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水時計 / ジム・ケリー
水時計
ジム ケリー
東京創元社 2009-09
(文庫)


[玉木亨 訳] 敏腕記者フィリップ・ドライデンを主役に据えたシリーズ一作目に当たる著者のデビュー長篇。 イングランド東部の広大な沼沢地帯(フェンズ)に実在するイーリーという小都市を舞台にした荘重なミステリです。 ドロシー・L・セイヤーズの「ナイン・テイラーズ」からインスビレーションを得ているらしい。
川面が凍りはじめる十一月。 物騒な事件とは縁遠そうな田舎町で、氷結した川の底から車のトランクに押し込まれた惨殺死体が、その翌日には町のシンボルである大聖堂の屋根の死角から白骨死体が相次いで発見される。 地元週刊新聞“クロウ”の上級記者ドライデンは、二つの事件に無視できない繋がりを感じ、真相を探り始めるのですが・・
町の佇まいと、ドライデンをはじめとする登場人物の心象とがシンクロしているようで、荒涼としてしんと侘しく、鬱々と澱んだ雰囲気が格別です。 鉛色に覆う雲と重たげに這い出す薄霧の狭間にさまざまな影を潜ませた冬のフェンズの、その地貌が主役といっても過言ではないくらいの端整でモダンな風趣。
ミステリとしては意外性志向の全くない堅実なフーダニットもので、こういうタイプ、結構好き。 洪水に呑まれて行方不明になったきりの父親、川の薄氷を踏み割って溺れかけた子供時代の記憶、排水路に転落する交通事故の後遺症で今なお昏睡状態から目覚めない“閉じ込め症候群”に陥っている妻のローラ・・と、ドライデンの半生はほとほと水の因果に絡め取られているのですが、それらのエピソードががっつりメイン事件にかかわってくるというようなドラマチックな作り込みはなく、ケレン味を徹底して抑制している感じ。
むしろその辺の事情は、罪と罰からの解放というもう一つの軸を成し、主人公の心理をベースとした背景の物語に織り込まれます。 事件への干渉とその解決は、ドライデンがトラウマの中へ沈降し、再び浮かび上がってくるための儀式に他ならなかったのでしょう。 でも殊更コテコテとは描かないのが達者なんだよなぁ。
著者は記者として豊富なキャリアを持つそうで、社会や人間に対する皮肉でシビア(ほとんど冷笑的)な観察眼が地の文を支えています。 それは記者時代に培った感覚の賜物なんだろうと思いました。
ビリっと締まって痛いほど凍てつく空気の中に、伏線にしてもユーモアにしても感動にしても、さっと心を掠めるほどに素っ気なく埋まっている。 見逃してくれても構いませんよ、とでも言わんばかりに。 そんな憎らしいほどの地味さに洗練を感じます。
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向日葵の咲かない夏 / 道尾秀介
向日葵の咲かない夏
道尾 秀介
新潮社 2008-07
(文庫)


闇持ち少年の一人称視点なので心して読んだ(笑) 特殊性癖や異常心理を扱ったサイコホラーと本格ミステリが融合したような作風。 ホラーとしてはどこまでもおぞましく、ミステリとしては硬派な印象。
ホラーとミステリの交差点にもなっている叙述トリック部分が怒涛の構成。 互いに互いのカムフラージュとして有効に補強し合ってもいるし、この趣向を機能させるストーリー上の必然性も納得がいくのだけれど、いささか凝りすぎていて、一読しただけでは“あ、そうだったんだ・・”みたいな感慨しか持てなかった。 でも伏線を丹念に拾いながら読み直せば、また違った感想に至るかもしれない。
人は何かを押し隠し、忘れるために、見たいものだけを見たいように見て、自分だけの物語を作って生きていく・・ そういうテーマが二転三転する真相の核になっていて、叙述トリック一本勝負ではなく、本筋の骨格が謎解きとしてしっかりしているので読み応えのあるミステリだった。
