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櫓の正夢 / 星川清司
[副題:鶴屋南北闇狂言] 文政8年、中村座で初演された四世鶴屋南北作の世話物狂言「東海道四谷怪談」の創作秘話。 遅咲きの立作者、齢七十一にして円熟期の南北が、かの有名な怨霊劇をいかようにして世に送り出したかの物語です。
「仮名手本忠臣蔵」の外伝として、また、当時巷に流布していたお岩伝説(出処は享保年間成立の実録読物「四谷雑談集」に記されている於岩稲荷縁起)に見立てて拵えられていますが、既存の狂言を足掛かりにした書き換えではないオリジナルの演目であり、押しも押されぬ代表作となったその謂れが、著者の描く虚構を掻い潜って迫ってくるかのようで、風俗を、人物を活写し、事実以上の真実を焙り出して見せる力量に心酔しつつ読みました。
田宮家に配慮して、伝説の発祥地である四谷左門町から雑司ヶ谷の四谷に舞台を据え変えたというのが定説のようなんですが、ここでは、まず、雑司ヶ谷の四谷ありきで話が進みます。 四谷といえば・・と、後からお岩伝説にアレンジすることを思いついたみたいな、そういう着想。
生首や毒薬や鼠といったモチーフ、或いは岩の妹の“袖”や、袖に懸想する薬売りの存在など、お岩伝説の余白を埋めるエピソードの数々、伊右衛門お岩の表舞台に引き写される前の、破滅的な色悪と淪落の遊女が立ち回る裏舞台。 善も悪も呑み込んで混沌する愛憎・・ その原風景がまことしやかに明かされていきます。
渡辺保さんの解説によると、南北の他の狂言の登場人物や、それを演じてきた役者のイメージなどが散りばめられているらしく、虚構と現実が交錯する“変転奇妙な遊び”がこの作品の醍醐味だそうだから、通な人にはとことん面白いんだろうなー。 いいなー。
新作の構想に行き詰まり、タネを探して俗世にアンテナを張っていた南北の目に映り込む、不吉な翳りのある一人の浪人。 荒んだ洒落者に創作意欲を掻き立てられ、深追いしていく南北がやがて目にする男女の運命の綾なす無情は、同時に南北自身の内面へと逆流するように重ね合わされ、希代の立作者の人間像を彫琢していく誘因にもなっています。
死霊の祟りか狂気の沙汰か・・ 閉塞した時世に蔓延する満たされない渇きが、浮世を茶にした偽悪的な物言いの底で焼けつくように疼いていて、贅の極みと惨い事が繰り返される文政期の頽廃美がゾクッとするほどの香気を放っています。 芝居と戯作周辺の、時代を彩った文物の粋が能う限り詰め込まれているのも魅力的で、近年世を去った大田南畝の回想、藤岡屋由蔵との路上での遣り取りなどは、ことにふるった仕込みです。
小説と作劇術が溶け合うような文体と構成。 この作品そのものに、南北のシナリオ的な律動感が刻み込まれていて、ふと情景が書き割りに変じる感覚がせり上がり、細やかに練り上げられた生世話の舞台を見せられている心地がしてくるのです。 浸りました。


櫓の正夢 − 鶴屋南北闇狂言−
星川 清司
筑摩書房 1999-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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ブレイスブリッジ邸 / ワシントン・アーヴィング
[齊藤昇 訳] W・アーヴィングは米国ロマン派文壇の大御所。 ヨーロッパ長期逗留中の1822年に発表された本作は、「スケッチ・ブック」に続き、特にロマン派色濃厚な作品群の中の一冊であるらしい。 懐古趣味ど真ん中な香りがしました。 底本としているのはランドルフ・コールデコットの挿絵が入った1877年版とのこと。 素朴なスケッチ風のイラストがしっくりと馴染んでいます。
イギリスはヨークシャーの片田舎にある荘園風の古風な邸宅、ブレイスブリッジ邸の婚礼に招かれた語り手が、客人として同邸宅に滞在しながら、そこでのアナクロな日々の暮らし向きをレポートするというスタイル。
進歩社会の無気力な洗練と過剰な刺激に倦み、“父祖の国”の由緒ある牧歌的な文化に強い好奇心を灌ぐアメリカ人の“私”は、短篇集「スケッチ・ブック」(原題は「ジェフリー・クレヨン郷士の写生用ノート」)の語り手と同一人物です。 中でも「駅馬車」と「クリスマス・イヴ」という短篇の続編的位置づけで、前回はクリスマスの団欒に招待されたクレヨン氏が今回は婚礼に・・ というわけです。
