は、最終話の「屍者の帝国」の未見の完成形と共鳴しているんじゃないかという胸騒ぎ。 “忌字渦”と“霊素”は何か繋がりがあるのではないかと詮索してしまった。 少なくとも、どうしようもなく伝わってくるのは「自生の夢」が伊藤計劃さんに捧げられているんじゃないかということ。 ↓は音読して痺れたフレーズ。
知をそなえた不滅の言葉の臓器。
それが我々の計画だ。
あと、印象的なもう一篇のお気に入りが「忘却の侵略」でした。 未知の侵略者による人類への攻撃を阻止しようとするハードボイルドな展開と、“シュレディンガーの猫”の問題を量子力学的世界観で捉えた理詰めの謎解きとが融合するミステリ基調の作品。 爽やかな青春小説の味わいもあり、すごくよかった。
「社員たち」は、営業から戻ったら会社が地中に沈んでいたという話で、有無を言わさずヘンテコな世界に放り込まれるシュールな小品。 サラリーマンの悲哀めいたものを漂わせながら、何かが決定的に不確かで心許ないまま、その世界の妙にしっぽりとした夫婦の日常に付き合わされる不思議感覚。
「ゴルコンダ」もシュール系で、こちらは、ほのぼのとハートウォーミングな調子。 引越し祝いに先輩の新居を訪れた僕が「ほんと、大きな家ですねえ」と言うと、「しかたねえだろ」と返される。 文字遊びを土台にしたチャーミングな作品。
「隣人」は、日常がどんどんグロテスクに歪んでいく狂想的な不条理ホラーで、孤立する一人称の主人公側が常識人なのか狂人なのか、幻惑の靄の中に誘い込まれる感覚がたまらん。
「ガラスの地球を救え!」は、全力でサブカルに捧げたスペースオペラ。 遊び心を解放した作品で楽しかったー。 最後の一文でおバカ世界がひっくり返る感じがちょっとかっこいいのだ。
時空ロマン香る叙情豊かなラブストーリー「エンゼルフレンチ」や、月面で起こった殺人事件を解決する真面目な本格推理小説の様相を呈した「七歩跳んだ男」も、それぞれに佳き個性が弾けておりました。
世界が予測不能に暴走し、戸惑い、受け入れ、抗い、挑み、流され・・ 総じてそんな作品が多かったように思えました。 そこにはいじらしいまでの人々の生の営みがあり、刹那の強烈な瞬きがありました。

収録作品
社員たち / 北野勇作
忘却の侵略 / 小林泰三
エンゼルフレンチ / 藤田雅矢
七歩跳んだ男 / 山本弘
ガラスの地球を救え! / 田中啓文
隣人 / 田中哲弥
ゴルコンダ / 斉藤直子
黎明コンビニ血祭り実話SP / 牧野修
Beaver Weaver / 円城塔
自生の夢 / 飛浩隆
屍者の帝国 / 伊藤計劃



NOVA 1
 ― 書き下ろし日本SFコレクション ―

アンソロジー
河出書房新社 2009-12
(文庫)

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さよーならみなさん / 西村ツチカ
みなちゃんは日々バイトに精進する女子高生です。但し自転車には乗れず登下校も徒歩なので満員電車でさわぐクラ友、森の中で補講するイケメン教師、寝ぐせで悩む下級生など様々な厄介男子がみなちゃんの周辺に現れます。すわ善良なみなちゃんは、困難をかわし続けて普通の幸せを掴めるのか!?
天然系の可愛い高校生女子が、めっちゃ濃い拗らせ男子に次々と遭遇してしまうお話。 シンプルで繊細な独特の線画が素敵だった。
シュールなメルヘンのようでありながら、現実世界のエッセンスを的確に抽出してる感じ。 しっかりとは捉えられないけど、やはり人の営みのリアルな反射光に違いなく。 随所でクスッとしたり、ニヤッとしたりしてしまうのはその証拠なのだと思うし、取り留めもなくざわざわした感覚も訪れる。 さらっとしてるのに侮れず。 ほんわかしてるのに底知れず。 なんともはや…な世界観。
しかし、こんな不条理ワールドがものの見事に淀みなく収束するラストの強引な(笑)爽やかさ・・ 強烈にアヤシすぎて好き まさに“絵に描いたよう”な少女漫画の王道をキモ男子がやってみました的な展開。 どーした? みなちゃーん! これでいいのか 持ち前の天然パワーでチギッては投げチギッては投げ躱し続けてきたというのに。 ダブルミーニングなタイトルも意味深だし。 って、こんな読みで合ってるか甚だ疑問符