最後の最後、クライマックス以降、一抹の温かさが加わり、後味(だけ)は悪くない。 ミチオは相変わらずぶっ壊れてるんだけど、その孤独と哀しみに寄り添えるだけのカタルシスまで持っていけてるので、イヤミスではない・・と思う・・思いたい。 もう少し積極的に言って、冒頭のモノローグと照らし合わせても、ミチオの心理に希望の種が蒔かれていたと捉えても言い過ぎではない(いや言い過ぎか?)ラストだったようにも思う・・思いたい。
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江戸ふしぎ草子 / 海野弘
江戸ふしぎ草子
海野 弘
河出書房新社 1995-08
(単行本)
★★★★

江戸時代初期から幕末に至る各々の時勢、あるいは大江戸をはじめとする諸国津々浦々の、その土地ならではの事情を反映した、庶民風俗を伝える二十話の掌篇集。 文献史料に遺されている奇談珍談や不思議話にインスパイアされて生まれたのではないかと思われ、洒脱ならではの素朴が香ります。 史料の背後に想いを馳せ、歴史に書かれなかったささやかな隙間を埋める淡い幻影のような物語なのですが、特殊な芸や技で民間の文化を潤し、支えた名も無き人々へ捧げられているような・・ 主張しないその声がそっと掬い取られていて、しみじみと、ほろりとさせられる佳篇ばかり。
江戸市中から外れて自由な気風が育ち、江戸っ子の遊びの解放区となった深川。 武士も町人とともに商売や遊びにうつつを抜かした田沼時代。 古典に対する興味が起こり、庶民に浸透する国学ブームをもたらした元禄文化。 太平の世では見世物になり、秘密の魔術や忍術と似てきた砲術。 江戸の先生と地方の弟子の俳句添削通信のために発達した俳諧飛脚。 退廃的な文化を繰り広げた文政年間に現れた“まじない横丁”。 上野山下の広小路の遊女“けころ”。 幕末から明治にかけて職人たちが腕を競ったスーパー・リアリズムの“生人形”。 家元に属さず段位も受けられなかったが名人もいたらしい在野の将棋指し。 夢見のいいおまけ絵を付けて町を流した枕売り・・
表紙は春信の「清水の舞台より飛ぶ女」。 以下、何篇か覚え書き。
【結び人】 江戸中期の旗本で有識故実の学者であった伊勢貞丈は、宝暦十四年、古くから伝わる結びの技法をまとめた「結記」を出版する。そのあとがきで貞丈は、“これらの結びは伊勢家のものではない”、“結びには流儀はない”と繰り返しているという。この書物の成立には、市井に生きた無名の“結び人”の助力の影が感じられはしないか・・ そんな発想から生まれた物語なのだろう。
【煙芸師】 煙草の煙を芸にする“煙芸師”は、いったいどんな凄技を持っていたというのだろう。見たい者に見たいように見たいものを見せたのではなかっただろうか。寛政三年、手鎖五十日の刑を受け、憂さを持て余した山東京伝も心の目で煙を追って慰めを得た一人かもしれない。京伝がのちに煙草入れ店を開く伏線的な含みも感じさせる物語。
【神足歩行術】 勝海舟を後援した幕末の実業家で、地元(射和)の開発と振興に尽くした竹川竹斎は、“神足歩行術”の使い手だったという。文明開化の波の中に埋もれてしまうが、竹斎が書き遺した歩行術はなかなかに合理的な内容であるらしい。晩年は事業の失敗でひっそり暮らしたそうだが、日本の新しい方向に眼差しを注ぎ、激動の時代を生きた竹斎の小さな伝記である。
【鋳物師】 江戸中期の長崎に津村亀女という女鋳物師が実在する。豪放な性格、自由な芸術家気質は幾つかのエピソードに伝えられるそうだが、女性らしい感性の繊細な小物の作り手だったという。長崎の鋳物師の作品は海外でも好まれた。亀女の人生にもこんな秘話があったら素敵だ。
【花火師】 江戸時代、大川(隅田川)以外の花火は禁じられていた。秩父の村で大掛かりな花火があがったという通報があり、役人が調べたが花火師を見つけることはできず、村人が狐に化かされたのだろうということになった、という文政年間の記録があるそうだ。その裏舞台を夢想する花火師ロマン。
