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黄色い部屋の謎 / ガストン・ルルー
黄色い部屋の謎
ガストン ルルー
東京創元社 2008-01
(文庫)
★★

[宮崎嶺雄 訳] 1907年に新聞連載され、翌年に単行本化された最初期の長篇探偵小説ですが、ミステリ史上に燦然と輝く“密室もの”として、今なお愛好家のハートを掴み続ける名品。
聖ジュヌヴィエーヴの森の中のグランディエ城に、科学の研究のために引きこもって暮らす博士と令嬢。 見捨てられたような無住の地の陰鬱とした古城、その離れの“黄色い部屋”で令嬢の身に奇怪極まる惨劇が降り注ぎ・・
まるで幽霊のように鎧戸を通り抜けて行ったとしか思えない犯人、残された夥しい痕跡、容疑者の厄介な沈黙と被害者の奇妙な妨害が発する秘密の匂い、緑服の森番、旅籠屋“天守楼”、闇に響く“お使い様”の鳴き声、黒衣婦人の香水の香り・・
蒼古とした大時代的ロケーションが広がっていて、古典ミステリの中の古典ミステリといった堂々たる風格なんだけど、日本の新本格作家さんたちのせいですっかり馴染んじゃってるから、そうそうこれこれ! みたいな 影響力はかり知れない証拠というものでしょう。
金庫のように厳重に閉め切られた鉄壁の密室の謎を提供する“黄色い部屋”の事件に次いで起こる第二、第三の事件も、広義の密室というべき衆人環視のもとでの人間消失が扱われ、不可能ギミック盛り盛りなのですが、やはりメインの“黄色い部屋”の謎が白眉。 力技な物理トリックから発想の転換を図った虚を突く肩透かし技の創造に感服するのはもちろん、なんといってもスマートなのだ。 端正にしてクールな殿堂入り密室トリックを引っ提げたガチムチ本格が、お膝元の英米ではなくフランスで生まれたというのが興味深くもあるのだが、不思議とフランスから生まれるべくして生まれたような気もしてくるのだよね。
密室トリックの他に本作には“意外な犯人”を捻り出す絡繰りが用意されています。 更には、推理を元に証拠を見つける警視庁お抱えの私立探偵ラルサンと、自らの理性の輪の中に入る手がかりをもとに推理する青年新聞記者ルールタビーユの探偵対決の図式になっていて、ミステリ・マインドを擽る趣向がふんだんに凝らされているのです。
まぁ、なにかとルールタビーユの独り占め感が強く、伏線がなかったり、あっても機能的でなかったり、読者が推理の仲間に入れてもらえないので、その意味での満足感は薄いのですが、ルールタビーユの高慢なまでに横溢する若いバイタリティを、フーダニットのミスディレクションとして利用している辺りが達者だなぁと。
これラストどうなんだろうか? まさか・・との思いも過るんだけど、微妙に年齢計算が合わないですかね。 やっぱ違うんだろうか。 でももしそうだったとして、しかも仄めかすだけで寸止めたのなら・・と想像すると目に見えないドラマの奔流が一気に溢れてきて、もう独断と偏見でその気になっちゃって(違うんだろうけど;;)、そこはかとない読後の余韻に包まれて評価がガン上がってしまったのでした。

<追記>
気になり過ぎて調べちゃいました。 どうやら当たりっぽいことが判明・・するも、判ってしまうとあんま嬉しくなかった;; じゃあ調べるなって話なんだけど
続編の「黒衣婦人の香り」で、その辺の事情にスポットライトが当てられ、赤裸々に物語られるみたい。 自分としては余韻のエンディングが「黄色い部屋の謎」を何より傑作たらしめている(違うw)と思い込み、心浮き立たせていたい気満々なので、勝手にこの一冊で完結ってことにしてそっと胸に仕舞おうと思う。
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ロリータ、ロリータ、ロリータ / 若島正
ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社 2007-10
(単行本)
★★★★★

新潮文庫版「ロリータ」の訳者、若島正さんが、「ロリータ」解読のための一つの方向性と方法を教えてくれる手引書。 ナボコフの創作法や、全体の構図へと繋がる可能性を秘めた細部に焦点を当て、読者の取るべき思考の道筋の一端を示してくれる良書です。
