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虚無への供物 / 中井英夫
1954年9月、千五百人余りの死者、行方不明者を出した洞爺丸転覆事故に始まる“氷沼家の崩壊”の物語。
最初と最後のカーテン開閉のシンメトリーが舞台美術として最大の効果を上げています。 地上の現実を裏返しにして、非現実の眼鏡をかけて透かし見た探偵小説世界という名の禁断の反世界が見事に封じ込められているのです。 そこは、終戦の十年後という時代風俗と、ロマネスクやゴシックの意匠が香る、夢とも幻視ともつかない熱病的な雰囲気に包まれた眩惑のワンダーランド。
“本格推理小説に刻まれた最後の墓碑銘”という賛辞に相応しい、“アンチ・ミステリの金字塔”を打ち建てた名作。 アンチはアンチでも、今日日のおちょくるような愛あるアンチではなくてシリアスアンチでした。
そんじょそこいらにないくらい、どっぷりと探偵小説のセオリーをやり尽くして突き放すという;; 正論で来られたら太刀打ちできません。 本格好きのヤワな心はシュンと傷つき、ごもっともと萎れるしかないのですが、冒頭のヴァレリイの詩が言い得た通り、えも言われぬ哀惜の美酒がこの反世界に手向けられていて、これが“虚無への供物”というタイトルに託された一つの隠喩でもあったでしょう。
でも、どうだろうか。 確かに、人間を実験材料さながら悪戯に弄ぶ無責任な遊民としての探偵役(「延いては読者」)を断罪している一方、リアル世界の不合理に対する一抹の浄化ツールとして、犯人役を労っていたような節もあって。 そこに探偵小説の不滅性が示唆されてもいた? そう読み取ってはいけませんか? 願望も込めて。
奇書というよりは正統派の印象だったなぁ。 実存の文学を書くための手の込んだ手法としての探偵小説様式だったのかも・・とさえ思った。
そのほかにもこの年が特に意味深いのは、たとえば新年早々に二重橋圧死事件、春には第五福竜丸の死の灰、夏は黄変米、秋は台風十五号のさなかを出航した洞爺丸の顛覆といった具合に、新形式の殺人が次から次と案出された年だからでもある。
これ、伏線というか、この小説の中の重要な文章です。
正直、犯人の動機が単なる転嫁行動のようにしか思えず、しかも一見許された印象も残り「叔父殺し」の整合性が咀嚼できなかったんだけど、そもそもこの物語が古典悲劇の様式を踏襲しているようにも思われ、次元の違うところで何か自分には読み解けない啓示が込められていたのかなと無理やり呑み下した感がありました・・最初。
でも時間が経ってきたら、犯人が許されていないことに重きが置かれているんだと感じるようになった。 誰かを犯人にしなければやり切れないほどの現実に蹂躙され、この世の“不条理という虚無”の犠牲となって理由なきまま命を落としていく人々の、御霊供養のための人柱として“理由”を引き受け、茫々たる永劫の時をさすらう巡礼者の役割を贖罪として授けられた犯人(役)もまた、今度は逆に反世界から現実世界へ差し伸べられた“虚無(不条理)への供物”に他ならなず、いや、これこそが最も核心をなす隠喩として書きたかったんじゃないかと・・ そう自分なりに納得しています。
ポーの「赤き死の仮面」や「大鴉」、キャロルの「不思議の国のアリス」、ルルーの「黄色い部屋の謎」、シェイクスピアの「ハムレット」などなど、様々な古典のエッセンスが綺羅星の如くストーリーに浸潤していて、ピンボイントの引用や比喩まで数え上げたら切りがないペダンティズム。 薔薇の色のお告げ、五色不動尊、アイヌの蛇神伝説、古き良きシャンソンの名曲・・ 暗号という暗号がこれでもかと組み込まれた四つの密室殺人の輪舞。 乱歩の「続幻影城」を手引きに、“ノックスの十戒”に則って繰り広げられる推理合戦の楽しさ・・ あぁ、ごめんなさい。 やっぱり・・ 乙女座のM87星雲に旅立ち、無意味な時間の中に自足するひと時の快楽を享受したいわ。 イケナイ読者がやめられそうもありません><。


