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郵便局と蛇 / A・E・コッパード
郵便局と蛇
− A・E・コッパード短篇集 −

A E コッパード
筑摩書房 2014-09
(文庫)
★★

[西崎憲 訳] 20世紀前半、二百作近くの短篇と一作の長篇を残した英国のマイナー作家、コッパードの日本オリジナル精選短篇集。 訳者解説によると、コッパードの作品は、キリスト教に関わるもの、村を舞台にしたもの、恋愛小説的なもの、ファンタジーの4種に大別できるそうで、それを念頭に置き、作品の選択に偏向がないよう心がけた、とのこと。 本編は作家の作品世界の縮図と考えてもいいのかもしれません。 やや難解な怪作的色合いが一つ一つの短篇から静かに立ちのぼっていて、読む者の心に“何か”を落としていく・・ としか言いようがなく、的確な言葉で表現できないのがもどかしいです。
炉端の前で語られる民話のような懐かしさを内在する肌触り、田園や森の自然美を写し込む詩情性・・ そういった表現法には、一世代前のロマン派を継承している趣きがあるのだけど、あくまでそれはパッケージとしてであり、物語の深部に潜ませた人間を見据える眼差しは、現代小説を知る読者にも“古さ”を感じさせるものでは決してなかったと思います。
特に「若く美しい柳」や「アラベスクーー鼠」の、生きることの強かな哀しさ、「辛子の野原」の、一回転したような複雑な感情の綾、「幼子は迷いけり」の物語性がないことが皮肉な物語になってしまう辺りのシビアな現実感覚、人が淡々と抱え続けるままならなさへの関心には、20世紀の小説家的側面を強く感じた気がします。
とは言いつつ、どちらかというと「うすのろサイモン」や「ポリー・モーガン」みたいに、何かこう、読み慣れた安定感のある作品が個人的には好みでした。 あくまで一回読んだだけでは、です。 “安定感”と思ったのは、どちらも円環的なプロットが非常に巧妙で美しかったからかもしれない。 「うすのろサイモン」は、どこぞのなんちゃって聖人伝みたいなユーモラスな寓話調で、「ポリー・モーガン」は、怪奇小説と見せかけて人間の意識の不確かさをえぐるジェイムズ張りの心理小説で、タイプは全然違うんですけど。 現代人と伝説の邂逅を鮮やかに描いた掌篇「郵便局と蛇」や、結ぼれのような柵をとぼけた味わいで描いた「王女と太鼓」も好き。
「銀色のサーカス」は、読んでいて、まるで落語の「動物園」! と思いました。 が、掛け合い的な遣り取りを交えてコミカルに進行する喜劇から、底光る暗さを発散する悲劇への反転はコッパードの捻り。 wikiに、落語の「動物園」も元ネタはイギリス圏の古いジョークとあったので、ははん、コッパードもそのジョークへの目配せで書いたね?って 解説によると、ウィーン滞在時に(ワルシャワで聞いた話として)知人から聞いた話しが典拠なのだとか。 どうりで、これだけ舞台がウィーンなんですね。(そしてどうも、イギリス圏のジョークというわけではないのかも・・)
「シオンへの行進」は、晦渋すぎて掴みきれなかったのですが、読後の徒労感はどこにもなく、不可解な奥行きが醸すムードだけで充足できてしまうものがあり、また読み返してみたくなる神秘の耀きを湛えた佳篇。
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むずかしい愛 / イタロ・カルヴィーノ
むずかしい愛
イタロ カルヴィーノ
岩波書店 1995-04
(文庫)
★★★

