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ぶたぶた日記 / 矢崎存美
インターバルを経ての5作目。 シリーズ復活の口火を切った作品と言えるでしょうか。 本作以降、毎年1〜3冊ペースで精力的に新作出されてますよねぇ。 今や愛されるロングランシリーズ。
奥さんのお母さん(人間ですw)が申し込んだカルチャースクールのエッセイ講座に、代理で通うことになってしまったぶたぶたさん。 講座は全6回のカリキュラム。 引きこもり、認知症、リストラ、自分探し・・ 新米作家の講師と講座のメンバーたち老若男女6人の日常環境を取り巻くテーマにスポットを当てた6篇の連作の、それぞれの要に計6回、ぶたぶたさんの日記エッセイが挿入される趣向。
うーん;; あまり気持ちが乗らなかった・・今回は。 どうだろう。 ぶたぶたさんの特殊性に対する周囲の感度が高まってる傾向? ちょっとネタにしすぎw ぶたぶたさんへの違和が過剰になった分、シュールさがすっかり薄れて普通のリアル路線になっちゃったね。 驚きと必然とどっちつかずで存在してるのが珍奇で新味だったのに。 必然っぽい要素は“見えない善意”に置き換えられちゃってヒューマン一色といった感じ。 もっとも、人間心理との密着度を高めるために、敢えてそこを強調する狙いあってのことなんだろうけど。 今まで勝手に読み違えてた気もしてきたり;;
それと、よくある動物が喋る系と差別化された“ぬいぐるみ属性”が魅力なのだから、自分の内面(特に、ぬいぐるみであることの苦労のようなもの)を語らせて欲しくないなぁ。 語らないから切なくなるのに。 今回のお題が“日記”だったので仕方ない部分はあったんだろうけど・・って、これ、ハートウォーミング・ストーリーに難癖ダメ出しとか我ながら鼻っつまみ;;
小さなフモフモの手でボールペンをギュッと握ってメモメモしたり、手をあげて鼻先をモクモクさせて発言したり・・ もちろんラブリー挙動は相変わらずの絶好調♪ あくまでも能動を促す存在なんだよね。 ぶたぶたさんを触媒に、色を失くした眼前の世界が輝きを取り戻し始め、みんながそれぞれの一歩を踏み出したり、互いに優しい気持ちを育んでいく様子がほろっと爽やか。 まるで自分の心と対話をしている気にさせるぶたぶたさんのしなやかな受身は、やっぱりぬいぐるみが持つ癒し作用の具現化に他ならないんだと思った。


ぶたぶた日記
矢崎 存美
光文社 2004-08 (文庫)
関連作品いろいろ

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狼少女たちの聖ルーシー寮 / カレン・ラッセル
[松田青子 訳] マイアミ生まれの米国人若手注目作家による初作品集。 宝石、おもちゃ、がらくた、ゴミ、残骸が一緒くたになった箱をひっくり返したみたいに奔放でクレイジーな夢想煌めく空間に、大人と子供の境目だけに与えられた特別な時間が封じ込められている感じ。 青田さんの“十個のスノードームを目の前に並べられたような気持ち”とは言い得ているなぁと思いました。
ワニ園、悪魔のゴーグル、子供用星座観察者の銀河ガイド、ボート墓場、睡眠矯正キャンプ、人工雪の宮殿、ウミガメの卵、ミノタウロス、貝殻の街、海に浮かぶ老人ホーム、海賊の子孫の少年合唱団、狼少女・・ 目に見えないものが目に見える影を投げかける場所、街は、さながらそれごとアミューズメント・パーク。 大抵みんな何かの幻に“取り憑かれて”いて、境界の向こうに感応しているのだけど、もしかするとそれは思春期流の“自分を魔法にかける能力”なのかもしれない。 でも、こうあって欲しいと願う理想型はぺしゃんこに押しつぶされ、ここぞというタイミングはいつも拍子抜けて、美しくない。
少年少女に対すてこういう突き放し方ができるのは、逆に若さの成せる技なのかもしれないと、ふと思った。 偽善に対してとても敏感になっている人の筆だと感じる。 奇跡も感動も起こらず、精神の飛翔もなく、地べたでもがき、無様に足掻いている姿を、変奏を織り成しながら繰り返し描いていく無慈悲色に、それでも読んでいて心が擦り減ることはあまりなかった。 ひりつく痛みだけは彼ら彼女らにとっての紛れもないリアルであり、人がどこかで経験する誰も教えてくれない大事な悲しさに触れるような感覚があって、何かとてつもなく眩しかった。 特に愛する人の絶対性が揺らぐ時の孤独が峻烈。
全体的にキッチュなメルヘンの趣きなんだけど、破天荒なシチュエーションは、現実に対する悪辣なパロディ、神経に障るグロテスクなジョークとしての側面を有し、この世に存在する事物を別様の光や影によって照らし出す、まさに魔術的写実の世界。 作家の小説観を端的に伝えるショーケースのようでした。 ポップな比喩表現の連打で物語をグイグイ牽引する文章の呼吸と、カラフルな発想の放射に、若い力の横溢を感じます。


