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虹をつかむ男 / ジェイムズ・サーバー
[鳴海四郎 訳] 1962年、“異色作家短篇集”の一冊として刊行され、数度の改版を経て読まれてきた日本独自編纂の、そしておそらくは日本初となったサーバー短篇集、の文庫化。 二十五篇収録されています。
長くても三十ページ足らずなのですが、ショート・ショートとは違う味わいです。オチというほど明確ではなく、じわーっとくるようなエンドマークが豊かな香りを残す掌篇というに相応しい趣き。
自身を客体化して書かれている序文「ジェイムズ・サーバーと五十年を共にして」もまるで一篇の作品みたい。 サーバーは目が悪く、生涯視力の低下に悩まされていたそうなのですが、この序文によると、メガネ少年だった頃から一つのものが二つならぬ一つ半に見えたとか。 この半分の付加が作品の根底にあるのかもなぁと感じたり。 あからさまに現実を逸脱してはいないんだけど、地面からふっと浮いたような・・ 少しばかり厭世的というのか、世間のスピード感についていけてないドン臭さや繊細さを、やや距離を置いて見つめる眼差しは、穏やかでありながらシャープであり、人生の機微とさえ言えるユーモアと哀愁を響かせて止まないのです。
そつのない奥さんとしっくりいかない風采上がらぬ夫ものが多いんですが、「虹をつかむ男」や「機械に弱い男」みたいに自分の作り上げた妄想の世界へ逃避するパターンだったり、「空の歩道」や「大衝突」や「ビドウェル氏の私生活」のように、かなり重症な抑圧観念として描かれたり、はたまた「愛犬物語」のように、夢から覚めちゃうんじゃないかと思いきや覚めなかったのねバージョン(笑)のカッチョいー話もあったり。 特にお気に入りは「妻を処分する男」や「決闘」のように、夫のズレっぶりに奥さんが同調していく話。 このシュールさか好き^^
次いで多かったのが少年時代の“私”の体験もの。 半自伝的作品ということになるんだろうか、“たいてい誰もが何かしらにとりつかれていた”二十世紀初頭の陽気なオハイオ州の、家族や知人や隣人の語り草と言うべき珍事のあれこれ。 パニック心理の滑稽さや罰の悪さを、思い出として語る時のとっておき感が伝わってきた「ダム決壊の日」とか、懐かしい時代の複雑怪奇な財政武勇談(笑)が物語られる「ウィルマおばさんの勘定」なんかが面白かったなー。
他にも、新聞の第一面を賑わせたという二十世紀前半の、アメリカ犯罪史上の実話を取り上げたルポルタージュ風の法廷ものがあったり、ブラックユーモアのお手本のような「世界最大の英雄」や、「マクベス」の異解釈もの「マクベス殺人事件」などなど。
一際心を擽られたのが「クイズあそび」。 ないものを証明する事の難しさを、空とぼけたウィットで皮肉った手際の鮮やかさが痛快。 それと自身のイラストについてのエッセイ「本箱の上の女性」が格別でした。 これを読んだらチラシの裏みたいに無造作なスケッチの、“ろくに血が流れているとは思われな”さへの愛着が一入。 一枚、欲しい・・ってなる気持ちがわかる^^


虹をつかむ男
ジェイムズ サーバー
早川書房 2014-01 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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よしきた、ジーヴス / P・G・ウッドハウス
[森村たまき 訳] これまで三作読んだんですが、歴とした長篇は初めて。 複数の短篇を連作長篇にアレンジした「比類なきジーヴス」は、たくさんのエピソードが数珠つなぎになっていましたが、本作は、性懲りもなく窮地に陥るダメっ子ご主人のバーティーを最強執事のジーヴスが救い出す、お馴染みパターンとしての一つのエピソードを引き伸ばしてグイグイ押しまくった感じです。
事の発端はバーティーがカンヌ旅行で浮かれて買い込んできた金ボタンの白いメスジャケット。 ダリア叔母さん曰くの、“ドサ回りのミュージカル・コメディーの第二幕に出てくるアバネシー・タワーズに泊まっている男性客のコーラス隊みたい”な、英国紳士の日常的ドレスコードから大いに逸脱したこのシロモノが、ジーヴスの不興を買ってしまいます。
“バーティーなぞは取るに足らず、真に脳みそがあるのはジーヴスである”という満場一致の評価に常々甘んじているものの、燻るプライドを拗らせて反抗期のガキんちょみたいにムキーってなっていいとこ見せようと奮闘するバーティが、ガッシー&バセット嬢の縁結びと、タッピー&従姉妹アンジェラの仲裁に乗り出すものの、ダリア叔母さん、トム叔父さん、コックのアナトールまで巻き込んで、田舎のお屋敷ブリンクレイ・コートの人々の顔を、悉くその両手の中に埋めさせる事態を演出してしまいます。
友人を苦境から救おうとイカシた計画を思いつき、よしきたホーと行動に移したその結果、収拾つかないまでに引っ掻き回してしまうバーティーの狂言回し的シーケンスに一段とスポットが当てられ、紙面が割かれているのに比べ、ジーヴスの解決編はあっさりコンパクトなんですが、その分、手際の鮮やかさが引き立つというもの。 一石何鳥ものお手並みを如才のないウナギのようなしなやかさで(笑)披露してくれます。 ていうか、そこに必ずやバーティーへの“お仕置き”を事もなげに盛り込むドSスピリットに悩殺されてしまうのが愛読者の共通感覚なんじゃないかな^^
あと断然言えるのは、韻律的な洒落は無理にしても、畳み掛けるような比喩表現の面白さが、翻訳を通しても損なわれることなく存分に伝わってくるものがあり、これは訳者さんの功績も大きいのだと思う。
本篇の名場面は、“かつて英語で書かれた文章のうち最も滑稽な数十ページ”と評されたという、マーケット・スノッズベリー・グラマー・スクールの表彰式。 ガチョウにだってバァって言えないイモリオタクのガッシー・フィンク=ノトルがご覧に入れる、眉毛の上まで(スープならぬ)酒浸しのイカレたショータイムが痛快です。
巻末に付載された全ジーヴスシリーズの簡単な紹介に目を通すと、ガッシーは今後も準レギュラーとして登場し、長〜い婚約期間を強いられるみたいでお気の毒様^^;