“立体鏡を見るような奥行きを持ち、焦点が定まってはっきりとした像を結ぶことがなく、どこまで行っても読み尽くされない”小説「ロリータ」。 “人は小説を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ”とはナボコフの言葉ですが、「ロリータ」を読むにあたり、再読がいかに大事な行為か痛感せざるをえません。 最後まで読まなければわからない事柄がそこら中にちらついていて、再読時にはそれらを回収しながら読む楽しみがあり、さらに拾いきれなかった事柄を再々読時に・・ 何度読んでも発見がある緻密で膨大な“仕掛け”が「ロリータ」の、いや、ナボコフ作品の大いなる特徴なのだと理解を深めました。
自分は小説に施された“仕掛け”が好きなタイプの読者なので、こういう小説との出会いは本当に嬉しい。 解釈していいんだよ! むしろとことん解釈しなさい!(できるものなら!)ってスタンスでナボコフは小説を書いている確信犯なんだよなぁ。
“ハンバートは改心していない”とするアーヴィング・ハウの指摘は目からウロコでした。 曰く“悔恨を告白する彼の言葉が自己満足の言葉だからだ”、曰く“哀れなロマンスを偉大なロマンスに引き上げようとしているのであり、彼は改心したかのように読者から見られたいのである”。 若島さんは補足します。 曰く “ロリータと二人、まるで墓の中に入るように「ロリータ」という書物の中に収まり、そこを避難所として永遠の命を得るという望みは身勝手なものである”、曰く“ロリータが死んでから回想記を出版して欲しいと望んだのは、歌い上げた己の幻想をロリータに邪魔されたくなかったからでは?”。 自分はとてもそこまで考えが及びませんでした。
物語の向かう先が道徳の賛美に他ならないことには、正直、微かに違和感があったし、騙し絵のような油断ならぬものの影をぼんやりと意識しながらも、伏線を見過ごすミステリ読者の心理で、“こんなに素晴らしい文学を生み出したのだからハンバートの改心は本物だった”と、収まりの良さを求めて思考を補正してしまったのです。 今、全く途方に暮れてしまいました。 いったい、この小説はなんなんだ・・
小説内人物の視点で小説世界を読者に眺めさせたとき、その小説内人物の感受性に読者が影響される(誤解を共有してしまう)ことを踏まえた誤誘導的な罠の深さを屈辱的なほど思い知らされたわけなのですが、作者の戦略に気づいて、それに対抗しながら自覚的に読むための足懸かりを、第一部第10章でハンバートがロリータに出会う場面のテクストを例に挙げ、実践的に指南していただけたのが有意義な体験でした。
対立し矛盾するものを同時に視野に収めることや、一つのものを二つの目で立体的に捉えることが「ロリータ」を読むためには必要不可欠なのだけど、今度はそこを凝視し続けていると、テクストの夢想なのか読者自身の夢想なのか判然としない混沌の領域に囚われてしまうという・・ またそこで矛盾の受容と複眼視点が上位レベルで要求されることになるのでしょうね。
オリンピア・プレス第二刷がなぜ珍本たる資格を有しているかについてのコラムが笑えた。 作中人物のジョン・レイ・ジュニア博士による序文の前で、誰がどんな熱弁をふるったところで、小説「ロリータ」の一部に取り込まれちゃうんだよねw こんなところにも「ロリータ」という書物の魔性を感じたり。
自由間接話法(発話された言葉がそのまま地の文へと移行するような不思議感覚?)を魔術のように使うナボコフのテクストを、自由間接話法のない日本語の文脈でどのように表現するか・・ しっかし翻訳家泣かせの作家なのですね。 “ツチヤヨウコ”さんは見つかったのでしょうか? 著者のナボコフマニアっぷりにニヤニヤしつつ、自分もその気持ちが(気持ちだけは)わかってしまうところまで近づきつつあります
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こうしてお前は彼女にフラれる / ジュノ・ディアス
こうしてお前は彼女にフラれる
ジュノ ディアス
新潮社 2013-08
(単行本)
★★

[都甲幸治・久保尚美 訳] 前作「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」でオスカーのルームメイトだったモテ男ユニオールが本作の主人公、と知っていれば前作から読んだのに;; まぁ、続篇ではなく姉妹篇のようなので、支障はないのかもしれないけども。