虚無への供物 上
中井 英夫
講談社 2004-04 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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システィーナ・スカル / 柄刀一
[副題:ミケランジェロ 聖堂の幻] 絵画修復士御倉瞬介シリーズの第3弾。 これは番外編というか過去編というか。 「時を巡る肖像」に至る序章的な位置づけの連作中篇集。 瞬介のイタリア在住時代からの十数年がカバーされています。 序章と言っても、こっちがメインってくらい力作。 紐解かれたヴィジョンのスケールが遠大で、若干呑まれ気味なほどに^^;
シモーナってどんな女性だったのかなぁーと思っていたので書いてくれて嬉しい。 出逢い、恋人時代、結婚時代、そして・・ と、飛び石のように余白を残す筆致が、予感めいたものを誘っていて巧いなぁと思う。 こんなことを言っては無粋かもですが、この余白を埋める第二、第三の過去編が、まだまだ生み出せそうじゃないですか。
一話目の「ボッティチェリの裏窓」は、「デカメロン」の第五日第八話を典拠にボッティチェリが描いた“ナスタジオ・デリ・オネスティの物語”に取材したストーリーで、なぜ婚礼祝いに残虐絵が贈られたのか? という名画の謎と、ナポリ近郊の田舎町の古い居館で「デカメロン」の原話の見立てのように繰り返される怪しい儀式の秘密を融合させたミステリ。
二話目の「システィーナ・スカル」は、システィーナ礼拝堂の祭壇画“最後の審判”にミケランジェロが託した(かもしれない)暗号の解読と、未解決の首切り死体の真相が絡み合い、第三話の「時の運送屋」は、パリで夭折した佐伯祐三と運命を同調させていく画家が最後の絵に込めた真意を追う趣向。
四話目の「闇の揺りかご」は、瞬介がメディチ家礼拝堂で体験する白昼夢めいた思念の中で過去の殺人事件の謎が解かれ、そこへミケランジェロの葛藤や死生観、或いはシモーナを失くした瞬介の心象風景がオーバーラップしていく異色作。
全体的に煉獄を彷徨う人間像を彫琢していくような趣きがあり、Whyへの意欲を感じる作品でした。 特に表題作が印象的。 システィーナ礼拝堂の天井画や祭壇画には、当時のカトリックにおいては異端ともとられかねない宗教観を反映したミケランジェロの深い精神性が発露していることは「修復士とミケランジェロとシスティーナの闇」を読んだばかりなので、漠然と理解していたのですが、民族的な悲劇と呼応させて描くことで、その境地の更なる深みの一端を垣間見せてもらったような心地がしました。 知ってる情報と照らしつつ味わえたのもラッキーで、コラルッチ主任はじめ、修復士さんたちが本名で登場してるし、黒谷プロデューサーって青木プロデューサーのことだよね? などなどほっこりさせてもらいました。
やや主張過多なところがあるせいか、力みが入ってたようにも感じたんだけど、美術ミステリの根底にある、偶然だからこそ浮かび上がる神秘的な光景の美しさというものに説得力を持たせ、幻想チックに、狂おしく甘美に織り上げる才能が素晴らしいと思う。
このシリーズ、これからも書き続けて欲しいなぁ。 圭介くん、今、中学生くらいかな。 将来はお父さんの後を継ぎませんかねぇ。 ハーフでイケメン(と勝手に妄想している)美術探偵とか絵的にバッチリじゃないですか♪ ミーハー丸出し;;


システィーナ・スカル −ミケランジェロ 聖堂の幻−
柄刀 一
実業之日本社 2013-12
関連作品いろいろ

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春にして君を離れ / アガサ・クリスティー
春にして君を離れ
アガサ クリスティー
早川書房 2004-04
(文庫)
★★★★