狼少女たちの聖ルーシー寮
カレン ラッセル
河出書房新社 2014-07 (単行本)
関連作品いろいろ

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イラクサ / アリス・マンロー
[小竹由美子 訳] マンロー初体験。 2001年に出版された短編集の全訳。 “チェーホフの正統な後継者”と言われる短篇の女王の、とりわけ傑作と評される作品集のようです。 マンローが舞台に据えるカナダの片田舎は、“アリス・マンロー・カントリー”と呼ばれるらしい。
訳者あとがきを読むと、想像以上に、自身の生い立ちと作品背景が密接していて、身の回りの世界を正攻法で書き綴る作家であることがわかります。 普段あまり読まない・・というか、ちょっと苦手とするタイプなのだけど、そういう小手先のバイアスは吹っ飛んでしまって、噛めば噛むほど広がる風味を反芻するように読みました。
甘さと苦さ、偽りと誠、幸せと不幸せ、高揚と抑制、親密さと距離感・・ 分かち難くうっそりと縺れる曖昧で不確かな意識のひと揺れを鮮烈に浮き上がらせるタッチは、なにかとても官能的なのに硬質で。 無音の激しさとでも言うべき生命の熱を発し、心臓の鼓動と同化するような生身の息遣いがそこにあって。 本心という幻の周辺にさざめく答えのない人間模様を映し出し、透徹した眼差しがそれを射ている。 心に落とされたのは、人生を内側から照らす秘密の匂いだったでしょうか。 決して外側からは、そして当事者さえきっと正確には捉えられない、一瞬と一生が交錯するように穿たれた、平凡で特別な情動の神秘。
個人的には「クマが山を越えてきた」で描かれた、疲弊と虚しさと(たぶん)愛を内包する夫婦像に打ち伏せられるようなカタルシスを感じた。 ナラティブのウィットを楽しめる「恋占い」もよかったり。 「クィーニー」は、義理の姉妹という関係の甘酸っぱい彩色が気に入ってます。 「浮橋」や「イラクサ」や「記憶に残っていること」の大枠は、まるでベタなロマンス小説なのに、無造作にフォーカスされた細部に深い感銘があって通俗を逸している・・かのようなその紙一重さは、作者の挑発だったのではないかと睨んでいる。 総じて、短篇という小さな身体でなんという量感を支えているんだろうと思う。 聞きしに勝る読み応え。


イラクサ
アリス マンロー
新潮社 2006-03 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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誰がドルンチナを連れ戻したか / イスマイル・カダレ
[平岡敦 訳] 現代アルバニアを代表する作家によって1980年に発表された小説。 本書は亡命後のフランスで1993年に出版された全集版に収められている(大幅な)改訂版を底本としているとのこと。
アルバニアに伝わる実際の民間伝承によって輪郭を与えられている作品で、伝説が生まれた原風景を紡ぎ出すと同時に、その背後に横たわる混迷に光を当て、真実の核を抽出する趣向。 舞台は中世なのですが、時代背景の作り込みは薄く、何がしか寓意に満ちたお伽話の国に迷い込んだ風合いと、ミステリ空間の霧めく肌触りが一体となった緊密さに魅了されました。
一人娘のドルンチナを遥か遠国に嫁がせて間もなく、九人の息子を戦争で失う悲劇に見舞われたアルバニア諸公国随一の名家、ヴラナイ家。 残された老母が一人暮らす、死の影と荒廃に満ちた屋敷に、ある日突然、ドルンチナが現れ、戦死した兄の一人、コンスタンチンによって連れ戻されたのだと告げる。 治安責任者のストレス地方警備隊長が、ドルンチナ帰還の不可解な謎を追う・・というスタイルは推理小説を踏襲していて親しみやすく、その機知に富んだエッセンスを遺憾なく落とし込んでいます。
無遠慮な流言は群衆によって引き回され、その流言によって翻弄される群衆と、異端思想を封じ込め、事件を葬り去りたい為政者側の思惑が錯綜し、その狭間で煩悶するストレス隊長・・という構図なのですが、オカルト的風説でも社会的解決でもない、起こったことの公正な分析が、ストレス隊長の理念の反映とイコールで結ばれるラスト。 現実と形而上学を併せ持つ世界の混淆が高遠な余韻を響かせます。 的確な表象はその奥に広がるヴィジョンを鮮明に映し出し、饒舌と寡黙の緩急の洗練が美しい。
“死者のメッセージ”というテーマは、カダレ作品の特徴の一つなのだそうですが、本篇もまさしくその地平にある作品でした。 聖書における“キリストの復活”という象徴性が、物語の成立に大きくかかわっていたように感じられます。 “死の定めをも動かすことのできる、真に崇高な力とは何か?”の問い直しであり、聖典の啓示に新たな息を吹き込む覚悟で、己を律する“誓い”の必要性を説いたと言っても言い過ぎとは思わないくらいラディカルな思想性を感じました。
変転する価値観に押し流されるのではなく、個々人の内側から発する規律に立ち返るべきであり、それは、世界から逃げ、閉じこもるためではなく、世界へ開き、結びつくために必要なのだと説く声音には、深刻な社会情勢の只中を、大洋の波に揺れ漂う祖国への憂いが刻印されていて、その共有できない想いの強さにハッとさせられ、自分の生きる足元を見つめてしまう・・