さよーならみなさん
西村 ツチカ
小学館 2013-10
(単行本)
★★★★
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顎十郎捕物帳 / 久生十蘭
半七捕物帳」と並び称されるほどの捕物帳の名作、でありながら、今日の知名度が作品の真価に見合っているとは思えない・・ 久生十蘭という作家の御し難さを追求するベクトルからは少し外れたところにポッカリと陽気に浮かんでるような作品だなぁという印象だった。 ちがうかなぁ。
江戸末期を舞台にした全二十四話の連作短編集。 北町奉行所の筆頭与力、森川庄兵衛の甥の“顎十郎”こと仙波阿古十郎を探偵役とした判じ物。 一説にはシラノ・ド・ベルジュラックが顎十郎のモデルとされているとか。 へぇ、指摘されなければわかりませんが、なるほど確かに、長生糸瓜さながら末広がりにポッテリと長く伸びた(鼻ならぬ)顎をブラブラさせているという異相の持ち主で、気だてのいい器量よしの従妹(庄兵衛の秘蔵っ娘)に恋心を抱いていそうな含みもあり・・ 少なくとも出だしはそうでした。
しかしねぇ。 設定に執着がない! なさすぎ! 物語的にこれからっていう良さげな頃合いでバンバン切って惜しげもなく転調していく柵のなさっぷりにあんぐり。
甲府勤番の伝馬役を半年足らずで投げ出し、ひょろりと江戸へ舞いもどり、与力の叔父の手引きで北町奉行所の同心見習いとして例繰方におさまった顎十郎が、難事件を解決しては叔父に手柄を立てさせてうまうま小遣いをせしめるというのが前段。 “れいの遠山左衛門尉が初任当時ちょっとここにいただけ”で、あとはパッとしない存在の北町奉行所が、顎十郎の活躍で俄かに盛り返し、北と南の鍔迫り合いが繰り広げられる中段。 悪党に嵌められて、あわや御用となりかけた失態をいいことにお役御免を願い出て、しがない駕籠かき渡世に(殆ど酔狂で)身を転じるも、かつての子分である御用聞きのひょろ松から師匠の先生のと頼りにされて、成り行きで知恵を貸してやることになるのが後段。 といった具合。
顎十郎は“年代記ものの、黒羽二重の素袷に剥げちょろ鞘の両刀を鐺さがりに落としこみ、冷飯草履で街道の土を舞いあげながら、まるで風呂屋へでも行くような暢気な恰好の浪人体”で、名うての風来坊。 トホンとした顔つきをして悠揚迫らぬところがあって捉えどころがないといった風ですが、その実は推才活眼。 読んでいて一番面白かったのは、南町奉行所のホープ藤波友衛との遣り合い譚。 といっても一方的にライバル視して“顎化け”と一騎打ちだー!って鼻息荒いのは藤波さんばかり。 どこ吹く風の顎十郎が、飄々と手柄を譲ってくれたり、命を救ってくれたりするから、なおいっそうムキー!ってなっちゃう屈折ぶりが微笑ましくて不憫^^;
全体的に理詰めで綾を解くパズラーっぽい趣向で、ミステリとしての輪郭をくっきりと感じることができます。 御三家奥女中の一行が芝居見物の帰途、乗物もろとも煙のように消え失せたり、両国垢離場の見世物小屋の鯨が一瞬のうちに忽然と姿を消したり、今しがたまで行われていた長閑な日常の様子をそっくり留めたまま、相模灘の海上で無人の遠島御用船が発見されたり、いわゆる消失ものだとか、金座から勘定屋敷へ送る御用金の小判がすり替えられたり、舶載したばかりの洋麻の蕃拉布(ハンドカチフ)を巻いた開花人が次々と殺められたりする衆人環視ものだとか、縁起まわしの大黒絵や、呉絽服連の帯地に施された都鳥の織り出しと辞世の句に秘められた暗号解読ものだとか。 あとは定番の怪異の絡繰りものもいろいろあって、越後信濃由来の妖魔かまいたち、蛇神の祟り、五寸釘で梁に打ちつけられた守宮の祟り(「西鶴諸国ばなし」に出てくる有名なモチーフがここにも!)などなど。 怪談「金鳳釵記」に擬えた見立て殺人なんてのも。
万年青づくり、鶴御成、凧合戦、二十六夜待、谷中の菊人形、賜氷の節、六所明神の真闇祭り、小鰭の鮨売りの甘い呼び声・・ 精緻な世相風俗が描き込まれ、ラストにごちゃごちゃ付け足さない寸止め加減が、よりいっそう、いなせな江戸情緒を香り立てるのですが、虚の中に実を、実の中に虚をシレッと放り込む知的法螺吹き感が心憎く、現在形や体言止めを用いた風を切るように軽やかで、踊るようにリズミカルな文章に浸っていると、ほんとに江戸なのかしら?と一種、不思議な浮遊感に駆られるのが忘れ難い味わいです。


顎十郎捕物帳
久生 十蘭
朝日新聞社 1998-04 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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