[中村妙子 訳] メアリ・ウェストマコット名義で発表された非ミステリ、いわゆる愛の小説系を読むのは初めて。 この充ち満ちるザッツ英国感! 貪るように味わってしまいました。 いや、実に残酷な作品でした。 傍目には模範的で申し分なく充足して写るのに、底無しに空疎で乾いた家族、夫婦のポートレイトです。 ラストがもうね、痺れるほどの救いのなさ・・
結婚してバグダッドで暮らしている末娘の病気見舞いに出かけた帰路、一人砂漠の駅のレストハウスに数日間足止めされた英国婦人ジョーン・スカダモアは、皮相的な自己満足を脅かす黒い染みのような違和感に駆り立てられるように、理想的(であるはずの)家庭生活の奥に隠れ潜む真実を直視しようとしては恐れ、拒み、自身の安寧を揺るがす疑念を反芻し続けます。
文明から切り離されたエアポケットのような時間の狭間で、索漠とした不安を抱きながら狐疑逡巡を繰り返す思惟思考のプロセスを、照りつける異国の太陽の下の蜃気楼めいた神秘体験風に活写する手練や、本人が気づけない欺瞞を読者だけに暴いて見せる知略の辛辣さ・・
時代背景的には第二次大戦前夜辺りでしょう。 虚栄と偏見の狭き牙城で慢心して生きている夫人像や、踏み込まない優しさの鎧を身にまとい、冷めて諦観している英国紳士のような夫像は、いかにも戦前の上流中産階級を想わせる類型的品性なんだけど、人の普遍的な懊悩を描いているから全く古くなく、逆に戯画として突きつけられることで心の芯に針をグサグサ刺されるような怖さがあって、どうしようもなく身につまされてしまう。
何を以って幸福とするか・・ ファースト・プライオリティがかけ離れた者同士による結婚の不毛の、その核心部を覗き見てしまったような空恐ろしさも然ることながら、他者への共感を欠いた正義ほど危ういものがあるだろうかという想いに激しく揺さぶられました。 反論の余地を与えずに周囲を圧するジョーンの正当性が物語の底でひっそりヒトラーに敷衍していたのを感じたからかもしれない。 些細に思える独善と、ずっと遠くの破滅が繋がっている恐ろしさの暗示は、時代を超えて迫ってくるから。
そして、ジョーンを憐れな道化にしたまま傍観者の構えを崩さない夫のロドニーに対しても、コペルニクスに憧れながらコペルニクスになろうとしない、その怯懦がモンスターを育てるのだと、著者は最後に告発している・・ そう感じさせられるのです。 そして恐らくレスリーにはポーランドの姿が重ねられていたのでしょう。
旅先に属する開放やエキゾチシズムの非日常と、家に属する慣性や秩序の日常に、クライマックスとアンチ・クライマックスとのコントラストを巧みに関係づけていくストーリー展開が見事で、上質なサイコスリラーのような趣きでした。 突き放した人間観察力を基幹とした優雅で皮肉な筆さばき、クリスティーに惚れ直してしまった一冊となりました。
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古い腕時計 / 蘇部健一
[副題:きのう逢えたら...] あの瞬間に時間を巻き戻すことがてきたら・・ そんな夢のような願いを叶えてくれる、この世に6つしか存在しない古い腕時計。 縁あってその持ち主となった主人公たち7人が、後悔の昨日をやり直す7篇の連作短篇集。 なんで7人?ってところが一応ポイント。
やり直したところで機会を生かせなかったり、想定外の状況が出来したりと、そう願望通りにはいかない各短篇を、バタフライ・エフェクト&人間万事塞翁が馬風に長篇としてグッドエンドに持っていくという趣向が魅力的なんだけど、その手腕がやや腰砕けちゃってるのは否めないかなぁ。 各短篇が時系列パズルになっているのは凄く面白かったけど・・
蘇部さんはミステリ書きなので、長篇としてピースがカチッと音を立てるような構成の妙を期待して読んだので、1と7、2と4と6、3と5の断片的な連携だけでは食い足りない(それとも隠された繋がりを見落としてる?!)。
“まちがった時間は、正さなければなりません”という古時計の意志の支配をもっともっと感じたかったというか、全ての話の歯車を絡み合わせて一つの確固たる奇跡に収斂させて欲しかったのよー。 求め過ぎ?
でもまぁ、狙い澄ましたように後悔の典型シチュエーションから展開する切な系ベタストーリーが陳列されていて、ここまでくるといっそ爽快な眺めというものです^^ 白いチューリップのぼかし方がキレイだった一話目の「片想いの結末」をベスト短篇に推したい。
この世の不条理の核心に存在する取り返しのつかなさの原理など何処吹く風の“禁断のIF物語”って、それだけでワクワクしてしまいます。 この分野に拘りを持っておられるご様子の蘇部さん。 個人的には泣ける!よりもゴミカスクズバカゲス路線で高みを目指して欲しい・・