【松前風流女】 女性の旅は厳しく制限されていた時代に、蝦夷から京都まで一人旅をした女性がいたいう記録が奇談として遺っているという。その女性の作として物語の中に織り込まれている和歌や詩も、史料を引用したものなのだろうか? だとしたら本当に、ふらり気楽な旅路の様子が垣間見えて感興をそそる。
【甘酒売り】 享和の頃、浪華新町の遊郭で全盛を誇った桜木太夫が零落し、浪華橋のたもとで甘酒を売って暮らしを立てたという記録がある。その影にこんな助っ人がいたかもしれないという物語。作者不明(?)の“花はむかし名は桜木の一夜ざけ”という句を、芭蕉が詠んだと匂わせるラストがいい。 時代は違うのだけど芭蕉はきっと冥府から甘酒を飲みに(句を捻りに)訪れたのだろう。
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ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
[若島正 訳] ものすごい密度。 心地よい疲労感。 充実の注釈は、“初読ではなく必ず再読のときにお読みいただきたい”って訳者さんのご助言ですが、無理っす・・誘惑に勝てませんでした。 可愛くて野蛮でお馬鹿さんな小悪魔、そんな元祖ロリータ像は(自分の中では)どんぴしゃりな感じでした。(逆に今、“ロリータ”という言葉がどんな一般的イメージを付与されてるのか聞かれてもよくわからなかったりする;;) ただもう、ここまで高尚な芸術性を備えた作品だったんだなぁって。 ポルノグラフィックな小説と誤解している人もいないだろうけども。 一回読んだくらいで感想晒すの腰が引けます。 ネットの海にゴミ捨てるようで申し訳ない・・と、思いつつ。
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。 我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。 舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
繊細で、傲慢で、哀れな男のグロテスクなメルヘンを抽出するユーモアのセンスにノックアウトされた冒頭の一瞬で、ナボコフの言葉の世界の虜になってしまった。
文学的言及、語りの技巧、絢爛たる言語遊戯・・ 精緻な迷彩が施された多面体のような小説。 少女性愛者のハンバート・ハンバートが獄中で綴った回想記(告白録)の体裁で、一筋縄ではいかないハイブローな文章が織られていきます(正確にはハンバートの原稿をジョン・レイ・ジュニア博士が検閲したテクスト)。 ハンバートの詩情と自嘲と諧謔と妄想と慟哭のハーモニー。 流れる旋律の味わいに読めば読むほど惑溺してしまうのでした。 ちょっと余談だけど、“陰翳と暗闇のハンバーランド”、“タクソヴィチ氏”、“愛人探偵トラップ”、“前ドロリアン紀”あたり、愛して止みません。 ナボコフにおちょくられてこんな言葉まで作らされちゃってるハンバートに同情。 20世紀中葉という時代のアメリカ社会の風俗、その物質的緻密さを活写するロードノヴェル的側面も有し、しかも既読ミステリを思い浮かべてみると、トリック的に「『アリスミラー城』殺人事件」が近いと思ったw でも注釈なかったらポカーンだった・・たぶん^^;
多種多彩な読みを可能にする「ロリータ」。 振り返ってみると、自分はもっぱらロマンチック要素重視で読んでいたことに気づきました。 これカミングアウトしてもいいんだなって、大江健三郎さんの解説に勇気をもらった。
「ロリータ」における作者の意図は何か? という問いに対して、“インスピレーションとコンビネーションの相互作用と答えるほかない”と、“教訓を一切引きずっていない”と、ナボコフはあとがきで牽制してるんだけど、こうも書いています。