よしきた、ジーヴス
P G ウッドハウス
国書刊行会 2005-06 (単行本)
関連作品いろいろ

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燃焼のための習作 / 堀江敏幸
東京の東端とおぼしき町、運河と高速道路の高架が走る区域の、古びた雑居ビルの一室。 なんでも屋稼業の事務所を構える枕木のもとへ、嵐の前触れとともに訪れた依頼人の熊埜御堂氏は、十三年前に別れ、音信不通になった元妻と息子の消息を気にかけている様子。 捜し出したいのか、会いたいのか、そうではないのか・・ 曖昧な気持ちを曖昧なまま後押しするものがあってやって来たという。
合成皮革の古ぼけたソファに腰を下ろし、嵐が静まるのを待ちながら、つらつらと取り止めのない言葉を交わし合う。 助手の郷子さんも加わり、相談はやがて座談へと変容し、脱線や交錯、迂回や停滞、偶然や飛躍を積み重ねながら、模糊とした来訪の真意、衝動の由縁に辿り着くまでの細い道筋をゆっくりと手探りで匍匐していく三人の共同作業、捉えどころのない語らいのプロセス。
何かが生まれるかもしれないのを待つ大らかで慎重な迂遠さ、“間”の呼吸を味わうようなアナログのしなやかさは、点と点が繋がって流れになりそうな予感を手繰り寄せる。 他者との接触によってもたらされた新しい感情状態が、閉ざされていた神経回路に風穴を穿ち、それまでとは別様の光や影によって照らし出された記憶を浮かび上がらせることがある。
文中のふとした言葉から勝手な私的連想の世界を暫し彷徨って、あれ? どこで意識が逸れたんだっけ? と我に返る読書体験って日常茶飯事なんですが、読者のそんなオフライン感覚をも取り込んでしまうかもしれない不思議な底深さがある本でした。
束の間、日常から隔離された安楽椅子的シチュエーションは、どこか秘密めいた愉楽をまとっていて、相互作用や共感覚的な意識の火照りが一場の密度を濃いものにしていく。 窓外の雷鳴、雨音、風音の変化や、語り手の声音に耳を凝らす“音質”への拘りが感じられ、空気の色合いは刻一刻と形を変え、人の心をより深い人生の機微へと向かわせていくかのよう。
渋く地味な色調を包み込む明朗さと、力を秘めた温柔さが心地よく、古傷と甘い余熱が戯れ合うビターなラストにしっぽり。 状況からは易々と窺えないのだけれど、なにか、内的な化学変化に触れたと感じて読み終えたのは何故だろう。 ゆらゆらしているようでいて、物語の理念を遂行するための細心の巧妙さで制御されていたのだなぁと思う。