古い腕時計 −きのう逢えたら...−
蘇部 健一
徳間書店 2013-10 (文庫)
関連作品いろいろ

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バン、バン! はい死んだ / ミュリエル・スパーク
[副題:ミュリエル・スパーク傑作短篇集][木村 政則 訳] スパークは、2008年タイムズ紙の“戦後、偉大な英国人作家50人”に選ばれた実力派の女性作家。 本書は、初訳多数を含む本邦オリジナル“秘蔵の傑作集”とのこと。
タイトルや表紙から、ポップで軽妙な雰囲気を勝手に想像してたんですが、いやいや、辛辣なシニシズムとか薄っすら蔓延る狂気とか・・ ノワールやサスペンスを賞味させてもらった感じ。 でも後味の悪さを残さない辺りは、実にドライな突き抜け感があってすごいもんでした。
できることなら触れて欲しくないような心の恥部に、冷然と探り針を突き刺す残酷さが女性ならではというか。 それでいて、人々の心が奏でた悪意の音楽を聴くような・・ エレガントな気品と言っていいほどの芳しさがあって、癖になるというのが頷けます。 わりと心理劇に帰結しているためか、奇抜な発想に支えられていても、意味不明的なもどかしさは薄く、ストーリーテリングを純粋に堪能できる作品が多かったように思います。
やっぱり読み応えがあったのは表題作かなー。 登場人物が陥る皮肉なジレンマをサディスティックに見つめる「ポートベロー・ロード」と、うそ寒い明るさに背筋がそそけ立つ「双子」をリミックスしたようなスペシャル感。 スクリーンに映写された過去という場の磁力へと引き込んでいく暗示的な叙述力が素晴らしい。 浮世離れしたエキゾチシズムの中に小奇麗に封印された仮初の幻灯劇がグロテスクに歪み、禁断の裏側が開けていく過程の隠微な毒気・・
安穏とした欺瞞、卑劣で凡庸な、言うに言われぬ愚鈍な感情が発散する居心地の悪さ・・ その空気感を摘出する手腕が怖いくらい。 波のように空中を漂う負の感情の満ち引きが、目に見えない軋轢を張り詰めさせて、ふいに火傷しそうなほど熱を放つ瞬間がくる。
心理的収束と最後まで残る不可解さの絡みが絶妙な「ミス・ピンカートンの啓示」や、もはやオチもなく途方もない「警察なんか嫌い」など、そこはかとないユーモアが毒や悪意を凌駕している作品が個人的には好みですかね^^
当然、作者の人生観と安直に結びつけるのは危険なんだけど、異分子としての自己、フェミニズム的思念、男性への期待と失望などが、作者自身の内面に通底するものとして意識させられるようなところがあって、自ずから精神史として高まっているような趣きすら発散するくらいヴィジョンの強さを感じた(ように思った)作品集。


バン、バン! はい死んだ
ミュリエル スパーク
河出書房新社 2013-11 (単行本)
関連作品いろいろ

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改造版 少年アリス / 長野まゆみ
デビュー作「少年アリス」を大幅改稿した改造版なるリニューアル版が2008年に刊行されました。 デビュー20周年の企画ものな感じでしょうか。 改造・・って言葉の響きで変な悪寒がいや増すせいか、ファンとしてはおっかなびっくり読みましたが、結果から言うと高評価。 うん、良きかな。
表現が明快で迷いがない感じ。 虚実がきっぱりしていて辻褄が合う感じ。 その分、あえかで儚い、曖昧模糊とした初期作品独特の浮遊感は薄らいでいるんだけど、この落差は、本篇が少年少女向けであることをより明確化したためとも思えるし、長野さんの内側から滲み出た20年分の自然な変化の作用なのかも・・と、チラッと感じたり。
少年同士の(仄かに甘美な)関係性の軸が抑えられたことで、成長譚という軸が自ずとくっきり浮かび上がっていました。 夏の終わりと秋の始まり、月夜と夜明け、鳥と人・・ 子供と大人を暗示させる隔てられた世界の対称性、結界から踏み出し、あるいは境界を通過する儀式性が、こんなにもクリアーに描かれた作品だったなんて、初版を読んだ時には気づかなかった。 いや、そこを鮮明化したのが本篇というべきか。
巻末に“少年少女のための『少年アリス』辞典”なる脚注が付載されていて、要するに本篇中の用語解説なんですが、神妙にガセをやらかすやつかと思ったら真面目な文献資料でした。 著者の手になるイラスト入りで装丁も素敵な本です。
「不思議の国のアリス」を意識したような初版のラストも好きなんですが、改造版のラストもわたしは好き。 少し剽軽で意地悪で、そして多分、少し優しい。 初版では持ち主とはぐれてしまった卵のことが妙に気がかりだったので。(理科室に鍵が掛かっていて標本箱へは戻せていないはずだから・・) 一番の変更点は黒鶫の正体でしょうね^^
本篇に比べると初版は“気配”を過剰に重んじた未分化なイメージがあるのですが、決して優劣で推し量れるものではありません。 “最初に読んだものが最良の法則“の成せる技なのか、今ではないあの時に出逢えたかけがえのなさが愛おしく、どちらか一冊と言われたら、やっぱり初版を選んでしまう気がします。