私にとって、虚構作品の存在意義とは、私が直截的に美的至福と呼ぶものを与えてくれるかどうかであり、それはどういうわけか、どこかで、芸術(好奇心、情愛、思いやり、恍惚感)が規範となるような別の存在状態と結びついているという意識なのである。
たぶん、罪悪感を棄てた美意識というものは、ナボコフに美的至福をもたらさないんだろう。 この感覚が作品の中枢神経だった気さえして。 個人的嗜好だと言い張っても、読む者の意識無意識に何かしら喚起の種火を残してしまうのが名作の名作たる証し。
同じ性的倒錯者でありながら、ハンバートとクィルティは対照的であり、表裏の関係性が投影されていたのは確か。 分身(あるいは影)と捉えることが可能ならば、ハンバートが本当に殺したかったのは“自分の中の罪悪感と道徳観の欠如”だったと読むこともできるのではないか。 特に、けだものギアが入ってバッドトリップ領域に突っ込んでいった二度目の逃避行の時でさえ、追いかけてきた(と妄想した)トラップは、置き去りにした良心の権化に他ならなかったし、ハンバートは常に“純粋な嗜好性の追求”と“呵責や道徳的な自制”の狭間にあった人であり、クィルティはその葛藤を持たなかった人なのだと思う。 ロリータがクィルティを愛した(愛さざるを得なかった)悲しいほどの荒廃が、この小説の残酷な本質を突いている気がします。
また、愛するロリータが“ニンフェット”ではなくなる時を迎えることへの怖れや焦燥、そこにハンバートのもう一つの自己撞着を読み取ることができるかもしれない。 ニンフェット愛とロリータ愛はハンバートの中でイコールではなかった事が判明する終盤の、救われないことで救われたような救われない痛み・・ つかまえどころのないまま、さざ波のように揺れるだけの微かな感傷が、わたしの胸を焦がしました。 あの再会の場面、薄っすらロリータとシャーロットが重なるんだよなぁ。
注釈によると、ナボコフ研究者の間では、ロリータの手紙が届いてからの出来事は現実に起こったものではなく、ハンバートの作った虚構だという読み方があるそうです。 最初、ピンとこなかったんだけど、慧眼なんじゃないかと、実は今、じわじわ来てます。 クィルティ殺しの場面は、“奪われた贖いを取り戻す”儀式として無意識のうちに寓意的に読んでいたんですが、あの、グロテスクな喜劇舞台と化した一場の、現実感覚の超越具合いが俄然、説得力を増す気がするし、それに、この説を採ると、ジョン・レイ・ジュニア博士が書いた序文もハンバートが構築した虚構の一部になるんですよね。 “道徳意識とは美意識に対して払わなければならない税金である”との訓戒に辿り着いた自身の体験を芸術作品に昇華することに贖いを見出そうと思い定めたハンバート像が、更には、ハンバートにこの贖いを課した、永遠の命たる芸術の力を信じるナボコフ像が、この説を採ることでより際立って見えてきて、作品の主題がピタッと嵌る気がするんだけどなぁ。 ロリータが生きてるうちに手記を発表して彼女に迷惑をかけることはハンバートの本意ではないから、ロリータが死んでしまったのは本当なのだと思う。 むしろ手記を書かせた強い動機がそこに生まれたのかも・・なんて。 あー、眠れなくなりそう^^;

<後日付記>
ハンバートに、いや、ナボコフに騙された・・甘いなぁ・・orz 彼(ら)をもっともっと疑ってしかるべきだったと「ロリータ、ロリータ、ロリータ」を読んで気づかせてもらいました。 そして、「ロリータ」がますます好きになり、ますます“本物の文学”だと思い、ますますわからなくなってしまった。 ハンバートの信用ならざる心から生まれた正真正銘の芸術。 この齟齬をどう読めばいいのか・・受け止めきれない。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社 2006-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★★
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