[和田忠彦 訳] 1958年発表の作品集「短篇集」の第三部「むずかしい愛」所収の九篇に三篇加えて再編した本邦オリジナル版。 というよりも1970年に本国で刊行された同タイトルの再編版から一篇だけ差し替えたという体裁なのかな? だとしたら何故に? 不自然な気がしてそれはそれで気になるんだけど・・
リアリズムの語り口による同時代を舞台にした“愛”をめぐるオムニバス。 主人公は会社員、写真家、近視男、海水浴客、読者、詩人、スキーヤー・・など、一様に壮齢の男女であり、つましい庶民なのですが、過剰な意味に憑かれ、いったい何と闘っているのかと問いたくなるような彼ら彼女らの悩めるぎこちなさを(リアリティが蒸発しかねない)アレゴリカルな領域まで推し進めて描くことで、真の人間性をあやまたず捉えようとする姿勢が感じられ、どの短篇からも色褪せない輝きが放たれていて、それぞれに磨きあげられた珠玉の味わいがありました。
でも、一篇一篇は“愛のむずかしさ”という核心を共有している断片であり、それら断片が積み重なることで浮き彫りになる同時代人の精神を象徴する地図としての総括的空間(の提示)にこそ、作家の本意が込められていたのではなかったかと思います。
本人にしか理解し得ない観念に衝き動かされた精神修養の場ででもあるかのような状況に置かれた主人公たちの内奥に訪れる突発的な啓示を、当人たちの微視的な思考を追って描いていくのですが、様々なかたちで愛(の不在)に切り込んではイメージ化し、見えざる主柱として組み込みながら、 一義的な正解を定めず、網の目状に陳列していく手法によって、不可知な他人とのすれ違いが生み出す孤独がどうしようもなく曝け出てくる感じ。 どの短篇にも対象の異性は登場するのですが、並大抵のピントとは違い、言ってみれば、自己と世界の関係における“世界”の役割りが投影されていたように思えるのです。
“太陽の中心のようなもの、そこにはなにものにも翻訳できない沈黙があるばかりだが、それ以外の場所は真っ黒に埋まってしまうほどの言葉で溢れている”とは、作中の詩人の内観であり、“人生という無形の混乱のなかに隠された調和こそが奇蹟なのだ”とは、作中のスキーヤーの内観です。 カルヴィーノの描きたい愛とはそういうものなのだろうなぁ。
パラドックスに満ちたサインはマイナスのエネルギーだけを発散してはおらず、しなやかな弾力を有しています。 人と人を隔てるものは同時に人と人を繋ぎもし、問題は同時に解決の糸口にもなり得ることを諦めていないから、カルヴィーノは書き続けたんじゃないかと・・ 決して難解ではなく、しみじみとした感慨に浸れる洒脱でビターな親しさがあり、物語を読む愉しみがあります。 そこに惚れてしまった作品集でした。
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アリス殺し / 小林泰三
アリス殺し
小林 泰三
東京創元社 2013-09
(単行本)


身近な人々が夢で共有している“不思議の国”で起こる殺人事件、と連動して起こる“現実世界”の不審死。 一体どんな原理で発生している現象なのか・・ 人物同士がリンクする二つの世界を往還しながら進行していくSFミステリ。
「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のメルヘンをベースとしつつ、そこへ「スナーク狩り」の不気味さをミックスして、キャロルの世界観をコラージュしています。 原作の素材が至るところでこれでもかってくらい料理されていて、特に白兎の証言なんか上手い使い方するなぁーと膝を打ちました。 夢の相互入れ子式構造には「鏡の国のアリス」のテーマ性が色濃く反映されており、単なる輪郭ではなく骨子として原作を活かそうとした魂胆の深さを感じます。
パネルマッチ・ゲームみたいに誰が誰のアバターなのかを見極めるのがメインなパズラータイプのミステリ。 クライマックス場面は、“読者と一緒に作中人物も驚ける叙述トリック”みたいな感じで、あえて言うなら正統的ではないんだけど、会話を主体にした三人称形式のテキストは用心深く、破綻していませんし、会心の伏線といい、文句のつけようがないです。 でも、むしろその一発ではなく、良質な仕掛けを小出しにしながら、何段階にも分けて見せ場をつくり収束させていく手際の鮮やかさを評価したいです。
原作の言語遊戯を継承した、“不思議の国”の住人たちのまどろっこしい遣り取りも堂に入ってます。 それだけにもっと“現実世界”との差をメリハリつけて描いてもよかった気がしたんだけど、ある種の同調性はミスリードにもなっていたので計算づくだったのかもしれない。 どことなく漂う現実味の乏しさまでも。
登場人物がまるでトランプででもあるかのように記号的で、扇情味のあるグロ描写もほとんど重苦しさがないから耐えられるんだけど、乾き切った不条理に幾ばくかの滑稽味を加えて顔色ひとつ変えずに描いているようなしれっとした残虐性が、なんとも独特センス。 終盤のスペキュラティブ・フィクション的な展開から、ラスト一行に結実する突き抜けた清々しさが好き。 謎オチ風だけど、「本体が消えればアバターも消える→アバターだけでは存在しない」と考えれば、「赤の王様が新しい地球の夢を見始める→アバターが再生する→(必然的に)本体も再生する」ということにならないだろうか。 結局、どっちが主動なんだ? っていう。 最後までキャロルの向こうを張った逆説的(屁)理屈が捻じ込んであったのだとしたら・・ そう読むと痛快。
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怪奇小説という題名の怪奇小説 / 都筑道夫
怪奇小説という題名の怪奇小説
都筑 道夫
集英社 2011-01
(文庫)