改造版 少年アリス
長野 まゆみ
河出書房新社 2008-11 (単行本)
関連作品いろいろ
★★★★★
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サロメ / オスカー・ワイルド
[平野啓一郎 訳]  紀元一世紀のキリスト教誕生前夜、帝政ローマの属州だったオリエント世界のとある宮殿の、月の夜の一場の悲劇。
ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子)の命により洗礼者ヨハネが斬首されたという「新約聖書」の“マルコ伝”と“マタイ伝”の記述に依拠した19世紀末の戯曲ですが、同様にサロメ伝説をモチーフとした既存の文学や芸術を応用しつつ改変し、母親ヘロディアの代弁者ではなく、初めてサロメという娘に意思を持たせたことで名高い古典です。
原本テキスト中に眠るサロメの少女性に着目した訳者によって、少女の無邪気な残酷さとしてサロメ像を捉え直す試みが、この新訳における一つのテーマだったとも言えそうです。 その結果、ビアズリーといったん切り離し、世紀末デカダン美学という先入観から「サロメ」を解放した・・という順番であればこその意義深さなのでしょう。
以前に旧字旧仮名遣いの岩波版、福田恆存訳でビアズリーの挿絵(厳密には挿絵というよりワイルドの「サロメ」に想を得たビアズリー独自の個性的な作品と捉えた方が良さそうなのですが)と共に読みながらも、やはりサロメは妖女や毒婦というよりも、もっとキリキリとした痛みを伴って思い出す存在です。 人と人の断絶が圧倒的で、その無慈悲なまでの理不尽さに酔ったのです。 そしてまた再び・・
むろん文体が刷新され、ライブ感が増していますが、自分の中では今回の新訳によって大きな方向転換がなされたという認識はなく、むしろそのことにホッとしたくなります。 原作(福田訳)だけ読んでいて、芝居もオペラも日夏訳も知らなかったら、およそこんな感覚なんじゃないかなぁ。違うかなぁ。
シンプルな人物配置の奥に、繊細な意識構成で織り上げられた玄妙な空気を感じながらも掴み切ることのできない象徴性が、名状し難いカタルシスをもたらす所以なのだろうかと、漠然とそんなイメージで記憶していましたが、サロメが担っているのは“原罪”なのだと訳者に指摘されて、胸にストンと落ちるものがありました。
愛と憎、聖と俗、清と濁、精神と肉体、生と死・・対称性を帯びた想念がダイナミックにぶつかり合う世界観が、地理的かつ歴史的な混淆を孕んだ一幕の舞台空間に凝縮されていたことを認識し、この計り知れない濃密さが何処から来るものなのか、改めて読み直す体験となりました。 もともと好きだった原作の魅力を、自分の中で更に深められたことが何より嬉しい。
本書は、注や解説などの論考部がボリューミーで、新時代のサロメやワイルド研究に触れる機会が持てたのも収穫。