燃焼のための習作
堀江 敏幸
講談社 2012-05 (単行本)
関連作品いろいろ

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地下鉄のザジ / レーモン・クノー
[生田耕作 訳] 戦後のフランス小説に新風を吹き込んだ記念碑的な作品であるらしい。 ヌーヴォー・ロマンの先駆者であり、言語表現の可能性を果敢に探求したというクノー。 1959年に刊行された本作も、過激でアバンギャルドな“言語の冒険”に溢れていたことは間違いなく伝わってくるのですが、言語に対する著者のこだわりが半端ない分、特にリズムや言葉遊びにおける翻訳の文章処理が難しかったろうなぁーと。 フランス人がフランス語て読んだ感覚とは、もしかすると別物くらい隔たったものを読んだかもしれないという危惧が無きにしも非ずなのですが、戦争の記憶も新しい50年代のパリに暮らす庶民の精神風俗を活写した、粋で洒脱で荒唐無稽なスラップスティック喜劇としてだけでも優に堪能できてしまいます。 なんとなく・・ ジャック・ルーボーの「麗しのオルタンス」は、この流れを汲んでるような気がする。
母に連れられ初めてパリにやってきた少女ザジは、(母が情夫と逢い引きするための)二日間をガブリエル伯父のもとに預けられて過ごします。 地下鉄に乗ることが唯一の楽しみだったのに生憎のストライキ中。 不貞腐れて家を抜け出したザジが触媒(火付け役?)となって、バリの雑踏で次々繰り広がる騒動を、どこにもないようなドライブ感で描いていて、戯曲めいたスタイルや、デジャヴのような反復と現在形の連鎖は、なんて言うか・・ 言語そのものがポップアートみたいなイメージでした。
言葉を凶暴性で膨らませて澄ましかえっている小悪魔ザジのませっぷりが最強です。 彼女の名セリフ“けつ喰らえ!”にけつ喰らわされるのは、ナポレオン、憂鬱、恩給、親切、義務、大人、教育者、おかしくない人間、さびしい、いけない、エチケット・・などなど。
なんだかパリの街もハリボテの舞台みたいだし、登場人物もイカレた輩ぞろいなのに、今、その時を生きている街と人の振動がビビッドに伝わってくる。 オーソリティへの抵抗が迸り、辛気臭さを吹き飛ばす風が吹いています。 気のせいか自分はちびっと、江戸っ子に通ずるメンタリティを感じたかも。
そして、変身や変装、結婚、入れ替えなど、多用されるモチーフには、個の連続性が保障されない自由と不安も刻まれていたでしょうか。 ブレないのは子供のザジばかり。 でも二日間で“年を取った”ザジなのでした^^
一人何役もこなす早替わり男に気を取られていたら、最後びっくりしたー。 まさかのオチw 人を喰ったような、それでいてどこか、心落ち着かなくもさせる倒錯感が味ある余韻を残してくれます。


地下鉄のザジ
レーモン クノー
中央公論新社 1974-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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料理人 / ハリー・クレッシング
[一ノ瀬直二 訳] 1965年にアメリカの出版社より刊行された、著者の経歴が伏せられた長篇小説。 著名な作家の変名なのは確からしいのだけど、正体は今もって明かされていないみたい。 さぞやいろいろと取り沙汰されたことでしょう。
一時代の一潮流を担った奇妙な味系の名作です。 しかも、このジャンルには珍しい長篇であり、ノワール、諷刺、ミステリ、ホラー、ファンタジー・・と、どれをも包含し、どれでも割り切れない趣きは、まさしく王道な印象。
長身痩躯で黒ずくめの男、悪魔の申し子の如きコンラッドは、どこからともなく田舎町コブにやってきて、人智を超えた絶品料理とカリスマ的心理操作の錬金術で地元の名家、ヒル家の住人を懐柔していきます。 その不遜な思惑を、じわじわと刻々と際立たせていく「主従逆転」の顛末。 ストーリーはシンプルそのもので、長篇なのにどことなく不条理で滑稽なショートショートの味わいさえ漂わせ、均整と統一を備えた無駄のない造形美は、短篇を彷彿とさせるものがあるような。 言葉の一つ一つまで読者の反応を考えて選ばれている緊密で的確な描写と、言葉に解釈をねじ込まず、読者自身の想像力を掻き立たせる語りの企み深さにセンスを感じます。 わかりやす過ぎるようでもあるのと同時に、何かしら腑に落ちない薄っすらとした靄のような煙幕が張りめぐらされてもいる物語。
作者のみならず、作品の舞台となる時代や場所も曖昧です。 近代英国っぽい風俗の中で、現代の観点から社会や人間の病理を見つめているような奇妙なアナクロニズムが揺曳する架空世界は、愚かさと欲の果てしなさを戯画的に転倒させたグロテスクなパロディとしての主題と見事な調和をみせています。
サディスティックで冷たい頭脳の傑物、コンラッドが支配者へと変容していく手際には、ある種ダークヒーロー的な華麗さがあるんだけど、終盤、自らの極点に達した後は破滅を予兆させる堕落と頽廃の相貌を見せ始めるのが意表と言えば意表で、その暗転のアイロニーにやけに惹き込まれた。 歴史を紐解くまでもなく、世界中の君主と言わず国家と言わず、繰り返されてきた永遠不滅の事例であり、更には人類の進化のプロセスということにもなりはしないだろうか。 恍惚的な麻痺によってもたれ合い、地球上のリソースを消費し尽くすまで続く仄暗い幸福感・・ と、そこまで思考が暴走して、そこはかとなく怖くなった。 こんな想像をも許容してしまう辺りが名作の所以なのだろうな。


料理人
ハリー クレッシング
早川書房 1972-02 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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