クレヨン氏は、そこはかとなくアーヴィングの代弁者であり、語り手と著者が未分化な擬似エッセイ風の印象を醸しています。 時代的な考証や体験に根ざしつつも著者の想像上の楽しき古きイギリスが、閑人の思索めいた趣きのままに結実している風雅で端正な作品です。 慈悲と奉仕の精神が機能し合った封建社会の明といった雰囲気。 幾分、ドン・キホーテのような哀愁と滑稽味を滲ませつつ。
地方の有閑階級に属し、保守主義を標榜する稀有な見本であるかのような家族が暮らすブレイズブリッジ邸は、伝統的な風俗習慣を重んじる当主を中心に、古式豊かな形態で存続しており、その性質は邸宅を取り巻く小さなコミュニティにまで波及していて、一帯では昔流儀の田園生活が孜々営々と続けられています。
季節は春酣、新緑の芽吹く草地を逍遥し、景観に親しみ心を凝らす感受性と、間近で展開する出来事や人物をスケッチ風に活写する鋭くも繊細な観察眼は、このテーマパークのような世界へと読者を巧みに招じ入れてくれます。
“地主”という古い呼称で親しまれている善意に溢れた当主は、高潔な騎士道精神を旨としており、昔ながらの気風や式たりを復興させようと詩的構想を抱いているのですが、現実はままならず、あえなく面目を失うこともしばしば。
余技の才能と陽気さを売り物に当主の財産を頼って身を寄せている一族切っての洒落男、永続的な絆で一族と強固に結ばれている召使いたち、婚礼に参列するために邸宅に到着する風変わりな紳士淑女の面々、熱心な古書探求者の教区牧師、近在の個性豊かな住人や土地の名士たち、婚礼を目前にした若い恋人たちの初々しい振る舞い、一族の歴史を物語る肖像画や時代を彩る記念の品々、年頃の乙女たちの真剣な関心事である呪文や恋のまじない、陽気で社交的な田舎風ののダンスに興じる五月祭の歓楽的な賑わい・・
ちょくちょくセンチメンタルな情緒気分に陥ったり、論理や実利をぶっ飛ばして思考し行動する登場人物たちをユーモラスに描出する筆捌きがお見事。
そして、身分ある者もなき者も、皆が一つところに集い、寛大な喜びの流れに溶け合う大団円と言っていい婚礼の日を迎えます。 “一つの結婚は多くの結婚を招く”という古い諺に倣った、脇役たちへの幸せのおすそ分け♪ 客人たちが婚礼の行われる邸宅に長逗留するという旧式な風習を思えば、侮るなかれで、諺にも一片の真実味があるのですね。
あくまで語り手はどんなにもがこうと確実に失われゆく光景として、著者は自身が描いた幻想の産物としてこの世界を傍観し、誉み、慈しんでいて、そんな憂愁の中に自足する安らぎにも似た甘い諦念が根底に流れ、しめやかな抒情性を湛えているのでした。
ここからは殆ど余談。 正直な話、今から見れば十分に古い時代である19世紀前半を当世風として、そこから一、二世紀、時代を遡行したようなスタイルを懐古するというのが、素養のなさゆえ何気にキャパを超えているのですが、あまり頭でっかちにならずに読むのが賢明なのでしょう。 それでも、いわゆるイングリッシュ・ガーデンが主流になりつつある中で、孔雀の形に刈り込まれたイチイの木や、整然と花壇に並べられた花々が出迎える邸宅の庭園は過去の象徴なんだなとか、この時代にはもう、鷹狩りの風習というのは廃れていたんだなとか、初歩的なところで、へぇー、ほぉーといちいち感心しながら読みました。
当然ながら、引き合いに出されるのは大昔の人物や書物ばかりで、同時代の文化を感じさせる言及は悉く排除され、唯一、出てきたのが急進的な改革論者で知られる政治評論家のウィリアム・コベットくらい。 コベットの体現者よろしく登場する“政治屋“が、ここに描かれる世界の対抗勢力さながら、村に政治を持ち込み、不幸な分別くさい社会に変えてしまう、避けることのできない迫りつつある暗い影として描かれています。
現代の社会通念を持ち出して野暮なことを言ってしまうと、無知な者らを混乱させないために改革はNOだ(そのかわり支配者は相応の責任を持たなければならない)という発想で成り立ってる上から目線のユートピアではあるわけで。 明確なジェンダーと階級主義を大前提とする社会が変化の兆しの兆しを見せ始めた世の中にあって、同時代の人々がどんな妙味を覚えながら読んだのか、想像が上手く及ばないのですが興味を禁じ得ませんでした。


ブレイスブリッジ邸
ワシントン アーヴィング
岩波書店 2009-11 (文庫)