誰がドルンチナを連れ戻したか
イスマイル カダレ
白水社 1994-01 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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近世アジア漂流 / 田中優子
日本における近世と時を同じくする東南アジア諸国、琉球、朝鮮半島、中国といったアジアの国々の社会状況や世相風俗を見つめ、当時日本がどのように“異”と出会い、出会われてきたか、俗文化的、或いは生理的エネルギーというべき視点で読み解くエッセイ集。 近世を鏡として現代へと通ずる(逆に過去へと遡る)道が示され、寄せては返す波のように歴史の因果を垣間見せてもくれます。 アナーキーを方法論とし、アジアを無尽に語っていくしたたかな覚悟が感じられる良書。
色とりどりの文化の糸が縦横に編まれ、イメージの中のアジアが織物のように広がっていくゾクゾク感。 そこには野望を持ってアジアにやって来たヨーロッパ人も含まれますし、当然ながら日本人の商人や出稼ぎ労働者、漂流者や荒くれ者どももその一翼を担っています。 力関係の激しい変動、人と物の移動、市場経済の動きばかりか跳梁する神々や地霊や巷説にまみれて人と物が蠢き絡まり衝突し、猥雑で淫靡で野蛮な熱を帯びた多面体となって通俗ロマンを躍動させています。 日本人がアジアの多様性の海の中で生きてきた根っからのアジア人だったことが(当たり前なんですが)とてもビビッドに感じられました。
近世初期のダイナミズムから一転、江戸時代は後に“鎖国”という言葉で総括されてしまうことになったけど、ネットワークの連鎖によってもたらされる“異”の香りは、国に閉じ込められた日本人を刺激し、好奇や偏見や熱望や見果てぬ夢想を抱かせて止まなかったのですね。 それらを読み変え、記号化し、大衆化し、遊びへと昇華させる工夫や、己の持っている理解の装置の中へ取り込み実用化する工夫、あるいは正確な情報を欲する観察者としての知的衝動、手元に引き寄せようとする危機感を持った渇き・・ そんなこんなが渦を巻いて溶け合いながら続いていった時代の息遣いを感じました。 エキゾティシズムを混沌と坩堝のように内在させていたことは、江戸ジャポニズムのパワーを語る上での重要な因子になり得るのだと、理解を新たにした思い。
多くの東アジア諸国が中国の大衆小説のストーリーを共有していたのだけど、例えば、日本(の戯作文学)が中国を“俗”と“笑い”に変換したのに対して、ヴェトナムのチュノム文学は中国を“優雅を極めた詩“に変換したというのが興味深かった。 あと「懲ヒ録」を読んでみたいと思った。 それと、設定フェチみたいな緻密さで空想のアジア物語(日本領台湾)をでっち上げてまことしやかに帰国後のイギリスで出版した大法螺吹きのサルマナザールって一体・・orz 二百年後にはリアルで洒落にならないことになるんだけども。 それにしてもこのオッサンのばっかじゃないの感は忘れ難い^^; そして、平賀源内という“磁力”の語り尽くせなさ・・


近世アジア漂流
田中 優子
朝日新聞社 1995-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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