ドミニカ生まれのユニオールは、幼い頃、父の出稼ぎ先のアメリカへ母と兄とともに移り住みますが、父の失踪、兄の病死など、過酷な家庭環境のもとで成長します。 本作は、そんな我らがドミニカ男ユニオールの、半ばユーモラスな、半ば悲愴な、恋の災難を綴るカタログとでもいうべき悩める愛の遍歴の物語。
浮気男ユニオールのアイロニカルな泣き笑いベースで型破りに描かれてはいますが、愛に臆病で、愛から逃げながら、誰よりも愛を渇望している・・ 身に覚えのありそうな身近な心が扱われていて、生身の登場人物と遭遇する感覚がしっかりとありました。
前作では“ドミニカ共和国の独裁制の呪い”が扱われ、本作では“一族を不幸に突き落とす浮気男の呪い”が扱われていると、これは訳者による解説。 社会の諸相を取り入れるのに長けた著者の筆は、物語に貧困の影を染みのように点々と落とし、アメリカ東部に生活するヒスパニック系(主にカリブ系)移民の声を掬い取ります。
貧困との因果が決定的であろう家族の崩壊は、親密さに対する根源的な恐れを子供の心に植えつけて、それはまた、次の世代の家族に伝播していく・・ 時間の堆積や意識の連鎖が充満した、深刻な負のスパイラルの問題に主眼が置かれているのは確かなんだけど、重苦しさで威圧するのではなく、ユニオールのチャラチャラした表層的な感情の裂け目からのぞく“真実”に心をそっと添わせるような作品なのです。
反復するエピソードの集積の形を取ると同時に、縦の時間軸を巧みに織り込んで重層的に主題の深化を図りながら一つのストーリーを浮き上がらせる仕掛けが鮮やか。 物語の命題を遂行し完成させるための細心の目配りがなされていたのを感じます。 飾り気もなく剥き出しなほど直截的な、弛緩も冗長もない文体には、自在な境地に到達したかのようなドライブ感あります。
作者には、本書も含めた既刊の短篇を組み直して(おそらく新たな短篇も組み入れて)ユニオールの人生を描いた壮大な小説を作る構想があるらしいのです。 ユニオールはきっと作者にとって特別な存在なんだろうなぁ。 唯一、女性が語り手をつとめ、ユニオールが登場しない一篇「もう一つの人生を、もう一度」の毛色の違いは何なんだろう? と思ったのですが、実は裏設定があって、ラファやユニオールが生まれる前の父親の話に繋がっていたらしい。 高次の構想への補助線がここにも引かれていたんでしょうか。
でもそうすると誰が父親なんだろう。 ラモンは暗示的人物だろうけど本人なはずはないし(それにしても意味深なタイトルだ)、アナ・イリスの息子の一人なのかな?
作品と作者の同一視は慎重に避けなければいけないけれど、著者略歴に目を通す限り、この作品が作者自身の体験の陰画であろうと想像することは、あながち間違いでないように感じます。 「浮気者のための恋愛入門」を書こうとし、書くことに希望を、恩寵を見出だそうとするユニオールの結末は、だから決して暗いものではないと思えるのです。 突き放した自己観察の場を得ることで、深い病根が自ずから精神史として高まる可能性の、その萌芽の兆しを凍土の下に感じることができるのではないかという気がして。
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屋根屋 / 村田喜代子
屋根屋
村田 喜代子
講談社 2014-04
(単行本)


屋根の雨漏り修理にやってきた屋根屋は、十年前に妻を亡くし、心の病気に罹って以来、医者に勧められた夢日記をつけ続けるうちに、見たい夢を自在に見ることができるようになったという。 熊本訛りの朴訥な大男、永瀬屋根屋に導かれるまま、専業主婦の“私”の夢の旅が始まる。 夜と眠りを共有する二人のランデブー。
ある時は、博多の真言宗東経寺の反り屋根に腰掛け、月明かりの下で携帯ポットの焙じ茶を飲みながら語らい、またある時は、室町時代の瓦師、寿三郎が気の赴くままの独り言を刻んだ屋根瓦のヘラ書きを見に橿原の瑞花院吉楽寺へ。 そしてまたある時は、ノートルダム寺院の鐘塔の天辺からパリの絶景を一望し、菜の花の草原に横たわるシャルトル大聖堂の青い大十字架を鳥瞰し、夥しい彫像や絵画や金銀細工が詰め込まれたアミアン大聖堂の上で魂だけの透明な体になる・・
“殻のない薄皮一枚の生卵の中”に籠るような夢、その皮膜を破らぬように寄せては返す往還の、いったいどこまでが夢だったろう。 現実は案外、屋根屋が来て働いて帰っていった、ただそれだけだったかもしれない。
ラストさえ覚めやらぬ夢の中なのでは・・という思いがよぎる。 “私”が屋根屋の望むものの影なのではなく、屋根屋こそ、“私”の煩悩が生んだ影であり、孤独、鬱屈、寂寥、愛欲に心を縛られているのは屋根屋ではなく“私”自身だったのではなかったろうかと。