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世界の果ての庭 / 西崎憲
[副題:ショート・ストーリーズ] 長らく文庫化される気配もなかったのに。 最近、小さなSFムーブメント来てます? 気のせい? ともかくも、本書に光が当てられたのは喜ばしい。 埋れるのは惜しいもの。 余人に代え難い魅力のある作品です。 これ、影のタイトルは“日本の小説”ですかね^^
シシングハースト・カースル・ガーデンのことは何も知らなかったんで、名前が出てきた時点で調べてみて正解でした。 この庭を小説化しちゃったのかもってくらいシンパサイズされてると思います。
庭の講釈をしながら文学について語っている不思議。 比喩や隠喩として変換され、記号化される言葉の魔術めいた作用のせいか、全体にメタフォリカルな雰囲気が漂っていて陰影深い作品です。 なんて書くと晦渋なんじゃ・・と思われそうだけど、物語に推進力があって、ページを繰る手が止まりませんでした。
作家の“わたし”ことリコの独白と、リコが書いている「寒い夏」という奇想小説と、スマイス(リコと知り合うアメリカ人の学者)の大伯父と親交があった明治時代の作家が書いた「人斬り」という読物と、終戦後にビルマの収容所を脱走したリコの祖父の独白。 この、4つのメインストーリーに、大学院時代のリコが研究テーマとしていた英国庭園についての論考と、スマイスが研究している日本の近世思想の論考を加えて6つのコンテンツが同時進行し、何かに向かって動いている・・そんな感触。
副題に“ショート・ストーリーズ”とあるように、基本は、変則的な短篇作品集として味わっていいのかもしれません。 でも、それだけでは言い尽くせない熱量が秘められているのは確かで、現在進行形のガール・ミーツ・ボーイの物語が核にあり、地下水脈で繋がっている他の物語によって補強され、応援されているというのがわたしの印象なんですが、読む人によってまた、全然違う光景が広がるのかもしれません。
意識のバックグラウンドで行われている見えない計算がもたらす恩寵なのか、一塊の短篇群が重層的な和音を奏で、それはあたかも、風合いの異なる幾つもの小さな庭がドアで繋がり合い、互いが互いの影となり、光となり、玲瓏と響き合って、壮大な苑池を形成するかのよう・・
やはり白眉は、スマイスの大伯父が遺した暗号の解読だったと思います。 ときめきが溢れて感無量でした。 素敵過ぎる・・ 文学者、翻訳家たる西崎さんの面目躍如でしょう。 海を越えて交わし合った言葉の戯れ、その小さなかけがえのなさが胸を打つのでしょうか。
一番引き込まれたのは、巨大な駅(煉獄?生死の境?)を彷徨する祖父の話なんですが、こんなことを考え、こんな小説を書き、こんな人と出逢っている孫が、あなたにはいるのですよ・・と、そんな気持ちになるのです。 ラストは、祖母との遠い先の再会を暗示してたらいいなぁ。 列車が天国行きなのか、現世行きなのか、今もまだ悩んでるんだけど。
人と人の繋がり、日本風に“縁”と言い換えられるものの深遠さを湛えた美風に、さっと心を撫でられた感覚が忘れられない名品です。


世界の果ての庭
西崎 憲
東京創元社 2013-04 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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最終目的地 / ピーター・キャメロン
[岩本正恵 訳] 2002年に刊行され、映画化もされた、アメリカ人現代作家の第4長篇。 映画は未見ながらキャストを知っちゃってました。 惜むらくは登場人物があの人やあの人に脳内変換される前に読みたかったかな・・仕方ないけど。
舞台は南米ウルグアイの辺境の地、オチョス・リオス。 カンザス大学の大学院で文学者を目指す青年、オマー・ラザギが、伝記執筆の公認を得るため、遺言執行者である作家の遺族たちが暮らす、この、“あらゆるものから遠く隔たった”土地を訪れるところから物語が転がり始めます。
ヨーロッパ調の蒼古とした屋敷では作家の妻と作家の愛人(とその娘)が、石造りの製粉所を改築した住居では作家の兄と若い同性の恋人が、奇妙な均衡を保ちながら暮らしています。 しんと張り詰めた湖面に小石を投げ込まれたような波紋の広がりがオマーというアウトサイダーによってもたらされ、自らを囲った檻の中で静かに倦んでいる人々の安らぎと嫌悪、充足と苛立ちが、ゆらゆらと水際立って揺れ動き始め・・