サロメ
オスカー ワイルド
光文社 2012-04 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★
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修復士とミケランジェロとシスティーナの闇 / 青木昭
15世紀後半に、ローマ法王シスト四世(シクストゥス4世)のための礼拝堂として建立されて以来、芸術と神学と哲学の殿堂として今に受け継がれるシスティーナ礼拝堂。 その至宝の壁画(ミケランジェロが描いた上部壁画と天井画と正面祭壇画)の修復作業は、世界が注目した20世紀の巨大な文化プロジェクトでした。
1980年6月、入り口脇に足場が組まれ、ルネッタのテスト洗浄が始まってから、1994年3月、正面祭壇画を覆っていた全ての足場が取り払われるまでの約14年に渡り、大壁画修復に取り組んだ修復士たちのドキュメント。
著者は当時、日本テレビ撮影クルーの陣頭指揮をとったTVプロデューサー。 ヴァチカン美術館と日本テレビとの間に専属契約の調印が結ばれて、日本の民放が全記録を映像として遺すパートナーを務めたという事実さえ、恥ずかしながら空覚えでした。 本書は修復作業と壁画そのものを間近で(足場の上で)見つめ続けたテレビ局スタッフの目線で追った記録です。
ミケランジェロの生い立ちや人間像、システィーナ礼拝堂の壁画を描くに至る経緯、また、描かれた題材に因んだ聖書のエピソードなど交えながら、進行順に一作(一モチーフ)毎に修復の様子がレポートされていきます。 カラー、モノクロと図版が豊富なのも喜ばしい。
因みに天井部は“天地創造”の物語を中心に、キリスト誕生までの様々な歴史的エピソードが、正面祭壇は“最後の審判”が描かれています。 根比〜べ(笑)のような悶着があるんだけど、天井画を依頼したユリウス二世も、祭壇画を依頼したクレメンス七世も、結局、二人ともミケランジェロの(芸術の)良き理解者だったんだろうなぁ。
後世の補修やダメージの種類、程度によって、当然ながら修復方法のバリエーションは繊細に変化するのですが、ミケランジェロのフレスコ画は、セッコ(壁が乾いてからの加筆)が少ないため、顔料がしっかり壁面に定着している分、洗浄作業を容易にするのだそうです。 彼が類い稀なるブオン・フレスコ(セッコが極めて少ない良質なフレスコ画)の描き手だったことが、何より修復の見通しを明るくしたのだとか。
ちょくら感動させてやろうといったようなあざとさがなく、忠実な記録者に徹して書かれていることに好感を持ちました。 もっとも、基本的な修復作業というのは根気よく付加物を取り除くことの連続であり、心静かにコツコツと弛みなく進めなければならない作業なわけで、寧ろドラマチックな出来事とは無縁であることを宿命づけられているのだから、修復士たちのスピリットをそのまま伝えたかったのかもしれません。
でも、ミケランジェロの筆遣いや色遣いを追体験しながら暗い闇の中から最高峰の名画を発掘する作業がロマンに溢れていないはずがありません。 ミケランジェロと修復士たちは時間を超えて繋がり、同調していて、まるで見えない言葉を交わし合いながら作業がなされているみたい。 神秘的な磁場のような空気感に読んでいるだけで魅せられました。
寸感のように交わされる会話の中で、青木さんの質問に対するコラルッチ主任の解説は読者へスライドされて響いてくるものがあり、重いベールの向こうから人物の表情が現れた時の、“苦悩こそ人間を美しいものにする”というミケランジェロの熱い想いに触れ直す感動をお裾分けしてもらった心地です。
ローソクの煤や人いきれに何百年もの間おかされ続けてきた結果、20世紀には、本来が暗〜い色調だったんだと思い込まれていたというから、鮮やかなカンジャンテ(玉虫色の色彩移行)、清澄な明るさ、躍動する生命感、大胆な配色が甦るのを目の当たりにした人たちはどんな衝撃だったんでしょう。 だって即時中止を求める抗議の理由のトップ3がもうね;; 価値観をひっくり返された時の恐れや戸惑いなんだろうけど。 ニヤニヤしてしまったw
天井画の修復不可能な欠落部分に1797年のいたずら書きが見つかったり(そもそもこの痛ましい欠落はナポレオンの遺した爪痕なのだそうです)、“ノアの燔祭”の左右の人物の肌の色調の違いに、“半世紀分の汚れ”が刻印されているミステリや、五百年前にミケランジェロが使った絵筆の穂先や手のひらの跡が壁画の中に埋れていたり、ミケランジェロが使った足場用の穴が再利用されたり・・ そんなトリビアにもいちいち心が躍ってしまいます。
表紙は“最後の審判”右下の像、地獄の門番ミノス(ダンテの「神曲」を引用して描かれている)で、時の法王庁の儀典長ビアージョ・ダ・チェゼーナがモデルといわれているそうです。 この人は、低俗だとか威厳がないとか“最後の審判”をこけ下ろした聖職者の急先鋒だったそうで、ミケランジェロの仕返しなんですね。ふふ。 地獄に描かれるだけでも面白くないだろうに、蛇の頭の悪戯で泣きっ面に蜂、いや蛇。 これ、洗浄によって後世に加筆された腰布が取り払われてわかったんですって^^;


修復士とミケランジェロとシスティーナの闇
青木 昭
日本テレビ放送網 2001-04 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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