身も蓋もないことを言ってしまうと、これ、熟年女性の自慰小説以外のなにものでもない気がするのだが、ここまで自分のために都合よく夢を作ることができたら、ヤバいくらい気持ちよかろうなぁ。
屋根とは、下界を眺め、空を望みながら靄のように想念を廻らせる此岸と彼岸の境のような場所。 “私”が秘めていた屋根への焦がれは、蜃気楼の光の檻に閉じ込められたような永遠への焦がれであり、地上からの逃避、タナトスへの仄かな傾斜だったろうか。 危うさと癒し、どちらに転ぶのだろう・・ 朦朧とした余韻が悩ましく蠱惑的。
夢の世界の映像であっても、実体を忠実に再現しているので小説風トラベローグにもなっていて、その上、屋根うんちく満載のちょっとした建築小説だった! ってところが大いにツボでした。
ゆったりと広がり西方浄土へ飛んでいきそうな日本寺院の屋根、神に近づこうと何処までも天空を目指す西洋寺院の塔・・ 和洋の技術的な対比や、そこから読み解く思想的な対比など、多くの学究的考察が盛り込まれている点も特徴的な作品。
自分としては、12世紀後半から13世紀前半に鎬を削って次々着工されたフランスのゴシック寺院に関するあれこれや、“懸垂式”に屋根の相輪から吊るされた心柱が固定されないまま振り子のようにバランスをとる五重塔の耐震技術など、良きお勉強ができて、ありがたかったです。
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小村雪岱 / 星川清司
小村雪岱
星川 清司
平凡社 1996-01
(単行本)
★★

小村雪岱 物語る意匠」を読んで雪岱をもっと知りたくなり探してみたら、星川清司さんがお書きになっていたので嬉しくて飛びつきました。
小説なのかと思ったら違かった。 評伝と言えなくもないがそれも微妙に違う。 雪岱が生まれた明治中期から没する昭和初期までの時好を振り返りながら、雪岱とその周辺の人々の面影を訪ね、えにしの糸を手繰り、文運盛んな過ぎし日の東京を懐かしく垣間見るような・・ 文化風俗史を見わたす読み物になっています。 そこはかとなく迸る余情に導かれるまま、肌の下に籠り疼くがごとき時代の熱へと心を繋げたひとときでありました。
俯瞰した視線で言葉の向こうにあるものを捉え、風情をつかんで真髄を描破しようとする作者の姿勢は、何かしら小村雪岱その人を想起させるものがあったかもしれない。 同時代の文人らが遺した随筆等から拾い集めた先人たちの言葉を点綴し、寄せ集め細工のように多声的に織り上げていく筆致。 そこには精神風土がありのまま活字として封じ込められており、歳月の輪郭が濃密に留められています。
河岸の並び蔵、枝垂れる柳、駒下駄ならして芸者が現れそうな細い路地、夢が巣ごもる掛行燈、のどかな黒板塀、小暗い家の奥できこえる三味線の音〆・・ 日本橋檜物町の仕舞た屋で暮らした画学生時代に、身に沁みついた花街の静寂な情趣。
感情表現の起伏を抑えた潔い線描と機知ある構図の狭間に、繊細な詩情と物語の余韻を響かせる雪岱の画風の原風景がここにあり、それは後に泉鏡花の文学世界を絵で表したと評される装幀の中に昇華されます。 小説作者と装幀画家の幸福な出会いを果たす鏡花と雪岱の、互いにそれといわぬままの師弟同然の間柄は生涯にわたり続きました。
鏡花と深交を結ぶ鏑木清方、水上瀧太郎、里見とん、久保田万太郎らと鏡花を囲んで集う“九九九会”、13代目守田勘彌や6代目尾上菊五郎に請われ手がけていく歌舞伎の舞台美術、挿絵画家としての雪岱を開花させた売れっ子時代風俗作家・邦枝完二の新聞連載小説「おせん」、第1回直木賞を受賞した川口松太郎とその朋友で昭和の挿絵の第一人者だった岩田専太郎らの動向、大スター花柳章太郎の衣装考証をはじめとする新派のための舞台や映画美術、鏡花の後を追うように54歳で急逝する直前の仕事となった林房雄の新聞連載小説「西郷隆盛」第86回目の挿絵・・
この世にありえないような美しさへの感興が造り出すロマン。 その底に押し込まれ逼塞する漠とした翳り。 近代という一時代の薫香をどこかに具現しつつ、色褪せぬ存在感を遺した不世出の名人の生涯に想いを馳せ、また吐息まじりに作品集を繰ってしまいそうです。
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