登場人物の構成が実にコンパクトであり、彼ら彼女らが、閉ざされ停滞した空間で、冗多なところのない緊密な会話劇を織り成していく内面ドラマ的な上品さが魅力です。 陰翳を深め、機微を掬い取るエスプリとユーモアのセンスが堂に入っており、個人的には特に兄のアダムの造形が魅力的に感じられ、彼の、皮肉の底に漂うペーソスにしんみり。
登場人物の誰もが、故郷を離れ、転々と移り住んだ過去を持つことが興味深く、ひと時、“最終目的地”と思い定めたオチョス・リオスがそうでなかったように、実は人生の“最終目的地”など幻想に過ぎないのではないかという想いが湧いてきます。
(意地悪なことを言うと)扉を開いて踏み立った新たな場所もまた、最終目的地ではなく、きっとその先には不確定な道の続きがあるのでしょう。 それでも、登場人物たちがそれぞれの結ぼれを断ち切り、止まっていたゴンドラを漕ぎ始めた今、ここにある幸福感を祝福してあげたいと思わされるラストです。
偶然と必然、能動と受動が錯綜しながら切り開かれて行く人生行路の御し難さを思えば、どこか場当たり的だったり、突飛だったりで釈然としない成り行きにも、大らかな肯定の気持ちを揺り起こされるのでした。


最終目的地
ピーター キャメロン
新潮社 2009-04 (単行本)
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怪談 お露牡丹 / 領家高子
貧乏御家人の四男坊に生まれながら画工を志し、根岸の里を中心に一派を成す江戸琳派の祖、酒井抱一に師事する丈岑は、抱一の暮らす“雨華庵”にほど近い建徳寺の襖絵を描く大役を任されることに。 一年間の準備期間を願い出て、寺の離れに寄宿し、画帖を広げ、素描に明け暮れる日々。 画人文人たちが隠棲を好んだ閑雅の里で、若ざかりの絵師が体験する浮世を離れた逗留譚。
時は文化から文政への改元期で、世の中は爛熟した化政文化の全盛期です。 枯淡と雅味の気風が根付く、この、箱庭細工のような別天地に、財政に行き詰まった水野忠成の執政が、暗い影を落とし始めます。
この世の異種、輪廻、予知夢・・ 江戸版ロマンテックSF風味と言えなくもない数奇で甘美な光沢が、硬質な文体の醸し出す格調高さと融合して、凛然とした気品を漂わせています。
タイトルに冠せられた“怪談”は「怪談 牡丹燈籠」に肖ってのことでしょう。 物語的にも牡丹灯籠テクストを踏まえているんですが、描かれているのは“怪しさ”ではなく“妖しさ”です。 幻想的な幽玄美は、円朝というより、むしろ浅井了意に近い雰囲気を感じたかも。
もしや若き日の鈴木其一? と、途中で一瞬思い立ったんですが違います・・orz そりゃ違うよね。 牡丹灯籠モチーフなのだからラストは推して知るべし。 でも、丈岑に仮託されているタナトスは、怨念はもとより狂気や頽廃のそれではありません。 “個を通じ、個を超えて普遍へ及ぶ奪われようのない夢“の体現者として、本然の力と美とを取り戻すために絵師の宿業を極めたその姿は、生死を超えた悠久の中にあるかのようです。 ものを見る天与の眼を授けられた丈岑もまた、この世の異種だったのかもしれません。
匂いの根源を探れば、諸個人の無意識の深奥で通底している“守るべき故郷への想い”に敷衍する向きもあり、空気の肌合いに心を凝らす静謐さ、清澄さに、作者の慈しみの眼が向けられているのを感じます。
どうだろう、最初は恋物語に軸足を置いていた節があるんだけど、ラストは前述したテーマへ明らかに変調していくので、雑誌初出の前半三章と、書き下ろしの後半二章で結節点が薄く、分断されている印象が否めなかったかなぁ。 でも、丹念に読むと、天からこの世へ零れ落ちた一粒の“露”である命の尊さを見届けた、儚くも崇高な初恋の時間が、彼をして生の境地を夢の水位にまで高めさせたということなのか・・
丈岑が目指した“金箔銀箔の沈黙の底へ根を張った命の躍動”を想わせる美意識を、物語そのものに昇華させた世界観が麗しかったです。


怪談 お露牡丹
領家 高子
角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-09 (単行本)
関連作品いろいろ

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