長篇怪奇小説の執筆を依頼され、引き受けたものの、まったく筆が進まない作家の“私”。 幼少時の記憶の中に定着した怪しい情景、盗作の材料にしようと再読している古い洋書、その原文を江戸時代の日本に移し替えた執筆中の原稿、それら要素が渾然と絡まって“私”の現実を侵食し始める。
街へ出た“私”が、三十年前に死んだはずの従姉そっくりの女に遭遇するところから物語は動き出し、戦前の怪奇小説や欧米のスリラー、伝奇風冒険小説、B級クリーチャーなどのエッセンスを盛り込みながら、謎を回収するジャンル小説的ストーリーとして展開していくものの、もやもやと煙に巻かれたようで、ちっともスッキリしないところが素晴らしい。
平たく言うと、怪奇小説を書いている“私”を主人公にした怪奇小説。 作中作がこの小説そのものであるかのような超自然的な印象を孕んだメタ小説なのですが、最初、“私”が作品の外に出てきて都筑さんを滅する趣向なのかと思ったら、ちょっと違う。 あくまで創造者としての主体は都筑さん側にあり、空間を支配するのは全能の作者なのだということを、読了時には明確に意識させられている感じ。
「The Purple Stranger」という本は実在するのか、それとも都筑さんの頭の中に存在するのかがいつまでも気になっていて、それが何にも勝る読後感でした。 作中、“私”の手によるスタインベックの短篇の邦訳を挿入し、「The Purple Stranger」と並列化することで、何か作為的に“本物”らしく演出している気もしたり、読者のそんな想像をも見越してニヤリとほくそ笑んでおられる気もしたり・・
何故こんなに気になるのかというと、あらかじめ頭の中で練り上げた構想に甘んじる創作姿勢のことを皮肉的に象徴したのが、ここでいう“出来合いのストーリーの盗作”だったのではないかと感じたから、だと思う。 そして本篇がまさに、その、“盗作”の筋書きを逸脱していく物語だったから。 でも、“創作とは構想を超えることである”という矜持が込められ作品だったと素直に捉えていいものかどうか。 逸脱さえも構想の内側だったとしたら・・
ここで、道尾秀介さんの、“どのようなプロセスでこの奇書を完成させたのだろう(解説より)”という言葉が響いてきます。 作品は構想を超えられるのか・・ このエンドレス迷宮に放り投げられたような心地こそ、本篇の最大の魅力だったのではないかな。
初版は1975年。 漠としたストーリーの円環構造によって、より悩ましい迷宮感を醸成させるテクニックも冴えていて、実験的ポストモダンの佳品であり、小説を論じた小説と理解しました。
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